第一章 夏の始まり

 高校最後の夏は、思っていたよりも静かに始まった。
 進路の話も、将来の不安も、全部が宙ぶらりんのまま、蝉の声だけがやけに現実味を帯びていた。

 指――それが僕の名前だ。十八歳。
 子どもでもなく、大人とも言い切れない年齢。
 その曖昧さを持て余していた僕は、家から少し離れた古い商店街を、目的もなく歩いていた。

 彼女と出会ったのは、そのときだった。

 小さな喫茶店の前で、立ち止まってメニューを見ている女性。
 派手な服装ではないのに、なぜか視線が離れなかった。
 落ち着いた仕草と、少し疲れたような横顔が、夏の光の中で浮かび上がって見えた。

「……あの」

 声をかけたのは、ほとんど反射だった。
 理由なんてなかった。ただ、通り過ぎてしまうのが惜しかった。

 彼女は少し驚いた顔で振り向き、すぐに柔らかく笑った。

「なに?」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥が微かに揺れた。
 後になって思えば、あれがすべての始まりだったのだと思う。

 彼女の名前は、えま。二十五歳。
 そしてこの夏は、僕にとって一生忘れられない数日間になる。

第二章 彼女の目に映ったもの

 ――声をかけられるなんて、思っていなかった。

 えまは、メニュー表から視線を上げて、少年を見た。
 少し緊張した肩、迷いのある目。けれど、逃げない。
 この年頃の男の子特有の、不器用なまっすぐさ。

「なに?」

 そう返した自分の声が、思ったより柔らかくて、少しだけ驚いた。
 警戒よりも先に、懐かしさが来てしまったのだ。

「この店……おすすめですか」

 たどたどしい言い方。
 それだけで、彼が慣れていないことが分かる。

「うん。静かだし、コーヒーもちゃんとしてる」

「じゃあ……入ってみようかな」

 彼はそう言って、少し間を置いた。

「あの、一人ですか」

 えまは一瞬考えてから、首を横に振った。

「今はね。よかったら、一緒に入る?」

 誘ったのは衝動だった。
 理由をつけるなら、暑さのせい。あるいは、彼の目があまりにも正直だったから。

 店内は冷房が控えめで、外の夏をまだ引きずっていた。
 向かいに座った彼は、メニューを開いたまま固まっている。

「……緊張してる?」

「はい。あ、いえ……たぶん」

 正直だな、とえまは思った。

「名前、聞いてもいい?」

「指です。ゆび。十八です」

 年齢まで言うとは思わず、えまは小さく笑った。

「私はえま。二十五」

 その数字を聞いた瞬間、彼の表情がわずかに変わる。
 戸惑いと、興味と、引いてはいけない一線を同時に見つけた顔。

「高校生?」

「はい。もうすぐ卒業です」

「そっか。じゃあ、この夏は特別だね」

 指は少し考えてから、ゆっくりうなずいた。

「……たぶん、そうだと思います」

 その言葉に、えまの胸の奥がわずかに疼いた。
 彼はまだ、言葉の意味を全部は知らない。
 でも、その予感だけは、ちゃんと持っている。

 この出会いが、ただの偶然で終わらないことを。
 えまは、そのときすでに、薄々感じていた。

第三章 理由と、揺れる心

 コーヒーが運ばれてきて、少しだけ沈黙が落ちた。
 その沈黙が気まずいというより、壊してはいけないもののように感じられて、僕はカップに手を伸ばすタイミングを逃した。

「ねえ」

 えまさんが、窓の外を見たまま言った。

「どうして私が、この街にいるか、気になる?」

 突然の問いに、心臓が一つ強く打った。

「……はい」

 即答してしまった自分に驚く。
 でも嘘はつけなかった。

 えまさんは少しだけ笑って、それから視線を僕に戻した。

「逃げてきたの」

「逃げて……?」

「うん。仕事と、人間関係と、あと……自分から」

 軽く言ったようで、その言葉は重かった。
 僕は何も言えず、ただ聞くことしかできない。

「ずっと都会にいたんだけど、急に全部が嫌になって。
 昔、少しだけ住んだことのあるこの街を思い出してね」

 そう言って、えまさんはコーヒーを一口飲んだ。

「大人になるとさ、理由がなく動くのって、すごく勇気がいるの」

 その言葉が、胸に刺さった。
 僕は理由なんてなくても、毎日を浪費しているのに。

「指くんは?」

「……僕ですか」

「この夏、なにから逃げてる?」

 逃げている、という言い方に、言葉が詰まる。

「逃げてるつもりは……ないです。でも」

 高校、進路、期待、将来。
 全部が重なって、うまく言葉にできない。

「大人になるのが、怖いです」

 口にした瞬間、自分がとても子どもに思えた。
 でも、えまさんは否定しなかった。

「うん。そうだよね」

 ただ、それだけ。

 その肯定が、妙に胸を締めつけた。

 この人は、大人だ。
 僕がこれから入っていく世界を、すでに一度、壊している。

 なのに、なぜだろう。
 その距離が怖いのに、近づきたいと思ってしまう。

「……僕」

 声が少し震えた。

「えまさんと会えて、よかったって思ってます」

 重すぎるかもしれない。
 早すぎるかもしれない。
 それでも、今の正直だった。

 えまさんは一瞬、目を伏せてから、静かに笑った。

「それは、ずるいな」

 その言葉の意味を、僕はまだ知らない。
 でも、この数日間が、ただの思い出では終わらないことだけは、確信していた。


第四章 夕暮れの距離

 喫茶店を出ると、陽はもう傾き始めていた。
 昼間の熱を残したまま、街は少しだけ静かになっている。

「歩こっか」

 えまさんがそう言って、自然に前を歩き出す。
 僕は半歩遅れて、その背中を追った。

 並んで歩いているはずなのに、妙に緊張していた。
 腕が当たらないように気をつけているのに、意識すればするほど距離が分からなくなる。

「この街、変わってないな」

「前に住んでたって言ってましたよね」

「ほんの少しだけ。でも、こういう夕方の感じは覚えてる」

 商店街のシャッターがいくつか閉まり、遠くで自転車のベルが鳴る。
 夏の終わりを先取りしたような空気。

「指くんは、この街、好き?」

 急に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

「……好き、だと思います。
 出たいって思うこともありますけど」

「うん。分かる」

 えまさんは、僕の方を見ずに言った。

「嫌いじゃない場所ほど、離れたくなるよね」

 その言葉が、妙に大人で。
 同時に、少しだけ寂しそうで。

 横を見ると、えまさんの手が、すぐそこにあった。
 触れようと思えば、触れられる距離。

 でも、触れていい理由が見つからない。

 信号で立ち止まったとき、風が吹いて、えまさんの髪が揺れた。
 一瞬、こちらに流れてきた香りに、頭が真っ白になる。

「暑いね」

「……はい」

 それだけの会話なのに、喉が渇く。

 信号が変わって、また歩き出す。
 そのとき、えまさんの指が、僕の手にほんの少しだけ触れた。

 偶然だ。
 そう分かっているのに、心臓がうるさくなる。

 えまさんは何も言わず、歩く速度をわずかに落とした。
 それに合わせて、僕も歩幅を小さくする。

 距離は、言葉よりも正直だった。

 この夕方が、いつまでも続けばいい。
 そんなことを思ってしまう自分が、少し怖くて、でも嬉しかった。


第五章 一線の向こう側

 夕暮れの色が、少しずつ夜に溶け始めていた。
 さっきまで同じ速度で歩いていたはずなのに、気づくと、えまさんは半歩前に出ていた。

 あれ、と思った。
 さっきまで、あんなに近かったのに。

「……そろそろ、ここで」

 えまさんが立ち止まったのは、駅へ向かう分かれ道だった。

「もう、帰るんですか」

 声が、思ったより低くなった。
 引き止めたい気持ちを、隠しきれていない。

「うん」

 えまさんは、ちゃんと僕の目を見て言った。

「今日は、ここまで」

 その言い方が、やけにきっぱりしていて、胸がざわつく。

「何か、悪いこと言いましたか」

「違うよ」

 少し困ったように笑って、それから真面目な顔になる。

「指くんが、悪いんじゃない」

 沈黙。
 
夏の虫の声が、やけに大きく聞こえる。

「……私ね」

 えまさんは、言葉を選ぶように一度息を吸った。

「大人だから」

 その一言が、境界線みたいに空気を変えた。

「楽しいからって、曖昧なまま近づくのは、だめなんだと思う」

 分かる。
 理屈としては、全部分かる。

 でも、感情はそんなに簡単じゃない。

「指くんは、まだこれからいくらでも選べる」

 そう言われた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 “まだ”
 その言葉が、僕をこの場から遠ざける。

「……じゃあ」

 何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。

 えまさんは、一歩、下がった。
 物理的な距離が、そのまま心の距離になるみたいで、怖くなる。

「今日は、ありがとう」

 丁寧すぎる言葉。
 それはもう、“特別”じゃない響きだった。

 でも、去り際に、えまさんは一瞬だけ立ち止まった。

「……今日のこと、後悔はしてない」

 それだけ言って、今度こそ背を向ける。

 僕は、その背中を呼び止められなかった。

 大人になるって、こういうことなんだろうか。
 触れられたはずの距離を、自分で遠ざけること。

 胸に残った温度だけが、さっきまでの時間が夢じゃなかったことを、静かに証明していた

第六章 夜に残ったもの(えま視点)

 宿に戻ってから、シャワーを浴びても、気持ちは切り替わらなかった。
 鏡に映る自分の顔は、いつもと同じはずなのに、どこか落ち着きがない。

 ――やっぱり、距離を取るべきだった。
 そう思ったから、そうした。

 それなのに。

 ベッドに腰を下ろすと、ふいに思い出す。
 夕暮れの光。
 少し緊張した横顔。
 触れそうで触れなかった、あの一瞬の距離。

「……ばかだな」

 誰に向けた言葉かも分からないまま、えまは小さく呟いた。

 十八歳。
 まだ未来の途中にいる年齢。
 自分が関わっていい相手じゃない。

 理屈は、全部そろっている。

 なのに、胸の奥が、すこしだけ痛む。

 彼の目には、打算がなかった。
 好奇心でも、下心でもなく、ただまっすぐにこちらを見ていた。

 それが、怖かった。

 もし、あのまま歩いていたら。
 もし、連絡先を交換していたら。
 もし、もう少しだけ近づいていたら。

 「もし」が、次々に浮かんでくる。

 大人は、後悔しない選択をするんじゃない。
 後悔すると分かっていても、選ばなければならない道を選ぶだけ。

 それでも。

 彼の名前を、心の中でそっと呼んでしまう。

 指くん。

 呼んだところで、何も変わらないのに。

 窓の外では、夜の街が静かに息をしていた。
 この街に逃げてきた理由は、忘れたはずだったのに。

 ――あの子に会うためだったんじゃないか。

 そんな考えが浮かんで、えまは慌てて首を振る。

 違う。
 偶然だ。
 意味を持たせてはいけない。

 それでも、心のどこかで分かっている。

 今日の別れ方は、正しかった。
 でも、少しだけ――残酷だった。

 眠りにつく直前まで、えまの胸には、夕方の温度が残り続けていた。

第七章 触れなかった理由(えま視点)

 眠ろうとしても、目を閉じるたびに、あの横顔が浮かんだ。
 夕暮れの中で、何かを必死に言葉にしようとしていた、あの目。

 ――だめ。

 そう思えば思うほど、意識は逆の方へ引き寄せられていく。

 年下。
 未完成。
 触れてはいけない存在。

 分かっているのに、想像は簡単に一線を越えてくる。

 もし、あのとき立ち止まらなかったら。
 もし、あの距離のまま、夜まで一緒にいたら。

 考えるだけで、胸の奥が熱を持った。

「……最低」

 自分に向けた言葉だった。

 彼は何もしていない。
 ただ、まっすぐに見ていただけだ。

 それなのに、こんなふうに心を乱されるなんて。

 えまは、布団の中で小さく丸くなる。
 身体よりも先に、感情が限界を迎えていた。

 欲しかったのは、触れ合いじゃない。
 あの目に、もう一度見つめられること。
 必要とされていると、錯覚してしまうこと。

 大人になって、忘れたはずの衝動。

 それを思い出させた彼を、これ以上近づけてはいけない理由が、
 皮肉なほど、はっきりしてしまった。

 ――だから、距離を取った。

 それが正解だと、何度も言い聞かせながら、
 えまは、静かに夜をやり過ごした。

 残ったのは、満たされなさと、確かな後悔。

 そして、翌日になっても消えなかった、彼の名前だった。

第八章 勘違いという名前の距離(指視点)

 その夜、ほとんど眠れなかった。

 えまさんの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

――今日は、ここまで。
――私は、大人だから。

 それは拒絶じゃない。
 そう思おうとした。

 でも、時間が経つほど、別の意味に聞こえてくる。

 「子どもとは、ここまで」
 「それ以上は、相手にしない」

 そう言われた気がして、胸の奥がじわじわと痛んだ。

 僕は、何か勘違いをしていたんじゃないか。

 あの距離。
 あの空気。
 あの、触れそうで触れなかった瞬間。

 全部、僕の思い上がりだったんじゃないか。

「……ばかだな」

 えまさんと同じ言葉を、同じ夜に、僕も呟いていた。

 大人の人は、優しい。
 優しいから、線を引ける。

 それを、僕は「特別」だと勘違いした。

 朝になっても、気持ちは整理できなかった。
 スマホを開いても、連絡先なんてない。
 最初から、続くはずのない関係だったんだ。

 商店街を歩きながら、ふと、昨日の喫茶店の前で立ち止まる。

 期待してるわけじゃない。
 ただ、確認したかっただけだ。

 ――やっぱり、いない。

 それが答えみたいで、胸が静かに沈んだ。

 僕は、えまさんにとって
 「少し話した、年下の男の子」
 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 だったら。

 だったら、あの一瞬の気持ちは、全部しまっておこう。

 高校最後の夏。
 何も起きなかった夏。

 そうやって名前をつければ、きっと楽になる。

 ……はずだった。

 でも、胸の奥に残った違和感だけは、
 どうしても消えてくれなかった。

第九章 夜の整理(指視点)

 部屋の電気を消すと、昼間よりも考えごとははっきりした。
 静かすぎる夜は、心の奥に触れてくる。

 えまさんの声。
 歩く速度。
 目が合ったときの、あの一瞬。

 思い出してはいけないと思うほど、輪郭が濃くなる。
 胸の内側が熱を持って、どうしようもなく落ち着かない。

 これは、恋なんだろうか。
 それとも、ただの憧れか。

 答えの出ない問いを抱えたまま、僕は目を閉じた。
 呼吸を整えようとしても、鼓動が邪魔をする。

 誰にも言えない気持ち。
 行き場のない衝動。

 それを、ただ静かにやり過ごすしかなかった。

 時間が過ぎるにつれて、胸のざわめきは少しずつ形を変えていく。
 熱は引いて、代わりに残ったのは、空白のような感覚だった。

 天井を見つめながら、思う。
 近づきたかった。
 でも、近づけなかった。

 それだけのことなのに、世界が少し変わってしまった気がした。

 眠りに落ちる直前、えまさんの名前が浮かぶ。
 すぐに消えて、何も残らない。

 それでいい。
 今夜は、それでいい。

 そう自分に言い聞かせて、僕はようやく目を閉じた。
 けれど、視界を閉ざしたことで研ぎ澄まされた感覚は、眠りへと落ちてはくれなかった。シーツの擦れる音、自分の呼吸、そして下腹部に集まり始めた重たい熱。 
 僕はため息を一つ吐くと、ゆっくりと手を下着の中へと滑り込ませた。指先に触れた自身の分身は、心の静けさとは裏腹に、すでに脈打ち、硬く張り詰めていた。    
 瞼の裏に、誰の顔も思い浮かべないように努めた。ただ快楽だけを抽出するように、無機質に、一定のリズムで手を動かす。
 
「ん、く……」
 
 喉の奥から漏れる吐息が、熱を帯びていく。今はただ、この昂りの果てにある、気絶にも似た深い眠りが欲しかった。

 だが、闇の中に浮かび上がってきたのは、今日あきらめたはずのあの人の笑顔だった。
 
 布団の中で膝を立て、僕は渇きを癒やすように竿を擦り上げた。

 頭では拒絶していても、身体は正直に快楽を貪っている。瞼の裏の彼女に触れるつもりで、きつく、激しく手を動かす。
 亀頭が擦れる鋭い刺激に、背筋が震えた。空想の中の彼女が僕の名前を呼ぶ。その幻聴だけで、僕は限界まで追いつめられていく。
「はっ、あ……」
 短い呼気と共に腰が浮く。今夜だけは、この惨めで甘美な慰めに溺れてもいいはずだ。


第十章 朝の輪郭、再会の違和感

 朝の光は、昨夜よりもはっきりしていた。
 カーテンの隙間から差し込む陽が、部屋の中の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。

 目を覚ました瞬間、胸は不思議と静かだった。
 あれほど騒がしかった感情が、どこか奥に収まっている。

 全部が解決したわけじゃない。
 でも、昨日までとは違う。

 鏡の前に立つと、そこにいるのは昨日と同じ顔のはずなのに、
 少しだけ、視線が落ち着いて見えた。

 ――分かった気がした。

 大人になるって、何かを得ることじゃなくて、
 飲み込むことなんだ。

 期待とか、勘違いとか、
 言えなかった言葉とか。

 それを、ちゃんと自分の中にしまうこと。

 午前中、用事もないのに街に出た。
 理由は考えなかった。
 考えなくても、足が向かっていた。

 そして、角を曲がったところで――

「あ」

 同時に声が出た。

 えまさんは、昨日と同じような服装で、
 でも、どこか疲れた顔をしていた。

 一瞬、時間が止まる。

「……おはよう」

 えまさんが先に言った。

「おはようございます」

 自分の声が、思ったより落ち着いていて、少し驚く。

 えまさんは、じっと僕の顔を見た。
 昨日と同じようで、違う何かを探すみたいに。

「……なんか」

 言いかけて、言葉を選び直す。

「雰囲気、変わった?」

 胸が、静かに鳴った。

「そう、ですか」

「うん」

 えまさんは小さく笑ったけれど、その目は笑っていなかった。

「昨日より、ちゃんとしてる」

 それは褒め言葉にも、距離を測る言葉にも聞こえた。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

「……昨日は、すみませんでした」

 自分でも意外な言葉が、口から出る。

「変な勘違い、してたかもしれなくて」

 えまさんの表情が、一瞬だけ揺れた。

「指くん」

 名前を呼ばれる。

「勘違いじゃないよ」

 でも、その続きを、えまさんは言わなかった。

 言わなかったこと自体が、答えみたいだった。

 昨日より少し遠くて、
 でも、ちゃんと同じ高さに立っている。

 その感覚が、胸の奥に静かに残った。

 この夏は、まだ終わっていない。
 そんな予感だけが、確かにそこにあった。


第十一章 言葉にならなかった理由、残された時間

 並んで歩く距離は、昨日よりも少しだけ広かった。
 でも、不思議と、遠くは感じなかった。

「少しだけ、時間ある?」

 えまさんが言った。
 “少しだけ”という言葉に、ちゃんと線が引かれているのが分かる。

「はい」

 短い返事で十分だった。

 川沿いの遊歩道は、夕方の影を長く伸ばしていた。
 風が涼しくて、夏が終わりに向かっていることを、はっきりと知らせてくる。

「昨日ね」

 えまさんが、前を見たまま口を開いた。

「距離を取った理由、ちゃんと話そうと思ってた」

 胸が、静かに強く鳴る。

「……でも」

 言葉が途切れた。
 えまさんは、ほんの一瞬だけ、僕の方を見て、それから目を逸らした。

「やめとく」

「どうしてですか」

 問いかけた声は、思ったより落ち着いていた。
 引き止めるためじゃない。ただ、知りたかった。

「今、言うとね」

 えまさんは、少し困ったように笑った。

「指くんを、縛る気がする」

 その言い方が、優しすぎて、胸の奥が痛んだ。

 しばらく、二人とも黙って歩いた。
 靴音だけが、一定のリズムで続く。

「この街、もうすぐ離れるの」

 不意に告げられる。

「夏が終わる前には」

 分かっていたはずのことなのに、
 実際に言葉になると、現実味が違った。

「……そっか」

 それ以上、言葉が出なかった。

 川面に反射する夕焼けが、ゆっくりと色を変えていく。
 この時間も、同じように消えていく。

「だから」

 えまさんが、立ち止まった。

「今日も、ここまで」

 昨日と同じ言葉。
 でも、響きは違った。

 僕は、少し考えてから、うなずいた。

「分かりました」

 それが、今の僕にできる、精一杯の選択だった。

 えまさんは、少し驚いた顔をして、それから小さく息を吐いた。

「……大人になったね」

「なりたてです」

 そう返すと、えまさんは、ちゃんと笑った。

 別れ際、ほんの一瞬だけ、視線が絡む。
 触れない。
 踏み込まない。

 でも、確かに、互いを選んでいる。

 夏は、終わりに向かっている。
 このまま何も言わずに終わらせるのか。
 それとも、最後に一歩、踏み出すのか。

 その選択は、もう、目の前まで来ていた。

最終章 選ばれた言葉、遅れてきた理由

 夏の終わりは、音もなくやってきた。
 空は高くて、風だけが少し冷たい。

 最後の日だと、二人とも分かっていた。
 だから、約束はしなかった。
 それでも、同じ時間、同じ場所に立っていた。

「今日で、戻るの?」

 僕が聞くと、えまさんは小さくうなずいた。

「うん。夜の電車で」

 それだけで、十分だった。

 少し歩いて、駅の近くまで来る。
 人の流れが多くなって、現実が戻ってくる。

 ここから先は、一緒には行けない。

 胸の奥で、何かが静かに決まった。

「えまさん」

 自分の声が、驚くほど落ち着いていた。

「好きでした」

 過去形にしたのは、逃げじゃない。
 今の自分で選んだ、形だった。

 えまさんは、立ち止まった。
 すぐには振り向かない。

「……ありがとう」

 その声が、少しだけ震えた。

「でも、それだけは言っておきたくて」

 僕は続ける。

「えまさんが距離を取った理由、
 たぶん、僕を下に見たからじゃないって、今は分かります」

 えまさんが、ゆっくりとこちらを見る。

「だから」

 息を吸う。

「後悔してません。
 この夏が、これで終わっても」

 しばらく、沈黙。

 それから、えまさんが、ようやく口を開いた。

「……本当の理由ね」

 空を見上げる。

「近づいたら、私の方が壊れるって、分かってた」

 その言葉は、静かだった。

「指くんは、これから先、ちゃんと前に進ける。
 でも私は、一緒にいたら、そこに甘えてしまう」

 一瞬、笑う。

「大人って、ずるいでしょ」

 胸が、きゅっと締まる。

「触れなかったのは、理性のためじゃない。
 本当は……離れない自信が、なかった」

 それが、答えだった。

 電車のアナウンスが、遠くで鳴る。

「もう、行かないと」

 えまさんが言う。

 僕は、うなずいた。

「行ってください」

 引き止めない。
 それが、僕の選択だった。

 えまさんは、一歩近づいて、でも、触れずに止まる。

「ありがとう」

 それは、大人から子どもへじゃない。
 同じ高さで交わされた言葉だった。

 えまさんは背を向けて、改札へ向かう。
 振り返らない。

 僕も、追わなかった。

 高校最後の夏。
 何も起きなかったと言えば、そうかもしれない。

 でも、確かに、僕はここで一歩、大人になった。

 選ばなかったことも、
 言えた言葉も、
 全部含めて。

 それが、この夏の答えだった。


終章前 止まった夜

 改札の向こうに、えまさんの背中が消えかけた、そのときだった。

 構内アナウンスが、妙に硬い声で流れる。

「ただいま、発生した列車トラブルの影響で――」

 言葉の続きを聞く前に、周囲がざわついた。
 スマホを確認する人、駅員に詰め寄る人。

 えまさんが、足を止める。

 しばらくして、もう一度アナウンス。

「事故の影響により、本日の運転再開は未定です」

 未定。
 その二文字が、空気を変えた。

 えまさんは、ゆっくり振り返った。
 さっきとは違う、迷いのある目。

「……帰れなくなった」

 それは事実の報告のはずなのに、
 どこか、理由みたいに聞こえた。

「どうしますか」

 僕が聞くと、えまさんは一瞬だけ黙った。

「……今日だけ」

 そう言ってから、言い直す。

「今日“は”、一緒にいてもいい?」

 制限付きの距離。
 それを守ろうとしていた人の言葉とは思えなかった。

 夜の街は、思いがけず二人を受け入れた。
 終電を逃した人たちのざわめきの中で、
 僕たちは、並んで歩いた。

 さっき別れたはずなのに、
 戻ってきたみたいだった。

「指くん」

 コンビニの前で、えまさんが立ち止まる。

「……さっきの言葉」

「はい」

「本当はね」

 言いかけて、今度は止まらなかった。

「もし事故がなくても、
 私、たぶん……もう一度、あなたのところに戻ってた」

 胸の奥が、強く鳴る。

「それでも、行かせますか」

 問いは、ずるかったかもしれない。

 えまさんは、少し笑って、でも目は逸らさなかった。

「行かない理由を、探してたんだと思う」

 風が吹いて、夜の匂いがした。

 選択は、まだ終わっていない。
 夏も、完全には終わっていない。

 止まった列車の代わりに、
 動き出してしまったものが、確かにあった。

最終章 越えてしまった線

 夜は、思っていたよりも静かだった。
 列車が止まった街は、行き場を失った人たちを、淡々と受け入れている。

 宿に戻る、という選択肢もあった。
 でも、えまさんは、そうしなかった。

「……少し、座ろうか」

 川沿いのベンチ。
 街灯の光が、水面に揺れている。

 並んで座ると、肩と肩の距離が、あまりにも近いことに気づく。
 さっきまで守っていた線が、もう意味を持たない距離。

「指くん」

 名前を呼ばれて、僕は黙ってうなずいた。

「今日だけは……大人でいるの、やめてもいい?」

 それは、許可を求める言葉じゃなかった。
 確認だった。

 僕は、考えなかった。
 考える時間は、もう終わっていた。

「……はい」

 それだけで、十分だった。

 えまさんの手が、僕の袖に触れる。
 引き寄せる力は、強くない。
 それでも、逃げる理由は消えていた。

 視線が近づいて、呼吸が重なる。
 触れてはいけないと分かっていた距離を、
 今度は、二人で越えた。
唇が離れると、川面を渡る風の冷たさが急に肌を刺した。けれど、身体の芯には重たい熱が残り続けている。
 えまさんは潤んだ瞳で僕を見つめたまま、熱を孕んだ吐息を小さく漏らした。
「…ここではだめ…」
 その言葉は拒絶ではなく、より深い場所への誘いだった。
 僕たちは逃げるようにベンチを立ち上がった。
 タクシーの薄暗い後部座席では、互いの指を痛いほど絡め合ったまま、言葉もなく流れる街灯を見つめていた。
 タクシーを降り、フロントでの短い手続きを終えてエレベーターに乗り込む。
 階数表示の数字が変わる時間が、永遠のように長く感じられた。
 扉の鏡に映る二人の顔は赤く上気し、乱れた髪や潤んだ瞳は、誰が見ても『これから何をするか』が分かってしまうだろう。
 密室でありながら、監視カメラの視線を感じて指一本触れられないもどかしさ。えまさんの甘い香りが狭い空間に充満し、僕は拳を強く握りしめて衝動を抑え込んだ。
 ただ、繋いだ掌の汗ばむ熱だけが、僕たちを繋ぎ止めていた。
 廊下を早足で進み、電子ロックが解除される乾いた音が響く。
 部屋に入り、重い扉を背中で閉めて鍵をかけた瞬間、堰(せき)を切ったように僕たちは互いを求め合った。
 言葉などいらなかった。
 玄関の壁際で、貪るように唇を塞ぐ。川辺での遠慮がちだった接触とは違い、今度は互いの唾液が混じり合う音さえ隠そうともしない。
 上着が床に滑り落ち、ブラウスのボタンを外す手がもどかしく震える。
 露わになったえまさんの白い肌は、薄暗い部屋の中で月光のように妖しく浮かび上がった。
 そのまま雪崩れ込むようにベッドへ倒れ込むと、シーツの冷やりとした感触も一瞬で二人の熱に飲み込まれた。
 僕の指が、スカートの奥、滑らかな太腿の内側へと這い上がる。
「ん……っ」
 えまさんの喉から、我慢できない甘い声が漏れた。その声が合図となり、僕の中の理性は完全に崩れ去る。
 彼女の華奢な脚を開き、自身の熱を割り込ませた。
 濡れた秘所が、僕を待ち構えるように吸い付いてくる。
「……お願い」
 涙で潤んだ瞳で見つめられ、僕は彼女の腰を強く掴んだ。
 ゆっくりと、けれど確実に。
 異物が身体の内側へ侵入する感覚に、えまさんが大きく背中を反らす。
 互いの境界線が溶けてなくなるほど深く、僕は彼女の中へと堕ちていった。
 触れてはいけないと分かっていた一線を、今、二人で完全に越えたのだ。
 その瞬間、
 夏が終わった音がした。

 長くは続かなかった。
 永遠みたいな一瞬が、ただ過ぎただけ。

 離れたあと、えまさんは目を伏せた。

「……ごめん」

「後悔、してますか」

 そう聞くと、えまさんは首を横に振った。

「してない」

 少し間を置いて、続ける。

「でも、これで本当に終わりだって、分かった」

 胸が、静かに痛んだ。
 それでも、不思議と崩れなかった。

「それでいいです」

 そう言えた自分に、驚く。

 夜が、ゆっくりと更けていく。
 列車は、まだ動かない。

 でも、止まっていたのは、時間じゃなかった。
 踏みとどまっていた心が、動いてしまっただけだ。

 朝が来たら、きっと別れる。
 この夜を、持ち帰らずに。

 高校最後の夏。
 選んでしまった一線も、
 越えなかった未来も、
 全部、僕の中に残る。

 それでいい。

 それが、僕が大人になった証拠だった。

エピローグ 名前を呼ばないまま(えま視点)

 数年後、私はまた同じ街に来ていた。
 用事があったわけじゃない。
 ただ、途中下車しただけ。

 駅前は少し変わっていた。
 新しい店ができて、古い看板が減っている。
 それでも、夕方の空気だけは、あの夏と同じ匂いがした。

 あの人は、もういない。
 そう分かっていても、足は自然と、あの川沿いへ向かってしまう。

 ベンチは、まだそこにあった。

 座らずに、しばらく立ったまま、川を見下ろす。
 あの夜のことを、細部まで思い出せる自分に、少し苦笑した。

 忘れられないほどの時間じゃない。
 人生を変えた、と言えるほどでもない。

 それでも。

 あの一夜があったから、
 私は自分を壊さずに、前に進めた。

 連絡先は、交換しなかった。
 名前も、最後まで呼ばなかった。

 それが、私たちの選んだ形だった。

 ――指くん。

 心の中でだけ、そっと呼ぶ。
 声にはしない。
 声にしたら、過去が動き出してしまうから。

 彼は、きっともう大人だ。
 私の知らない場所で、私の知らない誰かと、
 ちゃんと未来を生きている。

 それでいい。

 あの夏、私は間違えた。
 でも、同時に、間違えなかった。

 選ばなかった未来も、
 越えてしまった一線も、
 全部ひっくるめて、今の私がある。

 帰りの電車の時間が近づく。
 今度は、ちゃんと動いている。

 ホームに向かいながら、私は振り返らなかった。
 振り返らなくていい思い出になったから。

 それが、あの夏の、本当の終わりだった。

帰りの電車は、何事もなかったように動いていた。 数年越しの時間は、いつも拍子抜けするほど、あっさりしている。

 窓に映る自分の顔を見て、私は少しだけ笑った。 あの夏の私は、もうここにはいない。

 選ばなかった未来も、 越えてしまった一線も、 全部、過去になった。

 それでも、あの夜がなければ、 今の私は、ここに立っていなかった。

 名前は、呼ばない。 思い出は、動かさない。

 それでいいと、今なら言える。

 列車が走り出す。 夏は、完全に終わっていた。

 ――そしてそれは、 確かに、ひとつの正しい終わり方だった。

               完