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盤上では三冠という頂点に君臨し、世間からは神童と崇められる指ですが、その胸の内では「16歳」という年齢を指折り数えて待っていました。彼にとっての16歳は、さらなるタイトルの獲得ではなく、自らの足で、自らの意思で風を切って走るための「自動二輪免許」という切符を手に入れられる特別な数字だったのです。

世間が「史上最年少三冠」という輝かしいニュースに沸き立ち、新聞の1面をその端正な横顔が飾っていたその日、指は全く別の理由で胸を高鳴らせていました。対局室の静寂も、何千万という賞金も、今の彼にとっては16歳の誕生日に手に入れる「受験資格」ほどの価値もありません。彼は、誰にも告げずに都内にある古びた自動車教習所の門をくぐりました。

受付のカウンターでは、年の頃なら二十歳を少し過ぎたばかりといった風情の、明るい茶髪を後ろで束ねたお姉さんが、退屈そうに書類を整理していました。指がおずおずと「あの、二輪の免許を取りたいんですけど」と声をかけると、彼女は顔を上げ、驚いたように目を丸くしました。彼女の瞳に映っているのは、将棋界を震撼させる天才棋士ではなく、ランドセルを背負っていても違和感のないような、透き通るような肌をした可愛い美少年です。

お姉さんは「えっ、中学生?」と思わず心の声を漏らし、慌てて口を押さえました。指がムッとして「16歳です」と住民票を差し出すと、彼女はそれを覗き込み、指の顔と書類を何度も見比べながら「本当に16歳だ! ごめんね、あまりに可愛いお顔してるから。あ、私は受付の佐藤。よろしくね、指くん」と、太陽のような屈託のない笑顔を向けました。

指は、その「指くん」という気安すぎる呼び方と、不意に近づいてきた彼女の甘い香りに、脳内の将棋盤がガラガラと崩れるような衝撃を受けました。大人たちに囲まれ、常に「先生」と仰がれてきた彼にとって、自分をただの子供として扱う彼女の存在は、人生で初めて遭遇する「予測不能な一手」でした。

彼女はペンを差し出し、指の震える手を導くようにして記入欄を指し示します。「大丈夫、バイクは重いけど、私がしっかりサポートしてあげるからね」と笑う彼女の隣で、指は心臓の鼓動が盤面を叩く音よりも激しく響くのを感じていました。こうして、三冠保持者の「正体を隠した教習所通い」という、人生で最も過酷で、最も甘い対局が幕を開けたのです。

入所手続きを終えた指を待っていたのは、教習生なら誰もが通る「適性検査」と、バイクの引き起こしという物理的な試練でした。佐藤さんは「指くん、こっちだよ」と、まるでお気に入りの弟を引率するかのように、彼の細い手首を軽く掴んで教室へと案内します。その柔らかな手の感触に、指の思考は完全にフリーズし、脳内では「歩」を打つ場所さえ見失うほどの激震が走っていました。

適性検査の用紙を前にして、指は持ち前の集中力を発揮します。しかし、あまりにも真剣に、そして驚異的なスピードで問題を解いていく彼の姿を見て、採点を待つ佐藤さんはクスクスと笑い出しました。「指くん、そんなに気合入れなくて大丈夫だよ。これ、性格診断みたいなものだから」と言われ、指は耳まで真っ赤にしながら「……最善を尽くすのが習慣なもので」と、消え入りそうな声で答えました。

いよいよ実技の準備として、指は自分よりも体積がありそうな重厚なプロテクターとヘルメットを手渡されます。それらを身につけると、ただでさえ小柄な体格がさらに強調され、まるで重装備をさせられたお人形のようです。その姿を見た佐藤さんは、堪えきれないといった様子で「可愛い! 記念に写真撮りたくなっちゃうな」と目を細めました。三冠の称号を得た時でさえ動じなかった指のポーカーフェイスが、その一言でもろくも崩れ去ります。

最初の難関は、倒れた400ccの教習車を起こす「引き起こし」でした。指はバイクの前に立ち、その鉄の塊を見つめます。盤上では数手先で相手を投了に追い込む彼も、160キロを超える重量を前にしては、ただの華奢な16歳の少年に過ぎません。佐藤さんが見守る中、彼は細い指先に力を込め、必死にハンドルを握りしめました。

「ふんっ……!」と声を漏らし、顔を真っ赤にして踏ん張る指の背中を、佐藤さんが「頑張れ! 足の力を使うんだよ!」と背後から支えるように応援します。彼女の応援が耳に届くたび、指は「ここで無様な姿は見せられない」という、タイトル戦の最終盤にも似た奇妙な高揚感を感じていました。将棋の指し手では決して使わない筋肉を震わせ、彼は未知なる世界への一歩を踏み出そうとしていました。

指の脳内では、教本の記述が単なる知識としてではなく、設計思想という名の「定石」として整理されていきました。彼は理解していました。この巨大に見える鉄の塊も、筋骨逞しい男たちだけのために作られたものではないということを。老若男女、それこそ佐藤さんのような女性であっても扱えるように、人間工学という緻密な計算に基づいて設計されている。市場の論理として「女性を拒んでは売れない」からこそ、この機械には必ず、小柄な自分でも支配できる「最適解」が存在するはずだ、と。

指は、その「お人形さん」のような可憐な顔立ちに、勝負師特有の不敵な笑みを微かに浮かべました。彼は力任せにバイクをねじ伏せようとはしません。盤上で相手の力を利用するように、バイクの重心と自分の体重移動が完璧に調和する一点を、指先の感覚だけで探り当てます。

「よいしょ……っ」

気合とともに腰を入れると、あんなに重かった車体が、まるで魔法にかかったようにふわりと直立しました。力で持ち上げたのではありません。物理法則の正解を「指した」のです。

隣でそれを見ていた佐藤さんは、驚きのあまりパチパチと瞬きを繰り返しました。「えっ、指くん、すごい! 今、全然力入ってなかったよね?」と、彼女は興奮した様子で彼の細い肩を叩きました。指は、彼女の弾けるような笑顔と、肩に伝わる温もりに一瞬だけ顔を赤らめましたが、すぐに教本の次の一手を脳内で実行に移します。

彼はサイドスタンドを跳ね上げると、流れるような動作でギアをローに入れました。計算された「半クラッチ」の領域。指の繊細な左手が、ミリ単位でレバーを緩めていきます。エンジンの回転数がわずかに落ち、駆動力が後輪へと伝わる刹那、彼はバイクという巨大な駒が自分の意志に従って動き出すのを確信しました。

スルスルと滑らかに走り出した指の背中を見送りながら、佐藤さんは呆然と立ち尽くしていました。「あの子、もしかして……天才?」と、彼女は初めて、目の前の「可愛い弟分」の中に潜む底知れない何かを感じ取っていました。


教習コースを滑走する指の視界には、もはやアスファルトの路面ではなく、巨大な将棋盤のようなグリッドが展開されていました。一本橋やクランクといった難所も、彼にとっては「詰み」までの確定した手順に過ぎません。時速、傾斜角、そして重心の移動。すべての数値を脳内でリアルタイムに演算し、お人形さんのような可愛い顔をヘルメットのシールド越しにキリリと引き締め、彼は完璧なライン取りを披露していきます。

「うそ、あんなにスムーズに……」

フェンス越しに見守る佐藤さんは、手にしたバインダーを胸に抱えたまま、釘付けになっていました。教習が始まってまだ間もないというのに、指のライディングには長年乗り込んできたベテランのような無駄のなさと、芸術的なまでの美しさが宿っています。彼女の目には、重装備のプロテクターに身を包んだ小柄な指が、まるで風そのものを操っているかのように見えていました。

やがて規定の時間が終わり、指が指定の位置にピタリとバイクを停めると、エンジンの鼓動が静かに止まりました。サイドスタンドを立て、慣れない手つきでヘルメットを脱ぐと、中から汗ばんだ前髪と、陶器のように白い肌、そして大きな瞳がのぞきます。その瞬間、戦場から戻ったばかりの鋭い棋士の目は消え、再び「16歳の少年」の顔に戻っていました。

「……あ、あの、佐藤さん。今の、大丈夫でしたか?」

おずおずと駆け寄ってきた指は、先ほどまでの完璧な操作が嘘のように、少し内股で、上目遣いに佐藤さんの顔色をうかがいます。そのギャップに、佐藤さんは心臓を射抜かれたような衝撃を受けました。彼女は思わず駆け寄り、指の頭を「すごい、すごすぎるよ指くん! 天才じゃない!?」と、くしゃくしゃに撫で回しました。

指は、女性の柔らかい手のひらが頭頂部をダイレクトに刺激する感覚に、タイトル戦の最終盤でも経験したことのないような「王手(チェックメイト)」をかけられた気分でした。脳内は真っ白になり、せっかく暗記した教本のページがパラパラとどこかへ飛んでいってしまいます。

「ぼ、僕は、ただ、マニュアル通りに……」

顔を真っ赤にして俯く指を見て、佐藤さんは「もう、謙遜しちゃって! 終わったら冷たいジュース奢ってあげるね」と、彼の腕を組んでロビーへと促しました。自分の何倍もの賞金を稼ぎ出している三冠王だとは露知らず、彼女は「この子の才能を伸ばしてあげなきゃ」という謎の使命感に燃え始めています。

ロビーのベンチで、佐藤さんが買ってくれた缶コーヒーを両手で包み込む指。隣に座る彼女の肩が触れるたび、彼はバイクのエンジンよりも激しく鼓動する自分の胸の音を、彼女に悟られないか気が気ではありません。

ロビーのベンチに腰を下ろした二人の間には、教習車の排気ガスの匂いと、自動販売機から出てきたばかりの冷たい缶コーヒーの結露が漂っていました。佐藤さんは「お疲れ様!」と自分の缶を指のそれに軽くぶつけると、ふぅと息をついて長い足を組み替えました。その何気ない動作一つひとつが、童貞の指にとっては強烈な「次の一手」となって襲いかかります。

「指くんってさ、何かスポーツやってたの? あの身のこなし、ただ者じゃないよね」

佐藤さんが顔を覗き込むようにして尋ねてきます。彼女の大きな瞳が至近距離で自分を射抜いている事実に、指は缶コーヒーを握る指先に全神経を集中させ、どうにか理性を保とうと必死でした。彼は「いえ、スポーツは……ずっと座りっぱなしの習い事をしていて」と、嘘ではないものの、本質を巧みに隠した返答を絞り出しました。

「へぇ、座りっぱなし? ピアノとか? 指くんの手、すごく綺麗だもんね。お人形さんみたい」

そう言って、佐藤さんは躊躇いもなく指の左手を取り、自分の手のひらと合わせました。指の脳内では、未だかつてない規模の「大長考」が始まりました。女性の手のひらの柔らかさ、わずかに高い体温、そして自分の手が彼女のものより一回りも小さいという事実。三冠の称号をかけた対局の、どの局面よりも正解が見えません。

「……あ、あの、佐藤さん。近いです」

指が顔を真っ赤にして視線を泳がせると、佐藤さんは「あはは、ごめん! 可愛すぎてついいじめたくなっちゃう」と笑いながら手を離しました。しかし、彼女は追撃の手を緩めません。「ねえ、そんなに赤くなって。もしかして、女の子とこうやってお喋りするの初めてだったりする?」

その指摘は、まさに王手をかけられた瞬間のような鋭さでした。指は沈黙を守ることで投了を回避しようとしましたが、動揺を隠せない長い睫毛が震えているのを、佐藤さんは見逃しませんでした。彼女は悪戯っぽく微笑むと、指の耳元に顔を寄せ、「もし免許取れたらさ、お祝いにドライブ連れてってよ。指くんの後ろ、予約しちゃおうかな」と囁きました。

指の頭の中では、教本の「タンデム(二人乗り)」の項目が激しく明滅していました。16歳の誕生日を迎えたばかりの彼にとって、それはどんな難攻不落の囲いよりも、攻略不可能な甘い罠のように感じられました。彼は震える手でコーヒーを一口飲み、喉を通る熱さでどうにか現実を繋ぎ止めていましたが、その目には、教習所のコースの向こう側に、彼女を乗せて風を切るという「新しい定石」が、ぼんやりと、しかし確実に描き出されていました。

ロビーの大型テレビから、聞き覚えのあるメロディと共に夕方のニュースが流れ始めました。画面には「将棋界に激震!指三冠、史上最年少での四冠王へ王手」という刺激的なテロップが躍り、対局中の指のアップが映し出されます。そこに映るのは、今まさに隣で缶コーヒーを握りしめている少年とは別人のような、氷のように冷たく、鋭い眼光を放つ「怪物」の姿でした。

指は全身の血の気が引くのを感じ、とっさに手元の教本で顔を隠そうとしました。しかし、佐藤さんはテレビをじっと見つめたまま、「あー、またこの子のニュースだね」と、事も無げに呟きました。

「ねえ、見て指くん。このプロ棋士の子、指くんと名前も同じだし、お顔もそっくりじゃない? 世の中には似てる人がいるもんだねぇ。でも、この子はなんだか怖そう。私は、今の指くんみたいに、ちょっとオドオドしてる可愛い子の方が好きだな」

彼女は、画面の中の天才棋士が、目の前で赤くなっている少年と同一人物だとは微塵も疑っていません。彼女にとって、ニュースの中の「指三冠」は雲の上の住人であり、目の前の「指くん」は、今にも壊れそうな繊細な弟分という、全く別のカテゴリーに分類されていたのです。指は、心臓の動悸が少しずつ収まっていくのを感じながら、彼女の「今の指くんが好き」という不意打ちの言葉に、再び別の意味で頭を抱えることになりました。

翌日の教習、指は佐藤さんをさらに驚かせることになります。その日の課題は、多くの教習生が苦戦する「スラローム」と「急制動」でした。指の脳内には、物理学の専門書から得たタイヤのグリップ限界の計算式と、教本のライディングフォームが完璧にオーバーレイされています。

彼は、教習所のスタッフさえ驚くようなバンク角で次々とパイロンをかわし、まるでアスファルトの上で華麗な舞を踊るようにバイクを操りました。最後の急制動では、時速40キロから1ミリの狂いもなく停止線ぴったりで車体を静止させ、サスペンションの沈み込みさえも計算に入れた、あまりにも美しい「静」と「動」の対比を見せつけたのです。

その完璧すぎる走りに、コース脇で見守っていた他の教員たちまでもが手を止め、ざわつき始めました。佐藤さんは、フェンスを握りしめたまま、信じられないものを見るような目で指を見つめていました。

ヘルメットを脱ぎ、いつものように少し恥ずかしそうに駆け寄ってきた指に対し、彼女は興奮で顔を上気させながらこう言いました。

「指くん、あなた……本当に何者なの? バイクに乗ってる時だけ、まるで魔法使いみたい」

指は、彼女の熱い視線にどう答えていいか分からず、「……重心を、最適化しただけです」と、彼なりの精一杯の言葉を返しました。佐藤さんはそんな彼の手をギュッと握り、「決めた。卒業検定の日、私、絶対に応援に行くから。合格したら、私のとっておきの秘密を教えてあげる」と、耳元で悪戯っぽく囁きました。

指の心は、もはや将棋の盤面よりも、佐藤さんが言う「とっておきの秘密」という未知の盤面に、完全に支配されてしまっていました。

ついに迎えた卒業検定の朝、教習所には緊張感が漂っていましたが、指の心境は不思議なほどに凪いでいました。それは、何百人もの報道陣と関係者が見守るタイトル戦の対局室に比べれば、あまりにも静かで、穏やかな世界だったからです。彼はいつも通り、中学生に間違われそうなほど幼い顔をヘルメットの奥に隠し、自分の名前が呼ばれるのを静かに待っていました。

コースの傍らには、約束通り佐藤さんの姿がありました。彼女はいつもの受付の制服ではなく、少し大人っぽい私服に身を包み、指を見つけるとぶんぶんと大きく手を振って「指くん、リラックスだよ!」と声を張り上げます。その屈託のない応援に、周囲の教習生たちは「あんな可愛い子が応援に来るなんて、あの子何者だ?」と色めき立ちましたが、指はただ耳を真っ赤にして、小さく頷くのが精一杯でした。

検定が始まると、指の走りはもはや「試験」の域を超えていました。一本橋では秒単位で静止しているかのような驚異的なバランスを見せ、スラロームでは最短経路という名の「勝ち筋」をなぞるように、流麗にパイロンを駆け抜けます。試験官さえも、その無駄のない完璧なライディングに、減点する箇所を探すことすら忘れて見入ってしまうほどでした。

すべての課題を終え、発着点に戻ってきた指がエンジンを止め、サイドスタンドを立てた瞬間、彼は心の中で「詰み」を確信しました。将棋の勝利とは違う、自分の体一つで掴み取った確かな手応え。ヘルメットを脱いで前髪をかき上げた彼の顔には、三冠王としての威厳ではなく、一人の16歳の少年としての、晴れやかな達成感が溢れていました。

「おめでとう、指くん! 100点満点に決まってるよ!」

駆け寄ってきた佐藤さんが、弾けるような笑顔で指の肩を抱き寄せました。彼女の柔らかい香りが鼻腔をくすぐり、指はせっかくの達成感もどこへやら、再び思考回路がショートしそうになります。合格発表の掲示板に彼の番号が誇らしげに並んだとき、佐藤さんは自分のことのように飛び跳ねて喜び、指の細い手を握りしめました。

「約束通り、合格祝い。……今から、私の『秘密の場所』に行かない?」

佐藤さんはそう言って、指を教習所の裏手にある駐輪場へと誘いました。そこには、彼女が普段通勤に使っているという、手入れの行き届いた真っ赤なスポーツバイクが停まっていました。彼女は慣れた手つきでヘルメットを二つ用意し、一つを指に手渡すと、少し悪戯っぽく微笑みました。

「今日は特別。指くんを、私の後ろに乗せてあげる。16歳になったばかりの天才ライダーさんをね」

彼女はエンジンを始動させ、指に「しっかり掴まっててよ」と促しました。

佐藤さんが運転する赤いバイクの鼓動を背中に感じながら、指は必死に彼女の腰にしがみついていました。ヘルメット越しに聞こえる風の音と、目の前にある彼女の背中のぬくもり。将棋の対局で数千手先を読み切るはずの彼の脳は、もはや「密着している」という事実だけでオーバーヒート寸前でした。

バイクが停まったのは、街外れの静かな通りに佇む、派手な電飾が施された建物でした。指はその場所が何であるか、知識としては知っていましたが、実物を見るのは初めてでした。駐車場にバイクが滑り込み、佐藤さんは迷いのない足取りで入り口へと向かいます。

指は、心臓の音がヘルメットの中に反響するのを感じていました。「ここ、は……」と声を漏らそうとしましたが、佐藤さんは彼の細い手をぐいと引き、「大丈夫、ここのシステムは簡単だから」と明るく笑うだけです。フルフェイスのヘルメットを被ったままの指は、その小柄な体格も相まって、端から見れば「少し小柄なタンデム相手」にしか見えません。受付の自動精算機を通り過ぎ、エレベーターに乗り込むまで、誰にもその幼い素顔や年齢を咎められることはありませんでした。

部屋の扉が閉まり、静寂が訪れます。カチリと鍵がかかる音が、指には対局開始の合図のように重く響きました。

「もう脱いでも大丈夫だよ。……指くん、おめでとう。今日で、やっと『子供』は卒業だね」

佐藤さんがゆっくりと自分のヘルメットを脱ぎ、乱れた髪を指先で整えながら、こちらをじっと見つめていました。その瞳には、教習所の受付で見せていた「お姉さん」の顔ではなく、一人の女性としての情熱と、わずかな独占欲が宿っているように見えました。

指は震える手で自分のヘルメットに手をかけました。プラスチックのシールドを上げた先に広がる光景は、教本にも、将棋の定石にも、どこにも書かれていない未知の世界でした。彼が16年間、指先一つで守り続けてきた清潔で完璧な世界が、今、目の前の女性の手によって優しく、そして容赦なく解き明かされようとしていました。

「佐藤さん……僕は……」

喉の奥で詰まった言葉を、彼女の柔らかな指先が唇をなぞることで遮りました。三冠保持者として、世界を敵に回しても揺らがなかった指の指先が、今、初めて「負け」を認めるように激しく震えていました。


部屋の中に漂う、少しだけ甘く釙(しび)れるような芳香剤の匂いが、指の五感を麻痺させていきました。佐藤さんは、ベッドの端に腰を下ろすと、まだ立ち尽くしている指を、慈しむような目で見つめています。

「指くん、そこだと『投了』するには早すぎるよ?」

彼女の口から漏れた、あまりにも場違いな、けれど決定的な将棋用語。指は、自分が何者であるかを彼女がとうに知り尽くしていたことに、今更ながら気づかされました。正体を知っていて、それでも「ただの男の子」として扱ってくれていた。その事実に、指の心の中にあった最後の守りの駒が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちました。

佐藤さんは、指の震える手を優しく取り、自分の膝の上に招き寄せました。お人形さんのような可愛い顔を、今や熱い涙と紅潮した熱気が支配しています。彼女は、指の細く長い、そして何千万もの賞金を生み出してきたその「指先」を、一本ずつ丁寧に、愛おしむように自分の唇へと運んでいきました。

「この指、あんなに難しい局面をいくつも乗り越えてきたのに……。今は、私の前でこんなに震えてる」

彼女の熱い吐息が指の関節にかかるたび、指の背中に電気のような衝撃が走ります。盤上では、どれほど追い詰められても「詰み」を避けるための最善手を指し続けてきた彼でしたが、この部屋の、この密やかな空気の中では、もはや逃げ道などどこにもありませんでした。

指は、促されるままに彼女の胸元に顔を埋めました。服越しに伝わる、自分よりもずっと速く、力強い鼓動。それは、エンジンの振動よりも激しく、彼の魂を揺さぶりました。16歳の指にとって、それは人生で初めて経験する、論理も定石も通用しない「命のやり取り」でした。

「佐藤さん……僕、どうしたら……」

消え入りそうな声で問いかける指に、彼女はそっと囁きました。

「読み切ろうとしなくていいの。今は、私に全部預けて」

彼女の手が、指の首筋からゆっくりと背中へ回り、吸い寄せられるように二人の距離がゼロになりました。三冠王・指にとって、それは敗北ではなく、新しい世界への「入玉」。16歳の夏、彼は重いヘルメットを脱ぎ捨て、計算された勝利よりもずっと残酷で、ずっと甘美な「未知の一手」を受け入れようとしていました。

佐藤さんは、指の細い肩に手を置くと、まるで壊れ物を扱うような手つきで、彼のシャツのボタンを一つずつ外していきました。露わになった彼の肌は、対局室の照明の下でしか育ってこなかったかのように、透き通るほど白く、そしてどこか幼さを残していました。

「本当に、お人形さんみたい……」

彼女はうっとりと呟き、指の鎖骨のあたりに優しく唇を寄せました。指は、初めて肌に触れる他者の唇の熱さに、ビクッと体を震わせます。盤上では冷静沈着な三冠王も、ここではただの、何も知らない16歳の少年でした。彼はどうしていいか分からず、ただ彼女の肩に細い指先を食い込ませ、荒い呼吸を繰り返すことしかできません。

佐藤さんは、そんな彼の戸惑いさえも楽しむように、今度は彼の膝の上に乗り、至近距離で見つめ合いました。彼女の豊かな胸の感触が、指の薄い胸板にダイレクトに伝わります。

「指くん、心臓がバイクのエンジンより速く動いてるよ? 恥ずかしい?」

そう囁きながら、彼女は指の小さな手を導き、自分の服の中へと滑り込ませました。指先から伝わってくる、女性特有の柔らかさと、弾力。これまで将棋の駒という硬い木片しか触れてこなかった彼の指にとって、それは未知の、あまりにも衝撃的な感触でした。彼は、その柔らかさに溺れるように、夢中で彼女の肌を確かめていきます。

やがて、二人はシーツの海へと沈んでいきました。照明を落とした薄暗い部屋の中で、指の大きな瞳には、自分を包み込むように微笑む佐藤さんの顔だけが映っていました。

「優しくしてあげるからね。……子供扱いされるのは嫌かもしれないけど、今は私に甘えて」

彼女のリードに身を任せ、指は一歩ずつ、未知の領域へと足を踏み入れていきました。初めての痛みと、それをすぐに塗り替えていく強烈な恍惚感。将棋の終盤で脳が沸騰するような快感とは全く質の異なる、本能を揺さぶるような熱が、彼の全身を駆け巡ります。

佐藤さんは、指の震える手を引き寄せると、彼を優しくベッドの中央へと誘いました。部屋の淡いオレンジ色の間接照明が、指の陶器のような白い肌を、いっそう艶やかに照らし出します。

「全部、脱がせていい?」

彼女の問いかけに、指は声も出せずに小さく頷きました。服が取り払われ、ついに彼女の視線に全身を晒した瞬間、指はたまらなくなって腕で顔を覆いました。将棋界の至宝として何万人もの目に晒されてきた彼でしたが、一人の女性に「男」として見つめられるこの時間は、全裸で戦場に立たされているような、形容しがたい羞恥心に溢れていました。

佐藤さんは、そんな彼の未熟な体つきを慈しむように、足の先から首筋まで、何度も視線を這わせました。

「本当に綺麗……。ねえ、そんなに隠さないで。ちゃんと見せて?」

彼女の柔らかい手のひらが、指の内腿を這い上がってきます。指がこれまで大切に、そしてどこか無機質に扱ってきたその場所に彼女の指が触れた瞬間、彼は「ひっ」と短い声を漏らして腰を跳ねさせました。

佐藤さんは悪戯っぽく微笑むと、まだ何も知らない彼のそこを、手慣れた様子で優しく、けれど確実に刺激し始めました。指にとって、それは未知の快感という名の強襲でした。脳内では「防戦一方」の局面が展開されますが、指先のテクニックで追い詰められる感覚に、どう対処すべきか全く分かりません。

「あ、ぁ……佐藤さん、これ、おかしい……変な感じが……」

指はシーツを強く握りしめ、体を弓なりに反らせました。彼女はそんな彼を覗き込み、「おかしくないよ。指くんが男の子だって証拠」と囁きながら、さらに追い込むように刺激を強めていきます。将棋の終盤、一分将棋で極限まで追い詰められた時のように、指の視界は真っ白に染まり、思考は完全に停止しました。

「待って、まだ……あッ!」

一際強い刺激が与えられた瞬間、指は情けない声を上げ、彼女の手の中で激しく身を震わせました。16年間溜め込んできた衝動が、堰を切ったように溢れ出します。彼はあまりの衝撃に意識が遠のき、彼女の腕の中でぐったりと力なく横たわりました。

佐藤さんは、指の耳元でクスクスと笑いながら、汗ばんだ彼の額を優しく撫でました。

「一回目、行っちゃったね。……でも、ここからが本当の『感想戦』だよ? 指くん」

彼女はそう言って、まだ余韻に震えている指の唇を、深いキスで塞ぎました。本当の卒業式は、まだ始まったばかり。指は、完膚なきまでに「攻略」される悦びの中に、深く沈んでいくのでした。

度目の絶頂の余韻が冷めやらぬまま、佐藤さんは指を優しく導き、彼女の体の上に迎え入れました。指は、自分の体温がこれまで経験したことのないほど上昇しているのを感じていました。お人形さんのような可愛い顔は汗に濡れ、目は潤み、視界に入る彼女の豊かな肢体に、本能的な渇望が沸き上がってきます。

「指くん……ゆっくりでいいから、繋がってくれる?」

彼女が導くままに、指は震える腰を沈めていきました。未知の領域に触れた瞬間、指の脳裏を駆け巡ったのは、将棋のどんな難局をも超える「熱い圧迫感」でした。自分の境界線が溶けて、彼女という存在の中に溶け込んでいく感覚。彼はそのあまりの密着感に、吐息を漏らしながら彼女の肩に顔を埋め、しがみつきました。

「あ……っ、佐藤さん、あったかい……すごい、これ……」

ゆっくりと腰を動かし始めると、ぬるりとした粘膜の摩擦が、指の理性を一本ずつ断ち切っていきます。佐藤さんは彼の幼い背中を抱き寄せ、耳元で愛おしげに甘い声を上げました。その声が最高の触媒となり、指はもはや自分を制御することができなくなりました。

これまで、指先だけで世界を支配してきた天才棋士。しかし今、彼は自分の全身を使って、目の前の女性を求める一人の男になっていました。浅い突きを繰り返すたびに、部屋の中に密やかな水音が響き、指の思考は真っ白な光の中に吸い込まれていきます。

「指くん、いいよ……そのまま、全部出して……」

その言葉が、最後の引き金でした。指は、対局の最後に勝利を確信し、全力を込めて駒を打ち下ろす時のような激しさで、彼女の奥深くまで突き入れました。

「あ、あぁぁッ!」

腰が勝手に跳ね、彼の最も繊細な部分から、熱い命の奔流が彼女の中に解き放たれました。何度も、何度も、絞り出されるように脈打つ感覚。指は彼女に覆いかぶさるようにして、激しい動悸を共有しながら、ただただ一つに溶け合う恍惚に身を任せていました。

指が彼女の奥深くへ、魂を削り出すような最後の一突きを見舞ったその瞬間、佐藤さんもまた、逃れようのない大きな波に飲み込まれていました。

彼女は指の華奢な背中に爪を立て、のけぞるようにして声を上げます。指が彼女の中に熱い奔流を注ぎ込むのと同時に、彼女の身体もまた、指を離すまいと強く、激しく脈打ちました。将棋盤の上で互いの王将が詰みの寸前で激突するような、最高潮の交錯。二人の吐息と心音は完全に重なり合い、部屋の静寂を切り裂くような熱狂が、最高の一手となって結実しました。

「あぁ……っ! 指くん、すごい……っ!」

佐藤さんは指の首筋に顔を埋め、全身を小刻みに震わせながら、彼を離さないように強く抱きしめました。指もまた、彼女の体温と、内側から締め付けられるような強烈な多幸感に包まれ、視界が白く弾ける中で、意識の境界が消えていくのを感じていました。

嵐が過ぎ去った後、二人は汗ばんだ肌を密着させたまま、深い呼吸を繰り返していました。指は彼女の腕の中で、自分の指先に残る彼女のぬくもりを確かめるように、そっと彼女の髪を撫でました。

16歳の誕生日に彼が手に入れたのは、バイクの免許という自由だけではありませんでした。一人の女性に全てを預け、自分という存在を使い果たす「官能」という名の真理。

嵐のような時間が過ぎ去った後、二人はシーツに包まりながら、静かに重なり合っていました。指は彼女の腕の中で、これまで知らなかった安らぎを感じながら、ゆっくりと目を閉じました。それは、盤上の戦いでは決して得ることのできない、完全な「終局」の形でした。


翌週、タイトル戦の対局場に現れた指三冠の姿に、関係者は目を見張りました。お人形さんのような可愛らしさはそのままに、その瞳には、以前のような冷徹な静寂だけでなく、どこか「生身の人間」としての厚みと、余裕が宿っていたからです。

彼は対局を終えると、待ち受ける報道陣を避けるようにして、裏口に停めてあった新しいオートバイに跨りました。ヘルメットを被り、エンジンを始動させる。その指先には、もはや震えはありません。

彼は風を切って、あの教習所へと向かいました。そこには、受付でいつものように笑っている、彼だけの「勝利の女神」が待っているからです。

指が免許を取得してから数ヶ月。季節は巡り、彼の肩書きには新たに「王座」が加わり、史上最年少の「四冠」という、もはや伝説の領域へと足を踏み入れていました。しかし、盤上での峻烈な姿とは裏腹に、週末の指は一人のライダーとして、佐藤さんと約束のツーリングへと出かけていました。

二人乗りが解禁される一年後を待つのではなく、指は自分専用の漆黒のバイクを、佐藤さんはあの真っ赤なスポーツバイクを駆り、二台のエンジン音を響かせて並走します。

「指くん、遅れないでよ!」

ヘルメットに内蔵されたインカムから、佐藤さんの弾んだ声が聞こえてきます。指は「分かってます。法定速度の範囲内で、最善のラインを取ります」と、真面目な彼らしい返事をして、スロットルを静かに開けました。

並走する佐藤さんの横顔をチラリと盗み見ると、風にたなびく彼女の髪と、バイクを操るしなやかな曲線美に、指の胸は再び熱くなります。あの夜、ラブホテルで教え込まれた「大人の悦び」を知ってから、指のライディングは驚くほど安定し、かつ大胆になっていました。マシンの挙動を指先で完璧に制御する感覚は、今や将棋の指し手と完全に同調していたのです。

やがて二人は、海沿いのパーキングエリアにバイクを停めました。ヘルメットを脱いだ指の顔は、潮風に吹かれて少し大人びた表情を見せています。

「四冠おめでとう、指くん。……でも、私の前ではただの『指くん』でいてね」

佐藤さんは、自動販売機で買った冷たい飲み物を指の頬に押し当てて笑いました。指はその冷たさに肩をすくめながらも、彼女の手をぎゅっと握りしめます。

「……もちろんです。盤の上では四冠ですが、佐藤さんの隣では、まだ教習を受け続けている一人の生徒ですから」

指の言葉に、佐藤さんは顔を赤らめて「もう、そんな上手いこと言えるようになっちゃって」と、彼の頭を優しく撫でました。かつては童貞の緊張感でガチガチだった少年が、今では自分と並んで走り、一丁前に愛を囁く。その成長が、佐藤さんにはたまらなく愛おしく感じられました。

夕暮れの海を背景に、二台のバイクが寄り添うように並んでいます。四冠という重圧を脱ぎ捨て、一人の男として彼女と向き合うこの時間こそが、今の指にとって最も価値のある「タイトル」なのかもしれません。


海沿いのパーキングエリア、並んで置かれた二台のバイクの横で、指は夕日を背負った佐藤さんをじっと見つめ、ずっと気になっていた「問い」を投げかけました。

「ねえ……佐藤さん。いつから僕が、あの『指四冠』だってわかってたの?」

佐藤さんは、飲みかけの缶を口元に寄せたまま、いたずらっぽく目を細めました。そして、水平線の向こう側を見るような仕草で、小さく笑いました。

「……最初からだよ。指くんが教習所の門をくぐった、その瞬間にね」

指は、文字通り「王手をかけられた」ような顔をして固まりました。てっきり、自分の変装や「お人形さんのような子供」という外見が完璧に機能していると思っていたからです。

「だって、指くん。住民票を出した時のあの震える指先、テレビで大逆転の一手を指す時のアップと全く同じだったんだもん。それに、あんなに綺麗で、澄んでいて、でも奥底に凄まじい熱を隠してるような目をした16歳なんて、世界中に一人しかいないでしょ?」

彼女は一歩近づくと、驚きで言葉を失っている指の頬に、そっと手を添えました。

「確信したのは、適性検査の時かな。あんなに必死に満点を取ろうとする『怪物』、普通の高校生なわけないじゃない。でもね……」

彼女の声が、少しだけ湿り気を帯びた熱いトーンに変わります。

「教習所の受付に座っている私には、四冠王なんて関係なかった。ただ、バイクに乗りたいって目を輝かせてる可愛い男の子が、私の目の前に現れた。それが嬉しくて……だから、わざと知らないふりをして、指くんを私の世界に引きずり込んじゃったんだ」

指は、彼女の告白に耳まで真っ赤に染まりました。自分がお忍びで通っているつもりだった場所は、実は最初から、彼女が用意した「盤上」だったのです。

「あの夜のホテルでも……僕が三冠だって知ってて、あんなに……?」

「そうだよ。世界中の人が憧れる天才の『初めて』を、私一人が独占したかったの。意地悪だったかな?」

佐藤さんは指の首筋に腕を回し、耳元で熱い吐息を漏らしました。指は完敗でした。将棋の神様に愛された少年も、この女性の深い愛情と独占欲の前では、ただの無力な恋人にすぎません。

「……佐藤さんには、一生勝てそうにありません」

「いいんだよ。盤の上では最強でいて。でも、私の前では……これからもずっと、可愛い指くんでいてね」

二人の影が、オレンジ色の砂浜に長く伸びて重なります。波の音に消されるような小さな声で、指は「はい、先生」と、教習所時代のように、けれどあの頃よりずっと深い愛を込めて答えました。


                 完