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引っ越しの段ボールがまだ片付いていない6畳のワンルームに、冷たい夜気が満ちていた。
俺の名前は「指(ゆび)」。変な名前だと自分でも思う。だからというわけではないが、俺は昔から他人と深く関わるのが苦手だった。フリーランスの仕事を選び、築30年の古アパート「コーポ・トワイライト」の203号室に逃げ込むように越してきたのは、一週間前のことだ。

静寂と孤独。それが俺の望んだ生活だったはずだ。
だが、ここ数日、奇妙な違和感がまとわりついている。

最初は、テーブルの上に置いていたマグカップの位置だった。取っ手の向きが、俺が置いたときと逆になっていた。次は、シャワーヘッドの角度。
そして今夜。コンビニから帰宅した俺は、デスクの上に置きっぱなしにしていたスケッチブックを見て、息を呑んだ。

俺は仕事のメモ書きにしか使っていない無骨なページに、見知らぬ丸文字が躍っていたのだ。

『ねえ、私の消しゴム知らない? 机に置いといたのに』

背筋が粟立つのがわかった。
すぐに部屋中のクローゼットやユニットバスを確認したが、誰もいない。玄関の鍵も閉まっていた。
悪質な悪戯か、ストーカーか。
俺は震える手でボールペンを握りしめると、その文字の下に強く書きなぐった。

『お前は誰だ。不法侵入なら警察を呼ぶ』

その日は恐怖でほとんど眠れなかった。

***

翌朝。恐る恐るスケッチブックを開くと、俺の文字の下に新しい返事が書き込まれていた。

『警察なんて大げさだよ。ひどいな。
私はえま。ここに住んでるんだけど。
そっちこそ誰? 変な名前だね、「指」って』

俺の名前を知っている?
いや、表札を見たのか。それにしても「ここに住んでいる」とはどういう意味だ。この部屋の契約者は俺だ。

俺は半信半疑のまま、ペンを執った。
『ここには俺しか住んでいない。嘘をつくな』

文字を書いた瞬間、信じられないことが起きた。
俺の目の前で、紙の上にインクがじわりと滲み出し、文字が勝手に浮かび上がってきたのだ。まるで透明人間がそこでペンを走らせているかのように。

『嘘じゃないよ! 家賃だって払ってるし。
あ、もしかして幽霊? 指さん、幽霊なの?
今日は2022年の12月10日だよ。まだ成仏してないの?』

俺は動きを止めた。
 2022年?

慌ててスマホの日付を確認する。画面にははっきりと**「2025年12月10日」**と表示されている。
3年のズレ。
俺はこみ上げる混乱を抑え込みながら、震える文字で書き込んだ。

『……今は、2025年だ。
えま、そこにいるのか?』

『え? 未来の人? うそ、SF映画みたい!』

軽い。反応があまりにも軽かった。
だが、この現実離れした現象は、俺たちが「同じ場所」にいながら「違う時間」を生きていることを示していた。

俺はふと思い立ち、ノートパソコンを開いた。
検索窓に打ち込んだのは、『2022年 コーポ・トワイライト 事件』。

検索結果のトップに出てきたニュース記事の見出しを見て、俺の心臓は早鐘を打った。

【未解決行方不明者事件】
2022年12月24日深夜、市内アパートから20代女性が行方不明に。
被害者:西園寺えま(23)

画面の中の顔写真。
明るく笑うその女性は、今まさにノートの向こう側で、呑気に文字を綴っている「えま」だった。

彼女が消えるまで、あと2週間しかない。

3. 紙越しの情事
 12月2日
運命の日まであと4日。張り詰めた緊張感の中で、ノートを介した俺たちの会話は、もはや他人行儀なものではなくなっていた。

『怖くて眠れないの。窓の外に誰かが立っているような気がして』

えまの文字が震えているのがわかる。俺はペンを握る手に力を込めた。

『大丈夫だ。俺がついている。俺が、君を見ている』

「参照」
未来とか過去とかどうでもいい。今、あなたの腕の中に逃げ込みたい』

その言葉を見た瞬間、俺の理性が音を立てて軋んだ。
目の前には誰もいない。ただ古いノートがあるだけだ。けれど、俺の脳裏には、布団にくるまって怯えるえまの姿が鮮明に浮かび上がっていた。白い肌、潤んだ瞳、温かい吐息。
3年前のこの部屋で、彼女は確かに呼吸をしていたのだ。

俺は震える指で、文字を書き連ねた。

『目を閉じて。俺は今、君の隣にいる』

『うん……。指さん、手が温かいね』

そんなはずはない。俺の手は冷え切っているし、彼女に触れることさえできない。
だが、この瞬間、俺たちは確かに「繋がって」いた。言葉が皮膚になり、インクが体温になった。

俺はノートの上の、彼女の筆跡を指の腹でゆっくりとなぞった。
まるで彼女の肌を愛撫するように。
想像の中の彼女は、俺の求めに応じて甘い声を漏らす。俺はたまらなくなって、ズボンのベルトに手をかけた。



誰もいない部屋で、俺は彼女の名前を呼んだ。
3年の時差を超えて、彼女を感じようとした。
ノートの向こうにいる彼女を救いたいという使命感と、彼女を我が物にしたいという独占欲が混ざり合い、俺を突き動かす。

俺は彼女の書き込む文字を見つめながら、自身の欲望を吐き出した。
それは惨めで、孤独で、けれど涙が出るほど甘美な行為だった。

果てた後、荒い息をつきながら天井を見上げた。
賢者タイムのような静寂の中で、俺の心に残ったのは、強烈な決意だった。

――絶対に、死なせない。
この温もり(幻)を、冷たい死体になんてさせない。

俺は汗ばんだ手で再びペンを握り、最後の計画を書き込んだ。

『えま。24日の夜のことだ。
必ず助ける。だから、俺の言う通りの時間に動いてくれ』

『わかった。……愛してるよ、指さん』

その言葉が、俺にとってのすべての真実になった。
たとえそれが、彼女の仕掛けた甘い罠だったとしても、今の俺には知る由もなかった。

4. 聖夜の共犯者
 12月
外は3年前と同じ、激しい吹雪だった。

 19:00
俺はノートに向かい、震えるペン先を押し付けた。

『えま、時間だ。奴が来る』

俺が調べ上げた警察の資料によれば、犯人の侵入時刻は20時ちょうど。ベランダの窓ガラスを焼き破って侵入してくる。
だが、俺には秘策があった。当時の捜査資料の隅に記されていた、些細な記述だ。
――『20時15分、近隣住民がパトカーのサイレンを聞いている』。
近所でボヤ騒ぎがあり、アパートの前を消防車とパトカーが通過していたのだ。その騒音に紛れれば、誰にも気づかれずに裏口から逃げ出せる。

20:1
その音が聞こえたら、みんなそっちに気を取られる。その隙に裏口から走れ! 鍵は開いているはずだ!』

文字が滲む。俺の祈りが、インクになって紙に吸い込まれていく。

『わかった。……ありがとう。指さん、信じてる』

それきり、反応が途絶えた。
俺は固唾を呑んで待った。1分が1時間のように長く感じる。
20時。今頃、男が侵入しているはずだ。
20時10分。えまは隠れているだろうか。恐怖で声を殺している姿を想像すると、胸が張り裂けそうだった。
 

俺は両手を組み、神に祈った。いや、神になんて祈らない。俺が変えるんだ。俺の指先が、彼女の運命を書き換えるんだ。

 ***

日付が変わった。12月25日、午前0時。
沈黙を続けていたノートに、唐突にインクが走った。

『うまくいったよ』

その一言を見た瞬間、俺は全身の力が抜け、椅子から崩れ落ちそうになった。

『よかった……本当によかった……!』
俺は涙で視界を歪ませながら書き殴った。
『怪我はないか? 今はどこにいる?』



助かったんだ。俺は歴史を変えた。
 
……待てよ。過去が変わったのなら、今のこの世界はどうなる?
俺は急いでスマホを手に取った。歴史の改変が確定したなら、ネット上のニュースも書き換わっているはずだ。

検索ワード:『2022年 コーポ・トワイライト』

画面がリロードされる。
俺は「女性無事保護」の見出しを期待して、画面をスクロールした。

だが。
そこに表示された見出しを見た瞬間、俺の思考は凍りついた。

【2022年の殺人事件:アパート一室から男性の刺殺体発見】
【被害者はストーカー行為を行っていた男。住人の女は現在も逃走中】

「……え?」

俺は掠れた声を漏らした。
記事をタップする指が震えて定まらない。

 
『容疑者の西園寺えま(23)は、緊急車両の通過による騒音に紛れて現場から逃走した模様』

血の気が引いていく。
逃走? 保護されたんじゃなくて?
違う。被害者と加害者が入れ替わっている。

 
彼女は男が部屋に入ってくるのを待ち構えていた。殺すために。
そして、俺が教えた「20時15分」という完璧なタイミングを利用して、死体と血の海を残したまま、誰にも見られずに姿を消したのだ。

俺は彼女を助けたんじゃない。
殺人犯の完全犯罪を手助けしたんだ。

視線をノートに戻す。
そこには、先ほどまでの「か弱い少女」の面影は微塵もない、鋭く乱雑な文字が走っていた。

『あなたが警察の動きを教えてくれたおかげで、死体を見られずに逃げられたわ』

『あの男、しつこいから殺すしかなかったの。でも死体の処理に困ってたから、逃げる時間が作れて本当に助かった』

吐き気がした。
俺が抱いた幻想。守りたかった笑顔。そのすべてが、冷酷な殺人鬼の演技だったのか。

文字は止まらない。俺の動揺を嘲笑うかのように、最後のメッセージが綴られる。


『まだ私の部屋に住んでくれてるなら、押し入れの天袋、開けてみてよ』

5. 天袋の恋人
部屋の空気が、急激に冷え込んだ気がした。
俺はふらつく足取りで押し入れの前に立った。古い木造アパートの押し入れの上段には、「天袋(てんぶくろ)」と呼ばれる収納スペースがある。入居してから一度も開けたことのない、ふすまに閉ざされた闇。

 
『プレゼント』とは何だ?
俺が彼女を殺人犯にしてしまった証拠品か? それとも、3年越しの愛の言葉か?

俺は近くにあった椅子を引き寄せ、その上に乗った。
手を伸ばし、天袋のふすまに指をかける。埃っぽい感触。
深呼吸を一つして、俺は一気にふすまを開け放った。

ガッ、と乾いた音がして、暗闇が口を開ける。
カビと埃の匂い。そして、微かに漂う……鉄のような、甘ったるい腐臭。

俺はスマホのライトを点け、闇の中を照らした。

「……!」

息が止まった。
そこにあったのは、丁寧にラップで何重にも巻かれた、一本の「包丁」だった。
ラップ越しでもわかる。刃には、赤黒く変色した血がこびりついている。
3年前、彼女があの男を刺し殺した凶器だ。

俺は戦慄した。
彼女はこれを「プレゼント」だと言ったのか。俺を共犯者に仕立て上げるための、呪いのような贈り物を。

だが、ライトの光がさらに奥を照らし出した時、俺の思考は完全に停止した。

包丁の奥。
その隙間には、俺の部屋から無くなったはずの物が散乱していた。
空になったプリンの容器。読みかけの文庫本。半分減ったシャンプーの詰め替えボトル。

――まさか。

背筋が凍りつくのと同時に、俺の脳裏で全てのパズルが組み合わさった。
彼女は「逃走中」だと言われていた。警察も行方を見つけられなかった。
灯台下暗し。
最も安全な隠れ場所は、殺人現場となったこの部屋の、誰も覗かない天井裏だったのだ。

3年間。
彼女はずっと、ここにいた。
俺が入居してきてからも、ずっと。
俺が寝静まった後に降りてきて食事をし、風呂に入り、そして俺が置きっぱなしにしたノートに「時間差トリック」を使った書き込みをして、俺を騙して遊んでいたのだ。

俺がノート越しに愛を囁いていたとき、彼女は天井の板一枚隔てた真上で、俺を見下ろして笑っていたのか。

「……うそだろ」

俺が呟いた、その時だった。

ズズッ……。

天井裏の闇の奥から、何かが這い出てくる音がした。
ライトの光が揺れる。
闇の中から、ボサボサに伸びた髪の隙間から、充血した大きな瞳がヌラリと光った。

3年の月日で痩せこけてはいるが、あの写真と同じ顔。
えまが、そこにいた。

「みーつけた」

カサついた声が鼓膜を打つ。
彼女は痩せ細った腕を伸ばし、俺の頬に冷たい指先を這わせた。

「ありがとう、指さん。
時効まであと少し。……これからも、ずっと一緒だね」

彼女の指が、俺の首筋へと滑り落ちる。
閉ざされた密室で、俺の悲鳴を聞く者は誰もいなかった。

(以上)