『「79」指姫(ゆびひめ)解体』
2026/02/02(月)
カーテンを閉め切り、遮光等級一級の闇の中で、僕の十本の「指」だけがタブレットの光を浴びて白く浮き上がっている。
「指、あんたまた部屋に引きこもって。十六にもなって不気味だよ」
リビングから届く母親の声を、僕は無視した。不気味なのは自分でも分かっている。クラスでは一度も女子と目を合わせられず、給食のパンを千切る手元の不器用さばかりを気にして生きている。指(ゆび)という名前のくせに、僕は自分の指先が嫌いだった。細すぎて、白すぎて、まるで男の体の一部ではないみたいで。
けれど、スマートフォンのカメラを起動し、三脚に固定した瞬間、この忌々しい指は僕から切り離された「聖域」に変わる。
僕はクローゼットから、滑らかなシルクのストールを取り出し、首元に巻いた。顔は映さない。ボイスチェンジャーのスイッチを入れ、喉を鳴らす。そこには、十六歳の童貞である冴えない男子高校生の姿はどこにもない。
「……こんばんは。今夜も、私と指先だけでお話ししてくれる?」
スピーカーから漏れたのは、潤いを含んだ、吐息のような二十代の女性の声だ。ネットの海に潜む数万人の孤独な男たちが、この声と、画面越しに鍵盤をなぞる僕の指先に熱狂している。
僕は「ゆび姫」という名のマドンナだ。
画面の向こうで、通知の嵐が吹き荒れる。愛を囁く言葉、高価なギフト、僕の指を「芸術品だ」と称える男たちの欲望。それを冷めた目で見つめながら、僕はピアノの鍵盤に指を置いた。
その時、一通のダイレクトメッセージが僕の視界を射抜いた。
『ゆび姫様、聞いてください。今日、学校ですごく悲しいことがあったんです』
心臓が跳ねた。そのアイコンの写真は、僕が毎日、教室の端から盗み見ているクラスメイト――佐伯凛のものだった。
僕の指が、わずかに震える。本物の彼女の体温には、一センチだって近づけない。なのに、画面の中の僕は、彼女が誰にも言えない秘密を最初に受け取る存在になってしまった。
僕は震える指先で、鍵盤を叩く代わりに、彼女の心に触れるための言葉を打ち込み始めた。
「明日の朝、目が覚めたら、あなたが隣にいてくれたらいいのに」
スマホの画面に浮かんだ凛のメッセージは、あまりに無防備で、僕の指先を熱くさせた。画面をスクロールする親指が、まるで彼女の柔らかな肌に直接触れているような錯覚に陥る。
僕はボイスチェンジャーのピッチを慎重に調整し、夜の静寂に溶けるような「ゆび姫」の声を吹き込んだ。
「凛ちゃん、そんなこと言われたら、私まで眠れなくなっちゃう。学校に、そんな風に思える人はいないの?」
すぐに既読がついた。深夜二時。クラスで一番の人気者で、いつも男子たちの中心で笑っている彼女が、今、暗い部屋で僕の指が生み出す言葉だけを待っている。
「いないよ。みんな、私の表面しか見てないもん。……でもね、一人だけ気になる人がいるの。すごく指が綺麗な男の子。いつも教室の隅で、何かを耐えるみたいに手を握りしめてる人」
心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように跳ねた。それは僕のことだろうか。それとも、僕の知らない誰かなのか。
僕は、現実の僕を隠すように、速い打鍵で言葉を返す。
「その彼の指に、触れてみたいって思う?」
「……わかんない。でも、その人の指を見てると、ゆび姫様のピアノを思い出すんだ。悲しくて、でもすごく優しい音がしそうな指」
僕は思わず、自分の左手を見つめた。爪の形まで整えられた、女装用の「ゆび姫」の手。でも、その中身は、彼女に話しかける勇気すらない、情けない十六歳のガキだ。
「触れてみればいいじゃない。案外、その彼も、誰かに見つけてほしいって思ってるかもしれないよ」
送信ボタンを押した後、僕はひどい自己嫌悪に襲われた。 何を言っているんだ。明日、教室で彼女が僕の手を握るはずがない。もし万が一そんなことが起きたら、僕のこの偽りの平穏は、ガラス細工みたいに粉々に砕け散ってしまう。
それでも、凛からの返信は止まらない。
「もしその人の手に触れたら、ゆび姫様に報告してもいい?……ねえ、ゆび姫様。私、いつか本物のあなたに会いたいな。会って、その指で、私の髪を撫でてほしい」
僕はスマートフォンの電源を切り、暗闇の中に放り投げた。 熱を持った指先を、自分の胸に押し当てる。そこにあるのは、経験したことのない恋心と、ネットという皮皮を一枚隔てただけで彼女を騙しているという、最低な征服感だった。
明日の朝、教室で彼女と目が合ったとき、僕はどんな顔をすればいいんだろう。
翌朝、教室の空気はいつもより粘り気があるように感じられた。
僕はいつものように、誰とも視線を合わせないよう俯き、壁際の自分の席へと滑り込む。心臓の鼓動がうるさい。昨夜、暗闇の中でやり取りしたあの熱っぽいメッセージは、夢だったのではないか。そう思いたかった。
けれど、視界の端に「彼女」が現れた瞬間、現実が急速に色づき始める。
佐伯凛。クラスの太陽。
彼女は友達と笑い合いながら、鞄から教科書を取り出している。その横顔はいつも通りに見える。でも、僕は知っている。彼女が昨夜、深夜二時までスマホを握りしめ、見ず知らずの「ゆび姫」に孤独を打ち明けていたことを。
不意に、凛がこちらを振り返った。
逃げ場はなかった。僕は咄嗟に視線を机に落とし、自分の両手を隠すように組んだ。
「――ねえ、指くん」
聞き慣れたはずの声が、昨夜のボイスチェンジャー越しの残響と重なって、脳を直接揺らした。隣の席の椅子が引かれる音がして、彼女の体温がぐっと近づく。
「……なに」
声を出すのが精一杯だった。喉が引き攣り、いつものように情けない、子供っぽい声が出る。
「指くんの手って、やっぱり綺麗だよね」
心臓が止まるかと思った。彼女の視線が、僕の組んだ手の隙間に注がれているのが分かる。
「ずっと言おうと思ってたんだけど。指くん、ピアノとかやってる? なんだか、私の大好きなピアニストの人と、指の使い方が似てる気がして」
凛の手が、ゆっくりと机の上に伸ばされた。細くて、少し日焼けした、本物の女子の指先。それが僕の、青白い手の甲に向かって近づいてくる。
僕は反射的に手を引っ込めようとした。けれど、それよりも早く、彼女の指先が僕の人差し指の付け根に触れた。
「あ……」
電気が走ったような衝撃。ボロ布のような僕の自尊心が、その一点から溶けていく。彼女は僕を「指くん」と呼んでいるけれど、その瞳の奥で見つめているのは、僕が作り上げた偶像「ゆび姫」の影だ。
「やっぱり……冷たい。でも、すごく柔らかいんだね」
凛は僕の指を、確かめるようになぞった。その瞬間、彼女がふっと悲しげに目を細めたのを、僕は見逃さなかった。
「……ねえ、もしよかったら、放課後少しだけ付き合ってくれない? 誰にも言えない話があるの。指くんにしか、言えない話」
それは、昨夜「ゆび姫」に送られたダイレクトメッセージの続きだった。
放課後の旧音楽室は、西日に照らされてオレンジ色の塵が宙を舞っていた。
使い古されたアップライトピアノの前に座る僕の隣で、凛は鍵盤にそっと指を滑らせた。音は鳴らない。彼女はただ、象牙の冷たさを確かめているようだった。
「……ゆび姫様にはね、もう会えないかもしれないって言われたの」
唐突な言葉に、僕は呼吸を止めた。そんな返信をした覚えはない。昨夜、スマホを投げ出した後のことだ。
「さっきDMが来たんだ。『正体がバレそうだから、アカウントを消します。もう探さないで』って」
頭の中が真っ白になった。乗っ取りか、それとも僕の操作ミスで何かが起きたのか。いや、違う。スマホを投げた拍子に、あるいは無意識のうちに、僕は自分で自分の「居場所」を壊してしまったのか。
「私、ショックで……。でもね、不思議。ゆび姫様が消えちゃうって思った瞬間、真っ先に浮かんだのが指くんの顔だったの」
凛が僕の方を向いた。その瞳には、薄く膜を張ったような涙が浮かんでいる。
「指くん、昨日、私のツイートに『いいね』してくれたでしょ。ゆび姫様の曲をシェアしたやつ」
しまった、と思った。隠していたつもりだったのに、指先が勝手に「自分」の痕跡を追ってしまっていた。
「あの曲の解説、指くんが前に音楽の時間にポロって言ってたことと、全く同じだった。……ねえ、指くん。もしかして、あなたがゆび姫様なの?」
沈黙が音楽室を支配する。嘘をつくべきだった。笑って誤魔化すべきだった。でも、目の前にある彼女の手があまりに震えていて、僕の「指」は嘘をつくことを拒否した。
僕は黙って、ピアノの鍵盤に両手を置いた。
昨日、画面越しに彼女に届けたあの旋律を、今度は生身の指先で奏で始める。ボイスチェンジャーも、シルクのストールも、フィルターもない。ただの16歳の童貞である僕の、剥き出しの音が静かな室内を震わせた。
一曲終える頃、凛は僕の右手に自分の手を重ねていた。
「やっぱり……そうだ。この震え方、ゆび姫様と一緒だ」
彼女は僕の指を一本ずつ、愛おしむように絡めていく。ネット上のファンたちが求めていた「崇拝」とは違う、もっと重くて、逃げ出したくなるほど切実な体温。
「指くん……私ね、ゆび姫様が男の子だって気づいた時、ガッカリするどころか、すごく安心したんだよ。だって、これなら……」
彼女が顔を近づける。シャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、僕はパニックになりそうなほど理性を失いかけていた。
「これなら、本当に私と『経験』してくれるでしょ?」
その言葉の意味を理解するより早く、凛の唇が僕の指先に触れた。聖域だったはずの指が、一瞬にしてただの肉塊へと堕ちていくような、甘い恐怖。
「指くん。ネットの中の嘘はもういいよ。……私に、本当のあなたの『指』を教えて」
凛の唇が僕の指先に触れた瞬間、頭が真っ白になるような快楽と同時に、冷や水のような違和感が背筋を駆け抜けた。
彼女の瞳は、確かに僕を見ている。けれど、その瞳の奥に映っているのは「僕」という人間ではなく、もっと別の、歪な期待の形をしていた。
「……指くん、どうしたの? 震えてる」
凛が僕の手を、自分の制服のブラウスのボタンへと導く。指先に触れるプラスチックの硬質な感触と、その下に隠された彼女の鼓動。僕はたまらず、その手を振り払った。
「どうして……」
「だって、おかしいよ」
僕は喘ぐように言葉を絞り出した。
「佐伯さんは、クラスで一番人気があって、彼氏だっていたはずだ。なのに、どうして僕みたいな……顔も知らないネットの相手に心酔したり、こんなこと」
凛は振り払われた手を所在なさげに眺め、それから、今まで見たこともないような冷ややかな笑みを浮かべた。その顔は、僕がスマホの画面越しに見ていた「純粋な信者」の顔ではなかった。
「……バレちゃった? 意外と鋭いんだね、指くん」
彼女はピアノの椅子に深く腰掛け、足を組み直した。その仕草は、16歳の女子高生にしてはあまりに手慣れていて、毒々しい。
「私ね、パパに言われてるの。SNSで影響力のある人間を見つけて、仲良くなっておけって。ゆび姫様……ううん、指くんのアカウント、フォロワー数だけじゃなくて、エンゲージメント率が異常に高いでしょ? 投資価値があるのよ」
「投資価値……?」
「そう。私の家、広告代理店を経営してるの。あなたのその『指』と、私が作り上げる『物語』を掛け合わせれば、もっと大きなビジネスになる。……昨夜のDM、アカウントを消すって送ったのは、私。あなたのスマホ、ハッキングさせてもらったから」
頭が理解を拒否した。彼女は「信者」ではなく、僕というコンテンツを獲物として狙う「ハンター」だったのだ。
「指くん、あなたは童貞で、臆病で、指先だけでしか世界と繋がれない。そんなあなたが、一番求めていたのは何? 私という『リアルな女の子』からの承認でしょ?」
凛は再び立ち上がり、僕の耳元で囁いた。今度の声は、昨夜のボイスチェンジャーよりもずっと残酷に、僕の欲望を突き刺す。
「いいよ、ビジネスでも。私はあなたに『経験』をあげる。その代わりに、あなたの指が紡ぐすべての権利を、私にちょうだい」
西日が沈み、音楽室に長い影が伸びる。 僕の誇りだった指は、彼女という檻に囚われた操り人形の糸に変わろうとしていた。
「逃げられると思ってるの? この指が、もう私の共犯者なのに」
凛は僕の指を一本ずつ、品定めするように握り込んだ。その握力は驚くほど強く、逃げることなんて最初から許されていないのだと理解させられる。
次の日から、僕の日常は一変した。
「指くん、今日の投稿用の写真はこれ。キャプションは私が考えたから、そのままコピーして」
昼休みの屋上。凛は僕のスマホを当然のように操作し、僕の「指」を演出していく。彼女が用意したのは、僕の趣味とはかけ離れた、高級なシャンパングラスの縁をなぞる僕の手の写真や、どこか退廃的なホテルのシーツを掴む指先の写真だった。
「こんなの、僕じゃない……。ファンは、僕のピアノを……」
「ファンが求めているのは『物語』よ、指くん。神秘的なピアニストが、実は都会の夜に溺れている。そのギャップが数字になるの。ほら、このリプライを見て」
画面には、熱狂と嫉妬が入り混じったコメントが溢れていた。僕が必死に守ってきた純粋な音の世界は、凛の指先一つで、下俗で刺激的なエンターテインメントへと塗り替えられていく。
放課後、僕は彼女に連れられて、都心のスタジオや高級マンションの一室へと引きずり回された。
「今日はこの香水を指先に馴染ませて。指先から香りが漂ってきそうな動画を撮るから」
彼女の指示は絶対だった。撮影の間、凛は僕の指を執拗にマッサージし、時には甘噛みするように唇を寄せる。それは愛撫というより、競走馬の脚を整える調教師の仕草に近かった。
「指くん、もっと欲しそうな顔をして。……そう、その情けない、何かに縋りつきたいっていう指が一番売れるのよ」
彼女に触れられるたび、僕の中の「童貞」が情けなく反応する。支配されている恐怖と、彼女という圧倒的な存在に「必要とされている」という歪な高揚感。
ある夜、凛は僕をホテルのスイートルームに呼び出した。
「指くん、今日は特別。……フォロワーが10万人を超えたお祝い」
彼女はベッドの上に横たわり、僕に向かって手を差し出した。その手には、僕のスマホが握られている。画面には、ライブ配信の準備画面。
「今から、顔を隠して私を愛撫して。その様子を『ゆび姫』のアカウントで世界に流すの。指くん、あなたのその指で、私がどれだけ乱れるか見せてあげて?」
これは「経験」ではない。僕の初めてを、彼女は最も高値で売れる「コンテンツ」として消費しようとしている。
僕は震える手で、カメラの前に立った。レンズの向こう側には、顔も見えない何十万人もの観客がいる。そして目の前には、僕を破滅させながら微笑む、美しい支配者。
「……さあ、始めて? 指くん」
僕の指先が、彼女の肌に触れる。 それは、世界で一番残酷で、世界で一番エロティックな「処刑」の始まりだった。
ライブ配信の赤色の「REC」が、暗い部屋で死神の目のように点滅している。
画面の向こう側では、数えきれないほどのコメントが弾丸のように流れていく。 《ゆび姫様、ついに?》《その指で何を触るの?》《嘘だろ、男の手が見える……》
「……始めて」
凛の囁きは、もはや恋人のものではなかった。獲物を罠に追い込んだハンターの、冷徹なまでの勝利宣言だ。
僕は、彼女の鎖骨に指を置いた。 震えが止まらない。僕の指先は、彼女の透き通るような肌の上で、迷子の子供のように彷徨っている。凛は僕の首に手を回し、耳元で視聴者には聞こえないほどの小さな声で追い打ちをかけた。
「ほら、みんな見てるわよ。あなたのその純潔が、私の指先一つで汚されていくところを」
その瞬間、僕の中で何かが弾けた。 支配されている恐怖、彼女への憎しみ、そして逃れられない性的な昂ぶり。それらがドロドロに混ざり合い、僕の指先に異様な熱を宿らせた。
僕は、彼女の筋書きを無視した。 優しくなぞるはずの指を、暴力的なまでに彼女の肌に食い込ませる。
「あ……っ!?」
凛の喉から、演技ではない悲鳴が漏れた。カメラの画角を無視して、僕は彼女の喉元を、そして細い肩を、狂ったように愛撫し、蹂躙した。それは「ゆび姫」という虚像が、自分を殺そうとする支配者に向けた、最後の抵抗だった。
画面の中のコメントが、一気に加速する。 《何これ、激しすぎる》《ゆび姫様が泣いてる?》《この指、ヤバい。壊れる》
凛の瞳に、初めて「焦り」の色が浮かんだ。彼女は僕をコントロールしているつもりだった。けれど、鍵盤を叩き続けてきた僕の指の力は、彼女の想像を遥かに超えていた。僕は彼女の服を引き裂き、その白い腹部に、僕の指という「刻印」を深く、深く刻み込んでいく。
「やめ……指くん、配信が……!」
「配信してるんだろ? 見せてやればいい。これが、君が欲しがった『物語』の結末だ」
僕は彼女の唇を指で強引に割り、その舌を蹂躙した。 凛の体から力が抜け、彼女の背中がベッドに沈み込む。支配していたはずの彼女が、僕の指の動き一つで、ただの震える肉塊へと成り下がっていく。
カメラの前で、僕は初めて自分の顔を晒した。 汗に濡れた前髪の間から、狂気じみた笑顔を視聴者に見せつける。
「皆さん。ゆび姫は、今日で死にました」
僕はスマホを掴み取り、その場で床に叩きつけた。 パリン、と画面が割れる音が響き、真っ暗な沈黙が訪れる。
世界と繋がっていた唯一の回路を断ち切った部屋で、僕は喘ぐ凛の上に跨ったまま、自分の右手を見つめた。 そこには、かつての清廉なピアニストの指はもうなかった。 誰かを壊し、自分も壊れることを知ってしまった、十六歳の「男」の指が、そこにはあった。
「……続き、しようか。今度は、カメラなしで」
部屋を満たしているのは、もはやビジネスの冷たさではない。 泥沼のような、共依存の始まりを告げる獣の吐息だけだった。
「いい? これはあなたの指じゃない。私の指なの」
凛は僕の上に跨ると、僕の右手を強引に掴み上げ、その指先をじっと見つめた。彼女の瞳は、獲物を前にした獣のような、残酷なまでの煌めきを湛えている。
僕は、彼女の重みと、そこから伝わる確かな熱に、呼吸をすることさえ忘れていた。ウィッグが乱れ、鏡の中の「ゆび姫」と「僕」が混ざり合う。
「指くん、あなたの指は、世界を感動させるためにあるんじゃない。私を……壊すためにあるのよ」
凛は僕の指を、自分のスカートの奥へと導いた。
「あ……」
指先が、彼女の湿った熱に触れる。 ピアノの鍵盤よりもずっと柔らかく、そして底なしに深い、禁断の感触。
凛は僕の手首を強く掴んだまま、自分から腰を沈めた。僕の指が、彼女の体温にゆっくりと飲み込まれていく。それは、単なる性的な接触を超えた、精神的な「契約」だった。
「……っ、ふ、あ……」
凛の顔が、悦びに歪む。彼女は僕の指を、まるで自分の一部であるかのように操り、自分の奥深くへと沈めていく。指先から伝わってくる、彼女の鼓動。震える筋肉。そして、彼女という生き物が放つ、むせ返るような命の匂い。
「見て、指くん。今、あなたの指が、私を支配してる。……でも、その指を動かしているのは、私」
彼女の腰が、僕の指を起点にして激しく、狂おしく波打つ。 僕は自分の指が、彼女という巨大な熱量に溶かされ、消えていくような感覚に陥った。もう、指がどこまでで、彼女がどこからなのか、境界が分からなくなる。
「すごい……最高よ。この指……」
凛は絶頂の間際、僕の喉元を強く噛んだ。 痛みが脳を突き刺すと同時に、彼女の体が、僕の指を締め付けるように大きく跳ねる。
「……あ、はあ、はあ……」
静寂が戻った部屋で、凛は僕の胸に顔を埋めたまま、荒い息を吐いていた。 僕の右手は、まだ彼女の体温に浸されたまま、微かに痙攣している。
「指くん……もう、逃げられないね」
彼女が顔を上げ、勝ち誇ったような、それでいてひどく孤独な少女の顔で笑った。 僕の指は、彼女の秘密を暴いた代償として、一生、この感触から逃れられない呪いをかけられてしまったのだ。
僕は、動かなくなった右手をそっと見つめた。 汚れて、濡れて、熱を持ったこの指こそが、僕の十六歳の、唯一の真実だった。
もはや、どちらが「指」で、どちらが「凛」なのか。どちらが支配者で、どちらが奴隷なのか。そんな問いは、重なり合う熱の濁流に飲み込まれて消えた。
凛は、僕の指を自分の内側から引き抜くと、今度は僕の体そのものを、逃れられない渇望で迎え入れた。
「……全部、ちょうだい。あなたの指も、その震えも、あなたの『初めて』も」
彼女の切実な声が耳元で弾ける。僕は、自分を縛り付けていたすべての臆病さを脱ぎ捨て、彼女という深淵に身を投じた。
結合した瞬間、全身の細胞が沸騰するような感覚に襲われた。ピアノの旋律が最高潮に達し、すべての音が一つに重なるあの一瞬のように、僕と彼女の世界は、鮮やかな白光の中で「合体」した。
「ああ……っ、凛、佐伯さん……!」
「凛って呼んで……! もっと、壊して……!」
僕は、彼女の背中に指を食い込ませ、その存在を確かなものにするために抱きしめた。 指先だけではない。腕も、胸も、腰も、そして今まで誰にも触れさせなかった僕の心さえも、彼女の体温と同化していく。ネットの虚構も、教室の孤独も、すべてはこの瞬間の快楽のための前奏曲に過ぎなかった。
激しくぶつかり合うたびに、僕の十六年間の空虚が、彼女という実体で埋め尽くされていく。それは救済であり、同時に、二人で奈落へ堕ちていくための儀式でもあった。
潮騒のような呼吸が重なり、やがて、絶頂の波が二人を同時に攫っていった。
視界が弾け、意識が溶け合い、僕たちはただの二つの肉体として、ベッドの上に打ち上げられた。
長い沈黙の後、凛が僕の胸に耳を当て、トクトクと脈打つ鼓動を確認するように呟いた。
「……これで、もう解けないね。指くんと私は、一本の指になったんだから」
彼女の指が、僕の指と固く絡み合う。 窓の外では、夜明けの冷たい光が、世界を青白く照らし始めていた。 もう「ゆび姫」はいない。ここには、互いの傷を舐め合い、一つの怪物として生まれ変わった、二人の子供がいるだけだった。
あれから五年。
都内にある超高級マンションの一室。防音加工が施されたリビングには、かつて「指」と呼ばれた青年と、かつて彼を支配した「凛」の姿があった。
今の彼は、世界的に名を馳せる匿名ピアニスト「THE FINGER」として君臨している。決して公の場に姿を現さず、ネットの配信と音源販売だけで数億を稼ぎ出す、現代の音楽シーンの怪異。
そして、その全てを差配し、プロデュースしているのが、敏腕マネージャーとして業界を冷徹に渡り歩く、凛だった。
「……次のライブ配信、セットリストを変えたわ。もっと狂ったような、指を壊すくらいの速弾きを求めてるの、ファンは」
凛はワイングラスを片手に、リビングの中央に鎮座するスタインウェイの前に座る彼を見下ろした。彼女の瞳にあるのは、かつての制服を着た少女の幼さではなく、完成された捕食者の輝きだ。
二十一歳になった彼は、長く伸びた髪を後ろで束ね、ただ黙って鍵盤に指を置いている。
「わかった、凛。君が望むなら」
彼の声は低く、そしてどこか虚ろだ。 十六歳のあの日、彼女と「合体」した瞬間に、彼の人生の舵は完全に彼女へと譲り渡された。
彼は椅子から立ち上がり、凛の元へ歩み寄る。そして、その長い指で彼女の顎をクイと持ち上げた。かつては震えていた指先が、今は迷いなく彼女を捕らえる。
「でも、その代わりに……今日は、新しい『物語』が必要だ」
彼は凛の手を引き、寝室へと誘う。 彼らの関係は、もはや愛や恋といった生ぬるい言葉では括れない。 音楽という名の麻薬を世界に撒き散らし、その快楽の源泉として互いの肉体を使い潰す、完璧な「共犯者」としての完成形。
「いいわよ。あなたのその指が、私を一番よく知っているもの」
凛は艶然と微笑み、彼を受け入れる。 かつての童貞だった少年はもういない。ここにあるのは、指先一つで世界を熱狂させ、そしてたった一人の女に魂を縛り付けられた、美しき狂信者だ。
彼が彼女の肌に指を這わせるたび、新しい旋律が脳内に溢れ出す。 その旋律は、明日にはまたネットの海を駆け巡り、何百万人もの孤独な魂を支配していくのだ。
彼らの指は、もう二度と解けることはない。
完