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薄暗いワンルームマンションの天井を見つめながら、指(ゆび)は自分の吐き出す呼吸の熱さに、改めて現実を突きつけられていた。

喉はひび割れた大地のように乾き、飲み込むたびに棘が刺さるような痛みが走る。広告代理店という、煌びやかな響きとは裏腹に泥臭い現場に飛び込んで半年。十八歳の彼は、若さという唯一の武器を使い果たし、電池が切れたように動けなくなっていた。

昨日、朦朧とする意識の中で送った欠勤連絡。冷徹なまでの仕事ぶりで恐れられている上司の佐伯には、きっと呆れられているだろう。「根性がない」と一蹴されても文句は言えない。そんな自己嫌悪が、熱に浮かされた頭の中をぐるぐると回り続けていた。

その時、静まり返った部屋に不似合いなインターホンの音が鳴り響いた。

指は、耳鳴りか何かだと思って無視しようとしたが、音は執拗に二度、三度と続いた。重い鉛を引きずるようにしてベッドから這い出し、玄関のドアを開ける。

「……あ、……え」

声にならない掠れた音が漏れた。

そこに立っていたのは、三十歳。独身。社内で最も近寄りがたい存在として知られる、佐伯だった。

「顔色が土色ね。生きてる?」

彼女はいつもの完璧なオフィスファッションではなく、少し崩したトレンチコートを羽織っていた。手には、コンビニのロゴが入った重そうなビニール袋。強引に部屋へ足を踏み入れた彼女から、冷たい外気とともに、洗練されたフローラルな香水の匂いがふわりと漂う。

「佐伯、さん……なんで。会社、は……」

「昼休み。あんたの送ってきたLINE、誤字脱字だらけで見てられなかったから」

彼女は戸惑う指を制するように、そのひんやりとした掌を、彼の熱い額に迷いなく押し当てた。

「……ひどい熱。よく自力で玄関まで来れたわね」

十八歳の、まだ女性という存在に免疫のない指にとって、その手のひらの冷たさはあまりに衝撃的だった。佐伯の指先が前髪に触れる。視線が、至近距離で絡み合う。童貞の彼が抱く女性への幻想を、大人の余裕が静かに、そして容赦なく侵食していく。

「とりあえず、寝なさい。ポカリスエットとゼリー、枕元に置くから」

甲斐甲斐しく動き回る彼女の背中を見つめながら、指は熱のせいだけではない動悸の激しさに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

「いいから、横になって」

佐伯は抵抗する隙も与えず、指の肩を軽く押してベッドへ促した。シーツに沈み込む体は鉛のように重く、彼女が掛け布団を首元まで引き上げる仕草に、指は子供に戻ったような居心地の悪さと、どうしようもない高揚感を覚えていた。

彼女は近くの椅子を無造作に引き寄せると、足を組んで腰を下ろした。タイトなスカートから伸びるストッキングの質感が、薄暗い部屋の中でわずかに光を反射している。

「十八歳でこの業界は、少し早すぎたかしらね」

独り言のようなその言葉に、指は熱で潤んだ瞳を揺らした。

「……すみません。期待、裏切っちゃって」

「期待なんて最初からしてないわよ。ただ、あんたを見てると危なっかしくて見ていられないだけ」

佐伯はそう言いながら、ビニール袋から取り出した冷却シートのフィルムを剥がした。指の額に、冷たい感触がぴたりと貼り付く。彼女の指先が、一瞬だけこめかみを撫でた。

「あんた、処女なの?」

唐突に投げかけられた言葉に、指はむせ返りそうになった。

「は……っ、え、何を……」

「冗談よ。そんな顔しないで」

彼女はフッと口角を上げたが、その瞳にはいつもの仕事で見せる鋭さではなく、どこか寂寥感に似た色が混じっていた。佐伯は組んでいた脚を解き、少しだけ指の方へ身を乗り出した。

「男の人って、若いうちは身体を壊すまで働けば何かが手に入ると思ってる。でもね、壊れた心は広告のキャッチコピーみたいに簡単には書き直せないのよ。……私も、あんたのくらいの時に、一度全部捨てたくなったことがあるから」

その告白は、鉄の女と称される彼女のイメージを静かに崩していった。指は熱に浮かされながら、目の前にいる「上司」が、一人の「三十歳の女性」として輪郭を結んでいくのを感じていた。

「佐伯さんも……そんなことが、あったんですか」

「あったわよ。今のあんたみたいに、情けない顔をして泣きそうになってたわ」

彼女の手が、布団の上から指の腕をそっと押さえた。その手の重みと温かさが、十八歳の未熟な心に深く沈み込んでいく。

「ねえ、指。熱が下がったら、少しだけ私のわがままに付き合いなさい。仕事じゃなくて、プライベートの」

指は、心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを聞いていた。それは病のせいなのか、それとも、目の前の女性が放つ危うい色香のせいなのか。判別がつかないまま、彼はただ、彼女の指先の温もりを離したくないと願っていた。

「汗、すごわね。シャツ、着替えなさい」

佐伯の声は、湿り気を帯びた部屋の空気を静かに切り裂いた。指は朦朧とした意識の中で、自分のTシャツがぐっしょりと肌に張り付いている不快感を自覚した。熱に浮かされた体は、もはや自分の意思では指一本動かすことすら億劫だった。

「自分で……できます……」

「無理言わないの。ほら、手伝うから」

彼女は洗面所からお湯を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。絞ったタオルの熱い湯気が、指の鼻腔をくすぐる。佐伯は躊躇いもなく指のTシャツの裾を掴むと、それをゆっくりと捲り上げた。

剥き出しになった十八歳の薄い胸板に、冷たい外気と、それ以上に熱い彼女の視線が触れる。指はたまらず目を逸らし、固く瞑った。女性に、しかも憧れと畏怖の対象である上司に裸を晒しているという事実は、高熱で麻痺した頭をさらに沸騰させた。

「……失礼するわね」

温かいタオルが、指の首筋から胸元へと滑った。吸い付くようなタオルの感触と、その向こう側にある佐伯の手のひらの質感が、直接肌に伝わってくる。彼女は驚くほど丁寧に、しかし事務的な手つきを崩さずに、汗を拭い去っていく。

「指、あんた意外と体格いいのね。もっともやしっ子かと思ってたけど」

「……部活、やってたんで」

「そう。もったいないわね、こんなところで縮こまってるのは」

タオルが脇腹から背中へと回り、指の体が不自然に跳ねた。佐伯の手が、彼の腰のあたりで止まる。至近距離にある彼女の吐息が、耳元に触れた。ふと見上げると、佐伯の瞳が濡れたような光を湛えて、指の唇を見つめていた。

「ねえ、指……。熱のせいにして、全部忘れてあげてもいいのよ?」

彼女の自由な方の手が、指の頬をなぞり、そのまま親指で彼の唇をゆっくりと押し開こうとする。大人びた香水の匂いと、石鹸の香りが混じり合い、指の理性を溶かしていく。

「佐伯、さん……僕……」

「いいから、黙ってて」

彼女は洗面器にタオルを落とし、バシャリと小さな音を立てた。その音を合図にするように、佐伯の顔がゆっくりと、確実に指の顔へと近づいてきた。

カーテンの隙間から差し込む午後の光が、部屋を舞う埃を白く照らしていた。

佐伯の顔が近づくにつれ、彼女の瞳の奥にある、細かな虹彩の模様までがはっきりと見えた。いつもは部下を射抜くような鋭い視線が、今は熱を帯び、どこか縋るような湿り気を帯びている。

「……嫌なら、突き飛ばしなさい」

耳元で囁かれたその声は、上司としての命令ではなく、一人の女としての震えるような懇願だった。

指は、逃げ場のない枕に頭を沈めたまま、荒い呼吸を繰り返した。心臓の音がうるさすぎる。ドクドクと脈打つたびに、視界が揺れた。彼女の唇が触れるか触れないかの距離で止まり、そこから漏れる甘い溜息が、指の唇を熱く撫でる。

童貞の彼にとって、それは未知の領域への扉だった。恐怖と、それを上回る圧倒的な渇望。指は、シーツを掴んでいた右手を震わせながら持ち上げ、迷った末に佐伯の細い肩に置いた。

その瞬間、弾けたように彼女の唇が重なった。

「んっ……」

柔らかな、けれど火傷しそうなほど熱い感触。石鹸の香りと、彼女が昼休みに飲んだのか、微かなコーヒーの苦みが混じり合う。初めて触れる大人の女性の唇は、指が想像していたよりもずっと柔らかく、そして強引だった。

佐伯の指先が、彼の髪に深く潜り込み、後頭部を引き寄せる。舌先が唇の端をなぞり、熱に浮かされた指の口内へ迷いなく侵入してきた。

「っ、は……あ……」

呼吸が止まる。頭の中が真っ白になり、指の意識は現実から切り離された。自分を縛り付けていた「新卒」や「十八歳」という殻が、彼女の舌が絡み合うたびに溶けてなくなるような感覚。

佐伯は一度唇を離すと、潤んだ瞳で指を見下ろし、耳元に顔を寄せた。

「これ、仕事よりずっと難しいわよ……?」

吐息混じりの囁きとともに、彼女の手は指の胸元から、まだ熱の引かない腹部へとゆっくりと滑り降りていった。

「風邪……うつりますよ」

掠れた声で、指は精一杯の拒絶を口にした。しかし、その言葉とは裏腹に、彼の指先は佐伯の肩にかけられたトレンチコートの生地を、離したくないと言わんばかりに強く握りしめていた。

佐伯は動きを止め、指の至近距離で小さく吹き出した。鼻先が触れ合うほどの間近で、彼女の瞳が柔らかく細められる。

「今さら何を言ってるの。もう、手遅れよ」

彼女はそう言い捨てると、再び深い口づけで指の言葉を封じ込めた。今度は、先ほどよりも深く、逃げ場を塞ぐような接吻だった。

指の頭の芯が、さらに激しく痺れ始める。高熱のせいで現実と夢の境界が曖昧になり、目の前で自分を求めているこの美しすぎる上司が、幻影ではないかとさえ思えてくる。佐伯の舌が、未熟な彼のそれを優しく誘い出し、翻弄するように絡みつく。そのたびに、指の背筋を未知の震えが駆け抜けた。

「……ん、は……っ」

ようやく唇が離れたとき、二人の間には細い銀の糸が引いた。佐伯は上気した顔で、指の額にかかった湿った髪を愛おしそうに掻き上げた。

「うつったなら、明日からは私が休んで、あんたが看病しに来て。……それで公平でしょ?」

冗談めかした彼女の声は、どこか熱っぽく震えている。彼女の手は、Tシャツの下の熱い肌を離さず、ゆっくりと指の腰を抱き寄せた。厚い掛け布団越しに、彼女の体の曲線が重みとなって伝わってくる。

十八歳の彼にとって、その重みは世界の何よりも重く、そして甘美な責任のように感じられた。

「佐伯さん……僕、どうなっても、知りませんよ」

「生意気ね」

佐伯は、子供をなだめるような、あるいは獲物を追い詰めるような微笑みを浮かべた。彼女はそのままゆっくりと、自分のトレンチコートのボタンに手をかけた。

「……脱ぎなさい。汗、吸いすぎて重くなってるわ」

佐伯の声に、指は朦朧としながら自分の腰元に手をやった。中学の頃から履いているような、膝の抜けたグレーのスウェットパンツ。広告代理店の華やかな世界とは程遠い、あまりに情けない部屋着だ。

「……すみません、こんな格好……」

「いいから。誰も見てないわよ」

佐伯は指の震える手を介助するようにして、ウエストのゴムに指をかけた。ずり下げられたスウェットが足首を通り、床に丸まって落ちる。

下着一枚になった指の脚は、若さゆえに瑞々しくも、熱のせいで赤みを帯びていた。佐伯は新しく絞ったタオルを、彼の膝から太ももへと滑らせる。

「……っ」

太ももの内側、指の力ではどうにもできないほど熱が溜まっている場所に、熱いタオルが吸い付く。佐伯の手のひらが、タオルの厚みを通して、ダイレクトに彼の筋肉の躍動を捉えていた。

「指、あんた、さっきから息が荒すぎるわよ」

彼女はわざとゆっくりと、付け根に向かってタオルを動かした。指はシーツを握りしめ、のけ反るようにして天井を仰いだ。清潔なタオルの熱さと、彼女の手が持つ体温。その二つが混ざり合い、彼の理性を容赦なく削り取っていく。

「佐伯さん……、もう、いいです。これ以上は……」

「何がいいの?」

彼女はタオルを置くと、素手のまま指の膝に触れ、そのまま這い上がるようにして彼の胸元まで顔を近づけた。

「体が綺麗になったら、次は、あんたのその熱をどこに逃がすか、考えなきゃいけないわよね」

佐伯の瞳が、至近距離で妖しく揺れた。看病という建前は、剥ぎ取られたスウェットと共に、すでに足元へと捨て去られていた。

佐伯の動きに迷いはなかった。彼女は再び洗面器に手を伸ばし、湯に浸されたタオルを丁寧に絞り上げた。立ち上る湯気が、二人の間の空気をさらに濃密に変えていく。

「ここも、かなり汗をかいてるわね」

彼女の視線が、下着の境界線へと注がれる。指はたまらず腕で顔を覆ったが、剥き出しの身体は逃げ場を失っていた。佐伯の手が、躊躇なく最後の一枚をずり下げ、十八歳の未熟な熱を露わにする。

「……あ、佐伯さん……っ」

「動かないで。すぐ終わるから」

熱を帯びた厚手のタオルが、彼の最も過敏な場所に、包み込むように押し当てられた。タオルの熱い湿り気が肌に触れた瞬間、指の背中が弓なりに跳ねる。熱で朦朧としていた脳に、強烈な刺激が電流のように駆け抜けた。

佐伯は、まるで壊れ物を扱うような手つきで、しかし隅々までその感触を確かめるようにタオルを動かしていく。彼女の指先が、タオルの生地越しに彼の形をなぞるたび、指は情けないほどに身体を震わせ、荒い吐息を漏らした。

「そんなに震えて……怖い? それとも、気持ちいいの?」

彼女は顔を近づけ、指の耳元にそっと囁いた。湿ったタオルの感触と、佐伯の冷たい指先が交互に肌をかすめる。十八歳の童貞である彼にとって、それはもはや看病という範疇を遥かに超えた、残酷なまでの愛撫だった。

拭き終えた後、佐伯はタオルを洗面器に戻すと、濡れた手のまま指の太ももを優しく撫で上げた。

「……綺麗になったわよ、指。熱、もっと上がっちゃったみたいね」

彼女の瞳は、潤んだ指の目元をじっと見つめていた。その瞳の中には、上司としての理性など欠片も残っていなかった。

部屋の中に響くのは、指の荒い呼吸と、洗面器から滴る水の音だけだった。

全身を拭き上げられ、無防備な姿で横たわる指を見下ろしながら、佐伯はゆっくりと立ち上がった。彼女の背後にある窓からは、夕暮れ間近の重たい光が差し込み、彼女の細いシルエットを逆光の中に浮かび上がらせる。

「……指、あんた、さっきから私のこと、どんな目で見てるか分かってる?」

彼女の声は低く、そしてひどく艶っぽく響いた。佐伯は自分の髪を留めていたクリップを外し、バサリと肩に髪を落とす。仕事中の彼女とは違う、一人の女としての気配が部屋を支配した。

「広告の仕事はね、人の欲望を形にするのが仕事なの。……今のあんたの欲望、私が全部、形にしてあげましょうか」

佐伯はベッドの縁に膝をつくと、ゆっくりと指の上に覆いかぶさった。彼女の着ていたブラウスのボタンが一つ、二つと外され、その隙間から覗く白い肌が指の視界を埋め尽くす。

佐伯がブラウスを脱ぎ捨てると、薄暗い部屋の中に、彼女の白い肌が発光するかのように浮かび上がった。

十八歳の指にとって、それは息が止まるほどに完成された美しさだった。広告の撮影現場で見るモデルたちとは違う、すぐそこに体温があり、香りのある、生々しい「女」という現実。

「見てなさい。逃げちゃダメよ」

彼女はそう言うと、指の震える手を導き、自分の胸元へと添えさせた。下着越しに伝わる、柔らかくもしっかりとした弾力と、刻まれる鼓動。指の指先がその温もりに触れた瞬間、頭の中のヒューズが完全に焼き切れた。

佐伯は彼の反応を愉しむように薄く笑うと、今度は自分から、指の熱い肌をなぞり始めた。タオルの水分がまだ微かに残る彼の腹部から、さらにその下へと。彼女の細長い指が、彼が今まで誰にも触れさせたことのない場所に、優しく、けれど容赦なく絡みつく。

「っ……あ、……佐伯、さん……!」

「いい声。仕事中のあんたからは、想像もできないわ」

彼女の舌先が、指の首筋から耳たぶへと這い上がる。湿った吐息が耳道に吹き込まれるたび、指の背中が跳ね、シーツを掴む手に力がこもる。熱に浮かされた体は過敏すぎて、彼女のわずかな愛撫さえもが暴力的なまでの快感となって全身を駆け巡った。

佐伯はそのまま、指の耳元を甘噛みしながら、もう一方の手で自分のスカートのファスナーをゆっくりと引き下ろした。衣擦れの音が、静まり返った部屋に異常なほど鮮明に響く。

「熱、もっと上げてあげる。……あんたが、私の名前以外、何も思い出せなくなるまで」

彼女はそう囁くと、完全に自由になった身体で、指の上に跨るようにして重なった。

佐伯がゆっくりと腰を沈め、指の熱い肌と彼女のしなやかな肌が完全に密着したとき、部屋の空気は爆発的な熱量を帯びた。十八歳の指にとって、それは単なる性体験ではなく、世界が音を立てて崩れ、再構築されるような衝撃だった。

「……あ……っ!」

初めて知る、包み込まれるような圧倒的な充足感。指は、自分の未熟な身体が、彼女という巨大な渦に飲み込まれていくのを感じて、たまらず彼女の細い背中に腕を回した。広告業界で見せる彼女の虚勢や鎧をすべて剥ぎ取った、柔らかく、けれど強烈な熱を持った「女」の肉体がそこにあった。

佐伯は、指の肩に顔を埋め、震えるような溜息を漏らした。彼女の指が、彼の背筋を爪でなぞるように這い上がる。その痛痒いほどの刺激が、高熱で麻痺した神経を鋭く突き刺した。

「指……いいわ、そのまま……。私を、壊すくらい強く、抱きなさい……」

耳元で途切れ途切れに発せられる彼女の声は、もはや上司のものではなかった。一人の渇いた女性が、目の前の若者の生命力を貪ろうとする、生々しい欲望の響きだった。

指は、自分の中の何かが弾ける音を聞いた。これまで「新人」として、あるいは「子供」として抑え込んできた衝動が、彼女の身体を通じて一気に解放されていく。彼は夢中で彼女の唇を求め、舌を絡ませた。先ほどまでの看病の静寂はどこへやら、二人の間には、汗と吐息、そして激しい衣擦れの音だけが渦巻いていた。

彼女の髪が指の頬を打ち、香水の残り香が汗の匂いと混じり合って、脳を痺れさせる。突き上げるような鼓動の速さは、病のせいなのか、それとも彼女への情熱のせいなのか、もう判別がつかなかった。ただ、彼女と繋がっているこの瞬間だけが、世界で唯一の真実だと感じられた。

佐伯の瞳が、快楽の絶頂で大きく見開かれ、そして潤んだ。彼女は指の胸元に爪を立て、のけ反るようにして熱いしぶきを浴びた。

「っ……、はあ……、あ……!」

最後の一線を超え、二人の熱気が一つの塊となって溶け落ちたとき、部屋の温度は一気に平熱へと引き戻されるような錯覚に陥った。しかし、指の視界に映る景色は、もう数分前と同じではなかった。

枕元に置かれたままの冷えたタオル、半分空いたゼリー飲料、そして自分を抱きしめる年上の女性。

十八歳の指の、どこか幼かった心象風景は、佐伯という鮮烈な色彩によって、二度と元には戻らないほど深く、美しく、そして残酷に塗り替えられていた。

静寂が、重たく、けれど心地よい膜のように二人を包み込んだ。

指の胸の上で、佐伯は力尽きたように額を預けていた。彼女の規則正しい、けれどまだ少し速い鼓動が、肌を通じて直接伝わってくる。あれほど激しく燃え上がっていた熱は、今は凪(なぎ)のような静けさに変わり、部屋の隅に追いやられた夕闇が、二人の白い輪郭をゆっくりと塗り潰していった。

「……佐伯さん」

指が掠れた声で呼ぶと、彼女は少しだけ顔を上げ、乱れた髪の間から彼を見つめた。その瞳には、先ほどまでの激しさはなく、どこか遠くを見つめるような、あるいは自分自身を嘲笑うような、複雑な光が宿っていた。

「……バカね、あんた。風邪、本当にうつしたわよ、これ」

彼女は力なく笑いながら、指の頬を手の甲でそっと撫でた。その指先は、さっきまでの熱を吸い取ったかのように、驚くほど冷えていた。

佐伯はゆっくりと身体を離すと、床に散らばった自分の下着とブラウスを、躊躇いもなく拾い上げた。背中を向けたまま、彼女は手際よく衣服を身に纏っていく。完璧なオフィスファッションに戻っていくその背中を見つめながら、指は言いようのない喪失感に襲われた。

「あの、佐伯さん。明日、会社で……」

「明日もあんたは休みよ。病み上がりにあの戦場は無理」

彼女はブラウスのボタンを一番上まで留めると、振り返り、いつもの「上司」の顔に戻っていた。しかし、その唇だけはわずかに腫れ、彼女が今しがたまで一人の女であったことを、残酷なまでに証言していた。

「今日のことは、熱が見せた幻だと思っておきなさい。……でも」

彼女は一度言葉を切り、ドアに向かって歩き出した。玄関のノブに手をかけたところで、彼女は顔だけを振り返らせた。

「……指(ゆび)って名前。、今日はいい名前だと思ったわよ」

それだけ言い残して、ドアが閉まった。カチャリ、と鍵が閉まる乾いた音が、指のワンルームに冷たく響く。

部屋には、彼女が持ち込んだビニール袋と、生ぬるくなった洗面器の水、そして彼女の香水の残り香だけが取り残されていた。指は独り、布団に潜り込み、自分の手のひらを見つめた。

十八歳の彼が初めて触れた、大人の世界の甘さと苦さ。 明日から、自分はどんな顔をして彼女の部下として働けばいいのか。

熱は確実に引いていた。しかし、指の心臓は、熱よりももっと激しく、その名前を呼ぶように脈打ち続けていた。


翌朝、指が目を覚ますと、世界は驚くほどクリアに見えた。

昨日の猛烈な熱が嘘のように引き、身体は羽が生えたように軽い。しかし、制服代わりのスーツに袖を通し、ネクタイを締めている間も、鏡に映る自分の顔がどこか他人のもののように感じられた。十八歳の、ただ必死だった昨日までの自分はもういない。

午前九時。オフィスビルの自動ドアを潜り、エレベーターを降りる。広告代理店特有の、電話のベルと怒号に近い話し声が飛び交う戦場。指は、自分のデスクにたどり着く前に、フロアの奥にあるガラス仕切りのエグゼクティブ・エリアに視線を向けた。

そこには、昨日と同じ、いや、昨日よりもさらに冷徹なオーラを纏った佐伯がいた。

彼女は電話を肩に挟みながら、高速でキーボードを叩いている。一分の隙もないまとめ髪。鋭い知性を感じさせる眼鏡の奥の瞳。昨日、指の部屋で彼の名を呼び、髪を乱していた女と同一人物だとは、到底信じられなかった。

「指、体調は?」

隣のデスクの先輩が声をかけてきた。

「あ……はい、すっかり良くなりました。ご迷惑をおかけしました」

「佐伯さんが心配してたぞ。昨日、お前の家まで様子見に行ったんだろ? 優しいよな、あの人も」

指は、心臓が跳ね上がるのを必死に抑えた。周囲には、ただの「上司の看病」として処理されている。それが社会というものなのだと、彼は痛いほど理解した。

しばらくして、佐伯が資料を手に立ち上がり、指のデスクの方へと歩いてきた。一歩、一歩、彼女のヒールの音が近づくたびに、指の鼻腔には、あの部屋に充満していた香水の匂いが蘇る。

「指」

頭上から降ってきたのは、氷のように冷たく、けれど凛とした声だった。指は背筋を伸ばし、彼女を見上げた。

「はい」

「昨日の分を取り戻してもらうわよ。十時からのミーティング、あんたが議事録を回して。それからこの資料、十四時までに修正しておいて」

佐伯は事務的に、束になった書類を指の机に置いた。その瞬間、彼女の指先が、ほんの一瞬だけ、書類を受け取ろうとした指の手に触れた。

誰も見ていない、机の上の死角。

彼女の指先は、昨日と同じように驚くほど熱かった。指が顔を上げると、佐伯はすでに背を向けて歩き出していた。しかし、去り際の彼女の首筋に、昨日自分が付けたかもしれない小さな赤みが、白シャツの襟元から一瞬だけ覗いたのを、彼は見逃さなかった。

「……承知しました、佐伯さん」

指は、自分にしか聞こえない声でそう呟き、ペンを握りしめた。

オフィスは相変わらず騒がしく、時間は残酷なまでに速く流れていく。けれど、指は知っていた。この喧騒の中で、自分と彼女だけが、誰にも暴けない秘密を共有していることを。

十八歳の秋。彼は、初めて「仕事」以外の守るべき何かを手に入れたのだ。

                 完