フィグサイン

吊革を握る右手に、じわりと嫌な汗が滲む。  金曜日の23時を回った山手線。友人と飲み明かしたアルコールの残滓(ざんし)が、脳の端っこを心地よく痺れさせていた。電車の規則的な振動に身を任せ、半分まどろんでいた時だ。

 ──コツン。

 革靴の先に、柔らかな感触が当たった。  反射的に目を開けると、視界の先にあったのは、淡いベージュのパンプスだ。目の前の座席に座っている女性の足が、僕の足の間に入り込むようにして触れていた。

(あ、すみません……)

 声に出そうとして、喉で止まった。  見上げた先にいたのは、20代後半だろうか。整った鼻筋に、少し伏せられた睫毛。どこからどう見ても「仕事のできる綺麗なOLさん」といった風貌の女性だった。

 彼女は謝る様子もなく、ただじっと、膝の上に置いた自分の手を見つめている。  僕が足を引こうとしたその時。彼女の、白くて細い指先が動いた。

 組まれた両手。その左手の親指が、人差し指と中指の間から、ひょっこりと顔を出した。  握り拳から突き出た親指の先端。それは紛れもない、フィグサインだった。

 電車の揺れに合わせて、彼女の膝が再び僕の脛に触れる。  偶然か、それとも。  彼女は顔を上げない。ただ、その指先だけが、深夜の車内で密やかな熱を帯びているように見えた。

その感触は驚くほど大胆で、ストッキング越しに伝わる彼女の体温が、お酒で緩んでいた僕の意識を一気に引き戻しました。彼女の足が僕の右足のふくらはぎを挟み込むように絡んできた瞬間、脳裏に浮かんだのは、先ほど目にした彼女の指の形です。

フィグサイン。それが正確に何を意味するのか、知識として持っていたわけではありません。けれど、握り込まれた指の間から親指の頭が突き出たその歪な拳の形は、言葉にするのが憚られるような、ひどく卑猥で挑発的な暗喩を含んでいるように直感できました。

目の前の彼女は、相変わらず涼しい顔をして座っています。凛とした横顔は、明日も朝から定時でデスクに向かうであろう清潔感に溢れているのに、座席の下で行われている行為はあまりに攻撃的で、そのギャップに眩暈がしそうになります。

僕は逃げることもできず、かといって自分から触れ返す勇気も出ないまま、吊革を握る手に力を込めました。ふくらはぎを圧迫する彼女の両足の力加減が、電車の揺れに合わせて微妙に変化します。それはまるで、僕の反応を試しているかのようでした。

経験が少ないなりに、これがただの偶然ではないことくらいは分かります。密室のような深夜の車内で、僕たちの間には、音にならない濃密な会話が流れ始めていました。

その感触は驚くほど大胆で、ストッキング越しに伝わる彼女の体温が、お酒で緩んでいた僕の意識を一気に引き戻しました。彼女の足が僕の右足のふくらはぎを挟み込むように絡んできた瞬間、脳裏に浮かんだのは、先ほど目にした彼女の指の形です。

フィグサイン。それが正確に何を意味するのか、知識として持っていたわけではありません。けれど、握り込まれた指の間から親指の頭が突き出たその歪な拳の形は、言葉にするのが憚られるような、ひどく卑猥で挑発的な暗喩を含んでいるように直感できました。

目の前の彼女は、相変わらず涼しい顔をして座っています。凛とした横顔は、明日も朝から定時でデスクに向かうであろう清潔感に溢れているのに、座席の下で行われている行為はあまりに攻撃的で、そのギャップに眩暈がしそうになります。

僕は逃げることもできず、かといって自分から触れ返す勇気も出ないまま、吊革を握る手に力を込めました。ふくらはぎを圧迫する彼女の両足の力加減が、電車の揺れに合わせて微妙に変化します。それはまるで、僕の反応を試しているかのようでした。

経験が少ないなりに、これがただの偶然ではないことくらいは分かります。密室のような深夜の車内で、僕たちの間には、音にならない濃密な会話が流れ始めていました。

明日は休日で、朝寝坊をしても誰にも咎められない一人暮らしの身。そう思うと、自分の中にあった最後の一線が呆気なく崩れ去るのを感じました。酒の勢いも手伝って、もうどうにでもなれという自暴知らずな感情が、恐怖や理性を塗りつぶしていきます。

彼女に握られたままの左手に力を込めると、彼女は満足そうに口角をわずかに上げました。その表情を見た瞬間、僕は彼女の足がふくらはぎを解放するのを待ち、電車のドアが開く瞬間に合わせて一歩を踏み出す覚悟を決めました。

「……降ります。一緒に」

僕がそう短く応えると、彼女は繋いだ指をさらに強く締め付け、立ち上がりました。

プシューという音とともにドアが開くと、深夜のホーム特有の冷たい空気が流れ込んできました。しかし、彼女と密着して歩き出した僕の体は、冷気どころか熱病に浮かされたように熱いままです。彼女のヒールの音が、静まり返ったホームに規則正しく響き渡ります。

改札を出るまで、彼女は僕の指を離しませんでした。それどころか、階段を降りる途中で彼女の肩が僕の腕に深く当たり、そのまま寄り添うような形になります。

「家、近いんですか?」

駅の外に出たところで、彼女が初めて僕の目を見て尋ねました。街灯に照らされた彼女の顔は、電車の中よりもさらに艶っぽく、それでいてどこか冷徹な美しさを湛えています。

「いえ、少し歩きますけど」 「じゃあ、私のところに来る?」

彼女の言葉に、心臓が跳ね上がりました。経験が少ない自分にとって、この展開はあまりに刺激が強すぎます。けれど、彼女の左手はまだ、僕の手を使ってあのフィグサインの形を模ったままでした。

駅前の喧騒を離れ、街灯のまばらな住宅街へと足を踏み入れると、二人の距離はさらに縮まりました。彼女の体から漂う、微かな香水の香りと石鹸のような清潔な匂いが、夜の冷たい空気と混ざり合って僕の嗅覚を狂わせます。

彼女は僕の手を引くわけではなく、ただ隣を静かに歩いていました。けれど、時折触れる彼女の二の腕の柔らかさや、アスファルトを叩くヒールの乾いた音が、これから起こる出来事を予感させて、僕の喉はカラカラに乾いていきました。

「ここよ」

案内されたのは、オートロックのついた築浅のマンションでした。エレベーターの中、鏡に映る自分たちは、まるで仕事帰りの仲睦まじいカップルのようにも見えましたが、実際には名前すら知らない間柄です。密室に響く上昇音だけが、僕の心音と同調して速まっていきました。

部屋のドアを開け、彼女が玄関の明かりを灯すと、そこは驚くほど整理整頓された空間でした。生活感があまり感じられない、モデルルームのような冷ややかさが、かえって僕の緊張を煽ります。

「座って。何か飲む?」

彼女はバッグを椅子に置くと、ジャケットを脱ぎ捨てました。ブラウス越しに露わになった彼女の肩のラインに、僕は思わず目を逸らしてしまいます。

「……あ、いえ、大丈夫です」

リビングのソファに腰を下ろしたものの、自分の居場所が見つからないような居心地の悪さを感じていました。すると、彼女はキッチンへ向かうのではなく、まっすぐに僕の前へと歩み寄ってきました。

彼女は僕の膝の間に割り込むようにして立つと、ゆっくりと腰を落として、僕を見上げるような形で床に膝をつきました。そして、あの電車の中と同じように、僕の左手をそっと取ります。

「まだ、すごく緊張してる」

彼女の指先が、僕の掌をなぞり、再び親指を包み込みました。今度は隠す必要のない、誰の目も憚ることのない場所で、彼女は僕の手の中にあの「フィグ」を形作ります。

彼女の潤んだ瞳が、僕の視線を逃さぬよう捉えて離しません。彼女のもう片方の手が、僕のネクタイに掛かり、ゆっくりと結び目を緩め始めました。

「明日、休みでよかったわね」

その囁きは、甘い毒のように僕の理性を溶かしていきました。

緩められたネクタイの隙間から、ドクドクと脈打つ自分の鼓動が聞こえてくるようでした。このまま彼女のなすがままに、流されてしまえばいい。そう思う反面、どうしても頭の片隅から離れない疑問がありました。

なぜ、あの時フィグサインだったのか。

「あの……」

掠れた声で、僕は彼女の動きを止めました。彼女はネクタイを解く手を休め、少しだけ小首を傾げて僕を見上げました。その表情は、幼い子供の質問を待つ母親のようでもあり、獲物の最期の抵抗を楽しむ肉食獣のようでもありました。

「その、指の形……どういう意味なんですか? 電車の中でも、今も」

僕は彼女に握られたままの、自分の左手の親指に視線を落としました。人差し指と中指の間に閉じ込められた、僕の体の一部。彼女はふふ、と喉の奥で小さく笑うと、握っていた力をさらに一段階強めました。

「これ? 知りたいの?」

彼女の指が僕の親指の頭を愛撫するように動きます。 彼女の解説によれば、それは古くからある魔除けの印であり、同時に、あまりに直接的で露骨な「ある形」を模した性的な挑発なのだといいます。

「魔除けとしてあなたに結界を張るか、それとも……この指が暗示する通りのことを、今から私と始めるか。どっちがいい?」

彼女の言葉は、それまで「なんとなくエロい」と感じていた僕の直感に、はっきりとした輪郭を与えてしまいました。その意味を完全に理解した瞬間、僕の脳内では理性が粉々に砕け散りました。

本当は、もっと慎重になるべきだったのかもしれません。名前も知らない女性の部屋で、得体の知れないサインの意味を教わるなんて。けれど、彼女の指先から伝わる確信犯的な熱量と、足元から這い上がってくるような欲望に、僕はもう抗えませんでした。

「……後者で。お願いします」

絞り出すような僕の答えを聞くと、彼女は満足そうに瞳を細め、僕の親指を口元へと運びました。

「合格。じゃあ、休みをたっぷり使いましょうか」

彼女の唇が僕の指に触れた瞬間、物語はもう、言葉による説明を必要としない領域へと踏み出していきました。

彼女の唇が僕の親指を湿らせた瞬間、全身に電流が走ったような衝撃が突き抜けました。25歳という年齢相応の経験はあったはずなのに、今この瞬間、僕は自分がまるで生まれたての無垢な存在になったかのような錯覚に陥っていました。

彼女は僕の手を解放することなく、そのまま床に膝をついた姿勢で、僕のズボンのベルトに手をかけました。流れるような所作には一切の迷いがなく、僕はただソファに深く沈み込み、荒くなる呼吸を整えることしかできません。

「そんなに震えて……可愛い」

彼女の囁きは、僕の羞恥心を煽ると同時に、抗いがたい高揚感を与えました。彼女は立ち上がると、ブラウスのボタンを上から順に外していき、慣れた手つきで僕をベッドへと誘いました。

寝室の仄暗い照明の下、彼女は僕の上に跨がると、主導権を完全に掌握しました。彼女の指先が僕の肌を滑るたび、電車の中で味わったあの「フィグサイン」の形が脳裏に焼き付いて離れません。彼女自身が巨大なフィグサインとなって、僕を包み込み、呑み込もうとしているようでした。

経験が少ない僕にとって、彼女が繰り出す緩急自在の動きは、未知の快楽の連続でした。彼女のしなやかな肢体が描く曲線や、耳元で繰り返される淫らな指の愛撫に、僕は翻弄され続けました。

自分の意志で動くことすら許されないような、圧倒的な女性主導の奔流。指先ひとつ、視線ひとつで僕の反応をコントロールする彼女のテクニックに、僕はただ獣のような声を漏らすのが精一杯でした。

「もっと、私をちゃんと見て……」

彼女の長い髪が僕の頬を撫で、重なり合う肌の境界線が曖昧になっていきます。フィグサインが象徴していた魔除けの力も、性的な呪縛も、すべてがこの熱い情事の中に溶けていきました。

計り知れない興奮の波に呑み込まれ、僕はただ、自分を支配するこの美しい女性の瞳の中に、溺れていくことしかできませんでした。

夜はまだ深く、彼女の飽くなき探求は、明け方まで僕を休ませてはくれそうにありません。

理性の堤防が決壊した僕は、もう彼女の導きに抗うことを完全にやめました。彼女の部屋は、外界から隔絶された濃密な熱の坩堝(るつぼ)と化していきます。

「いい子ね、全部預けて」

彼女は僕をベッドに組み伏せると、まるで獲物を解体するように、それでいて慈しむように僕の体を弄り尽くしました。彼女の指先は、僕の体のどこに触れれば、どんな情けない声が漏れるのかをすべて熟知しているかのようでした。

指の付け根、耳の後ろ、膝の裏。自分ですら意識したことのない敏感な場所を、彼女はあの「フィグ」の形を模した指先や、湿った舌先で執拗に攻め立てます。未熟な僕の反応はあまりに素直で、彼女はそのたびに征服欲を満たすような、嗜虐的な笑みを浮かべました。

行為が繰り返されるたびに、僕の中の「経験の少なさ」という壁は粉々に砕け散り、代わりに純粋な本能だけが研ぎ澄まされていきました。彼女の白い肌が汗で光り、僕の胸元に押し当てられるたび、その熱量に浮かされて意識が飛びそうになります。

「まだ終わらせてあげないから」

彼女はそう囁くと、僕が絶頂を迎えようとする直前で、巧みに指の動きを変えて僕を焦らしました。寸止めされるもどかしさと、そこから再び引きずり込まれる快楽の深淵。彼女は文字通り、一晩中僕を翻弄し、僕のすべてを吸い尽くそうとしているようでした。

何度目かの大きな波が去ったあと、僕は激しい動悸の中で、彼女の首筋に顔を埋めました。彼女の体温と、絡み合う情欲の匂いが混ざり合い、視界が白く霞みます。独身の一人暮らし、明日は休日。その事実だけが、底なしの快楽に沈んでいく僕の、唯一の免罪符でした。

カーテンの隙間から、うっすらと白んだ朝の気配が差し込み始めるまで、僕たちは一度も離れることはありませんでした。フィグサインの指が、僕の肌に刻み込んだ情熱的な痕跡は、目が覚めた後も消えることはないでしょう。

窓から差し込む朝の光が、乱れたベッドの上を容赦なく照らし出しました。数時間前までの狂おしいほどの熱狂が嘘のように、部屋の中には静謐な空気が流れています。

隣で眠る彼女の横顔を、僕は改めて見つめました。昨夜の支配的なまでの艶っぽさは影を潜め、そこにはどこか疲れ果てたような、脆い一人の女性の姿がありました。

ふと彼女が睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けました。僕と目が合うと、彼女は一瞬だけ戸惑ったような表情を見せ、それから力なく微笑みました。

「……驚かせてごめんなさい。あんなことして」

彼女の声は、電車の中の囁きとは違い、驚くほど透明で、そして悲しげでした。

彼女は起き上がると、シーツで体を隠しながらぽつりぽつりと話し始めました。彼女の本職はOLなどではなく、近くの総合病院に勤める看護師だということ。そして、結婚を目前に控えていた婚約者に、信じられないような裏切りをされ、どん底に突き落とされていたこと。

「ずっと、良い子でいなきゃって思ってたの。仕事でも、彼に対しても。でも昨日の夜、帰り道の電車であなたを見かけたら……なんだか、全部どうでもよくなっちゃって」

彼女の指先が、シーツの端を所在なげに弄ります。あの、僕を翻弄した不遜な「フィグサイン」を作った指と同じものとは思えないほど、その手は震えていました。

昨夜の奔放な振る舞いは、彼女なりの悲鳴だったのかもしれません。裏切られた怒りと悲しみを、見ず知らずの僕を支配し、快楽に溺れさせることで、一時的に麻痺させていたのでしょう。

僕は25歳で、彼女は27歳。看護師という激務の中で、彼女がどれほどの孤独を抱えてあの電車に乗っていたのかを想像すると、胸の奥が締め付けられるような思いがしました。

「看護師さんだったんですね。道理で、体のどこを触ればいいか……詳しすぎると思いました」

僕が努めて明るくそう言うと、彼女は「最悪ね」と小さく吹き出しました。その顔は、昨夜のどんな表情よりも人間らしく、僕の心を強く捉えました。

行きずりの関係から始まった一夜。けれど、朝日の中で自分たちの「本当の姿」を晒し合った今、二人の間には、単なる欲情とは違う、新しくて奇妙な絆が芽生え始めていました。

「お腹、空いてませんか。僕、何か作りますよ」

僕の言葉に、彼女は驚いたように目を丸くし、それから今度は心からの笑顔を見せてくれました。

「……じゃあ、お願いしようかな」

キッチンから漂うコーヒーの香りに包まれながら、僕は包み隠さず自分のことを話しました。格好をつけても仕方がない、そんな不思議な清々しさがあったからです。

「僕、実はただの工場勤めなんです。毎日毎日、同じ機械の音を聞きながら部品を検品して……。正直、女性との縁なんて全然なくて、最近は自家発電ばっかりですよ。昨日の電車だって、本当はただ眠かっただけなんです」

僕のあまりに正直すぎる告白に、彼女はベッドの上で膝を抱えながら、くすくすと肩を揺らしました。昨夜のあの妖艶な「女豹」のような姿はどこへやら、今の彼女は等身大の、少し年上の女性に見えました。

「それでね、言いづらいんですけど……僕、看護師さんの剃毛シーンが出てくるAVとか、結構好きで見てたんです。だから、昨日あなたが看護師だって言ったとき、心臓が止まるかと思いましたよ。現実が妄想を追い越した、っていうか」

「ちょっと、それ、本人に言うこと?」

彼女は顔を赤らめながら、枕を僕の方へ投げつけてきました。けれど、その声にトゲはありません。裏切られた傷を抱え、完璧な自分を演じることに疲れていた彼女にとって、僕のどうしようもなく情けない、けれど嘘のない「告白」は、何よりの癒やしになったようでした。

「工場勤めの男の子と、元カレに裏切られた看護師。……変な組み合わせね」

「変ですね。でも、自家発電ばっかりだった僕にとっては、一生分の運を使い果たしたような夜でしたよ」

僕が笑ってそう言うと、彼女は少しだけ真面目な顔をして、僕を見つめました。

「ねえ。……その一生分の運、まだ残ってる?」

彼女はそう言うと、ベッドから抜け出し、僕の背中にそっとしがみついてきました。昨夜のような支配的な力強さではなく、今度は体温を分かち合うような、柔らかな抱擁。

「まだ休日、始まったばかりでしょ」

コーヒーを淹れ終えた僕は、彼女が背中に回した腕の感触に勇気をもらって、ずっと気になっていた「禁断の質問」を投げかけてみました。

「あの、ひとつ聞いてもいいですか? さっき言ったAVの話なんですけど……看護師さんが処置で剃毛する時、男の『あれ』が勃起して邪魔だからって、手で抜いてあげるシーンがあるんです。あれって、実際の現場でもあることなんですか?」

あまりにストレートでデリカシーのない質問に、一瞬、部屋が静まり返りました。彼女は僕の背中に顔を埋めたまま固まってしまい、僕は「しまった、さすがに引かれたか」と後悔の念に襲われました。

ところが、次の瞬間、僕の背中が彼女の笑い声で小刻みに震え始めました。

「あはは、何それ! 本気で言ってるの?」

彼女は僕の背中を離れると、お腹を抱えてベッドに転がりました。涙目になるほど笑い転げる彼女の姿に、僕は赤面しながら立ち尽くすしかありません。

「あるわけないじゃない! 現場はね、もっと戦場なの。毛を剃るのだって、感染予防とか手術の準備で、事務的に、光の速さでこなさなきゃいけないんだから。患者さんが反応しちゃったとしても、こっちは『はいはい、生理現象ですねー』って完全にスルー。抜いてあげるなんて、そんなサービスしてる暇あったら、次の点滴回ってるわよ」

彼女はひとしきり笑った後、少しだけ真面目な顔をして僕を見上げました。

「でも……そうだね。あんなの、ただのファンタジー。でも、昨日の夜に私があんたにしたことは、ファンタジーじゃなくて現実だったでしょ?」

彼女はそう言うと、いたずらっぽく目を細め、僕の股間に視線を落としました。

「AVの看護師さんみたいに優しくはしてあげないけど……。工場のラインを止めるくらい、ヘトヘトにさせてあげてもいいよ?」

彼女の手が、今度は迷いなく僕の腰周りへと伸びてきました。現場の看護師としての冷静さと、一人の女性としての剥き出しの欲望。その二つが混ざり合った彼女の瞳は、再びあの「フィグサイン」を見せた時のような、抗いがたい熱を帯び始めていました。

僕は自分の「あれ」が、彼女の言葉だけで、AVのどのシーンよりも激しく反応するのを感じました。

「じゃあ……ファンタジー超えの現実、お願いします」

朝の光の中で、二人の笑い声は次第に重苦しい吐息へと変わっていきました。

彼女は僕のあまりにしつこい質問に、呆れたような、でもどこか嬉しそうな溜息を漏らしました。そして、僕の隣に潜り込むと、いたずらっぽく僕の耳たぶを甘噛みしました。

「本当に、男の人ってそういう妄想が好きよね。……でも、そうね。一度だけあったかな。二十歳そこそこの、すごく綺麗な顔をした男の子が手術で入院してきて。夜、眠れないって何度もナースコールしてくるの」

彼女の話は、僕の心臓をさらに速く打ち鳴らしました。彼女の声は、まるで深夜の病棟の静寂を運んできたかのように、低く、密やかなトーンに変わります。

「見に行ったら、彼は布団の中で顔を真っ赤にして、震えてた。緊張と、たぶん、あんたがさっき言ったみたいな『欲望』で、どうしようもなくなってたんでしょうね。私は看護師として、彼のバイタルを測るふりをして布団の中に手を入れたわ……」

僕は固唾を呑んで続きを待ちました。彼女の指先が、僕の胸元を円を描くようにゆっくりと這い回ります。

「……なんてね。それも私の嘘。今、あんたが一番喜ぶ顔を想像して話しただけ」

彼女はそう言って、僕の鼻先をつんと突きました。

「現場でそんなことしたら即刻クビよ。でも、今の私は、あなたのための看護師さんになってあげてもいい。寂しくて寝付けない、欲望いっぱいの若い男の子を……とことん可愛がってあげる仕事。それは、今の私にしかできないことでしょ?」

彼女はそう言うと、僕の体に上から覆い被さりました。彼女の瞳には、先ほどまでの「元カレに裏切られた悲しい女性」の影はなく、完全に僕を支配し、可愛がることを楽しむ、美しくて残酷な「お姉さん」の光が宿っていました。

「さあ、検診の時間よ。どこが一番熱いのか、全部教えて」

僕の指先を、彼女の熱い吐息が包み込みます。それは、深夜の電車で始まった「フィグサイン」という奇妙な診察の、もっとも濃密で、終わりなき再開の合図でした。

湯気の中に、石鹸の香りと甘い気怠さが立ち込めていました。浴槽の縁に座らされた僕の股間に、彼女は丁寧に泡立てた真っ白なフォームを広げていきます。

「ちょっと、何してるんですか……」

困惑する僕を、彼女は上目遣いで制しました。その手には、彼女が普段自分の手入れに使っているであろう、小ぶりで鋭利なカミソリが握られています。

「さっきあんなに熱心に聞いてたじゃない。看護師の剃毛。本職の私が、サービスでやってあげるって言ってるの」

彼女は冗談めかして言いましたが、その手つきは驚くほど正確で、プロフェッショナルな冷徹ささえ感じさせました。チリチリという微かな音を立てて、僕を覆っていた無骨なものが、滑らかな肌へと姿を変えていきます。彼女の指先が時折僕の「あれ」を支えるたび、何度も果てたはずの体に、再び熱い電流が走りました。

「……終わったわよ。見て」

シャワーで丁寧に泡を流すと、そこには自分でも見たことがないほど無防備で、露骨な姿になった僕の一部がありました。視覚的な情報の鮮烈さに、僕は言葉を失いました。

彼女は満足そうに微笑むと、カミソリを置いて、僕のその無防備な場所に自分の顔を寄せました。

「これで、もう隠し事はなし。ねえ、工場くん。今夜、またあの電車に乗る頃には、あなたは昨日とは全然違う自分になってるはずよ」

彼女は僕の太ももに指で、あの「フィグサイン」をなぞるように描きました。

鏡に映る二人は、もう赤の他人ではありませんでした。名前も知らないまま始まった一夜は、カミソリの刃が肌を滑るような危うさと、絶対的な信頼が混ざり合った、特別な休日の始まりへと溶けていきました。

湯気と石鹸の香りに満ちた浴室で、無垢な姿になった僕の「それ」を、彼女は慈しむように、そしてどこか誇らしげに視界に収めました。彼女は僕の膝の間に跪くと、湿った唇をゆっくりと寄せ、剥き出しになった熱をその口の中に招き入れました。

「ふふ、本当に可愛い……」

彼女の舌が、剃りたての滑らかな肌を丁寧になぞり、優しく吸い上げます。すでに何度も果て、空っぽになっているはずの体でした。けれど、彼女の口内の熱い粘膜に包まれた瞬間、脊髄を突き抜けるような未曾有の刺激が、眠っていたはずの僕の細胞を一つ残らず叩き起こしました。

指のそれは、彼女の愛撫に応えるように、これ以上ないほどパンパンに張り詰め、文字通り極限まで勃起しました。

「嘘……まだこんなに元気なの?」

彼女は顔を上げ、驚きと呆れが混ざったような声を漏らしましたが、その瞳は獲物を追い詰めた喜びで爛々と輝いています。彼女は僕の太ももを強く掴み、逃げ場を塞ぐようにして、さらに深く、喉の奥まで僕を迎え入れました。

限界を超えた快楽が、脳内を真っ白に塗りつぶしていきます。工場での単調な日常も、彼女を裏切った男の記憶も、すべてがこの小さな浴室の熱の中に溶け、消えていきました。

「っ、……出ます……!」

警告を出す余裕すらありませんでした。僕は彼女の豊かな髪に指を絡め、のけぞるようにして、彼女の口の中にありったけの熱い塊をぶちまけました。何度も出し尽くしたはずなのに、それは驚くほど濃密で、彼女の喉を何度も鳴らさせました。

すべてを吐き出し、力なく浴槽の縁に崩れ落ちた僕の額を、彼女は優しく撫でました。

「ごちそうさま。……最高の看護料だったわよ、工場くん」

彼女の口元に残る白い名残と、いたずらっぽく微笑む表情。その指先が僕の肌に描いたのは、魔除けでも挑発でもない、ただ一つの確かな「所有」の合図でした。

浴室のドアの向こうからは、まだ始まったばかりの休日の、穏やかな日差しが差し込んでいました。

日曜日の朝。カーテン越しに届く光は、昨日よりも少しだけ高く、穏やかでした。

テーブルの上には、無残に空になったティッシュの箱が転がり、その周りには山のような白い塊が散乱しています。金曜の夜から、土曜、そして昨夜。僕たちはまるで、失われた数年分を取り戻そうとするかのように、何度も、何度も肌を重ねました。

「ねえ、もう一箱使い切っちゃったわよ。……あんた、本当に工場勤め? 精力絶倫の製造マシンか何かなんじゃないの?」

彼女はシーツにくるまったまま、床に落ちた空箱を指差して可笑しそうに笑いました。その声は、二日間出し続けた吐息のせいで少し枯れていましたが、出会った夜のあの冷ややかな響きはもうどこにもありませんでした。

僕も彼女の隣で、泥のように重い、けれど最高に心地よい倦怠感に浸りながら笑い返しました。

「自分でも信じられないですよ。一生分の射精、この週末だけで全部出し切った気がします。……もう、中身は空っぽです」

二人で声を上げて笑い合うと、その振動が繋いだままの手を通して伝わってきました。

「ねえ、見てよこれ……。嘘でしょ」

彼女が呆れたような、それでいてどこか感心したような声を漏らしました。 僕のそこは、度重なる摩擦と絶頂の代償として、カリの部分が痛々しいほどに赤く腫れ上がり、小さな粒のような突起が点々と浮き出ていました。連日の激しいピストン運動に、僕の繊細な粘膜が悲鳴を上げていたのでしょう。

「うわ……本当だ。自分でも初めて見ました、こんなの。ちょっと怖いくらいです」

僕が情けない声を出すと、彼女は自分の股間を指先でそっと押さえながら、顔をしかめて笑いました。

「あんただけじゃないわよ。私のここだって、もうヒリヒリして火を噴きそう。真っ赤になっちゃってる。……ねえ、看護師の私が診断してあげる。これはね、完全に『やりすぎ』。二人とも重症よ」

彼女はそう言いながら、腫れ上がった僕の先端を、冷たい指先でそっと撫でました。ヒリつくような痛みと、同時に込み上げる甘酸っぱいような疼き。

「責任、とってくださいね」 「ふふ、お互い様でしょ? 治るまで、しばらくお預けね。……あ、でも、見るだけならいいわよ。私の特別患者さん」

二人で互いの「名誉の負傷」を確認し合いながら、またしても可笑しさがこみ上げてきて、狭い部屋の中に笑い声が響きました。

痛みすらも、彼女と共有した濃密な時間の証。 赤く腫れた僕の「そこ」と、彼女の潤んだ「そこ」。 ボロボロになるまで愛し合った僕たちは、そのまま疲れ果てた体を引き寄せ合い、最後の休日の朝をゆっくりと味わいました。

二人で声を上げて笑い合うと、その振動が繋いだままの手を通して伝わってきました。

裏切られた傷を抱えていた看護師さんと、自家発電ばかりだった工場勤めの僕。そんな二人が、フィグサインという小さないたずらをきっかけに、ティッシュを一箱以上使い果たすほど貪欲に求め合った。そのあまりに馬鹿げた、けれど愛おしい事実が、僕たちの心を不思議なほど軽くしていました。

「……お腹、空いたわね。今度は私に作らせて」

彼女はそう言うと、僕の頬に最後の一回、優しくキスをしてベッドを抜け出しました。無毛になった僕の股間を、通りすがりに「可愛い」と指で弾いていく彼女の背中は、朝日を浴びて神々しいほどに綺麗でした。

僕たちの休日は、もうすぐ終わります。明日になれば僕は工場のラインに戻り、彼女はまた戦場のような病院へと戻っていくのでしょう。けれど、僕の右足のふくらはぎにはまだ彼女の足の感触が残り、僕の手には彼女と作ったフィグサインの熱が宿っています。

「また、金曜日の電車で。……もし気が向いたらね」

キッチンから聞こえてくる包丁の音とともに、彼女が明るい声で言いました。 僕は空っぽになった体を引きずるようにして、彼女のいる温かな光の中へと歩き出しました。

                        完