冬の空気は、肺の奥が痛くなるほど澄んでいた。

駅から徒歩五分。地元の結婚式場も兼ねたホテルの宴会場からは、くぐもった歓声と安っぽい重低音が漏れ聞こえてくる。
今日は高校の同窓会だった。卒業から五年。二十三歳になったかつての同級生たちは、今頃「久しぶり」と「変わったね」を肴に、酒を酌み交わしているはずだ。

俺、**指(ゆび)**は、その輪の中に飛び込む勇気が持てないまま、会場裏手の小さな公園のベンチに座っていた。
別に、いじめられていたわけじゃない。ただ、高校時代の俺は「その他大勢」のエキストラですらなかった。教室の隅で文庫本を読み、誰の視界にも入らず、誰の記憶にも残らないように過ごしていただけだ。

「……寒いな」

自販機で買ったホットコーヒーは、もう温(ぬる)くなっている。
帰ろう。そう思って立ち上がりかけた時だった。

カツ、カツ、とヒールの音が響いた。
公園の入り口に、女性が立っている。
披露宴に出てもおかしくないような深いネイビーのドレスに、厚手のウールコートを羽織っている。夜目にもわかるほど艶やかな長い髪。

彼女は俺に気づかず、ふう、と白いため息を吐くと、隣のブランコに腰を下ろした。

心臓が、早鐘を打った。
見間違えるはずがない。
五年前、俺が図書室の窓から、あるいは教室の自分の席から、飽きもせず毎日その横顔を盗み見ていた相手。

「……えま、さん?」

思わず、声が出ていた。
彼女の肩がびくりと震え、こちらを振り向く。
街灯の逆光の中、彼女が目を細める。

「え……誰?」

当然の反応だ。俺の名前なんて知らないだろう。
俺は気まずさに視線を逸らし、手に持っていた缶コーヒーを強く握りしめた。

「ごめん。人違い、かも。同級生に見えたから」
「同級生……あ、今日、同窓会だもんね」

えまは納得したように頷くと、ブランコの鎖をぎゅっと握り、探るような目で俺をもう一度見た。

「君も、逃げてきたの?」

その声は、記憶の中にある鈴を転がしたような明るい声よりも、ずっと低くて、ハスキーだった。
俺は正直に頷く。

「まあ、そんなところ。……馴染める気がしなくて」
「ふふ、奇遇だね。私も」

彼女は自嘲気味に笑った。
「私」も?
学年の中心にいて、いつも誰かに囲まれていたえまが?
信じられない思いで彼女を見つめ返すと、えまは不思議そうに首を傾げ、そして何かを思い出したように目を見開いた。

「あれ、待って。君……もしかして、『指(ゆび)』くん?」

心臓が止まるかと思った。
彼女の記憶の片隅に、俺の名前が存在していたなんて。

「……覚えてたの?」
「うん。名前、珍しいから。それに……よく図書室にいたよね? 私、あそこの窓際の席が好きだったから」

視線が合っていたわけじゃない。
けれど、同じ空間を共有していたことを、彼女は覚えていた。
それだけの事実で、俺の体温が一気に跳ね上がるのがわかった。

「……久しぶり、えまさん」
「うん。久しぶり、指くん。……ねえ、ここ寒いし、どこか別の場所で飲み直さない?」

高嶺の花だった彼女が、いたずらっぽく笑って俺を誘う。
賑やかな宴会場を背に、俺たちの本当の再会が始まった。

第1章:琥珀色の逃避行
「いい店、知ってるんだ。ここから歩いてすぐだから」

俺の提案に、えまは素直についてきた。
華やかなドレスに身を包んだ彼女と並んで歩くのは、どこか現実味がない。かつては廊下ですれ違うだけで心臓が跳ねた相手が、今は俺の足音に合わせてヒールを鳴らしている。

路地裏の雑居ビル、その地下へ続く階段を降りる。
重厚な木の扉を開けると、カラン、と控えめなベルが鳴った。
『Bar 止まり木』。カウンター席が八つだけの、照明を極限まで落とした小さな店だ。

「いらっしゃい。……おや、珍しいお連れさんだね」
白髪のマスターが、グラスを磨く手を止めずに片眉を上げる。
「こんばんは。……ちょっと、避難してきました」
「避難?」
「同窓会から、ね」

俺が言うと、えまが後ろから顔を出し、申し訳なさそうに、でも少し楽しげにペロリと舌を出した。

奥の席に並んで座る。
えまは店内を珍しそうに見回してから、ほぅ、と肩の力を抜いた。

「すごい。指くん、こんな素敵な隠れ家知ってるんだ」
「社会人になってから覚えたんだよ。うるさい場所が苦手なのは、今も変わらないから」
「ふふ。……私も」

彼女はジントニックを、俺はいつものバーボンを頼んだ。
琥珀色の液体と透明な液体が、それぞれの前で小さく音を立てる。

「乾杯、でいいのかな」
えまがグラスを持ち上げる。
「『脱走に』乾杯?」
「あはは、それいい!」

カチン、と軽やかな音が鳴る。
一口飲んで、えまは長いまつ毛を伏せた。アルコールが回ったのか、それとも安堵したのか、その頬がほんのり朱に染まるのが薄暗い中でもわかった。

「……ねえ、指くん。どうして私を誘ってくれたの?」

唐突な問いだった。
俺はグラスの縁を指でなぞりながら、言葉を選ぶ。

「一人で飲むより、君と飲みたかったから。……というのは建前で」
「本音は?」
「あの公園で、君が泣き出しそうな顔をしてたから。放っておけなかった」

えまが目を見開く。
図星だったようだ。彼女は少しだけ唇を噛み、視線をグラスの中のライムに落とした。

「……今日ね、みんなが期待してるのは『高校時代の完璧なえまちゃん』なの。ニコニコしてて、キラキラしてて、悩みなんてない女の子。でも、今の私は全然そうじゃない」

彼女の声が少し震える。
「仕事はキツいし、上司には怒鳴られてばっかりだし、最近彼氏とも別れたし……ボロボロなんだよ、本当は。それなのに、あの中に入ったら、また『完璧な私』を演じなきゃいけない気がして……怖くなったの」

かつての俺にとって、彼女はファンタジーの住人だった。
でも今、目の前にいるのは、傷つき、悩み、それでも必死に立っている一人の女性だ。

俺は無意識に、カウンターに置かれた彼女の手に、自分の手を重ねていた。
冷え切っていた彼女の指先が、びくりと反応する。

「演じなくていいよ、ここでは」
俺は自分でも驚くほど、落ち着いた声で言った。
「俺は、高校時代の『マドンナ』と飲みに来たわけじゃない。今、ここにいる『えまさん』と話がしたいんだ」

えまが顔を上げる。
潤んだ瞳が、まっすぐに俺を捉えた。

「……指くんって、ずるい」

彼女は手を振り払うことなく、逆に俺の手をぎゅっと握り返してきた。
その掌の熱さが、指先を通して俺の芯まで伝わってくる。

第2章:レンズの奥の共犯者
手のひらに残る熱を惜しむように、俺たちはゆっくりとグラスに指を戻した。
店内に流れるBGMが、少しハスキーな女性ボーカルのジャズに変わる。

「……ねえ、指くん。今はどんなお仕事をしてるの?」

カクテルを一口飲み、えまが問いかけてくる。

「カメラマン、やってるんだ。フリーランスで」
「えっ、カメラマン?」

えまが目を丸くする。
「意外? 図書委員だったのに」
「ううん、逆。……納得したかも」
彼女は楽しそうにクスクスと笑った。「だって指くん、昔からずっと何かを観察してたでしょう? 教室でも、図書室でも。世界を切り取る仕事、すごく似合ってる」

自分でも気づかなかった一面を言い当てられ、俺は少し動揺しながらスマホを取り出した。

「大した写真は撮れてないけど……こんな感じの」

俺は作品倉庫代わりにしているInstagramのアカウントを開き、彼女の方へスマホを滑らせた。

「風景がメインなんだけどね。人がいない場所とか、路地裏とか」

えまは長い指で画面をゆっくりとスクロールした。
朝焼けの無人の交差点。雨に濡れた紫陽花。廃校になった小学校の廊下。
彼女は一枚一枚、丁寧に時間をかけて見てくれた。まるで、そこに込められた空気ごと吸い込むように。

「……静かだね」
不意に、えまが呟いた。
「指くんの写真、すごく静か。寂しいんじゃなくて、優しい静けさがある。私、この世界観すごく好き」

不意打ちの称賛に、耳が熱くなる。
「ありがとう。……学生の頃から、教室の隅っこでこういう景色ばかり探してたから」

「あ、これ」
えまの手が止まった。画面に映っていたのは、古い木枠の窓から見える、切り取られた青空の写真だ。
「これ、高校の図書室?」

「……正解。三年の秋に撮ったやつだ」
「やっぱり! 私もね、あの席から見る空が一番好きだったの」

えまが顔を輝かせる。
「周りは私のこと『いつも誰かに囲まれて楽しそう』って思ってたかもしれないけど、本当はあの図書室にいる時だけが、息抜きできる時間だったんだ。指くんがいつも読んでた……えっと、海外のミステリー小説だっけ?」

「レイモンド・チャンドラー?」
「そう! そのハードカバーの背表紙を、離れた席からぼんやり眺めてた。『ああ、指くんは今日もあそこにいるな』って思うと、なんだか安心できて」

心臓が大きく跳ねた。
俺が見ていた彼女。彼女が見ていた俺。
交わらないと思っていた視線は、実はあの静寂な空間の中で、密かに交差していたのだ。

「ねえ、指くん」
えまがスマホを俺に返し、真剣な眼差しを向けてくる。
「今度、私を撮ってくれない?」

「え?」
「さっき言ったみたいに、仕事用の笑顔じゃなくて……この店にいる時みたいな、ただの『えま』を。指くんのファインダー越しなら、私、本当の自分に戻れそうな気がするの」

プロのカメラマンとして、被写体からの逆指名は嬉しい。
ましてや、相手は初恋の人だ。断る理由なんてない。

「……わかった。俺でよければ、一番綺麗に撮るよ」
「ふふ、約束だよ」

えまが嬉しそうに微笑み、二杯目のカクテルに口をつけようとした――その時だった。

ブブブ、ブブブ。

テーブルの上に置いてあったえまのスマホが、無粋な振動音を立てた。
先ほどまでの穏やかな空気、琥珀色の魔法が、一瞬にして霧散する。

えまの笑顔が凍りついた。
画面には『賢人(ケント)』という文字が表示されている。
高校時代、サッカー部のエースで、えまの恋人だった男の名前だ。俺でも知っている。

「……出なくていいの?」
恐る恐る尋ねると、えまは短く首を振った。顔色がさっと青ざめている。

「……同窓会に、彼も来てるの。さっきから『どこにいるんだ』『会いたい』って連絡がすごくて」
彼女の声が震えていた。
「もう別れたのに。『昔みたいに戻ろう』って……私はもう、あの頃の都合のいいお飾りじゃないのに」

ブブブ、ブブブ。
振動は止まない。スマホの画面が、薄暗いバーの中で警告灯のように点滅し続ける。
えまは両手で耳を塞ぐようにして、小さく身を縮こまらせた。

「嫌だ……戻りたくない。あの騒がしい場所も、彼のところも」

彼女が顔を上げ、すがるような目で俺を見た。
その瞳には、涙が溜まっている。

「ねえ、指くん」

彼女の手が伸びてきて、俺のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
その力は痛いほど強かった。

「今日は、このまま帰りたくない」
「えまさん……」
「お願い。どこでもいいから、私を連れ出して。……一人にしないで」

第3章:現像室の恋人たち
俺は無言でバーの会計を済ませると、震える彼女の手を引き、地上へと駆け上がった。
冷たい夜風が、火照った頬を叩く。
えまのスマホは、彼女自身の指で電源が切られていた。これで、もう誰も追っては来られない。

「こっちだ」

タクシーを拾い、行き先を告げる。
車内では、互いに何も話さなかった。ただ、繋がれた手だけが、言葉以上の熱を伝え合っていた。

俺の住処は、古い倉庫をリノベーションしたスタジオ兼自宅だ。
広めのワンルーム。生活スペースの半分は撮影機材と現像した写真に侵食されている。
無骨なコンクリート打ちっぱなしの壁。そこに、俺が切り取ってきた「静寂」たちが飾られている。

「……ここが、指くんの城?」

重い鉄の扉を開けると、えまが恐る恐る足を踏み入れた。
靴を脱ぎ、床に直置きされたクッションに座り込む。その姿は、迷い込んだ美しい猫のようだった。

「散らかっててごめん。コーヒーでいいかな?」
「うん。……ありがとう」

キッチンで湯を沸かす間、えまは部屋の中を歩き回り、壁に貼られた写真や、テーブルに置かれた無造作なレンズたちを眺めていた。

「すごい……。本当に、カメラマンなんだね」
「まあね。食うには困らない程度には」

マグカップを二つ持って戻ると、えまは部屋の隅にある撮影用のバック紙(背景紙)の前に立っていた。
白い壁と、少しだけホコリを被ったアンティークな椅子。

「……ねえ、指くん」

彼女が振り返る。
その表情は、先ほどバーで見せた弱々しいものではなかった。
何かを決意したような、凛とした瞳。

「約束、覚えてる?」
「写真?」
「うん。今、撮ってほしいの」

俺はカップをテーブルに置き、少し躊躇った。
「こんな夜更けに? 照明も準備してないし、君もメイクが……」

「それがいいの」
えまが言葉を遮る。
「準備なんていらない。完璧なライトも、綺麗なメイクもいらない。ただ、逃げてきて、安心した顔の私を撮って」

彼女はゆっくりとコートを脱ぎ捨てた。
ネイビーのドレスが、白い肌を露わにする。
無防備で、艶めかしくて、目が離せない。

俺は吸い寄せられるように、愛機である一眼レフを手に取った。
重量感のあるボディが、手のひらに馴染む。
電源を入れると、小さな電子音が静寂を切り裂いた。

「……座って」

俺の低い声に、えまが素直に従い、アンティークチェアに腰掛ける。
ファインダーを覗く。
そこに映るのは、かつての「高嶺の花」ではない。
俺と同じように孤独で、誰かの体温を求めている一人の女性。

カシャッ。
シャッターを切る音が、心臓の音と重なる。

「もっと、こっちを見て」
「……こう?」
「そう。……綺麗だ」

カシャッ、カシャッ。

レンズ越しに目が合うたび、二人の間の空気が濃密になっていく。
俺は無意識に、被写体との距離を詰めていた。
ズームレンズなんていらない。自分の足で近づく。
一メートル、五十センチ、三十センチ。

ファインダーの中、えまの瞳が潤んでいるのがわかる。
彼女の吐息がかかる距離。
俺はカメラを構えたまま、問いかけた。

「……どうして、そんな顔をするの」
「どんな顔?」
「泣き出しそうで、でも、すごく愛おしいものを見るような目」

えまはふわりと笑った。
その笑顔は、高校時代に向けられた完璧なスマイルとは違う。
もっと柔らかくて、甘い。

「……指くんだからだよ」

彼女の手が伸びてきて、カメラのレンズをそっと押し下げた。
ファインダーから視界が解放され、生身の彼女が目の前に現れる。

「遠くから見てるだけじゃ、もう嫌」

彼女の顔が近づいてくる。
ドレスから香る微かな香水の匂いと、アルコールの匂い。

「レンズ越しじゃなくて……本当の私に、触れて」

俺はカメラを床に置いた。
大切な商売道具を放り出すなんて、プロ失格かもしれない。
でも今夜だけは、写真には写らない熱を確かめたかった。

彼女の頬に手を添える。
震える唇が触れ合う直前、彼女が囁いた。

「もう、同級生じゃないからね」

第4章:ピントが合うまで
唇が触れるまで、あと数ミリ。
互いの体温が溶け合いそうになった、その瞬間だった。

「……待って」

俺は自身の衝動をねじ伏せ、えまの肩を掴んで、そっと体を引き離した。
えまの瞳が揺れる。拒絶されたと思ったのか、その表情が強張った。

「……どうして? 私じゃ、ダメ?」
「違う。逆だよ」

俺は彼女の乱れた髪を、指先で優しく整えた。
「君が酔っているからじゃない。弱っているからでもない。ただ……今ここで流されたら、君は朝になった時に後悔するかもしれない」

「後悔なんて……」
「するよ。君は真面目だから。『逃げるために寝てしまった』って自分を責める」

俺の言葉に、えまはハッとしたように口をつぐんだ。
図星だったのだろう。今の彼女は、元カレや仕事のストレスから逃げ出したくて、その「出口」として俺を選ぼうとしていた。
それは、俺にとっても本意じゃない。

「俺は、高校時代の憧れだけで動いてるわけじゃない。今のえまさんが好きだ。だから……ちゃんと『逃げ場所』じゃなくて『帰る場所』になりたいんだ」

えまの目から、ポロリと涙がこぼれた。
彼女は俺の胸に額を押し付け、小さな子供のように泣きじゃくった。俺はただ、彼女の背中をポンポンと一定のリズムで叩き続けた。

その夜、俺たちは何もしなかった。
ただ、スタジオのソファで毛布にくるまり、少し距離を開けて、でも手の指だけを絡ませて眠った。

翌朝。
カーテンの隙間から差し込む白い光で目が覚めた。

キッチンから、コーヒーの香りが漂ってくる。
体を起こすと、えまがマグカップを二つ持って立っていた。
ドレス姿のままだが、顔色は昨日よりもずっと良い。あの今にも壊れそうな儚さは消え、少し照れくさそうな笑みを浮かべている。

「……おはよう。勝手にキッチン借りちゃった」
「おはよう。……昨日は、よく眠れた?」

俺が聞くと、えまは深く頷き、隣に座ってコーヒーを渡してくれた。

「指くんのおかげで、久しぶりに夢も見ないで眠れた。……それでね、私、決めたの」

えまの声には、芯が通っていた。

「今日、ちゃんと彼に会って話をつけてくる。もう戻らないって。仕事のことも、ちゃんと上司と向き合う。……逃げたままじゃ、指くんに恥ずかしくて会えないから」

彼女は、昨日俺が撮ったカメラの方をちらりと見た。

「昨日の写真、見せてもらってもいい?」

俺はカメラの液晶画面を表示し、彼女に見せた。
そこには、涙目で、無防備で、でも確かにこちらを信頼して見つめているえまが写っていた。
完璧な笑顔ではない。けれど、今まで見たどのえまよりも人間らしくて、美しい一枚だった。

「……うん。悪くないね」
えまはクスリと笑った。
「今の私、こんな顔してるんだ。これなら、戦えそう」

彼女は立ち上がり、コートを羽織った。
玄関まで見送る。
ドアノブに手をかけたところで、えまが振り返った。

「ねえ、指くん。全部片付いたら……また、ここに来てもいい?」
「もちろん。いつでも」
「次は、逃げてくるんじゃなくて、ただ指くんに会いに来るね。……その時は、続きをお願い」

彼女は悪戯っぽくウインクをして、朝の光の中へと踏み出していった。

第5章:
あの朝、えまを見送ってから一ヶ月が経っていた。
「片付いたら会いに行く」という言葉を信じて待ってはいたが、俺の悪い癖で、「やっぱり社交辞令だったんじゃないか」「元カレとよりを戻したんじゃないか」というネガティブな想像が頭をもたげ始めていた頃だった。

以前仕事をしたWebメディアの編集部から、急な撮影依頼が入った。
『働く女性の新しいライフスタイル』という特集記事のインタビュー撮影だ。

場所は都内のハウススタジオ。
機材のセッティングを終え、露出計を確認していると、スタジオのドアが開いた。

「お待たせいたしました。クライアントの広報担当の方がいらっしゃいました」

アシスタントの声に、俺はファインダーから目を離し、振り返る。
そこには、ベージュのセットアップスーツを凛と着こなした女性が立っていた。
手には資料とタブレット。髪は仕事用にすっきりとまとめられている。

「……えま、さん?」

思わず声が漏れた。
彼女は俺と目が合うと、一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐにプロの顔になって微笑んだ。

「はじめまして……と言ったほうがいいかしら? 本日の撮影の進行を担当します、えまです」

「……ああ、よろしく」

まさか、クライアント側の担当者として現れるとは。
彼女は言葉通り、仕事の問題もクリアし、新しいポジションを勝ち取っていたらしい。



俺はスイッチを切り替えた。
ここからは、俺の領域だ。

「照明、あと半段落として。レフ板は右から」
「はい!」
「モデルさん、顎を少し引いて。そう、目線はレンズの奥を突き抜ける感じで」

カシャッ、カシャッ、カシャッ。

シャッターを切るたび、スタジオの空気が張り詰めていく。
俺は無意識に早口になり、指示を飛ばす。普段の「図書室の隅の指くん」はそこにはいない。空間を支配し、光を操る「フォトグラファー・指」としての姿だ。

ふと、視界の端でえまが立ち尽くしているのが見えた。
彼女はタブレットを抱えたまま、呆気にとられたように俺を見つめていた。
その頬が、ほんのりと赤い。

(……そんな目で見られると、やりづらいな)

内心の動揺を押し殺し、俺は撮影に没頭した。

「はい、カット! お疲れ様でした」

一時間の撮影が終わった瞬間、スタジオに安堵の空気が流れた。
機材を片付けていると、えまがお茶のペットボトルを持って近づいてきた。

「……お疲れ様、指くん」
「お疲れ。びっくりしたよ、担当が君だなんて」
「ふふ、サプライズにしたくて黙ってたの。でも……」

えまは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「仕事中の指くん、なんか……かっこよすぎて、直視できなかった。いつもの優しい感じと全然違うんだもん。……ちょっとズルい」

その言葉に、俺の心臓が跳ねる。
「そうかな。必死なだけだよ」
「ううん。輝いてたよ、すごく」

良い雰囲気だ。
周囲のスタッフも撤収作業に入り、二人きりで話せるタイミングができそうだった。
あの夜の「続き」の話ができるかもしれない。

そう思った矢先だった。

【Cへ移行:入り込む異物】

「ゆーびくん! お疲れー!」

突然、背後からパンと背中を叩かれた。
振り返ると、派手な金髪のショートカットに、奇抜なファッションの女性が立っていた。
よく仕事で組む、フリーのスタイリスト・**レオ(24歳)**だ。

「なんだ、レオか。背中叩くなよ」
「いいじゃん減るもんじゃないしー。てか、今日のライティング神がかってたね! あたしのスタイリングも超映えてたし!」

レオは遠慮なく俺の肩に腕を回し、顔を覗き込んでくる。
業界特有の距離感の近さだ。俺にとっては妹みたいなものだが、他人から見れば誤解を招く距離だ。

「ねね、この後ご飯行かない? 打ち上げ! 新しいイタリアン見つけたんだよー」
「いや、俺は……」

断ろうとして、ハッとした。
目の前のえまの表情が、凍りついている。

彼女は、俺の肩に回されたレオの腕と、俺の顔を交互に見ていた。
その瞳から、さっきまでの熱っぽさが消え、代わりに不安と、微かな敵意のような色が宿っている。

「……指さん」

えまが、他人行儀な呼び方に戻った。
「その方は……?」

「あ、あたし? スタイリストのレオですー! 指くんとはいっつもペア組んでる名コンビなんですよー。ねー、指くん?」

レオが悪気なく俺の腕に頬を擦り寄せる。
えまの手元で、ペットボトルの容器がベコッと音を立てて凹んだ。

「……」

えまの口角は上がっているが、目は笑っていない。
まずい。これは、非常にまずい。

第6章:
「それ、名案ですね」

えまの声が、スタジオの空気を切り裂いた。
彼女はタブレットをカバンにしまうと、完璧な営業スマイルを浮かべてレオに向き直った。

「今後のプロジェクトのためにも、親睦を深めるのは大切ですもの。私もご一緒していいですか?」


レオが少し気圧されたように俺を見る。俺が止める隙はなかった。
えまは既に俺の隣――レオとは反対側の位置――をキープし、逃がさないというように俺の肘を軽く掴んでいたからだ。

「行きましょう、指さん。……イタリアン、楽しみですね」
その笑顔の裏で、彼女の指が俺の腕に食い込んでいた。

***

レオが見つけたというイタリアンレストランは、個室もある小洒落た店だった。
通されたのは四人掛けのテーブル席。
俺の左隣にレオ、右隣にえま。
まさに両手に花、あるいは両側から銃口という配置だ。


レオが能天気にグラスを掲げる。
俺とえまもそれに続くが、グラスが触れ合う音すらどこか硬質に響いた。


レオが俺の肩をバンバン叩きながら、過去の武勇伝(?)を語り始めた。
「俺たちの歴史」を誇示するような口ぶりだ。

えまは静かに白ワインを揺らしながら、それを聞いていた。
「へえ……。指さん、お仕事だとそんなに無茶をするんですね」
「そうなんですよー! この人、普段はボソボソ喋るくせに、ファインダー覗くと人が変わるっていうか。あたししか知らない『裏の顔』って感じ?」

レオが得意げに笑う。
その瞬間、えまの目がすぅっと細められた。

「……そうですか。『裏の顔』、ね」

えまがフォークを置き、優雅に口元をナプキンで拭った。
反撃の狼煙だ。

「でも、指さんの本当の『素顔』は、もっと静かで優しいんですよ」
「は? 素顔?」
レオがキョトンとする。

えまは俺の方を向き、とろけるような視線を送ってきた。
「高校時代、放課後の図書室で、西陽を浴びながら本を読んでいる時の横顔……。誰にも邪魔されたくない、あの聖域みたいな空気感。あれを知っているのは、私だけかもしれませんね」

「え、なにそれ。高校の同級生ってこと?」
「ええ。五年前から、ずっと見てましたから」

「五年前」という単語に、えまはあえて強いアクセントを置いた。
レオの「数年の仕事仲間」というカードに対し、「青春時代の共有」というジョーカーを切ったのだ。

「ふーん……。でもぉ、今の指くんの相棒はあたしなんで。ねー、指くん? 次の撮影も指名してよね」
レオが対抗して、テーブルの下で俺の足を軽く蹴ってくる。

「あら、相棒なら代わりはいますけど……『特別』な存在は、替えがききませんよ?」
えまも負けじと、テーブルの下で俺の手をぎゅっと握りしめた。

右から左から、物理的にも精神的にも圧力がすごい。
俺は冷製パスタの味もわからないまま、ただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。

その時だった。
レオがトイレに立った隙に、えまがふぅ、と小さくため息をつき、俺の耳元に顔を寄せた。

「……ねえ、指くん」
「な、なに?」
「あの人とは、ただの仕事仲間なんだよね?」

潤んだ瞳が、至近距離から俺を射抜く。
嫉妬と不安がないまぜになった、あの日と同じ表情。

「もちろん。レオはただの……騒がしい妹みたいなもんだよ」
「本当?」
「本当だ。俺が見てるのは……」

言いかけたところで、えまがテーブルの下で、俺の手のひらに自分の指を絡ませた。
恋人繋ぎ。
そして、耳元で囁く。

「……私、負けたくない。今の指くんを知ってるのがあの人でも、これから先の指くんを一番近くで見るのは、私でいたい」

ズキン、と胸の奥が痺れた。
この高嶺の花は、いつからこんなに健気で、独占欲の強い女性になったのだろう。

「おまたせー! デザート頼もうよ!」
レオが戻ってくる気配がする。
けれど、テーブルの下で繋がれた手は、離されなかった。
その手は震えていて、そしてとても熱かった。


最終章:ピントはもう、君にしか合わない
「じゃあねー! 二人ともお熱い夜を!」

レオがタクシーに乗り込み、手を振って去っていく。
そのテールランプが見えなくなった瞬間、えまが俺の手首を掴んだ。その力は、痛いほどだった。

「……タクシー、呼んで」
「え?」
「指くんの家。……今すぐ」

彼女の声は低く、拒否権なんて端から用意されていなかった。
俺は頷き、流しのタクシーを止めた。

車内での時間は、永遠のように長く感じられた。
えまは一言も発さなかった。ただ、俺の肩に頭をもたせかけ、俺の上着の袖を強く握りしめていた。まるで、少しでも力を緩めれば、俺がどこかへ消えてしまうと恐れているかのように。

スタジオのあるビルの前で降りる。
重い鉄の扉を開け、いつものコンクリート打ちっぱなしの部屋に入った瞬間だった。

えまが、俺の背中をドアに押し付けた。

「……っ、えまさん?」
「電気、つけないで」

暗闇の中、彼女の荒い息遣いだけが聞こえる。
カツ、とヒールを脱ぎ捨てる音がしたかと思うと、彼女の腕が俺の首に回された。

「……嫌だった」
震える声が、耳元で響く。
「あの人が、指くんの肩に触るのも、私の知らない指くんの話をするのも、全部。……胸が焼けるみたいで、おかしくなりそうだった」

「えま……」
「私、わがままだよ。昔みたいに綺麗じゃないよ。嫉妬深いし、独占欲も強いし……全然『マドンナ』なんかじゃない」

彼女の指が、俺の髪を、頬を、無遠慮にまさぐる。
「それでも……私を好きでいてくれる?」

俺は彼女の腰に手を回し、その震える体を引き寄せた。
答えなんて、とっくに出ている。

「……ずっと待ってたんだ」
俺は囁いた。
「高嶺の花だった君が、降りてきてくれるのを。いや、俺だけの花になってくれるのを」

「指くん……」
「レオも、他の誰かも関係ない。俺のファインダーの真ん中にいるのは、五年前からずっと、君だけだ」

言葉は、そこで途切れた。
えまが背伸びをして、俺の唇を塞いだのだ。
バーでの未遂とは違う。深く、熱く、互いの存在を確かめ合うようなキス。
アルコールの味と、彼女の甘い香りが脳を溶かしていく。

「……帰さないから」
唇が離れた一瞬、えまが熱っぽい瞳で俺を睨みつけるように言った。
「今夜はもう、逃がしてあげない」

「望むところだ」

俺は彼女を抱き上げ、奥のソファへと運んだ。
壁に飾られた静寂な写真たちが、今夜だけは、熱を帯びた二人を静かに見守っていた。

Extra Episode:現像液と香水
背中が扉に押し付けられた衝撃が、理性のスイッチを強制的に切断した。
暗闇に目が慣れるよりも早く、えまの唇が再び俺を塞ぐ。
先ほどの店での牽制し合うようなキスとは違う。渇ききった旅人が泉を見つけたような、必死で、貪るような口づけだった。

「ん……っ、はぁ……」

唇が離れると、熱っぽい銀の糸が引いた。
窓から差し込む街灯の微かな明かりが、えまの顔を逆光で浮かび上がらせる。
整っていた髪は乱れ、頬は上気し、瞳は潤んで揺れている。
その姿は、俺がレンズ越しに見てきたどの「被写体」よりも扇情的だった。

「……電気、つけないでって言ったけど」
えまの手が、俺のシャツのボタンに触れる。指先が震えているのがわかった。
「でも、見て。ちゃんと、私を見て」

彼女の言葉は矛盾していた。けれど、その意味は痛いほど伝わってくる。
「マドンナ」としての虚像ではない。嫉妬に狂い、欲に濡れた、生身の女としての自分を見てほしいのだ。

俺は彼女の手首を掴み、その掌に口づけを落とした。
「ああ。一秒だって見逃さない」

俺は彼女を抱き上げると、部屋の奥にある広い革張りのソファへと運んだ。
彼女を座らせ、その足元に跪く。
まるで崇拝する女神に対するように、しかしその手つきは雄のそれとして、彼女の足首に触れた。

ヒールを脱がせ、ふくらはぎを撫で上げる。
滑らかな肌の感触に、えまがビクリと肩を震わせた。

「指くん……っ」

俺の手がドレスのファスナーに掛かると、彼女は自ら背中を反らせた。
衣擦れの音が、静寂なスタジオに大きく響く。
ネイビーのドレスが床に落ちると、白い肌が闇の中に露わになった。
華奢な鎖骨、柔らかく波打つ胸元、くびれた腰。

かつて遠くの席から盗み見ていた憧れが、今、俺の手の届く場所で、俺だけのために熱を放っている。
その事実に、脳が焼けつきそうだった。

「……綺麗だ」
溜息のように漏らすと、えまは泣きそうな顔で首を振った。

「綺麗なんかじゃない……。私、中身はドロドロしてて、醜いんだよ? さっきだって、あんなに意地悪なこと言って……」
「それがいいんだ」

俺は彼女の体に覆い被さり、首筋に顔を埋めた。
高価な香水の香りの奥に、彼女自身の甘い匂いがする。

「高嶺の花なんて、写真の中だけでいい。俺が欲しいのは、嫉妬して、泣いて、俺を求めてくれる君だ」

首筋に吸い付くと、えまが甲高い声を上げて俺の背中に爪を立てた。
痛みと快感が同時に走る。

「……好き。指くん、好き……っ」

彼女の足が俺の腰に絡みつく。
もう、我慢の限界だった。
俺たちは互いの服を邪魔な包装紙のように引き剥がし、肌と肌を重ね合わせた。

熱い。
火傷しそうなほど、彼女の体温が高い。
触れ合う面積が増えるたび、俺たちの境界線が溶けていくようだ。

「……ねえ、指くん」
耳元で、えまが掠れた声で囁く。
「カメラ、こっち向いてないよね?」

俺は朦朧とする意識の中で、床に転がった愛機を見た。レンズはあさっての方向を向いている。

「ああ……今は、撮らない」
「うん……。今は、記録に残さないで」

えまが俺の頬を両手で包み込み、真正面から見つめてきた。
その瞳の奥には、鬼気迫るほどの愛情が渦巻いている。

「記憶に焼き付けて。……指くんの、その体温で」

「……望むところだ」

俺は彼女の最奥へと、自身の熱を沈めていった。
言葉はもう、意味をなさなかった。
部屋に満ちるのは、重なり合う吐息と、肌が打ち合う音、そして互いの名前を呼び合う声だけ。

五年前、図書室の窓際で止まっていた時間が、激流となって動き出す。
静寂を愛した俺たちの夜は、これ以上ないほど騒がしく、そして甘美な熱に支配されていった。

翌朝。
昨日と同じカーテンの隙間から、昨日と同じ朝日が差し込んでいた。
けれど、腕の中の重みだけが、昨日とは決定的に違っていた。

「……ん」

隣で眠っていたえまが、身じろぎをして目を覚ます。
散らかった髪、まどろんだ瞳。
化粧を落とした素顔の彼女は、高校時代の記憶よりもずっと幼く、そして愛おしく見えた。

「……おはよう、指くん」
「おはよう」

えまはシーツを引き寄せ、照れくさそうに顔を埋めた。
昨夜の大胆な彼女はどこへやら、耳まで真っ赤になっている。

「……私、昨日はすごいこと言っちゃった気がする」
「『逃がしてあげない』だっけ?」
「うぅ……忘れて」

彼女が枕を投げつけてくる。俺はそれを受け止め、笑い声を上げた。
こんな風にふざけ合える朝が来るなんて、五年前の図書室にいた俺に教えてやっても、きっと信じないだろう。

俺はサイドテーブルにあったカメラを手に取った。
レンズキャップを外す。

「あ、ずるい。また不意打ち?」
えまが抗議するが、顔は隠さない。
むしろ、真っ直ぐにレンズを見つめてくる。

「記録しておこうと思って」
「なんの?」
「俺たちが、本当の意味で恋人になった最初の朝の」

ファインダーを覗く。
そこに映る彼女は、もう「憧れ」ではない。
等身大で、人間臭くて、俺のことが好きでたまらない、世界で一番綺麗な女性だ。

「……笑って」
「こう?」

彼女がふわりと微笑む。
シャッターボタンに指をかける。

カシャッ。

軽やかな音が、新しい日常の始まりを告げた。

「……愛してるよ、えま」
「……私も」

ファインダーを下ろすと、そこには写真よりも鮮やかな、最高の笑顔があった。

(以上)