深夜一時を回った東京。
 指(ゆび)は、タクシーの後部座席でネクタイを緩めた。
 スマートフォンの画面には、ロンドン市場の動向と、部下からの緊急チャットが次々とポップアップしている。外資系商社での十年選手。三十五歳という年齢は、現場の最前線とマネジメントの板挟みで、最も神経をすり減らす時期だ。
「お客さん、この辺りでいいですか?」
「あ、はい。そこで」
 自宅マンションの手前。ふと、見慣れない灯りが目に入って、指は車を降りた。
 古いビルの一階。以前はクリーニング屋だった場所に、小さなアンティークショップができている。
 看板には『クロノス』という文字。そして「Bar Time」の小さな札。
 吸い寄せられるように、指はドアを開けた。
 チクタク、チクタク。
 無数の古時計が刻む音が、静寂を満たしている。
「いらっしゃいませ。……あ」
 カウンターの奥で、ルーペを目から外した女性が動きを止めた。
 亜麻色の髪を無造作に束ね、作業用のエプロン姿。
 記憶の中の制服姿よりもずっと大人の女性になっていたが、その色素の薄い瞳は間違いない。
「……えま、ちゃん?」
「指先輩?」
 高校時代の二つ下の後輩、えまだった。
***
「まさか、先輩がこんな時間に迷い込んでくるなんて」
 えまは苦笑しながら、琥珀色のウイスキーをグラスに注いだ。
 彼女は古時計の修理師として独立し、夜だけこうして店の一角でお酒を出しているらしい。
「世界中飛び回ってるって噂、聞いてましたよ。今日は日本ですか?」
「ああ。来週はシンガポールだけどね」
 指はグラスを煽り、自嘲気味に笑う。「秒単位で動く毎日に、正直うんざりしてるんだ。なのに、ここは随分と……時間がゆっくりだな」
 店内を見渡す。百年以上前の柱時計、動かない懐中時計。ここにある時間は、指が追いかけているデジタルな数字とは対極にある。
「壊れた時間を直すのが、私の仕事ですから」
 えまはカウンター越しに、修理中だという小さな腕時計を手に取った。
「先輩、高校の図書室でよく言ってたじゃないですか。『早く大人になりたい』って」
「……そんなこと言ったか?」
「言ってましたよ。私、その横顔を見るのが好きだったから、覚えてます」
 不意打ちだった。
 えまは手元の時計に視線を落としたまま、淡々と言葉を続ける。
「あの頃の指先輩は、いつも何かに焦ってて、ここじゃないどこか遠くを見てて。……三十五歳になった今も、やっぱり焦ってる顔してますね」
 指は言葉に詰まった。
 図書委員だった彼女と、受験勉強のために図書室に通っていた自分。言葉を交わすことは少なかったが、確かにあの空間だけは共有していた。
「……修理、できるかな」
 指はポツリと漏らした。
「ん? 時計ですか?」
「いや、俺のこの、すり減った神経というか、生き急いでる性分というか」
 冗談めかして言ったつもりだった。
 けれど、えまは作業の手を止め、まっすぐに指を見つめた。
「部品さえ残っていれば、いつだって直せますよ」
 彼女がそっと、指の手の甲に自分の手を重ねる。
 ひんやりとして、でも確かな体温。
 壁に掛けられた無数の時計たちが、一斉に時報を打ち始めた。ボーン、ボーンと重なる音が、指の鼓動とリンクする。
「ここなら、時間はたっぷりあります。……始発まで、雨宿りしていきませんか?」
 えまが少しだけ首を傾げて微笑む。
 その表情は、かつて図書室のカウンターで向けられた、控えめな笑顔と同じだった。
 指はポケットの中のスマートフォンを取り出し、電源を切った。
 画面が暗転し、そこに映っていた自分の顔が消える。
「頼むよ。……とびきり美味い酒と、君の話を聞かせてくれ」
 外資系のタフな交渉人が見せた、今日初めての心からの降伏だった。
 夜はまだ、始まったばかりだ。

グラスの氷がカラン、と溶ける音がした。
 再会の驚きが落ち着くと、必然的に話題は「この十年」のことに及んだ。
「で、先輩。指輪は?」
 
「ないよ。特定の相手も、もう三年くらいかな」
 僕はウイスキーを煽りながら答えた。「商社マンなんて、半分は飛行機の中に住んでるようなもんだ。愛想を尽かされるのがオチだよ」
「ふうん。……モテそうなのに」
「そういう、えまちゃんは?」
 僕が問い返すと、彼女は手元の布巾を丁寧に畳みながら、小さく苦笑した。
「私も、今は時計が恋人ですね」

「いませんよ。……一度、結婚しそうになった人はいましたけど」
 ドキリ、とした。
 彼女は遠くを見るような目をした。
「私がこの店を継ぐって言ったら、反対されちゃって。『古い時計なんて直して何になるんだ』って。……だから、選んだんです。人より、時計を」
 彼女はカウンター越しに僕を見て、少し寂しそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「変わり者でしょう?」
「いや」
 僕は即答していた。
「……その選択をしてくれて、よかったとすら思うよ」
「え?」
「あ、いや。その……おかげで、こうして美味い酒が飲めてるわけだから」
 
 えまはキョトンとしていたが、やがて「ふふっ」と肩を揺らして笑った。
「そうですね。先輩が独り身で、私も独り身。……偶然ですけど、なんだか不思議な夜ですね」
 お互いに「空席」であることを確認した瞬間、店内の空気が少しだけ甘く、緩んだ気がした。
 壁の時計たちが、チクタクと囃し立てるように時を刻んでいる。

1.『朝の珈琲と、緩んだネクタイ』
 気がつけば、窓の外が白み始めていた。
 あの日、スマートフォンを切った僕は、始発の時間までえまと語り明かした。話した内容は他愛もないことだ。高校時代の先生のあだ名、古時計の魅力、海外赴任中の失敗談。
 けれど、十年分の空白は、たった数時間で温かな色に塗り替えられていた。
「……そろそろ、行かなきゃ」
 僕は重い腰を上げた。現実世界――商社という戦場が待っているからだ。
「待ってください」
 えまが小走りで奥へ行き、テイクアウト用の紙カップを持って戻ってきた。ふわりと、深煎りの豆の香りが漂う。
「眠気覚ましです。指先輩、これから戦いに行く顔をしてるから」
 受け取ろうと手を伸ばすと、彼女の手が僕の襟元に伸びた。
「ネクタイ、曲がってますよ」
 華奢な指先が、僕のネクタイをきゅっと締め直す。その距離、わずか数センチ。伏せられた長い睫毛が震えているのが見えた。
「……いってらっしゃい、先輩」
「ああ。行ってくる」
 店を出ると、朝の空気は冷たかった。けれど、胃の腑に落ちた珈琲の熱さと、襟元に残る彼女の残り香が、僕の背中を押していた。
2.『シンガポールの空と、動かない時計』
 それから一週間、僕はシンガポールの高層ビル群の中にいた。
 巨額のインフラ案件の入札。会議は踊り、タフな交渉が深夜まで続く。
『指マネージャー、次のアポまであと十五分です』
 部下の声に、僕は反射的に左手首を見た。
 高級ブランドの機械式時計。正確無比に時を刻んでいる。
 でも、なぜだろう。この精巧な針の動きが、今はひどく無機質に見えた。
(えまちゃんは今頃、あの静かな店にいるんだろうか)

ふと、ポケットの中でスマホが震えた。珍しく、個人的なメッセージの通知だ。
 えまからだった。
 添付されているのは、店の窓際で日向ぼっこをしている猫の写真が一枚。文章はない。
 ただそれだけなのに、張り詰めていた神経が、ふっと緩むのがわかった。
 僕は窓の外、熱帯の青すぎる空を見上げながら、親指だけで返信を打った。
『来週帰る。……診てほしい時計ができた』
 送信ボタンを押してから、僕は苦笑した。
 本当は、壊れている時計なんてない。手首にある時計は、憎らしいほど正確だ。
 ただ、彼女に会うための「口実」が欲しかった。
 その嘘は、きっと彼女に見抜かれるだろう。
 けれど、あの店主なら――優しく笑って、受け入れてくれる気がした。

3.『修理依頼』
 帰国したその足で、僕は自宅ではなく『クロノス』へ向かった。
 カウベルの音と共にドアを開けると、えまが驚いたように顔を上げる。
「おかえりなさい、指先輩。……早かったですね」
「ああ。優秀な修理師に、どうしても頼みたい案件があってね」
 僕は腕から時計を外し、カウンターに置いた。
 えまはルーペを目に当て、丁寧に時計を観察する。やがて、不思議そうな顔で僕を見た。
「先輩、この時計……どこも壊れてませんよ? 日差も許容範囲ですし、油も切れてない」
「いや、壊れてるんだ」
 僕はカウンター越しに身を乗り出し、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「この時計を見るたびに、君の顔が浮かんで仕事が手につかない。これは明らかに『故障』だろう?」
 えまがぽかんと口を開け、次の瞬間、顔を真っ赤にしてルーペを外した。
「……それは、私の専門外です」
「そこをなんとか。修理には時間がかかるんじゃないか? 例えば、今夜一杯の食事くらいの時間は」
 彼女は視線を泳がせ、それから小さな声で言った。


第4章:『重なる針、止まった時間』
「……部品の取り寄せが必要かもしれません。長期戦になりますけど、いいですか?」
「望むところだ」
 僕の言葉を聞いたえまは、ふわりと柔らかく微笑んだ。
 そして、カウンターに置かれた僕の腕時計――正確無比に動く高級品――を、そっと指先で弾いた。
「なら、まずは『検査』が必要ですね」
 彼女はカウンターから出てくると、店の入り口へ歩み寄った。
 カチャリ。
 鍵をかける音が、やけに大きく響く。ドアの札が『CLOSED』に返された。
 その背中を見つめるだけで、僕の喉が渇いた。
 振り返った彼女と目が合う。十年前の図書室の少女ではない。そこにいたのは、夜の匂いを纏った一人の大人の女性だった。
 僕たちは吸い寄せられるように距離を詰めた。
 言葉はもう、いらなかった。
 彼女の腰に手を回し、引き寄せる。華奢な体が僕の胸に預けられる。
 えまの手が、僕のジャケットの襟を掴んだ。
 最初のキスは、ウイスキーと、微かな機械油の香りがした。

図星だった。世界中を相手にタフな交渉をまとめてきた自信も、彼女の体温の前では形無しだ。

「ふふ。責任、取りますね」
 
 絹の擦れる音が、静かな店内にやけに色っぽく響く。
 ネクタイが床に落ちると、彼女は僕の手を引いて、カウンターの奥にある重厚な扉を開けた。
「こっちは、工房兼……私の部屋です」
 そこは、表の店よりもさらに濃密な、古木の香りがする空間だった。
 作業机には分解された時計の部品が散らばり、部屋の隅には小さなベッドが置かれている。
 窓から差し込む街灯の明かりが、彼女の亜麻色の髪を青白く照らしていた。
 僕は彼女を抱き上げ、ベッドに押し倒した。
 軋むスプリングの音。
 彼女のエプロンの紐を解き、その下のシャツに手をかける。露わになった鎖骨に唇を寄せると、えまが小さく喉を鳴らし、僕の背中に腕を回した。

「ん?」
「時計、外してください」
 彼女の指先が、僕の左手首をなぞる。
「今の先輩には、時間は必要ないでしょう?」
 僕は苦笑して、左腕の重たい金属の塊を外し、床に放り投げた。
 ゴト、と鈍い音がして、秒針の動きが視界から消える。
「ああ。……今の俺に必要なのは、君だけだ」
 僕たちは、空白だった十年を埋めるように、貪るように肌を重ねた。
 彼女の指には、日々の作業でついた小さなタコがあった。その硬さが、彼女が生きてきた証のようで愛おしい。
 その職人の指が僕の肌を這うたび、張り詰めていた神経が一本、また一本とほどけていく。
 壁の向こうで、無数の古時計たちが時報を打ち始めた。
 けれど今の僕には、その音がまるで遠い国の出来事のように聞こえた。
 
 ただ
 修理が必要だったのは時計じゃない。
 僕自身だったのだと、彼女の中に溶けながら僕は確信していた。

『職人の指先』
 熱を帯びたシーツの上で、えまの手が僕の頬から首筋、そして胸元へと這う。
 その感触は、記憶にあるどの女性とも違っていた。
 爪は極限まで短く切り揃えられ、マニキュアの彩りもない。
 けれど、桜貝のように磨かれた素の爪は、薄暗い部屋の中でも濡れたような光沢を放っていた。
「……ん」
 首筋を撫でられた瞬間、ゾクリとした電流が背骨を走る。
 ただ柔らかいだけじゃない。
 彼女の中指と人差し指の側面には、小さな、けれど確かな硬さがあった。
「ここ……硬いな」
 僕がその部分に唇を寄せると、えまは少し恥ずかしそうに指を丸めた。
「嫌、ですか? 毎日ピンセットを強く握るから、タコになっちゃってて……。ガサガサして、可愛くないですよね」
「いや」
 僕は彼女の手首を掴み、その硬くなった皮膚に舌を這わせた。
「ここがいいんだ」
 嘘じゃなかった。
 ミクロン単位の歯車を噛み合わせ、止まった時間を動かす指先。
 金属の冷たさと油の匂いを知り尽くしたその指は、驚くほど繊細で、同時に力強い。
 その硬い指先が、僕の肋骨を一本一本なぞるたび、商社での激務ですり減った心が、物理的に「修理」されていくような錯覚を覚える。
 まるで、僕という壊れかけた機械の不具合箇所を、指先の感覚だけで探り当てているかのようだ。
「指先輩の体……すごく凝ってますね」
 えまが愛おしげに囁き、その職人の指で、僕の背中の強張った筋肉をぐっと押した。
 痛みと快楽が同時に弾ける。
「……君にしか、直せないみたいだ」
「ふふ。特注の部品が必要ですね」
 彼女はそう言って、硬いタコのある指を、僕の髪に深く絡ませた。
 その不器用で実直な指の感触に、僕はどうしようもなく溺れていった。

続・第4章:『琥珀色の降伏』
「……君にしか、直せないみたいだ」
「ふふ。特注の部品が必要ですね」
 彼女はそう言って、硬いタコのある指を、僕の髪に深く絡ませた。
 そして、耳元で悪戯っぽく、甘く囁いた。
「ふふ……。あんなに強気な商社マンが、今は私の指先ひとつで震えてる。……可愛いですね、先輩」
 その言葉は、どんな手強い交渉相手の言葉よりも、僕の急所を鮮やかに突いていた。
 いつもは「指マネージャー」として虚勢を張り、部下を率い、弱みを見せないように生きている。
 けれど今、彼女の瞳に映っているのは、鎧を脱ぎ捨てて無防備になった、ただの男としての僕だ。
「……参ったな」
 僕は掠れた声で呟き、彼女の手のひらに頬を擦り付けた。
「えまには、一生勝てる気がしないよ」
「勝たなくていいんですよ」
 えまは僕の唇に、自身の唇を優しく重ねた。
「ここは、戦場じゃないですから」
 そのキスが合図だった。
 僕は最後の理性を手放し、彼女の温もりの中へと深く、堕ちていった。
 工房の窓の外で、夜明け前の雨が静かに降り出したことにも気づかないまま、僕たちの時間は溶け合っていった。

第5章
 目が覚めたのは、スマホのアラームの音ではなかった。
 トントントン、という軽快なリズム。
 何かを刻む音と、バターがフライパンの上で焦げる香ばしい匂い。
 重いまぶたを持ち上げると、そこはいつもの無機質なホテルの天井ではなく、木の梁(はり)が剥き出しになった工房の天井だった。
 カ

 隣に手を伸ばすが、シーツは冷たくなっていた。
 
 大きめのシャツに、昨日と同じ作業用のエプロンをつけたえまが、背中を向けて立っている。
 ボサボサの髪を適当なクリップで留め、鼻歌まじりにフライパンを揺すっている姿。
 その背中があまりに無防備で、日常的で。
 胸の奥がじんわりと熱くなった。
 僕はベッドを抜け出し、音もなく彼女の背後に近づいた。
 そっと、後ろから腕を回す。
「わっ!?」
 えまが肩を跳ねさせた。「……びっくりした。起きたんですか、先輩」

 彼女の肩に顎を乗せる。洗いたてのシャツの匂いと、コーヒーの香り。
 えまは少し困ったように、でも嬉しそうに笑って、フライパンの中身を指差した。
「冷蔵庫、あまり物がなくて。目玉焼きとトーストしかないですけど」
「最高のご馳走だよ。……いつもは、機内食かコンビニのおにぎりだから」
「ふふ。じゃあ、栄養つけないとですね」
 えまは器用に片手で卵を皿に移しながら、僕の腕をポンポンと叩いた。
「顔、洗ってきてください。コーヒー、淹れたてですから」
***
 小さな丸テーブルに向かい合って座る。
 ただ焼いただけのトースト。半熟の目玉焼き。そして、湯気を立てるマグカップ。
 窓の外からは、街が動き出す喧騒が微かに聞こえるが、この部屋の中だけは時間がゆっくりと流れている。
「いただきます」
 二人で手を合わせる。
 一口食べたトーストは、今まで食べたどの高級ブレックファストよりも美味かった。
「……ねえ、えま」
 コーヒーを啜りながら、僕は彼女を見た。
「ん?」
「俺、このまま会社に行きたくないな」
 35歳の男が吐くにはあまりに子供じみた台詞だった。
 
「ダメですよ。……稼いでもらわないと」
「え?」
「だって、この時計の修理代。ものすごく高くつきますから」
 彼女は自分の胸元をトントンと指差して、ニッコリと笑った。
 
「わかった。……働くよ。君という高級な時計を維持するためにね」
「はい。いってらっしゃい、先輩」
 彼女が焼いてくれた少し焦げたトーストの味は、僕の体に温かな活力として染み渡っていった。
 世界は相変わらず忙しい。けれど、帰るべき場所があるというだけで、これほどまでに足取りは軽くなるのだ。

第6章:『狂い始めた歯車』
 その辞令が下ったのは、えまと恋人になってから二ヶ月が過ぎた頃だった。
 季節は冬に向かい、街路樹が葉を落とし始めた、冷たい雨の降る午後。
「……ロンドン、ですか?」
 高層オフィスの役員室。
 部長の言葉に、僕は声を上擦らせた。
「ああ。欧州統括本部のマネージング・ディレクターだ。栄転だよ、指くん。期間は最低でも五年。そのまま向こうの役員になる可能性も高い」
 部長は満面の笑みで、分厚いファイルをデスクに置いた。
 三ヶ月前の僕なら、ガッツポーズをしていただろう。キャリアのゴールデンルート。年収も跳ね上がるし、何より世界の中枢で戦える。
 けれど、今の僕の脳裏に浮かんだのは、ロンドンの街並みではなく、薄暗いアンティークショップの奥で、ルーペを覗き込むえまの横顔だった。
「……返事は、来週明けでいいかね? まあ、断る理由なんてないだろうが」
「……はい。ありがとうございます」
 僕は乾いた笑みを浮かべて、頭を下げた。
 左手首の時計が、チチチチ……と、いつもより早く時を刻んでいる気がした。
***
 その日の夜、僕は約束通り『クロノス』へ向かった。
 店に入ると、いつものようにジャズが流れ、えまがカウンターで書き物をしていた。
「いらっしゃいませ。……あ、指先輩」
 彼女は顔を上げると、すぐに眉をひそめた。職人の目は誤魔化せない。
「……何か、ありましたね?」
「わかるか?」
「わかりますよ。先輩、眉間のシワが深くなってます。それに……歩き方のリズムが、いつもより乱れてる」
 僕は苦笑して、カウンター席にどかりと座った。
 彼女は何も聞かず、黙っていつものウイスキーをロックで出した。
 琥珀色の液体が喉を焼く。その熱さを借りて、僕は口を開いた。
「辞令が出たんだ」
「……はい」
「ロンドンだ。来月から。……期間は、五年」
 店内から音が消えた気がした。
 無数にある古時計の秒針の音さえ、今は聞こえない。
 えまの手が、グラスを拭く動きを止めた。
「五年……ですか」
「ああ。今のプロジェクトよりも遥かにでかい仕事だ。俺がずっと、目指していた場所だ」
 自分に言い聞かせるように、僕は言った。
 えまはゆっくりと視線を落とし、カウンターの木目を指でなぞった。
「おめでとうございます、先輩。……夢、叶うんですね」
 その声は穏やかだった。けれど、彼女の指先が微かに白くなるほど、カウンターを強く押しているのを僕は見逃さなかった。
「えま」
 僕は彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
「ついて来てくれないか」
 言ってしまった。
 彼女がこの店を、この場所をどれだけ大切にしているかを知っていながら。
 えまがハッとして顔を上げる。その瞳が揺れていた。
「……私は」
 彼女は視線を店内の古時計たちに向けた。動かない柱時計、修理待ちの置時計、そして祖父から受け継いだというこの店。
「私は、ここを離れられません。……この子たちを置いて、いけません」
 わかっていた答えだった。
 彼女は時間を守る人だ。過去を修復し、この場所で誰かの思い出を守り続けている。
 世界を飛び回る僕とは、生きる速度も、場所も違いすぎる。
「そうだよな……」
 僕の手から、彼女の体温が離れていく。
「五年の遠距離恋愛なんて、今の俺たちにできると思うか?」
 僕の問いに、えまは寂しげに微笑んだ。
「……時計なら、どんなに離れていても、同じ時間を刻めますけどね」
 その夜のウイスキーは、今まで飲んだどんな酒よりも苦く、そして冷たかった。
 狂い始めた二人の歯車。
 修理するには、あまりにも距離が遠すぎた。

第7章:『一億五千万秒の契約』
 
 「ついて来てほしい」という僕の提案は、彼女の人生を否定する『エラー』だったのだと、痛いほど理解できた。
(……諦めるしかないのか?)
 ロンドンへの栄転は断れない。彼女も店を離れられない。
 論理的に考えれば、答えは「破局」だ。商談なら、ここで交渉決裂として席を立つ場面だ。
 
 ふと、カウンターの奥にある作業机が目に入った。
 そこには、分解されたままの古い時計と、彼女が使い込んでいる工具たちが並んでいる。
『部品さえ残っていれば、いつだって直せますよ』
 出会った夜の、彼女の言葉が蘇る。
 僕はハッとして顔を上げた。
 そうだ。既存の部品(選択肢)が噛み合わないなら、新しい部品を作ればいい。
 僕は商社マンだ。不可能を可能にするスキームを組むのが仕事じゃないか。
「……えま」
 僕は静かに、しかし力強く彼女の名を呼んだ。
「訂正させてくれ。さっきの提案は間違っていた」
 えまが悲しげに顔を上げる。
「……指先輩。私、先輩の邪魔はしたくないんです。だから――」
「違う。そうじゃない」
 僕は彼女の言葉を遮り、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 電卓アプリを起動し、素早く数字を打ち込む。
「五年。日数にして約1825日。秒数に換算すると、約一億五千七百万秒だ」
 えまがキョトンとして僕を見る。
「……何の話ですか?」
「俺たちが離れ離れになる時間だ。……気が遠くなる数字だよな」
 僕はスマホを置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「でも、この一億五千七百万秒を耐え抜くための『契約』があれば、話は別だ」
「契約……?」
 
 そして、彼女の左手――職人のタコがある、愛おしい手を取った。
「結婚しよう」
 えまの瞳が大きく見開かれた。
 時が止まる。店中の時計が息を潜めたようだった。
「ロンドンには一人で行く。君はここに残って、店と時計を守ってくれ。俺は向こうで死に物狂いで働いて、最短で結果を出して帰ってくる」
 それは、あまりに身勝手で、都合のいい提案かもしれない。
 けれど、僕の言葉は止まらなかった。
「ただの恋人じゃ、五年という距離と時間に負けるかもしれない。不安で押しつぶされるかもしれない。……だから、法的な、絶対的な『鎖』が欲しいんだ」
 僕は彼女の手を強く握りしめた。
「俺の帰る場所がここにあると、証明してほしい。……俺の妻として、待っていてくれないか」
 
 彼女は泣き笑いのような表情で、僕の手を握り返してくる。
「……先輩って、本当に強引で、計算高いですね」
「商社マンだからな。……この案件、受けてくれるか?」
 えまはカウンターから出てくると、僕の胸に飛び込んできた。
 その衝撃と温かさ。
「はい……。喜んで、お受けします」
 彼女の声が震えている。
「でも、条件があります」
「なんだ? なんでも聞くよ」
「五年後、帰ってきたら……一億五千七百万秒分のキスで、埋め合わせてくださいね」
 僕は彼女の背中を抱きしめ、髪にキスを落とした。
「ああ。約束する。……利子をつけて返すよ」
 雨音にかき消されるように、僕たちは誓いのキスをした。
 こうして、僕たちの「エラー」は修復された。
 未来という名の、新しい歯車が回り始めたのだ。

最終章:『一億五千万秒の果てに』

1.出発の朝、左手の誓い
 成田空港の出発ロビーは、慌ただしい足音とアナウンスの声で満ちていた。
 搭乗時刻が迫る。
 僕はコートの襟を立て、目の前に立つえまを見た。
「……そろそろ、行くよ」
「はい。気をつけて」
 えまは泣かなかった。
 ただ、その瞳は潤み、少し赤くなっていたけれど、職人としての意地なのか、妻としての気丈さなのか、精一杯の笑顔を作っていた。
 
 薬指には、昨日二人で選んだプラチナのリングが光っている。
 毎日工具を握る彼女の邪魔にならないよう、装飾のないシンプルなデザインだ。
「その指輪、作業の時は外すんだぞ。傷つくから」
「嫌です。……傷がついたら、それも二人の歴史にします」
 えまは強気に言い返すと、僕の左手も強く握り返した。
 僕の指にも、対になるリングがある。
「行ってらっしゃい、あなた。……時計の針は、私が守っておきますから」
「ああ。行ってくる」
 軽く抱き合うことしかできなかった。
 本当はずっと離したくなかった。けれど、これは「未来」のための出発だ。
 僕は背を向け、ゲートへと歩き出した。一度だけ振り返ると、彼女は小さく手を振っていた。その姿が人混みに消えるまで、僕はその残像を目に焼き付けた。

2.画面越しの時差(タイムラグ)
 ロンドンの冬は長く、暗い。
 赴任から三年が過ぎた頃、僕はテムズ川沿いのアパートメントで、一人パソコンの画面に向かっていた。
『あ、指先輩……ううん、あなた。顔色、悪いですよ?』
 画面の向こう、東京は朝の九時。
 開店前の準備をしているえまが、心配そうに画面を覗き込んでいる。
 通信状況が悪く、彼女の声がワンテンポ遅れて届く。画質も粗い。
 それでも、彼女の姿を見られるこの数分間だけが、僕の生命線だった。
「大丈夫だ。ちょっと決算期で忙しくてな。……そっちはどうだ?」
『こっちは平和ですよ。あ、そうそう。近所の猫がまた子供を産んで……』
 彼女が楽しそうに話す日常の些細な出来事。
 画面越しに、彼女がコーヒーを飲むのが見える。
 手を伸ばせば触れられそうなのに、そこには冷たい液晶があるだけだ。
 九
(会いたい)
 言葉にすれば崩れてしまいそうで、僕はコーヒーを流し込んだ。
 ふと、えまが画面に左手をかざした。
 プラチナの指輪は、無数の細かい傷で曇っていた。けれど、それは新品の時よりも美しく、鈍い銀色の輝きを放っている。
『あと二年。……秒数で言うと、あと六千三百万秒です』
 彼女が笑う。

 その笑顔に、僕は救われていた。
 離れていても、僕たちの時間は確かに繋がっている。
3.秒針が重なる日
 そして、約束の五年が経った。
 季節は巡り、東京は柔らかな春の雨に包まれていた。
 路地裏のジャズ喫茶『クロノス』。
 カウベルの音が、カランコロンと鳴り響く。
「いらっしゃいませ。あいにくのお天気で……」
 カウンターの奥で、えまが顔を上げた。
 五年という月日は、彼女をさらに美しくしていた。目尻の笑い皺も、少し落ち着いた雰囲気も、すべてが愛おしい。
 僕は濡れたコートを脱ぎながら、ゆっくりとカウンターに近づいた。
「……ただいま、えま」
 えまの動きが止まった。
 持っていたペンが、カタンと床に落ちる。
 
「おかえりなさい……っ!」
 勢いよくぶつかってきた彼女を、僕は全力で受け止めた。
 懐かしい匂い。確かな体温。
 画面越しではない、本物の彼女がここにいる。

 僕の胸に顔を埋め、えまが泣いている。
 僕は彼女の背中を撫で、左手を取った。
 指輪は傷だらけで、彼女の指先は相変わらず硬いタコがあった。その感触に、涙が出そうになった。
「約束、覚えてるか?」
 僕は震える声で尋ねた。
 えまは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、悪戯っぽく笑おうとした。
「……一億五千七百万秒分の、利子ですよね?」
「ああ。一生かけても返しきれないかもしれないけど」
 僕は彼女の頬を包み込み、深く、長いキスをした。
 店中の
 ボーン、ボーンと重なる鐘の音が、僕たちの再会を祝福しているようだ。
 止まっていた僕たちの時間が、今、再び動き出す。
 ここからはもう、時差も距離もない。
 同じ屋根の下、同じ速さで、最期の瞬間まで共に歩んでいくのだ。
 雨上がりのアスファルトの匂いと、愛する人のコーヒーの香り。
 僕の長い旅は、この場所でようやく終わりを告げた。
(以上)