窓の外には、彼女たちが通っていた女子高の校舎が夕日に焼けて見えている。指(ゆび)が企画課長として座るデスクからは、毎年春になると、真新しい制服を脱ぎ捨ててこの古びたオフィスへとやってくる少女たちの、緊張した背中がよく見えた。

地元の女子高からの定期採用。それはこの会社における、ある種の伝統のようなものだった。そして指にとって、その数年分の記憶の中で、みなこだけは最初から特別な色彩を帯びていた。

四〇歳、バツイチ。かつて家庭という居場所を守れなかった男にとって、会社という場所は唯一の平穏な戦場だった。課長という肩書きは、若さという眩しさから自分を隔絶するための防壁でもあった。部下として入社してきた時のみなこの、まだ幼さの残る丸い頬や、少し困ったように眉を下げる癖を、指は適度な距離を保ちながら「お気に入り」という自分への言い訳の中に閉じ込めてきた。

だが、時間は残酷なほど平等に流れる。

「指課長、企画書の修正、終わりました」

不意に声をかけられ、指は意識を引き戻した。いつの間にかデスクの傍らに立っていたみなこが、少しだけ得意げに書類を差し出している。彼女の指先が、書類の端で微かに自分の手に触れそうになる。入社したばかりの頃の、あのおどおどとした面影はもう薄い。

ふわりと漂ったのは、彼女が好んでつけているらしい石鹸の香りと、それ以上に生々しい、大人の女性へと脱皮しつつある者の気配だった。

指は、彼女の差し出した書類を受け取ると、あえて視線を上げずに「ありがとう、助かるよ」と短く応えた。自分の声が、自分でも驚くほど低く、掠れていることに気づく。

彼女を、ただの「優秀な部下」として可愛がっているつもりだった。近所の女子高から来た、どこにでもいる女の子の一人として見ていたはずだった。しかし、離婚以来、凪のようだった指の心に、彼女という存在が落とす波紋は、年を追うごとに大きく、そして深くなっている。

それは決して口にしてはならない独白だ。職責も、年齢差も、そして何より自分の過去も。それらすべてが、彼女を見つめる指の瞳を重く沈ませていた。それでも、彼女がデスクへと戻っていく後ろ姿を目で追ってしまう自分を、指はどうすることもできなかった。

指の胸の内にあった密かな熱は、ある日の昼休み、誰もいない給湯室から漏れ聞こえてきた会話によって、冷や水を浴びせられたかのように凍りついた。

みなこには、同期入社の男がいた。営業部の若手で、指から見ればまだ青臭さの抜けない、だが未来に何の疑いも抱いていないような輝きを持つ青年だった。二人が付き合っているという噂は、以前から社内でさざ波のように広まってはいた。しかし、指はそれを聞かないふりをし、自分の視界に入る「部下としてのみなこ」だけを真実だと思い込もうとしていた。

だが、現実は残酷だった。

「式の準備、少しずつ進んでるよ」

扉の隙間から聞こえた彼女のその声は、指がこれまで聞いたことのないほど甘く、確かな幸福に満ちていた。結婚。その二文字が、指の脳内で鋭い棘となって突き刺さる。かつて自分が一度は手にし、そしてこぼれ落としたその約束を、彼女は今、あのアリバイのような笑顔の裏側で、着実に育んでいたのだ。

指は、手に持っていた空のマグカップを握りしめた。企画課長として、彼女の成長を一番近くで見守ってきた自負があった。彼女が仕事で失敗して涙を浮かべた夜も、初めて大きな企画を通した日の誇らしげな顔も、すべて自分の特別なコレクションのように心に刻んできた。しかし、それらはすべて、彼女にとっては「会社での出来事」に過ぎず、彼女の本流である人生は、自分とは全く別の、若い男との間に流れていたのだ。

バツイチ、四十歳。もはや新しい命を育むような若さも、無謀な情熱も持ち合わせてはいない。自分がみなこに向けていた感情がいかに身勝手で、そして取り返しのつかないほど歪んでいたかを突きつけられる。

午後、デスクに戻った指の前に、みなこが何食わぬ顔でやってきた。

「課長、来月お休みをいただきたいんです。あの、親族の集まりがありまして」

その瞳には、嘘と、それを隠し通せているという確信があった。親族の集まりなどではない。きっと、結婚に向けた両家の顔合わせか、あるいは新居の下見にでも行くのだろう。指は、胃の奥が焼けるような感覚を覚えながらも、長年培ってきた「上司の仮面」を貼り付けた。

「わかった。調整しておこう。……おめでとう、と言っておけばいいのかな」

わざとぼかした言い方に、みなこが一瞬だけ戸惑ったような、それでいてどこか冷ややかな光を瞳に宿したのを指は見逃さなかった。彼女はすべてを察しているのかもしれない。この、年上の上司が向けてくる粘りつくような視線の正体を。その上で、彼女はあえて踏み込ませず、幸福な未来へと逃げ切ろうとしている。

指の心の中に、濁った暗い感情が静かに溜まり始めた。ただのお気に入りだったはずの彼女が、手の届かない場所へ行こうとしている。その事実が、彼の中に眠っていた身勝手な独占欲に、初めて火をつけた。

それは、雨の予感が空を低く垂れ込めさせた木曜日の午後だった。

指は、デスクに積み上がった書類の山を眺めながら、自分の中に広がる空洞を持て余していた。彼女が結婚するという現実を知ってから、オフィスの空気は以前より冷たく、よそよそしく感じられた。彼女の幸せを願うべき上司としての自分と、剥き出しの喪失感に震える一人の男としての自分が、胸の中で絶えずせめぎ合っている。

「指課長」

聞き慣れたはずの声に、心臓が跳ねた。見上げると、そこにはいつもの事務服姿のみなこが立っていた。しかし、その瞳はいつになく真剣で、どこか挑発的な光を孕んでいるように見えた。

「今度の土曜日、空いていますか」

指は、手にしていたペンを置いた。周囲に他の社員がいないことを確認してから、できるだけ平静を装って問い返す。 「土曜日か。……何か、急ぎの案件でもあったかな」 「いえ、仕事ではありません。ホテルを、予約したんです」

その言葉の響きに、指は耳を疑った。結婚を控えた彼女が、なぜ自分にそんなことを口にするのか。動揺を隠せない指を真っ直ぐに見つめたまま、みなこは淡々と、けれど拒絶を許さないトーンで言葉を継いだ。

「彼、その日は遠くへサーフィンに行くらしいんです。だから、私を連れて行ってください。課長と一緒に、そこへ行きたいんです」

指の頭の中は、真っ白な霧に包まれたようになった。彼氏はサーフィン、彼女は自分とホテルへ。そのあまりに直截的な誘いは、これまで彼女に抱いてきた清廉なイメージを根底から覆すものだった。

彼女は、指が自分に向けている感情に気づいていないわけではなかったのだ。それどころか、その重苦しい思慕をすべて理解した上で、この「最後の手遊び」を仕掛けてきたのではないか。あるいは、結婚という安定した未来を手に入れる前に、自分を可愛がってくれた年上の男の理性を、完膚なきまでに破壊してみたいという残酷な好奇心だろうか。

「……本気で言っているのか」 絞り出すような指の問いに、みなこは小さく微笑んだ。それは、入社当時に見せていたあの無垢な笑顔とは似て非なる、完成された女の微笑だった。

「はい。予約の名前も、もう取ってありますから」

指は、自分の指先が微かに震えているのを自覚した。バツイチ、四十歳。良識ある大人として、上司として、ここで彼女を嗜め、追い返すべきなのは分かっている。しかし、失意の底にいた彼にとって、彼女が投げたその毒入りの蜘蛛の糸は、あまりにも魅惑的で、抗いがたい輝きを放っていた。

外では、ついに雨が降り始めていた。アスファルトを叩く鈍い音が、指の理性を少しずつ削り取っていく。彼は逃げ場を失ったまま、目の前に立つ、かつての「お気に入り」の瞳の奥へと、深く沈み込んでいった。

土曜日の午後、指定されたホテルのラウンジは、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

指は、約束の時間の十五分前にはロビーに到着していた。鏡に映る自分の姿は、普段の仕事着よりも少しだけ質の良いジャケットに身を包んでいる。それがかえって、分不相応な場所へ足を踏み入れようとしている背徳感を際立たせていた。

「お待たせしました、課長」

背後からかかった声は、いつものオフィスで聞くものより、ずっと低く、湿り気を帯びていた。振り返ると、そこには私服姿のみなこが立っていた。彼女の白い肌を強調するような深い紺色のワンピース。それは、指がこれまで見てきた「女子高上がりの新人」という枠組みを、無慈悲に、そして鮮やかに打ち砕くものだった。

二人はほとんど言葉を交わすことなく、エレベーターに乗り込んだ。上昇する密閉された空間の中で、彼女の使う石鹸の香りが、少し強くなった気がする。指は正面の鏡に映る二人を見た。白髪が混じり始めた四十歳の男と、人生の絶頂期にあるような若い女。そのコントラストが、指の喉をカラカラに乾かせた。

部屋に入り、重厚なドアが閉まった瞬間、カチリと鍵が掛かる音が室内に響いた。

みなこは窓際まで歩いていき、重いカーテンを少しだけ開けた。そこからは、二人が日々を過ごす街が、ジオラマのように小さく見えた。

「……彼氏は、今頃海にいるのか」

沈黙に耐えかねて、指が問いかけた。それは、自分が今犯している過ちを、自分自身に確認させるための自傷行為に近い言葉だった。みなこは振り返らず、ガラス越しに外を見つめたまま応えた。

「ええ、きっと。波がいいって、朝から嬉しそうに出かけていきました。私のことなんて、これっぽっちも思い出さないくらいに夢中で」

彼女の声には、怒りも悲しみも混じっていない。ただ、ひどく冷めた事実だけがそこにあった。彼女はゆっくりと指の方へ向き直ると、ベッドの端に腰を下ろした。

「課長は、私のこと、ずっと見ててくれましたよね。入社した時から」

「……それは、上司としてだ」

「嘘。……わかっていますよ、そんなの。私のこと、本当はどう思っているのかくらい」

みなこの瞳が、指の視線を捕らえて離さない。指は、自分の心臓が肋骨を叩く音を、これほどまでに大きく聞いたことはなかった。彼女は結婚する。若い、未来ある男と。その事実が、今のこの状況をいっそう歪で、抗いがたいものにしていた。

「今日は、彼氏のことも、会社ことも、全部忘れてください。指さんが、ずっと私に向けていたあの目……今日は、そのままの私を見てほしいんです」

彼女が自ら「課長」ではなく「指さん」と名前を呼んだ瞬間、指の中にあった最後の防波堤が崩れ落ちた。それは、失意と、執着と、そしてどうしようもない孤独が混ざり合った、破滅への入り口だった。

これまで何度も、会社で彼女に指示を出し、書類を手渡してきたはずの自分の手が、今は鉛のように重い。指先を少し伸ばせば、彼女の柔らかな肩に触れることができる。だが、その数センチの距離は、四〇年の人生で築き上げてきた自尊心と、社会的な理性が必死に守り続けてきた最後の境界線でもあった。

「……みなこさん、君は、本当にこれでいいのか」

掠れた声で、指は最後の一線を踏みとどまるように問いかけた。しかし、みなこは答えの代わりに、そっと自分の手を指のジャケットの裾に添えた。彼女の指先から伝わる微かな熱が、指の思考を麻痺させていく。

「いいも悪いも、ありません。私が、そうしたいって決めたことですから」

彼女の瞳に迷いはなかった。むしろ、年上の上司を窮地に追い込んでいるという状況を、密かに楽しんでいるかのような残酷なまでの静謐さがあった。

指は、彼女の細い肩に手を置いた。指先に触れる生地の向こう側に、確かな生身の女性の存在を感じる。それは、自分がかつての結婚生活で失い、二度と手に入らないと諦めていた眩しすぎる生命の輝きだった。

彼氏への背信、会社での立場、そして自分の年齢。それらすべての「正しさ」が、この薄暗い部屋の空気の中では無意味な塵のように思えてくる。指は、彼女の顔をゆっくりと見上げた。

「後悔、するかもしれないぞ」

その言葉は、彼女に対してというより、自分自身への最後通告だった。しかし、みなこはふっと唇の端を綻ばせると、指の胸に顔を埋めるようにして呟いた。

「後悔なら、もうずっとしています。指さんが、もっと早く私を見つけてくれればよかったのにって」

その一言が、指の理性を完全に焼き切った。彼は力強く、けれどどこか縋り付くような危うさを伴って、彼女の体を抱き寄せた。窓の外の街明かりが、静かに二人を闇の中へと突き落としていく。

部屋の重苦しい空気に耐えかねたように、指は「まずは、食事にしよう」と短く言った。

二人はホテルの最上階にあるメインダイニングへと向かった。窓の外には、宝石をぶちまけたような夜景が広がっている。しかし、指の目には、その輝きさえも自分たちを監視する無数の瞳のように見えていた。

テーブルを挟んで向かい合ったみなこは、驚くほど平然としていた。彼女はメニューを開き、まるで週末のデートを楽しむ恋人のような顔をして、料理を選んでいる。その屈託のなさが、指の焦燥をいっそう掻き立てた。

(俺は何をしようとしているんだ。部下の、それも結婚を控えた娘を相手に……)

四〇歳の理性が、頭の片隅で警鐘を鳴らし続けている。だが、その隣で、長年抑え込んできた醜い独占欲が「今夜だけはいいだろう」と甘く囁く。二つの感情の板挟みになった指は、逃げ場所を求めるように、ギャルソンを呼んでワインを注文した。

「指さん、そんなに急いで飲まなくても……」

みなこの制止するような声も、今の指の耳には届かない。運ばれてきた重めの赤ワインを、彼は味わうこともなく喉に流し込んだ。空腹の胃にアルコールが直接染み渡り、脳の輪郭が次第にぼやけていく。

一杯、また一杯。

「課長、今日は本当にかっこいいですね。会社ではいつも難しい顔をしているから」

頬を赤らめ、上目遣いに自分を見つめるみなこ。彼女の言葉が、アルコールで熱を帯びた指の心に火をつける。彼は、さらに強いウイスキーをダブルで注文した。理性のタガを外すには、もっと、もっと深い陶酔が必要だった。

がぶ飲みするようにグラスを空けていく指の視界が、ゆっくりと揺れ始める。目の前に座る彼女の姿が、現実のものとは思えないほど美しく、そして手が届きそうなほど近くに見えた。

「……君が悪いんだぞ、みなこさん。そんな顔をして、俺を呼んだりするから」

呂律が回り始めた指の声には、隠しきれない情念が混じっていた。アルコールの力を借りて、彼はようやく「上司」という重い殻を、自分から剥ぎ取ろうとしていた。悩み、迷い、葛藤する。そのすべてを、琥珀色の液体の中に沈めていく。

みなこは、そんな指の様子を冷めた、けれどどこか熱っぽい瞳で見つめていた。彼女はグラスに残ったシャンパンを一口含み、挑発するように唇を濡らした。

「ええ、私のせいでいいですよ。全部、私のせいにしてください」

酔いに任せて身を乗り出した指の指先が、テーブルの上で彼女の手を捕らえた。今度はもう、離さなかった。

アルコールの熱が全身を駆け巡り、思考の端々が泥のように溶け出していた。

レストランを出てから部屋に戻るまでの記憶は断片的だった。ただ、エレベーターの鏡に映った自分の顔が、ひどく無防備で、情けないほどに彼女を求めていることだけは自覚していた。

先にバスルームへ向かったみなこを待つ間、指はベッドの端に座り、自分の荒い呼吸を聞いていた。やがて、水の止まる音が響き、蒸気と共に彼女が姿を現した。ホテルの白いバスローブを纏い、濡れた髪からは、あの石鹸の香りがよりいっそう濃く漂っている。

「……次、指さんの番ですよ」

彼女の声に促されるように、指はふらつく足取りでシャワーを浴びた。熱い湯を頭から被っても、酔いは一向に冷める気配がない。それどころか、皮膚を叩く水滴の刺激が、これから起こる出来事への期待をさらに膨らませていった。

シャワーを終え、簡素なガウンを羽織って部屋へ戻ると、みなこは窓際の明かりを消し、ベッドの脇に立っていた。月明かりだけが、彼女の輪郭を淡く照らし出している。

指は、もう躊躇わなかった。

背後から彼女の細い腰を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど力強く抱きしめた。まだ微かに湿り気を帯びた彼女の体温が、指の掌を通してダイレクトに伝わってくる。

「……指さん」

彼女が小さく名前を呼ぶ。その声には、拒絶の響きは微塵もなかった。指は彼女の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。若く、瑞々しい、そして自分とは正反対の場所にいるはずの存在。

「君は……本当に、結婚するのか」

抱きしめる腕に力を込めながら、指は呪文のように繰り返した。その問いは、彼女を繋ぎ止めたいという願望であり、同時に自分自身を地獄へ突き落とすための最後の確認でもあった。

みなこは指の腕に自分の手を重ね、ゆっくりと彼の方へ体を預けてきた。

「今は、そんなこと聞かないでください……。私を、壊していいのは指さんだけですよ」

その言葉が、指の中に残っていた最後の良識を粉々に砕いた。彼は彼女の肩に手をかけ、自分の方へと振り向かせると、飢えた獣のような渇望を持って、その唇を塞いだ。

指が抱いていた幻想は、肌が触れ合った瞬間に音を立てて崩れ去った。

自分より二十歳も若く、近所の女子高から純朴なまま入社してきたと思っていた「みなこ」。彼女は、指がこれまで人生の経験値として積み上げてきたはずの「余裕」を、あざ笑うかのように軽々と飛び越えていった。

ベッドの上で、彼女はもはや守られるだけの部下ではなかった。

「指さん、もっと……こっち見て」

指の首筋に回された彼女の腕は驚くほど力強く、その視線は指の心の奥底を見透かしているかのように鋭い。指は、彼女をリードし、大人の男として優しく包み込むつもりでいた。しかし、実際にはどうだったか。

みなこの動きは、指の知る「若さゆえの拙さ」とは無縁だった。自分のどの部分を刺激すれば指が声を漏らし、どの角度で触れれば理性が崩壊するかを、彼女はあらかじめ熟知しているかのようだった。指が翻弄され、息を乱すたびに、彼女の唇には満足げな、どこか冷徹なまでの笑みが浮かぶ。

バツイチとして一通りの経験を積んできた自負は、彼女の「ベテラン」とさえ呼べる奔放な身のこなしの前に、霧散していった。

(……俺は、何を勘違いしていたんだ)

彼女の背中を這う指の手が、快楽と困惑で震える。彼女は、彼氏がいることも、結婚を控えていることも、すべてを「武器」として使いこなしていた。若さという皮を被りながら、その内側には指のような中年男を容易に飲み込む、深くて暗い欲望の沼が広がっている。

「どうしたんですか? 指さん……顔、赤いですよ」

耳元で囁かれる声は、オフィスで書類を受け取る時の彼女のそれとは別人のように艶っぽく、そして残酷だった。指は、彼女に抱きついているのではなく、彼女に「捕らえられている」のだと気づく。主導権は完全に彼女の手の中にあった。

指は、圧倒されていた。彼女の肉体的な成熟度にも、そして自分に向けられる剥き出しの独占欲にも。かつての「お気に入り」という甘い言葉では到底片付けられない、生々しいまでの女の深淵。

彼は、荒い息を吐きながら、自分を支配しようとする彼女の動きに抗うことができなかった。アルコールで麻痺した脳裏に、彼女の婚約者の顔が浮かぶ。サーフィンに興じているという、若く健康な男。あいつも、この「みなこ」を知っているのだろうか。それとも、この顔は、自分だけが引き出してしまった地獄の景色なのだろうか。

夜が深まるにつれ、指は自分がどんどん空っぽになっていくような感覚に陥った。彼女に注ぎ込む情熱の分だけ、自分の尊厳が削り取られ、彼女という怪物に捧げられていく。

結局、指は最後まで彼女の掌の上で踊らされるしかなかった。窓の外の夜景が白み始めるまで、彼はその圧倒的な力の前に、ただ溺れ続けていた。

奔放な彼女の動きに圧倒されながらも、指の中に眠っていた「大人の男」としての矜持が、静かに目を覚ました。

ただ欲望に身を任せるのではなく、彼女の呼吸の震え、肌のわずかな火照り、その一つひとつを丁寧に拾い上げるように、指は対抗した。若さゆえの荒々しさではなく、積み重ねてきた歳月だけが教えることのできる、慈しむような愛撫。相手の心までをも包み込もうとする優しいセックスは、やがてみなこの主導権を少しずつ溶かしていった。

挑発的だった彼女の瞳から険が抜け、代わりに潤んだ、年相応の幼い吐息が漏れ始める。

「あ……指、さん……」

指の大きな掌が彼女の背中をゆっくりと撫で下ろすと、みなこは観念したように指の胸に顔を埋めた。それは、オフィスで見せる計算された可愛げでも、先ほどまでの攻撃的なベテランの顔でもない、一人の女としての無防備な姿だった。指が注ぐ穏やかな熱は、彼女がこれまで経験してきたであろう若さゆえの激しさとは違う、深い安らぎを彼女に与えていた。

二人の情動が静かに重なり合い、やがて凪のような時間が訪れる。

カーテンの隙間から、薄紫色の朝の光が部屋に差し込み始めた。夜の狂乱を洗い流すような、冷たくて清々しい朝だった。

指が目を覚ますと、隣ではみなこがまだ深い眠りについていた。その寝顔は、入社してきたばかりの頃の、あの純粋な面影を宿している。しかし、シーツから覗く彼女の肩には、昨夜の情事の余韻がかすかに残っていた。

指は、サイドテーブルに置かれた自分の時計を見た。もうすぐ、この夢のような時間は終わる。今日という日が終われば、彼女はまた「結婚を控えた部下」に戻り、自分は「バツイチの企画課長」という役割を演じなければならない。

みなこが、小さく身じろぎをして目を開けた。

「……おはようございます、指さん」

彼女の潤んだ瞳が、まっすぐに指を見つめる。そこには昨夜のような挑発はなく、ただ、指という一人の男を受け入れた後の、満ち足りた静寂だけがあった。

「おはよう、みなこさん。……よく眠れたか」

指が彼女の髪をそっと撫でると、彼女は満足そうに目を細めた。二十歳の年齢差も、婚約者の存在も、今は遠い世界の出来事のように思えた。朝日に照らされた彼女の肌は、神々しいほどに美しく、そして残酷なまでに自由だった。

二人はしばらくの間、何も語らずにただ寄り添っていた。この朝の静けさが、これから始まる「嘘に満ちた日常」への、最後の手向けであることを、二人は痛いほどに理解していた。


朝の光が部屋の隅々までを白く暴き出そうとしていたが、二人はそれを拒むように、再びシーツの海へと沈み込んでいった。

どちらから手が伸びたのかは分からなかった。ただ、一度結ばれた肌が離れることを拒み、磁石のように吸い寄せられた。指が彼女の背に腕を回すと、みなこもまた、指の首筋に縋り付くようにして強く抱き返してきた。

それは、昨夜のような探り合いや主導権の奪い合いとは違う、剥き出しの渇望だった。

指は、彼女の若さという奔流に身を任せながらも、包容力のある確かなリズムで彼女を追い詰めていった。激しく打ち付け合う鼓動の裏側で、指先ひとつ、接吻ひとつに、言葉にできないほど深い愛惜を込める。みなこも、ベテランの顔をかなぐり捨て、指が与える柔らかな快楽に翻弄されながら、喉の奥で震えるような声を漏らした。

「指さん……、指さん……っ」

名前を呼ばれるたびに、指の理性がひび割れていく。二十歳の年の差も、職場の目も、彼女を待つ婚約者の存在も、すべてがこの熱い吐息の中で溶けて消えた。あるのはただ、互いの体温を、魂を、一滴残らず吸い尽くそうとする共犯者の熱情だけだった。

優しく、けれどどこまでも深く。

指は自覚していた。自分が今、戻ることのできない「沼」に足を踏み入れたことを。それは、ただの不倫や遊びといった言葉では片付けられない、底なしの執着だった。彼女という深淵に、自分のキャリアも、平穏な老後も、すべてを投げ打っても構わないという狂気が、甘い毒のように全身に回っていく。

みなこもまた、指の腕の中で、自分が選んだはずの「安定した未来」が遠のいていくのを感じていた。若くて健康な婚約者では決して埋められなかった心の空洞を、この四十歳の男の、静かで重厚な情熱が満たしていく。彼女もまた、この背徳という名の沼に、自ら望んで溺れていた。

絶頂の果てに訪れたのは、静寂ではなく、より深い飢えだった。

絡み合った指先をほどくことができない。視線を外すことができない。二人の間には、もはや上司と部下という境界線も、他人という壁も存在しなかった。ただ、同じ泥濘の中で喘ぎ、沈んでいく一組の男女がいるだけだった。

「……もう、戻れないな」

指が掠れた声で呟くと、みなこは汗に濡れた額を彼の胸に押し当て、小さく、けれど力強く頷いた。


月曜日の朝、オフィスはいつもと変わらない騒がしさに包まれていた。

週末の嵐のような情事が、まるで遠い異国の出来事だったのではないかと思えるほど、蛍光灯の下の現実は無機質で平穏だった。指(ゆび)はネクタイを締め直し、企画課長としての仮面を深く被ってデスクに座った。パソコンを立ち上げ、並ぶ数字を眺めながらも、肌の奥にはまだ彼女の指先の感触が、鼻腔の裏にはあの石鹸の香りが、こびり付いて離れなかった。

「課長、おはようございます。先週の進捗をまとめました」

澄んだ声が、静かな水面に石を投じるように響いた。

指が顔を上げると、そこには週末、自分の腕の中で泣き、笑い、すべてを曝け出していたはずのみなこが立っていた。彼女の肌は心なしか艶を増し、その表情は一分の隙もない「有能な部下」そのものだった。

「ああ、おはよう。……助かるよ」

指は平静を装い、彼女が差し出したバインダーを受け取ろうとした。その時だった。

書類を押さえる彼女の左手、その薬指に、週末にはなかった冷ややかな光が宿っていた。

プラチナの台座に、小ぶりだが質の良さそうなダイヤモンドが埋め込まれたリング。窓から差し込む朝日を反射し、それは指の網膜を刺すような鋭い輝きを放っている。

指の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

昨日まで、自分の名前を呼び、背徳の沼に共に沈んでいた女の指に、別の男との約束がこれ見よがしに嵌められている。それが意味するのは、彼女にとってあの夜は、あくまで「結婚前の最後の火遊び」に過ぎなかったという、残酷なまでの宣告だった。

「……いい指輪だな」

喉の奥まで出かかった言葉を、指は必死に飲み込んだ。バインダーを持つ自分の手が、微かに震えている。

「指さん……?」

みなこが、周囲には聞こえないほどの微かな声で呟いた。彼女の瞳が、一瞬だけ楽しげに細められる。彼女は分かっているのだ。この指輪が指の心をどれほど激しく掻き乱し、どれほどの絶望を与えているかを。その上で、彼女は何もなかったかのように微笑んでみせた。

「あ、これですか? 昨日、彼と一緒に選んできたんです。ようやくサイズ直しが終わって」

彼女の嘘は、あまりにも完璧だった。昨日、彼女が一緒にいたのは、間違いなく指だったはずなのに。

指は、目の前の書類の文字が意味をなさなくなるのを感じた。怒り、嫉妬、そして自責の念。それらすべてを飲み込み、彼はただ「……そうか。おめでとう」とだけ答えた。

彼女が背を向け、軽やかな足取りで自分の席へと戻っていく。その揺れる髪を見つめながら、指は確信した。

自分は、ただの沼に落ちたのではない。 彼女という、底の知れない悪魔が仕掛けた罠に、自ら首を突っ込んだのだと。

指輪の輝きは、その後もずっと、指の視界の端で消えることなく、呪いのように揺らめき続けていた。


「今日、いい波が来そうだって、彼が言ってたんです」

午後の気だるい空気が漂うオフィスで、みなこが指のデスクに資料を置きながら、周囲に聞こえるか聞こえないかの小声でそう囁いた。

その言葉は、表向きには「サーフィン好きの婚約者が海へ出かけた」という他愛ない近況報告に過ぎない。しかし、二人にとっては、理性の防波堤を崩し、背徳の沼へと飛び込むための合言葉だった。

その一言を聞いた瞬間、指の指先がわずかに強張る。薬指で冷たく光る婚約指輪を見せつけながら、彼女は同時に、指を淫らな密室へと誘っているのだ。そのあまりにアンバランスな残酷さが、指の心根を激しく揺さぶる。

「……そうか。なら、夕方からは忙しくなりそうだな」

指は、感情を殺した声で短く応えた。

定時を過ぎ、街に夜の帳が下りる頃、二人は時間差で会社を出る。向かう先は、会社の最寄り駅とは反対方向にある、古びた、けれど人目に付きにくいラブホテルだった。

重い扉が閉まり、自動ロックの乾いた音が響くと同時に、指はみなこを壁に押し付けた。

「あの指輪を嵌めたまま、よくあんなことが言えるな」

「……指さんが、そうやって嫉妬してくれるのが、一番嬉しいんです」

みなこは悪びれる様子もなく、指の首に腕を回してくる。彼女の瞳には、オフィスで見せる有能な部下の光はなく、指という四十歳の男を、自分の意のままに操ることを楽しむ女の悦悦とした色が浮かんでいた。

指輪を嵌めた彼女の左手が、指の頬を撫でる。そのプラチナの感触が、これから始まる行為が許されざるものであることを、これ以上ないほど鮮明に際立たせていた。

「君は、最低の女だ」

「ええ。そんな私を、指さんはどうしても放っておけないんでしょう?」

言葉を交わすたびに、二人は深い泥濘へと沈んでいく。指は、彼女を憎みながらも、その柔らかな肢体と、自分だけが知っている彼女の「ベテラン」の顔を激しく求めた。

激しく、けれどどこか絶望的なまでに優しいセックス。

彼氏が海で「いい波」を待っている間、彼女は指の上で、抗いようのない快楽の波に呑み込まれていく。指もまた、彼女という終わりのない波に揉まれ、自分がどこへ向かっているのかさえ分からなくなっていた。

事切れた後、安っぽい照明の下で、二人はしばらく無言のまま横たわっていた。

「指さん、また『いい波』が来たら、教えてあげますね」

みなこは、鏡の前で乱れた髪を整えながら、何事もなかったかのように微笑む。指はベッドの上で、煙草の煙を吐き出しながら、彼女の薬指で再び輝き始めた石を見つめていた。

この波がいつか凪ぐ日は来るのだろうか。それとも、すべてを飲み込んで砕け散るまで、この狂った航海は続くのだろうか。指は、自分がもう二度と、真っ当な光の当たる場所へは戻れないことを確信していた。


                      完20260115-152622.jpg