ハエの嫁



始まりは、耳の奥をくすぐる低く湿った振動だった。

窓から差し込む夏の朝陽が、ゆあ子のまどろみを無理やり引き剥がす。重い瞼を開くと、そこには虹色のプリズムを撒き散らしながら高速で震える、透き通った四枚の薄膜があった。

「――愛しているよ、ゆあ子」

その声は、ひんやりとした森の奥で湧き水が跳ねるような、清らかな音色。同時に、鼻腔を突いたのは熟れすぎた桃が崩れる寸前のような、甘ったるく、どこか退廃的な香りだ。

ゆあ子が身を起こすと、枕元に跪いていた銀髪の青年が、恭しく彼女の指先を掬い上げた。青年の肌は陶器のように白く、触れた指先からは細かな、けれど力強い心臓の鼓動が伝わってくる。

しかし、ふと視線を落としたドレッサーの鏡。そこに映る現実は、あまりに無慈悲だった。

白いシーツの上、ゆあ子の指にしがみつくようにして、黒光りする太い脚と、異様に巨大な複眼を持つ「それ」が、カサカサと小刻みに震えている。他人から見れば、それはただの不潔な羽虫に過ぎない。けれど、ゆあ子の耳に届く羽音は、もはや彼女の魂を震わせる至高のラブソングとして鳴り響いていた。


「ゆあ子、いつまで寝てるの! 今日は塾の三者面談でしょ!」

階下から響く母親の鋭い声。その足音が階段を駆け上がってくる音を聞いた瞬間、ゆあ子の全身に戦慄が走った。目の前では、銀髪の王子ベルが「さあ、着替えの手伝いが必要かな?」と、優雅に微笑みながら、鋭利な黒い脚をカサカサと動かしている。

「ベル、隠れて! 殺される、死んじゃう!」

ゆあ子が叫ぶのと、ドアが乱暴に開かれたのは同時だった。

「ちょっと、いつまで……――いやぁぁぁあ!!」

部屋に入った瞬間、母親が喉を引き裂くような悲鳴を上げた。彼女の視線の先には、純白のシーツの上で、朝陽を浴びて堂々と鎮座する、拳ひとつ分ほどもある巨大なハエがいる。

「な、なによこれ! 嘘でしょ、こんな大きい……っ、汚い!」

母親の顔は恐怖で引きつり、瞬時に般若のような形相に変わった。彼女は廊下へ飛び出すと、すぐに「武器」を携えて戻ってきた。それは、ゆあ子の平穏を終わらせる死の宣告――**強力噴射の殺虫剤「マグナム・ジェット」**だった。

「待って、お母さん! それは私の……私の旦那様なの!」

「あんた、受験のストレスでおかしくなったの!? どきなさい、そんなの病気の元よ!」

母親の指がノズルにかかる。ベルは逃げようともせず、ただゆあ子をその複眼で見つめていた。何万ものレンズが、ゆあ子という存在を全方位から愛おしそうに反射させている。ベルの耳元には、彼が奏でるハープのような美しい旋律が、今は悲劇のレクイエムとなって響いていた。

「ダメぇぇぇ!!」

ゆあ子は反射的に、ベッドの上にいた「彼」の上に覆いかぶさった。背中に感じる、冷たく湿った殺虫剤の霧。

「……ゆあ子。君はなんて、勇敢で……愚かな人なんだ」

背中の下で、ベルの声がした。母親の目には、娘が巨大なハエを必死に抱きしめ、生ゴミを愛でるような狂気に取り憑かれた姿に映っていた。

「どきなさい、ゆあ子!」 母親の指がノズルを押し切ろうとしたその瞬間、ゆあ子の背中の下で、ブウン、と空気が低く震えた。

「……僕の最愛の人を、泣かせないでくれ」

ベルの静かな声が響くと同時に、彼の四枚の羽が目にも止まらぬ速さで旋回を始めた。それはもはや羽音ではなく、神殿の奥で鳴らされる銀の鐘のような、澄んだ共鳴音へと変わる。

次の瞬間、彼の体から**真珠色の微細な鱗粉(りんぷん)**が爆発的に舞い上がった。

「え……? なに、これ……」

殺虫剤の白い霧は、その銀色の粉に触れた瞬間にキラキラとした結晶に変わり、床へポロポロと崩れ落ちた。部屋中に満ちたのは、ラベンダーと古い書物を混ぜたような、深く安らかな香り。

母親の動きが、スローモーションのように緩やかになる。彼女の手から殺虫剤の缶が滑り落ち、厚い絨毯の上に音もなく沈んだ。

「あ……ら……? 私、何を……」

母親の瞳の焦点が、ゆあ子を通り越してどこか遠い空を眺めるようにぼんやりと霞んでいく。彼女はそのまま、糸が切れた操り人形のように、ゆあ子のベッドの端へそっと腰を下ろした。

「お母さん!?」 「大丈夫だよ。彼女には少しだけ、花の蜜の夢を見ていてもらう。一刻もすれば、彼女の記憶から『不快な羽虫』の姿は消え、ただ娘が熱心に勉強をしていた光景に書き換わるだろう」

ベルがゆあ子の腕の中から抜け出し、再び銀髪の王子の姿をとって彼女の頬に触れた。彼の指先は、鱗粉のせいでいつもより少しだけ熱を持っている。

「けれど、ゆあ子。これが僕にできる精一杯の魔法だ。次に彼女が目覚める時、僕たちの『14日間の砂時計』は、もう半分以上が零れ落ちているはずだよ」

ゆあ子は、眠るように穏やかな顔になった母親と、目の前の美しい青年を見比べた。この不思議な静寂の中で、彼女ははっきりと悟る。

自分はもう、三者面談や偏差値が支配する「元の世界」には戻れない。 この、短命で、美しく、そして世間からは「害」とされる存在と共に、奈落へ落ちるか、天国へ昇るか。そのどちらかしかないのだと。

母親が夢の世界にまどろんでいる間、ゆあ子の部屋の窓が、コツ、コツと外から叩かれた。 そこは三階。足場などないはずの場所に立っていたのは、銀縁の眼鏡をかけ、隙のない三つ揃えのスーツを着こなした一人の青年だった。

「お楽しみのところ失礼。……やはりここにいたか、輝きの国の『落ちこぼれ』」

青年は窓をすり抜けるようにして部屋へ侵入した。その手には、不気味な鈍色に光る特注の硝子瓶が握られている。

「あなたは……誰?」 ゆあ子がベルを背中に隠すと、眼鏡の青年は冷ややかな笑みを浮かべた。

「私の名は鴉間(からすま)。この街に紛れ込んだ『異物』を掃除するのが仕事でね。ゆあ子さんと言ったかな? 君が今守っているのは、王子でも何でもない。ただの**『呪われた記憶の残滓』**、放っておけばこの街中に病を撒き散らす不浄の塊だ」

「嘘よ! ベルはそんな人じゃない!」 「ふむ、毒されているな。ハエの出す甘いフェロモンに脳を焼かれたか。ベル、潔くその瓶に入れ。君の寿命はあと数日だ。最後くらい、標本として美しく飾られてはどうだ?」

鴉間が瓶の蓋を開けた瞬間、部屋の空気が凍りついた。その瓶から放たれるのは、ベルの鱗粉とは正反対の、「無(む)」の匂い。すべてを乾燥させ、命を奪う死の静寂だ。

「……逃げなさい、ゆあ子。彼は『調律師』だ。僕のような、理(ことわり)から外れた存在を許さない」

ベルがゆあ子の前に躍り出る。しかし、その背中の羽は、先ほどの魔法の影響でボロボロと崩れ始めていた。鴉間の一歩一歩が、ベルの命を削り取っていく。

「どいて、鴉間さん! ベルを連れて行かないで!」 ゆあ子は必死に鴉間の腕にすがった。だが、鴉間の体はまるで大理石のように冷たく、微塵も動かない。

「どくのは君だ、人間。……いや、もう半分は『ハエの嫁』か。なら、君も一緒に標本にしてあげようか?」

鴉間の硝子瓶が、ベルを吸い込もうと怪しく光り輝く。 ベルの姿が、ゆあ子の目にも「美しい王子」と「苦しむハエ」の間で激しく点滅し始めた。

「逃げるんだ、ゆあ子……! 君まで標本にされる必要はない!」

ベルの叫びとともに、彼の羽から最後の輝きが火花のように散った。鴉間の持つ硝子瓶が、ベルの魂を吸い込もうと渦を巻き、ベルの輪郭がドロリと歪み始める。

「さあ、終わりにしよう。不浄な愛の、あまりに惨めな末路だ」

鴉間が冷酷に瓶を突き出したそのとき――ゆあ子は逃げるどころか、猛然と鴉間へと突っ込んだ。

彼女が掴んだのは、鴉間の腕ではない。机の上に置かれていた、先ほど母親が落とした**殺虫剤「マグナム・ジェット」**の缶だった。

「……何をする気だ? それは彼を殺すための――」

鴉間が言いかけるより早く、ゆあ子はノズルを自分自身に向けた。

「ゆあ子、やめろ!」ベルが悲鳴を上げる。

「鴉間さん。あなたがベルを『不浄な塊』だって言うなら……今すぐ私も同じにして。ベルのいない世界で人間として生きるくらいなら、私も一緒に標本にしてよ!」

ゆあ子は一切の躊躇なく、自らの喉元に冷たい霧を浴びせようとした。 その瞳には、偏差値や将来の不安に怯えていた女子高生の影はない。ただ一点、愛する存在と運命を共にするという、猛烈な「生」の意志が宿っていた。

「……正気か?」

鴉間の動きが、初めて止まった。 計算外だった。人間が、たかが羽虫一匹のために自らの命を秤にかけるなど、彼の知る「理」には存在しない。

「ベルが消えるなら、私も消える。私が死んだら、私の魂はどこへ行くと思う? きっとベルの行く場所についていくわ。そうなったら、あなたの瓶には何も残らない。空っぽの硝子だけよ!」

ゆあ子の指がノズルを深く押し込む。シュッ、と白い霧が彼女の髪を白く染めた瞬間、鴉間は舌打ちをして硝子瓶を引いた。

「……狂っているな。だが、その狂気が世界の理(ことわり)を一瞬だけ捻じ曲げたようだ」

鴉間は瓶の蓋を閉めると、眼鏡を指で押し上げた。

「これ以上は無意味だ。無理に収穫しても、そんな濁った魂は美しい標本にはならない。……ベル、君は果報者だな。だが忘れるな、あと数日で君の器(からだ)は崩壊する。その時、彼女がどう壊れるか……私は影から見守らせてもらうよ」

鴉間は影に溶けるように、開いた窓から夜の闇へと消えていった。

静寂が戻った部屋で、ゆあ子は力なく膝をついた。殺虫剤の独特な匂いの中で、ベルが震える手で彼女を抱きしめる。

「……バカだよ、ゆあ子。本当に、君は……」 「いいの。私、決めたんだから。ベル、私たちの最後の時間を始めよう」

ゆあ子の目には、ボロボロになったハエの姿など映っていない。ただ、愛おしくてたまらない、自分だけの王子の姿だけがあった。

ベルの最期の日。 もはや彼は、銀髪の王子の姿を保つことすらできなくなっていました。ゆあ子の手のひらの上で、ボロボロになった四枚の羽を力なく横たえ、弱々しく脚を震わせる一匹のハエ。

ゆあ子は、震える手で一通の便箋を広げました。それは受験勉強のために買ったノートの切れ端でしたが、そこには彼女がこれまでの14日間で感じたすべてが、涙の跡と共に綴られていました。

「……ベル、聞いて。あなたに宛てた、最後の手紙」

ゆあ子は、消え入りそうな命に向かって、静かに読み始めました。

「『拝啓、私の旦那様。 あなたがハエの姿で現れたとき、世界はなんて意地悪なんだろうって思いました。でも、今は違います。あなたがいたから、私は路地裏に光る雨粒の美しさを知った。羽音が、どんな音楽よりも優しいことを知った。 みんなは、ハエの命は短いって言うけれど……私にとっては、あなたと過ごしたこの14日間が、私のこれまでの18年間の何倍も、何十倍も輝いていました』」

ベルの複眼が、ゆあ子をじっと見つめています。

「『だから、約束して。もし神様があなたを連れて行こうとしても、私は絶対にあなたを忘れない。あなたがどんな姿になっても、何度生まれ変わっても、私はあなたを見つける。……愛しています、ベル。私の命のすべてをかけて』」

その瞬間、ゆあ子の涙が、ベルの傷ついた羽の上に一滴、こぼれ落ちました。

それはただの涙ではありませんでした。鴉間を退けた「狂気的なまでの愛」と、絶望の中でも彼を肯定し続けた「無償の慈しみ」。それが、ベルを縛り付けていた古い呪いの鎖を、内側から粉々に砕いたのです。

「……ゆあ、子……ありがとう。僕も、君を……」

ベルの体が、見たこともないような純白の光に包まれました。 光は部屋を満たし、ゆあ子の視界を真っ白に染め上げます。温かな風が吹き抜け、殺虫剤の匂いも、死の気配も、すべてを洗い流していく――。


ベルが光に包まれて消えたあと、ゆあ子の部屋には一匹の虫も、そして王子の姿も残っていませんでした。ただ、彼女の手のひらに**「銀色の小さな羽の形をしたブローチ」**がひとつ、静かに置かれていたのです。

それから数カ月後。ゆあ子は大学生になりました。 あの日以来、ベルの姿を見ることはありませんでしたが、ゆあ子は確信していました。あの手紙に誓った通り、彼は必ずどこかにいると。

ある日の講義。教授が新しい特別講師を教室に招き入れました。

「今日から一ヶ月、外部から研究員として参加してもらう……ベルナール・ルブランくんだ。彼はフランスからの留学生で、生物学、特に『翅(はね)の構造』についての専門家だ」

教室のドアが開いた瞬間、ゆあ子は息が止まりそうになりました。 入ってきたのは、あの時と同じ銀色の髪を持つ、背の高い青年。

彼は真っ直ぐにゆあ子の席まで歩いてくると、困惑する学生たちの前で、優雅に一礼してこう言いました。

「……やっと、自分の足で会いに来られました。ゆあ子さん」

驚きで固まるゆあ子の耳に、彼が小さく、ゆあ子にしか聞こえない声で囁きました。

「あの時、君の手紙が『輝きの国』の門を開けてくれたんだ。僕はあの日、一度あっちの世界へ戻って、正式に**『人間として、君のいる世界へ行くための手続き』**を済ませてきたんだよ。……ちょっと、時間がかかってしまったけれど」

彼の胸元には、あの日ゆあ子の部屋に残されていた、あの銀色のブローチが光っていました。

「ベル……本物の、ベルなの?」 「ええ。もう殺虫剤を浴びる心配も、14日で消える心配もありません」

彼はゆあ子の手を取り、今度はその温かな、人間の唇で、彼女の唇に誓いのキスを落としました。


数年後、ゆあ子が大学を卒業した春に、二人は正式に結婚します。 結婚式でゆあ子が身につけたのは、あの時部屋に残されていた**「銀色の羽のブローチ」**。

かつて母親が殺虫剤を撒いたあの部屋も、今ではベルが料理を作る香りに満ちています。母親も、最初は「急に現れた銀髪のイケメン」に戸惑っていましたが、ベルのあまりに誠実で献身的な姿(かつてハエとして見せていた愛と同じもの)を見て、今では「最高の婿さんだ」と大喜びしています。


ある晴れた午後、二人は公園のベンチで並んで座っています。 ベルがゆあ子の手を取り、指先を優しく撫でながら言います。

「ゆあ子。あの時、君が僕をハエとしてではなく、『愛する人』として抱きしめてくれたから、僕は今、こうして君の温もりを肌で感じることができる。この手は、もう君を離さないよ」

二人の上を、夏の風が吹き抜けていきます。 かつては14日間しか保たなかった命が、今では**「おじいさんとおばあさんになるまで」**という長い長い約束に変わったのでした。   完