カサブランカの雨宿り  

2026/01/12(月)
叩きつけるような雨が、駅のホームの屋根を激しく叩いていた。ユビは冷え切ったベンチの端で、膝を抱えて丸まっていた。親に怒鳴り散らし、財布にあるだけの札を掴んで飛び乗った電車は、彼を縁もゆかりもない北の果ての町まで運んできた。空腹と寒さで視界がチカチカと点滅し、雨の匂いと鉄の錆びたような匂いが混ざり合って鼻につく。

もう、どうなってもいい。そう思って瞼を閉じた時、重い雨音を切り裂いて、硬い足音が近づいてきた。コツ、コツ、とアスファルトを刻むハイヒールの音。

「……ねえ。そこで心中でもするつもり?」

低くて、少し掠れた声が頭上から降ってきた。ユビが顔を上げると、そこにはビニール傘を差した一人の女性が立っていた。紫煙を細く吐き出し、濡れたアスファルトを見下ろす彼女の瞳は、驚くほど鋭くて、同時にひどく退屈そうだった。タイトなスカートから伸びる白すぎる脚が、雨夜の街灯に照らされて、中学生のユビには毒々しいほど艶やかに見えた。彼女は指に挟んだタバコを地面に捨てると、赤いヒールで踏み消し、動けないユビの腕を強引に掴み上げた。

彼女の掌は、凍えきったユビの肌が火傷しそうなほど熱かった。

彼女に引きずられるようにして辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇む『カサブランカ』という看板のスナックだった。シャッターを下ろし、鍵をかける音が静かな店内に響く。カウンターの奥から漂ってくるのは、使い込まれた布巾の匂いと、古いウィスキーの香りだ。

「座りな。腹減ってんだろ」

彼女はカウンターの中に回ると、手際よくフライパンを振り始めた。ジャッ、という景気のいい音と共に、醤油の焦げる香ばしい匂いが立ち込める。出されたのは、あまり物の野菜を入れただけの焼きうどんだったが、ユビにとっては人生で一番のご馳走に見えた。必死に麺を啜る少年の姿を、彼女はカウンター越しに顎を突いて眺めている。

「ユビ、って言うのか。変な名前」

少年の口から漏れた不器用な身の上話を、彼女は否定もせず、かといって同情もせずに聞き流した。その適当さが、親の正論に押し潰されそうだったユビの心を、不思議と軽くさせた。

食べ終えたユビを、彼女は店の奥にある小さな居住スペースへと促した。そこには彼女の生活の匂いが充満していた。甘い香水の匂いと、タバコの残り香。彼女はクローゼットをがさごそと探り、「これ、前の男が置いてったやつ。着替えな」と言って、黒いスウェットをユビの胸に押し付けた。

「あの、お姉さん……」

ユビが戸惑いながら声を上げようとした瞬間、彼女の手が、ユビの濡れた髪を拭くために伸ばされた。至近距離。彼女の大きな瞳が、すぐ目の前にあった。整えられた眉、少し濃いめの口紅、そして首筋から漂う、酒の匂いと混じり合った大人の女の体温。

「じっとしてて。風邪引かれたら寝覚めが悪い」

タオル越しに、彼女の指先の感触が頭皮に伝わる。強く、それでいてどこか優しい手つき。ユビは呼吸の仕方を忘れたように硬直した。彼女の胸元が、少年の視線の先でゆっくりと上下している。自分よりもずっと柔らかくて、ずっと熱い存在が目の前にいる。ユビの心臓は、雨音よりも激しく、耳の奥で警鐘を鳴らし続けていた。

「なんだ、耳まで真っ赤にして。可愛いね、ボウヤ」

彼女が耳元で低く笑った瞬間、ユビは自分の理性が、音を立てて崩れていくのを感じていた。

「風呂、先入りなよ。……あ、覗いたりしないから安心しな」

彼女はそう言って、からかうように笑いながらユビを浴室へ追い立てた。 古びたタイルの浴室で、ユビは自分の心臓の音が、シャワーの音よりも大きく響いているのを感じていた。石鹸の香りに包まれながら、今の状況を必死に理解しようとする。親と喧嘩して、家を飛び出し、たどり着いた見知らぬ町で、スナックのママに拾われた。そして今、彼女の家で体を洗っている。

風呂から上がり、借りたスウェットに袖を通すと、袖口から彼女のものと同じ甘い香りがした。それがまた、ユビの意識を過剰に刺激する。

居間に戻ると、彼女はすでに布団を敷いていた。しかし、そこにあるのは、明らかに一人用の古びた敷布団が一つだけだった。

「……あの、お姉さんは?」 「見ての通り、布団はこれ一枚しかないんだよね。アンタ、床で寝る根性ある?」

ユビが言葉に詰まっていると、彼女は「冗談だよ。狭いけど、我慢しな」と言って、壁際に潜り込んだ。

電気が消され、部屋は街灯の光がうっすらと差し込むだけの闇に包まれた。ユビは布団の端に、体がはみ出しそうなほどギリギリの位置で横たわった。 隣からは、彼女の穏やかな呼吸音が聞こえてくる。寝返りを打てば、肩が触れ合ってしまうほどの距離。布団の中の温度が、彼女の体温でじわじわと上がっていくのがわかった。

ユビは目を強く閉じたが、意識は嫌でも隣の存在に集中してしまう。時折、彼女が身じろぎするたびに、衣擦れの音と、温かな空気の揺らぎが肌に伝わってきた。15歳の少年には、その静寂こそが何よりも饒舌で、恐ろしいものに感じられた。

(……寝なきゃ。寝なきゃダメだ)

自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、神経は鋭敏になっていく。彼女の首筋の白さや、雨の駅で自分を掴んだ手の熱さが、暗闇の中で鮮明に蘇る。しかし、そこにあるのは決して不快な情欲だけではなかった。 誰にも必要とされていないと思っていた自分を、この人は何も聞かずに招き入れてくれた。その事実が、少年の頑なな心を少しずつ、静かに溶かしていた。

結局、その夜、ユビは一睡もできなかった。 一方で、彼女の方はといえば、少年のそんな葛藤など露知らず、時折小さく寝息を立てて、深い眠りに落ちていた。

性急な接触も、期待していたような出来事も、何一つ起こらなかった。ただ、一つの布団の中で共有したその熱量だけが、ユビにとって生涯忘れられない、ひどく純粋で、ひどく残酷な夜の記憶として刻まれた。

窓の外では、いつの間にか雨が上がり、遠くで始発電車の走る音が微かに響き始めていた。

カーテンの隙間から差し込む分厚い陽光が、ユビのまぶたを焦がした。

重い頭を揺らしながら目を開けると、そこは昨夜の雨の冷たさが嘘のような、温まった静寂に包まれていた。時計の針は、すでに午後の一時を回っている。十五年の人生で、これほど深く、そしてこれほど遅くまで眠り続けたのは初めてのことだった。

隣にいたはずの彼女の姿は、もうそこにはなかった。ただ、ユビが使っていた布団の隣に、主を失った毛布が心許なく丸まっているだけだ。布団から出ると、肌寒い空気がスウェットの袖口から入り込み、昨夜の熱が幻だったのではないかと錯覚させる。

「……お姉さん?」

掠れた声で呼んでみたが、返事はない。 代わりに、台所の方から微かに水の音が聞こえた。フラフラと部屋を出ると、そこには昨夜の「スナックのママ」とは違う、どこか生活感の漂う彼女の背中があった。

髪を無造作にクリップでまとめ、洗い物をしている彼女は、色褪せたTシャツにデニムのショートパンツという格好だった。剥き出しになった太ももの裏には、かつてやんちゃをしていた名残なのか、小さな古い傷跡がいくつか白く浮き上がっている。

「ようやく起きたか、寝坊助」

彼女は振り向かずに言った。その声には、昨夜の鋭さはなく、昼下がりの気怠い空気に馴染むような柔らかさがあった。

「お腹、空いたでしょ。そこに昨日の残りの味噌汁あるから、勝手に温めて食べな。あ、ご飯は炊飯器の中」

ユビは言われるがまま、小さな食卓に座った。お玉が鍋の底に当たる音、冷蔵庫がうなる音。そんな当たり前の生活の音が、家出をして行き場を失ったユビの胸に、じわりと染み込んでいく。

彼女は洗い物を終えると、ユビの向かいに腰を下ろし、慣れた手つきでタバコに火をつけた。紫煙が昼間の光に溶けていくのを、ユビは味噌汁の椀を両手で包み込みながらじっと見つめていた。

「いつまでここに居るつもり? ……って言っても、行く宛なんてないか」

彼女が吐き出した煙の向こうで、悪戯っぽく目を細める。 昼過ぎの光を浴びた彼女は、夜よりもずっと綺麗で、それでいて、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。ユビは、昨夜から抱き続けている胸の鼓動が、空腹のせいだけではないことを自覚し始めていた。

「あんた、よく見ると綺麗な顔してるね。……ちょっとこっちにおいで」

彼女は吸い殻を灰皿に押し付けると、不敵な笑みを浮かべて手招きした。ユビは箸を置き、吸い寄せられるように彼女の膝元へ歩み寄る。

彼女は化粧ポーチを引っ張り出すと、驚くほど真剣な目付きでユビの顔を覗き込んだ。至近距離。昨夜よりも明るい光の中で見る彼女の肌は、陶器のように滑らかで、わずかに香る化粧品の匂いがユビの理性を麻痺させる。

「いい? じっとしてなよ」

ひんやりとした彼女の指先が、ユビの顎を持ち上げた。まず、細い筆が目の縁をなぞる。くすぐったさに身をよじろうとすると、「動かない」と低く、けれど柔らかな声で制された。

彼女の指が、ユビの頬や瞼に触れるたび、そこだけが熱を帯びていく。彼女の視線は、まるで工芸品でも扱うかのように熱心で、時折「ふーん……」と満足げに鼻を鳴らす。

「ほら、できた。見てみな」

差し出された手鏡を覗き込み、ユビは息を呑んだ。 鏡の中にいたのは、自分の知っている野暮ったい中学生ではなかった。目元には薄く影が差され、唇にはわずかな艶がある。どこか中性的で、危うい色気を孕んだ「誰か」がそこにいた。

「……これ、僕?」 「そうだよ。あんた、自分の価値を分かってないね」

彼女は満足そうに目を細めると、今度は自分の指先に残った紅を、ユビの唇の端にそっとなぞるようにして塗り広げた。指先から伝わる生々しい感触に、ユビの喉が小さく鳴る。

「綺麗なものには、みんな優しいんだよ。……特に、この夜の街じゃね」

化粧を施された今の自分なら、彼女の隣に立っても許されるのではないか。そんな根拠のない、けれど激しい高揚感が、十五歳の少年の身体を内側から焼き始めていた。

「……完璧。あんた、女の子より可愛いじゃない」

彼女は満足そうに口角を上げると、鏡の中のユビを後ろから抱きしめるようにして覗き込んだ。

ユビは、鏡に映る自分を直視できなかった。ウェーブをかけられたウィッグが肩に触れ、彼女が選んだフリルのついたブラウスが肌をくすぐる。化粧で強調された瞳は潤んだように見え、鏡の中にいるのは、どこからどう見ても可憐な「少女」だった。

「今日からアンタの名前は、ユビじゃなくて『ユイ』。私の妹分だよ。いい?」

彼女の細い指が、ユビの首筋を優しくなぞる。昨夜、一つの布団で感じた彼女の熱が、今度は支配的な色を帯びてユビを包み込む。拒むことなんて、最初からできなかった。彼女に「綺麗だ」と言われるたびに、自分の中にあった「家出少年」というアイデンティティが、甘いしびれと共に溶けていくのを感じていた。

開店準備の整ったスナック『カサブランカ』。 紫色のネオンが灯る店内に、ユビ――いや、ユイは立った。慣れない高いヒールで足元が覚束ない。彼女はカウンターの中から、面白そうにその様子を眺めている。

「接客なんて簡単だよ。客の話に相槌打って、お酒作って、ニコニコしてりゃいい。……ただし、自分から喋りすぎちゃダメ。あんたのその、低い声がバレたらおしまいだからね」

やがて、カランカランとドアのベルが鳴り、最初の客が入ってきた。 地元の常連客らしい中年男性が、カウンターに座るなり目を丸くする。

「おや、ママ。見ない顔だね。新しい子?」 「ええ。訳あって預かってる親戚のユイ。まだ慣れてないから、優しくしてやってよ」

彼女はさらりと嘘を吐き、ユビの背中をポンと叩いた。 促されるまま、ユビはおぼつかない手つきで水割りを作り始める。客の視線が、自分の顔や、スカートから伸びた脚に向けられているのが分かった。男として見られているのではなく、一人の少女として値踏みされるような、ねっとりとした視線。

それはひどく恥ずかしく、それでいて、今までに感じたことのない奇妙な高揚感をユビに与えた。 カウンターの端でグラスを磨きながら、彼女が時折こちらを見て、悪戯っぽくウィンクを投げてくる。

その夜、ユビは初めて知った。 夜の帳が下りたスナックの片隅で、嘘の姿で誰かに求められることが、どれほど甘美で危うい毒なのかを。そして、その糸を引いているお姉さんの手のひらの上で転がされることが、たまらなく心地よいということを。

「おい、ユイちゃん……。さっきから黙って、つれねえなあ。もっとこっち来いよ」

カウンター越しに、赤ら顔の常連客がユビの細い手首を掴んだ。酒の匂いと煙草の脂が混じった、むせ返るような男の体臭。ユビは心臓が跳ね上がり、声を出せない恐怖で身をすくませた。中学生としての力が体に残っていても、今の自分は「華奢な少女」としてここに立っている。強く振り払えば正体がバレてしまうという不安が、彼を金縛りにした。

「……っ、離して……」

蚊の鳴くような声で絞り出したが、客はニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべ、さらに指先に力を込める。その指がユビの肌に食い込み、薄いブラウスの袖が乱暴に引っ張られた。

その時だった。

「――おい。その汚ねえ手、さっさと離せよ」

氷のように冷たく、けれど地鳴りのように低い声が店内に響いた。

それまでカウンターの端で涼しい顔をしてグラスを拭いていた彼女が、音もなく客のすぐ横に立っていた。その瞳からは先ほどまでの柔和な「ママ」の面影は消え、かつて修羅場をいくつも潜り抜けてきた、鋭利な刃物のような殺気が溢れ出している。

「あ? なんだよママ、客に向かって……」 「客? ウチの店じゃ、女の子が嫌がってるのに無理強いする奴は客じゃねえんだよ」

彼女は客の腕を、関節を極めるような無駄のない動きで掴み取った。客が「痛っ!」と声を上げるのも構わず、彼女はそのまま顔を数センチの距離まで近づける。

「あんたさ、この子の手が綺麗だから触りたくなったんだろ? だったら教えといてやるよ。私の指は、これまでに何人もあんたみたいな不潔な奴の目を潰しかけてきたんだ。……試してみたいか?」

彼女の瞳に宿る、本物の「狂気」に近い迫力に、客は一瞬で青ざめた。元ヤンとしての荒々しい過去が、その一言と立ち居振る舞いだけで裏打ちされている。客は震える手で逃げるように財布から札を出し、逃げるように店を飛び出していった。

静まり返った店内に、カランカランとドアの鈴だけが虚しく響く。

「……大丈夫?」

彼女は一瞬で元の落ち着きを取り戻し、怯えているユビの肩にそっと手を置いた。その手は先ほどの恐ろしさが嘘のように温かく、震えるユビの心を落ち着かせていく。

「ごめんね、怖い思いさせて。……でもさ、あいつの言う通り、あんたの手、本当に綺麗だったからね。守りたくなっちゃったんだ」

彼女はそう言って、ユビの紅が少し落ちた唇を親指でそっとなぞり、不敵に、けれど最高に美しく笑った。

客が去った後の店内は、まるで真空状態になったかのように静まり返っていた。

耳の奥でドクドクと脈打つ音がうるさい。恐怖で凍りついた体と、彼女の凄まじい迫力に当てられた脳が、激しく混濁していた。ユビは、震える自分の両手を見つめた。彼女が「綺麗だ」と言って守ってくれた、女装した自分の指先。

「……怖かったね。もう大丈夫だよ」

彼女がいつもの柔らかな声で語りかけ、ユビの肩に手を置こうとした瞬間だった。

ユビはこらえきれず、彼女の細い腰に思い切りしがみついていた。顔を彼女の胸元に埋めると、そこからはスナックの安っぽい芳香剤の匂いではなく、彼女自身の、深くて甘い、体温の混じった香りがした。

「お、おい……どうしたんだよ、急に」

彼女は一瞬驚いたように体を強張らせたが、すぐに力を抜いた。ユビの体はまだガタガタと震えている。15歳の少年が背負うには重すぎた家出の孤独と、先ほどの恐怖、そして何より、自分を守ってくれた彼女への強烈な依存心が、ダムが決壊したように溢れ出していた。

「……行かないで」

ユビは彼女のブラウスを指が白くなるほど強く掴み、顔を上げた。化粧で縁取られた瞳からは、大粒の涙が溢れ、せっかくのメイクを黒く汚していく。けれど、その姿は皮肉なほどに、守護欲をそそる少女そのものだった。

「僕、もう……一人になるのは嫌だ。お姉さんのそばにいたい。ずっと、ここにいたいんだ」

それは、女装という「嘘」を纏ったまま吐き出した、ユビの剥き出しの本音だった。 彼女は困ったように眉を下げると、ユビの汚れた頬を両手で包み込んだ。彼女の指先にあるタバコの匂いが、今のユビにはどんな特効薬よりも安心できるものに感じられた。

「……馬鹿だね。こんなところ、ずっと居る場所じゃないよ」

彼女はそう言いながらも、ユビの頭を優しく自分の肩に引き寄せた。

「でも、まあ……あんたがその綺麗な指で私の服を離さない間は、ここに居させてあげるよ。ユイちゃん」

彼女の腕が、ユビの背中に回される。 性的な接触ではないはずなのに、抱きしめられた胸の奥が熱く、苦しくなる。ユビは彼女の腕の中で、自分が男であることも、中学生であることも忘れ、ただ彼女の所有物になったかのような、残酷なほどの幸福感に浸っていた。

彼女の胸の温もりに溺れかけていたユビの身体が、不意に、けれど抗いようのない力で押し戻された。

彼女はユビの両肩を掴み、腕をまっすぐに伸ばして、自分と少年の間に明確な「境界線」を引いた。その瞳には、先ほどの殺気も、甘やかすような慈しみもなかった。ただ、夜の街を生き抜いてきた者だけが持つ、冷徹なまでの現実感だけが宿っていた。

「……そこまで。甘えすぎだよ、ユイ」

彼女の声は、氷水を浴びせられたように冷たく響いた。ユビは涙で汚れた顔を上げ、拒絶されたショックに目を見開く。

「アンタ、勘違いしてない? 私はアンタを救ってやったんじゃない。気まぐれに拾って、自分の退屈しのぎに、ちょっと着せ替え人形にして遊んだだけ」

彼女はユビの肩から手を離すと、カウンターに置いてあったタバコを一本抜き取り、火をつけた。紫煙が二人の間にカーテンのように立ち上る。

「私にしがみついてれば、親のことも、将来のことも忘れていられる。そう思ってるんだろ。でもさ、ここは『カサブランカ』っていう名前の、ただの安酒場だよ。夜が明けりゃ、魔法は解ける。アンタが逃げてきた現実は、店の外でずっとアンタを待ってるんだ」

「でも、僕……!」

「黙って聞きな。アンタが今感じてるそのドキドキも、安心感も、全部偽物だよ。私が欲しいのは、誰かの足元で震えてる迷子じゃない。自分の足で立って、それでも行き止まりにぶつかった時に、笑ってタバコをふかせるような……そういう『男』さ」

彼女は短くなったタバコを灰皿に押し付けると、ユビの顎をぐいと持ち上げた。

「今のアンタは、ただの綺麗な抜け殻だよ。……明日、帰りな。帰りたくなきゃ、別の道を探しな。でも、私のスカートの影に隠れて一生過ごそうなんて思うのは、やめなよ」

突き放す言葉とは裏腹に、彼女の指先はユビの涙を、驚くほど丁寧に、壊れ物を扱うように拭い去った。その一瞬の優しさが、鋭い言葉よりも深くユビの胸に突き刺さる。

「……アンタの人生だ。こんな汚れた夜に、使い潰させないでよ」

彼女は背を向け、店の奥へと歩き出した。 取り残されたユビは、少女の格好をしたまま、鏡に映る自分を見つめた。化粧は崩れ、滑稽な姿だった。けれど、彼女に突き放されたことで初めて、自分の足がしっかりと床を踏みしめている感覚を取り戻していた。

突き放されたはずの言葉も、今のユビにとっては、身体の芯で渦巻く熱をさらに煽る燃料でしかなかった。

その夜も、二人は一つの布団に入った。 彼女は「さっさと寝な」と背を向け、すぐに静かな寝息を立て始めた。だが、ユビの意識は一分一秒たりとも休まることはなかった。

薄い毛布越しに伝わってくる、彼女の背中の柔らかな曲線。動くたびに鼻腔をくすぐる、あの甘くて少し苦い、夜の女の匂い。暗闇の中、ユビの脳裏には、今日彼女が自分に施した化粧や、あの鋭い眼差し、そして耳元で囁かれた低い声が、代わる代わる現れては消えていく。

15歳の、まだ出口を知らない剥き出しの性欲が、少年の身体を内側から焼き尽くそうとしていた。

シーツを握りしめる指先が、微かに震える。彼女を抱きしめたい、触れたい、そして自分の存在をこの熱い身体に刻みつけたい。そんな暴力的なまでの欲求が、下腹部でドクドクと不気味な脈を打っている。

(お姉さんは、僕を子供だと思ってる。ただの迷子だと思ってる……)

その評価を覆したいという焦燥感と、彼女に触れてしまえば、今度こそ本当に追い出されてしまうのではないかという恐怖。二つの感情がせめぎ合い、ユビの呼吸は自然と浅く、熱くなっていった。

彼女の首筋に、うっすらと街灯の光が落ちている。 そこへ手を伸ばしかけ、ユビは自分の爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。破裂寸前の衝動を抑え込むために、彼は自分の唇を強く噛んだ。

「……ん」

彼女が寝返りを打ち、ふいにユビの方を向いた。 閉じた瞼、長い睫毛。無防備に投げ出された彼女の手が、ユビの太ももに、ほんの少しだけ触れる。

その瞬間、ユビの全身に電流が走った。 彼女にとってはただの無意識な動きかもしれない。だが、限界まで張り詰めていたユビの理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れそうになる。

彼女は、本当に寝ているのだろうか。それとも、こうして若すぎる少年の反応を、暗闇の中で試しているのだろうか。

ユビは荒くなる吐息を必死に殺しながら、布団の中で、決して彼女には見せられない自分の「男」としての熱に、独り耐え続けるしかなかった。窓の外では、夜の終わりを告げるような湿った風が、音を立てて吹き抜けていった。

布団の狭い宇宙の中で、ユビの意識は完全に混濁していた。

隣から漂ってくるのは、彼女が一日中まとっていたタバコの残り香と、それ以上に生々しく甘い、彼女自身の体温が混じった匂いだ。その香りを肺の奥深くまで吸い込むたびに、ユビの脳内には彼女の白い肌や、自分をからかうように細められた瞳がフラッシュバックする。

もう、限界だった。

ユビはシーツの下で、震える手をごわついたスウェットの中に滑り込ませた。自分の指先が触れたそこは、15歳の少年が抱えるにはあまりに過剰な熱を持ち、硬く、血管がはち切れそうなほどに脈打っていた。

(お姉さん……、お姉さん……)

声にならない名前を心の中で何度も呼びながら、ユビは自分のものをゆっくりとしごき始めた。彼女にバレるかもしれないという恐怖よりも、この行き場のない熱をどうにかしたいという本能が勝っていた。

耳元で聞こえる彼女の穏やかな寝息に合わせて、手を動かす速度が上がっていく。布地が擦れる微かな音が、静まり返った部屋の中で異様に大きく響いた。ユビは必死で吐息を殺し、唇を噛んで声を押し殺した。

隣で彼女が身じろぎをするたびに、ユビの心臓は飛び跳ね、背中に冷たい汗が流れる。しかし、そのスリルがさらに彼を追い込み、感覚を鋭敏に研ぎ澄ませていく。

彼女の匂いが、自分の指先にまで染み付いているような錯覚に陥る。 暗闇の中、ユビは自分の瞼の裏に、少女の姿に変えられた自分を満足げに眺める彼女の笑顔を描いた。あの日、彼女に触れられた場所が、彼女の言葉が、すべて熱に変換されて下腹部へと集まっていく。

視界が白く霞み、頭の中が真っ白に塗りつぶされそうになったその時、ユビは全身を硬直させ、声を漏らさないよう枕に顔を埋めた。

激しい拍動の余韻の中で、ユビはしばらく動けなかった。 やり場のない虚脱感と、彼女の隣でこんなことをしてしまったという猛烈な罪悪感。けれど、それ以上に、彼女の匂いに包まれながら果てたその瞬間だけは、確かに彼女と一つになれたような、歪んだ多幸感が少年の心を支配していた。

ふと、隣の寝息が止まったような気がして、ユビは心臓が止まるほど凍りついた。 しかし、彼女はただ深く寝返りを打っただけで、その手は無造作にユビの腰のあたりに置かれた。

「……ガキだね」

暗闇の中で、そんな幻聴が聞こえた気がした。 ユビは自分の罪を隠すように布団を深く被り、朝が来るのを、ただ震えながら待っていた。

静寂が支配する布団の中で、ユビは自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと怯えていた。しかし、それ以上に恐ろしいことが起きた。

「……アンタさ、さっきからうるさいんだよ」

低く、けれど確かな意志を持った彼女の声が、暗闇に溶け込んだ。ユビの動きが、心臓ごと凍りついたように止まる。言い訳の言葉すら見つからず、ただ浅い呼吸を繰り返す少年の横で、彼女はゆっくりと身体をこちらへ向けた。

「ガキのくせに、一人で何溜め込んでんのさ」

呆れたような、けれどどこか慈しむような溜息。次の瞬間、ユビの背筋に凄まじい衝撃が走った。彼女の熱い掌が、布団の中で迷うことなくユビの腰へと伸び、行き場を失っていた「それ」に、そっと、けれど確実にはわされたからだ。

「っ……!」

ユビの口から、声にならない悲鳴が漏れた。 彼女の指先は、スナックでグラスを磨き、少年に化粧を施した、あの器用で温かい指だ。男のゴツゴツとした手とは違う、柔らかくて、それでいてどこか冷徹なまでに正確な愛撫。

「正直だね、ユイちゃん。……それとも、ユビって呼んだ方がいい?」

彼女の吐息が耳元をかすめる。彼女の指が動き出すたびに、ユビの脳内は真っ白な閃光で塗りつぶされ、昨夜から積み上げてきた理性の破片が、一気に崩壊していくのを感じた。

彼女がすべてを知った上で、自分を弄んでいる。その屈辱的なまでの支配感が、15歳の少年にとっては何よりの快楽だった。

「お姉、さん……ごめ、ん、なさい……」

「謝る暇があるなら、ちゃんと見てな。大人の女が、アンタみたいなガキをどうやって壊すか」

彼女の指先が、少年の幼い熱を容赦なく追い込んでいく。 雨の駅で拾われたあの夜から、この瞬間まで。ユビが感じてきた孤独も、背伸びした自尊心も、少女に変装させられた恥じらいも、すべてが彼女の手のひらの中で溶け、一つに混ざり合っていく。

外では夜明け前の青白い光が、カーテンの隙間から忍び寄ろうとしていた。 だが、この布団の中だけは、まだ終わらない夜の熱と、二人の混じり合う吐息だけが、狂おしいほどに満ちていた。

彼女の指先が肌に触れた瞬間、ユビの思考は完全に焼き切れた。

布団の中という閉ざされた空間で、二人の境界線が曖昧になっていく。彼女の手は、まるで熟練の彫刻家が素材を確かめるように、少年の熱を丁寧に、そして執拗になぞり上げていく。ユビは必死に声を殺そうと奥歯を噛み締めたが、喉の奥からせり上がってくる熱い吐息までは止められなかった。

「……力、抜きなよ。壊れちゃうよ?」

耳元で囁かれる彼女の声は、昨夜までの冷たさが嘘のように甘く、重く、少年の脊髄を直接揺さぶった。彼女の身体が密着し、薄い寝間着越しに伝わる女性特有の柔らかさと、スナックの夜を生き抜いてきた強かな体温が、ユビの全身に浸透していく。

彼女の指が、迷いなくその核心を捉えた。 ユビは、自分が自分でなくなっていくような感覚に陥った。家出をしてきた惨めなガキでも、化粧をされた偽物の少女でもない。ただ一人の、飢えた雄としての本能が、彼女という巨大な海に飲み込まれていく。

「あ……、ぁ……」

ユビは、震える手で彼女の細い手首を掴んだ。止めようとしたのか、それとももっと求めたのか、自分でも分からなかった。ただ、彼女の指先に込められた微かな力が、少年の未熟な感情を容赦なく剥き出しにし、快楽の濁流へと突き落とす。

「いいよ、全部出しな。私が全部受け止めてあげるから」

その言葉は、救済のようでもあり、呪いのようでもあった。彼女の手のひらの中で、ユビの熱は最高潮に達し、張り詰めていた緊張が爆発するように解き放たれた。

視界が激しく明滅し、指先までが痺れるような感覚。 ユビは彼女の肩に顔を埋め、子供のように肩を震わせて呼吸を乱した。彼女はそんな少年の後頭部を優しく、それでいてどこか冷淡に撫で続け、すべてが終わるのを待っていた。

やがて訪れた静寂。 部屋に満ちるのは、二人の混じり合った濃密な吐息と、かすかに漂う夜の残り香だけだ。ユビは動くこともできず、彼女の腕の中でただただ呆然としていた。

「……これで、少しは大人になったかな。ユイちゃん」

彼女はそう言うと、少年の額にそっと唇を寄せ、吸っていたタバコの名残のような、苦くて愛おしいキスを落とした。

窓の外では、夜明けの冷たい光がゆっくりと街を白ませ始めていた。 魔法が解ける時間はすぐそこまで来ていたが、ユビの肌に残った彼女の指先の熱だけは、消えることなく深く、深く、刻み込まれていた。

一度弾けた熱の余韻が冷めやらぬまま、布団の中の空気はさらに密度を増していった。

虚脱感に包まれていたユビの身体だったが、彼女の指先は離れるどころか、慈しむような、あるいは執拗な誘いを持って、再び彼の未熟な熱を呼び覚まそうとしていた。一度すべてを預けたはずの身体が、彼女の柔らかな掌の動きひとつで、驚くほど正直に、そして以前よりも激しく脈打ち始める。

「……あら。意外としぶといんだね、アンタ」

彼女の瞳が暗闇の中で妖しく光った。それは、獲物を追い詰める肉食獣のようでもあり、迷える子羊を導く聖母のようでもあった。彼女は自ら纏っていたものを静かに脱ぎ捨て、少年の震える身体を、逃げ場のない熱の中に引き寄せた。

「いい? 怖いのは最初だけ。あとは私に全部任せなよ」

二人の境界が溶け合い、少年が「男」へと変貌を遂げたあの夜。布団の中の熱気は、言葉を介さない濃密な儀式のようでした。

彼女が自分の衣服を緩やかに脱ぎ捨てたとき、暗闇に浮かび上がったのは、十五歳のユビがこれまで一度も触れたことのない、圧倒的な「女性」の現実でした。滑らかな肩のライン、しなやかな腰の曲線、そして肌から立ち上る、むせ返るような体温。

「……こっちにおいで」

その囁きに導かれ、ユビはおそるおそる彼女の身体に触れました。指先から伝わるのは、吸い付くような肌の質感と、その奥でトクトクと刻まれる力強い鼓動。彼女の指がユビの髪を優しくかき乱し、火照った頬を包み込みます。

彼女は、戸惑うユビの身体を優しく、それでいて抗いようのない力強さで自分の方へと引き寄せました。重なり合った肌と肌の間に、一分の隙間もないほどの熱が生まれます。ユビは、彼女の首筋に顔を埋め、そこから漂うタバコと甘い香水の、混じり合った「大人の女」の匂いを深く吸い込みました。

「怖がらなくていいよ。私の全部、アンタに預けてあげるから」

彼女はユビの耳元でそう甘く低く告げると、少年の未熟な熱を、自分の掌で包み込むようにして導いていきました。彼女のリードは、経験に裏打ちされた余裕と、初めてを預かる者への慈しみに満ちていました。

ついに訪れた、結合の瞬間。 ユビは、目の前が真っ白になるような、鋭い衝撃と快感の濁流に飲み込まれました。自分の中にあった幼い自意識が、彼女という深い海の中に溶けて消えていくような感覚。彼女は少年の背中に爪を立て、逃がさないように強く抱き寄せました。

「……ぁ、っ、お姉、さん……!」

ユビの口から漏れる、切実な喘ぎ。彼女はそれに応えるように、腰をしなやかに揺らし、少年の内側に眠っていた「雄」の本能を容赦なく引き出していきます。

彼女の瞳は至近距離でユビを捉え、その潤んだ眼差しは、彼をただの迷子としてではなく、一人の「男」として認めていました。その視線に射抜かれながら、ユビは自分のすべてを捧げるように、彼女の温もりの中へと深く、激しく、没入していきました。

やがて訪れた絶頂。 ユビは彼女の肩に強く歯を立て、全身を痙攣させるようにして、自身のなけなしの純潔をすべて解き放ちました。彼女はそれを優しく受け止め、激しく上下する少年の背中を、嵐が過ぎ去るのを待つように静かに撫で続けました。

静寂が戻った布団の中で、ユビは自分の心臓の音が、彼女のそれと完全に重なり合っているのを感じていた。 それは、家出少年の逃避行が終わった合図であり、一人の男としての、新しい人生が産声を上げた瞬間でした。

カーテンの隙間から差し込む朝の光は、昨夜までの狂おしい熱を洗い流すように冷たく、透き通っていた。

ユビは、隣で眠る彼女を起こさないよう、静かに布団から抜け出した。借りていたスウェットを脱ぎ、隅に置かれていた自分の制服に袖を通す。昨夜の雨に濡れた名残で少し強張っていた生地が、今の自分にはひどく現実的な重みを持って感じられた。

鏡の前に立ち、タオルに水を含ませて、顔に残った「ユイ」の名残を拭い去った。紅も、シャドウも、彼女に与えられた少女の仮面は、水に溶けて消えていく。鏡の中に現れたのは、少しだけ目つきの変わった、一人の少年の顔だった。

「……帰るのかい」

背後から、低く、少し掠れた声がした。 振り返ると、彼女がベッドの上で身を起こし、シーツを胸元まで引き上げたまま、タバコに火をつけていた。紫煙が朝日の中で白く踊る。彼女の瞳には、寂しさも、引き止めるような色もなかった。ただ、昨夜、一人の男として自分を受け入れた相手への、対等な敬意のようなものが宿っていた。

「うん。……ケリをつけてくる」

ユビは真っ直ぐに彼女を見つめて答えた。親との喧嘩も、逃げ出したくなるような日常も、何一つ解決してはいない。けれど、今の自分には、それらと向き合うための、彼女に刻まれた確かな熱がある。

「そう。……あんなに有り金はたいて遠くまで来たのに、最後はあっけないもんだね」

彼女はふっと自嘲気味に笑うと、枕元にあった自分の名刺を一枚、ユビに差し出した。 スナック『カサブランカ』。その裏には、殴り書きで彼女の携帯番号が記されていた。

「もし、どうしても行き止まりにぶつかって、死ぬほど腹が減ったら……またその綺麗な指で、ここのドアを叩きなよ。焼きうどんくらいは、また作ってあげるからさ」

ユビは名刺を受け取り、大切にポケットに仕舞い込んだ。 彼女の部屋を出る間際、ユビは一度だけ立ち止まり、深く頭を下げた。

「お姉さん。……僕を拾ってくれて、ありがとう」

「……行けよ、ボウヤ」

彼女のぶっきらぼうな声を背中で受けながら、ユビは店を後にした。 朝の冷たい空気が肺を満たし、昨夜まであんなに重かった足取りが、今は驚くほど軽い。

駅へと向かう道すがら、ユビは自分の指先を見つめた。 そこにはもう、化粧の粉も、彼女の残り香も付いていないかもしれない。けれど、彼女に導かれ、大人への階段を駆け上がったあの瞬間の熱い感覚だけは、一生消えることのない道標として、少年の胸の中で静かに、けれど力強く拍動し続けていた。


数年の月日は、少年の幼さを削り取り、一人の青年の骨格を作り上げていた。

ユビは駅の改札を出て、あの日とは違う乾いたアスファルトを踏みしめた。手元には調理師免許。あの夜、彼女が作ってくれた不格好な焼きうどんの味が、彼を料理の道へと突き動かしたのだ。

街の風景は少しだけ変わっていたが、路地裏の空気はあの日のまま、湿り気と生活の匂いを孕んでいた。記憶を頼りに曲がり角を折れると、色褪せた『カサブランカ』の看板が、夕暮れの中にひっそりと浮かび上がっていた。

「……変わってないな」

心臓の鼓動が、十五歳のあの夜と同じように速くなる。ユビは一度深く息を吸い込み、重いドアを押し開けた。カランカラン、という鈴の音。

「いらっしゃい。……あら、まだ開店前だよ」

カウンターの奥から響いたのは、記憶よりも少しだけ深みを増した、あの低くて掠れた声だった。 彼女はグラスを拭く手を止め、不審そうに目を細めて入り口に立つ青年を見つめた。数年の月日は彼女にも、目尻の柔らかな皺という形で、優雅な時の流れを刻んでいた。

ユビは真っ直ぐに彼女の前に歩み寄り、カウンターに両手を置いた。

「指(ユビ)です。……約束通り、死ぬほど腹を空かせて戻ってきました」

彼女の手から、グラスが危うく滑り落ちそうになる。彼女はタバコをくわえるのも忘れ、目の前の青年を凝視した。制服を脱ぎ捨て、自信に満ちた眼差しで自分を見つめるその姿に、かつての面影を探し当てたのだろう。

「アンタ……本当に来やがったのか」

「調理師の免許、取ってきました。ここのキッチン、僕に任せてくれませんか。今度は僕が、お姉さんに美味いもんを食べさせたいんです」

彼女は呆れたように鼻で笑うと、ゆっくりとタバコに火をつけた。紫煙の向こう側で、彼女の瞳が懐かしそうに潤むのをユビは見逃さなかった。

「……生意気なこと言うようになったじゃない。あの時、私の腕の中で震えてたガキがさ」

彼女はカウンター越しに身を乗り出し、ユビの顎を指先でクイと持ち上げた。あの夜、彼女に化粧を施された時と同じ感触。けれど、今のユビはもう、視線を逸らすことはなかった。

「いいよ。ウチの店、最近つまみもマンネリだったしね。……その代わり、厳しいよ? 私を満足させられなきゃ、一晩でクビだから」

「望むところです」

ユビは不敵に笑い、彼女の指先に自分の手を重ねた。 かつて彼女に導かれ、男にしてもらったその手は、今や誰かのために腕を振るうプロの手になっていた。

「おかえり、ユビ。……ううん。カサブランカの、新しい看板息子さん」

再会の夜が、静かに幕を開ける。 もう偽物の少女を演じる必要はない。二人の間に流れるのは、過去を共有した者同士の、より深く、より甘い、大人の時間だった。

                            完