密やかな約束

第1章:綻びの予兆

教室の天井で回る扇風機が、生ぬるい風をかき混ぜている。
7月の午後、期末テストが終わった開放感の中、僕の視界にはいつも通りの「眩しすぎる光景」があった。

「ユビ、次の試合も頼むぜ! エース様!」
「ああ、任せろ」

僕、相原ユビ。成績優秀、バスケ部のヒーロー。
けれど、僕の右斜め前の席に座る瀬戸口美恵子の隣には、いつも僕の親友、レンがいる。

「レン、放課後アイス食べに行こうってば」
「悪い美恵子、今日これから自主練なんだ。ユビ、お前も行くよな?」

レンが僕の肩を叩く。彼は真っ直ぐな男だ。バスケへの情熱も、彼女への信頼も、一点の曇りもない。だからこそ、僕の胸は痛む。

「……悪い、俺、今日委員会なんだ」

僕はいつもの営業用スマイルで嘘をつく。
最近の僕は、レンと美恵子が一緒にいる姿を見るのが、以前よりもずっと辛くなっていた。

第2章:静寂の毒

放課後の図書室。
レンがコートで汗を流している間、僕は一人で静寂の中にいた。

「……ユビくん、お疲れ様」

不意に背後から声をかけられ、心臓が跳ねた。美恵子だった。
彼女は僕の隣に座ると、鞄から一冊の小さなノートを取り出した。何の変哲もない、どこにでもある学習ノートだ。

「これ、交換日記にしない?」

彼女の提案に、僕は息を呑んだ。
「……正気? もし誰かに見られたら、それこそ終わりだよ」
「だから、図書室の『あの棚』に隠すの。私たちが当番の時にだけ、入れ替える。これなら、スマホの履歴も残らないし、レンにもバレない」

美恵子の瞳は、どこか楽しげに、さらに熱っぽく僕を射抜いていた。
僕たちは、図書室の奥にある、誰も手に取らないような古い全集の裏側を「ポスト」に決めた。

そこには、LINEでは決して送れないような言葉が綴られるようになった。
『今日はレンと映画に行ったけど、ずっとユビくんのこと考えてた』
『シュートを決めた時、一番に君の顔を探してしまう自分が怖い』

文字は、声よりも深く、僕たちの理性を侵食していった。

第3章:花火の共犯者

市民花火大会の夜。
僕とレン、そして美恵子の三人は、土手の特等席にいた。
表向きは、いつも通りの親友三人組。けれど、僕と彼女の鞄の中には、昨日まで書き溜めた秘密が詰まっている。

「おい、始まったぞ!」

レンの声と共に、夜空に巨大な光が弾けた。
その爆音に紛れて、美恵子が僕の小指に、自分の小指を絡めてきた。
浴衣の袖に隠れた、僕たちだけの秘密の交信。

「……ちょっと、飲み物買ってくる」

堪らなくなった僕は、逃げるように席を立った。
少し離れた自動販売機の陰で、激しく波打つ鼓動を抑える。

「ユビくん」

追いかけてきた美恵子が、僕の腕を掴んだ。

「ダメだよ、美恵子ちゃん。レンが待ってる」
「レンは、私のこと『マドンナ』として見てる。でも、ユビくんは私の『本当』を見てくれた。あのノートに書いてくれたこと、全部本物でしょ?」

彼女の瞳に、打ち上がる花火の色が反射して、怪しく、美しく揺れている。
彼女は僕の胸に顔を埋めた。

「俺も、ずっと君が好きだった。でも、俺たちは地獄に行くことになるよ」
「構わない。ユビくんとなら」

彼女が顔を上げ、僕を見つめる。
その瞬間、夜空に一番大きな黄金の花火が咲いた。
周囲が真昼のように明るくなったその光の中で、僕たちは、決して越えてはいけない一線を越えるように、互いの唇を重ねた。

第4章:誕生日の誓い

10月に入り、風が冷たくなり始めた頃。
僕の誕生日が近づいていた。教室ではレンが「ユビの誕生日、盛大に祝おうぜ!」と騒いでいる。その声を聞くたび、罪悪感が肺の奥に溜まっていく。

放課後の図書室。いつもの全集の裏から日記を取り出すと、美恵子のページにはたった数行だけ、震えるような文字でこう書かれていた。

『ユビくんの誕生日、レンには内緒で会いたい。私の一番大切なものをあげる。約束するよ。』

「一番大切なもの」――。
その言葉の意味を考えただけで、指先が冷たくなる。それは、今の僕たちが踏みとどまっている最後の境界線を越えることを意味していた。

次の当番の日、僕は震える手で返事を書いた。
『分かった。誕生日の夜、あそこの公園の展望台で待ってる。俺も、君に全てをあげる。』

文字は血のように赤く見えた。僕たちはもう、誰にも止められない。

第5章:箱の中の真実

約束の夜、僕は街の灯りを見下ろす展望台にいた。
「……ユビくん」

振り返ると、そこにはレンの知らない表情をした美恵子が立っていた。
彼女は震える手で、ラッピングもされていない、無機質な小さな箱を差し出した。

「これ、約束のもの」

受け取った箱は、驚くほど軽かった。
蓋を開けると、そこには丁寧なプレゼントなどではなく、アルミ箔に包まれた数個の避妊具が入っていた。

僕は息を呑み、彼女の顔を見た。美恵子は泣きそうな、でも逃げ出さない決意を秘めた瞳で僕を見つめ返していた。

「これを……買った時、手が震えた。でも、これをユビくんに渡すことが、私の今の精一杯。……レンとは、こんなこと一度も考えたことない」

それは、彼女にとっての「清純さ」や「レンへの忠実さ」という、彼女をマドンナたらしめていた一番大切なものを捨て去るという宣言だった。
僕は箱を握りしめ、彼女を強く抱き寄せた。

「……美恵子」

僕たちは、親友の信頼も、完璧な高校生という仮面も、すべてをこの夜の闇に沈めることに決めた。
展望台の下を流れる車のライトが、まるで遠い世界の出来事のようにぼやけて見えた。

エピローグ

扇風機はもう止まっている。
教室の窓の外では、枯れ葉が舞っている。

「よっ、ユビ! 誕生日おめでとうな! プレゼント、気に入ったか?」
レンが昨日渡したスポーツバッグの話をしながら、無邪気に笑う。
「ああ、ありがとう。大切にするよ」

僕は嘘をつく。
僕の机の中には、炭酸の抜けたサイダーの瓶と、最後まで綴られた秘密のノート。
そして、あの夜、展望台で共有した「取り返しのつかない重み」。

僕たちは、何も変わらないように振る舞い続ける。 でも、僕たちの綴る日記の最後の一ページには、もう文字を書く必要はなかった。 ただ、消えないインクの染みのように、僕たちの罪だけがそこに深く刻まれていた。完