ソースが鉄板の上で焦げる匂いは、どうしてこうも人を空腹にさせるのだろう。
 大学の正門を出て徒歩三十秒。暖簾(のれん)をくぐると、いつもの熱気と喧騒が俺を迎えた。
「いらっしゃい。……あら、今日もひとり?」
 コテをカチャカチャと鳴らしながら、カウンターの向こうで彼女が笑う。
 えまさんだ。二十八歳。茶色に染めた髪を後ろで無造作に束ねて、首には白いタオル。その飾らない姿が、就職活動に疲れ果てた俺の視界には眩しすぎる。
「ひとりですよ。友達いないんで」
「またまた。指(ゆび)くん、顔はいいのに愛想がないんだから」
 俺の名前は「指」という。身体の一部みたいな変な名前だ。でも、おかげでえまさんに一発で覚えられたのだから、親には感謝しなければならないかもしれない。
 俺はいつものカウンターの端、特等席に座りながらメニューも見ずに注文する。
「豚玉、ひとつ」
「はいよ。マヨネーズは?」
「多めで」
「ふふ、多めでね。了解」
 彼女が手際よく生地を混ぜ始める。
 俺がこの店に通えるのも、あと三ヶ月。学生という身分が終われば、この特等席ともお別れだ。
 二十二歳の俺と、二十八歳のえまさん。
 鉄板一枚を挟んだこの距離は、近いようで、果てしなく遠い。

雨音と残り火
 バケツをひっくり返したような雨だった。
 時刻は二十二時を回っている。他の客は皆、雨脚が強まる前に駆け足で帰っていった。
 店内に残っているのは、俺と、片付けをしているえまさんだけだ。

「すごい雨だねぇ。指くん、傘持ってるの?」
「いえ……予報見てなくて」
「あちゃー」

 えまさんは苦笑いしながら、店の入り口にかかっている『営業中』の札をひっくり返し、シャッターを半分だけ下ろした。
 ガラガラ、という音が響く。
 途端に、外の雨音が遠くなり、店の中が急に静寂に包まれた気がした。換気扇の回る音だけがブオーンと響いている。

「……もう閉店ですよね。俺、雨弱まったらダッシュで帰りますから」

 俺が席を立とうとすると、えまさんは「いいよいいよ」と手を振って制した。

「どうせこの雨じゃ濡れネズミになっちゃうし。雨宿りしていきなよ。……あ、そうだ」

 彼女は悪戯っ子のような顔をすると、冷蔵庫から缶ビールを一本と、瓶のラムネを一本取り出した。

「これ、賞味期限近いから処理しなきゃいけないんだよねぇ。指くん、手伝ってくれる?」
「え、それって」
「ここだけの秘密。内緒の『まかない』タイム」

 彼女はカウンターの向こうから出てくると、あろうことか俺の隣――客席の丸椅子にちょこんと腰を下ろした。
 近い。
 洗剤の匂いと、ソースの甘い匂いが混ざった香りが鼻をかすめる。

「はい、指くんはまだこれから卒論とかあるでしょ? だからラムネね」
「……俺もう二十二なんですけど」
「私から見れば可愛い学生さんですー。ほら、乾杯」

 カチン、とガラス瓶とアルミ缶がぶつかる音がした。
 鉄板の余熱が、ほんのりと頬に温かい。
 いつもはカウンター越しに見上げていた彼女の横顔が、今はすぐ隣にある。
 俺が飲んだラムネは、いつもよりずっと炭酸がきつく感じて、喉が熱くなった。


残り香と手のひら
 ラムネのビー玉がカランと鳴った。
 えまさんは缶ビールの縁(ふち)を指でなぞりながら、ふと視線を鉄板の焦げ跡に落とした。その瞳が、ここにはいない誰かを見ているようで、俺はなんとなく胸がざわつく。

「……あの席ね」
「え?」
「指くんがいつも座る、その一番端の席。そこ、昔あたしが好きだった人がいつも座ってた場所なんだ」

 心臓が、嫌な音を立てた。
 酔いが回ったのか、少しとろんとした目でえまさんが笑う。

「その人も学生でさ。今の指くんと同じくらいの歳。お金ないくせに毎日来て、私の焼くお好み焼きが一番美味いって。……そのまま就職で東京行って、それっきり」

 聞きたくなかった。
 俺がこの席に通されるのは、俺が「指」だからじゃない。俺の中に、その「昔の男」の影を見ているからなのか?
 喉の奥に、嫉妬という名の苦い塊がこみ上げてくる。

「……俺は、その人の代わりですか」

 思わず、低い声が出た。
 えまさんがキョトンとして、俺を見る。
 俺はカウンターに置いていた手を握りしめた。これじゃただの子供の癇癪(かんしゃく)だ。謝ろうとして、口を開きかけたその時――。

 ふわり、と甘いソースの匂いが近づいた。
 えまさんの手が伸びてきて、握りしめていた俺の手に重なったのだ。

「っ、えまさん?」
「んー? 違うなあ」

 彼女は俺の強張った指を一本ずつ解くと、自分の掌(てのひら)をぴたりと合わせた。
 お好み焼きを焼き続けてきた彼女の手は、熱くて、少し硬くて、でも驚くほど女性的だった。

「ほら、全然違う。指くんの手、すごく大きい」
「……男ですから」
「ふふ、そうだね。あの人はもっと指が細かった。……指くんの手は、男の人の手だねぇ」

 上目遣いに覗き込まれる。
 至近距離にある彼女の唇が、ビールのせいで少し濡れていた。
 俺のことを「子供」扱いしていたくせに、俺の手の大きさに「男」を感じている。その矛盾が、俺の理性を激しく揺さぶった。

 握り返したい。
 このまま彼女の手を掴んで、自分の方へ引き寄せたら、この人はどんな顔をするだろう。

 外の雨音がいっそう強くなる。
 俺たちの間には今、鉄板もカウンターもない。 ただ、重なった手のひらの熱だけがあった。

雨音と約束
 理性が焼き切れる音がした気がした。
 俺は、重なっていた彼女の手を強引に握り返した。

「……っ、指くん?」
「俺は、その人の代わりじゃない」

 驚いて目を丸くするえまさんを逃がさないように、俺はさらに強くその指を絡め取る。
 華奢な手首の骨の感触が、掌に痛いほど伝わってくる。

「過去の話なんてどうでもいい。俺を見てください、えまさん」

 静寂。
 雨音だけが、耳鳴りのように響いていた。
 言ってしまった。客と店員という安全な境界線を、俺は自ら踏み荒らしてしまったのだ。
 拒絶されるだろうか。「酔ってるの?」と笑って流されるだろうか。
 心臓が早鐘を打つ中、えまさんはゆっくりと伏し目がちになり、ふぅ、と小さく息を吐いた。

「……ずるいなあ、指くんは」

 彼女は握られた手を無理に解こうとはせず、空いているもう片方の手で、とん、と俺の胸を軽く叩いた。

「そんな必死な顔されたら、からかえないじゃん」
「からかわないでください。俺は本気で……」
「だーめ」

 言いかけた俺の唇に、彼女の人差し指が押し当てられる。
 ソースの香りがした。
 えまさんは少し困ったような、でもどこか楽しむような瞳で俺を見上げている。

「指くんはまだ学生。私は社会人。……その差はね、指くんが思ってるより大きいの」
「そんなの、卒業すれば関係ないはずです」
「そう。だから」

 彼女は唇から指を離すと、俺の頬をそっと撫でた。
 その手つきは、子供をあやすようでもあり、愛しいものに触れるようでもあった。

「卒業まで、待てる?」

 甘く、低い声が鼓膜を震わせる。

「無事に卒業して、立派な社会人になって。……春になってもまだ、指くんが私のお好み焼きを食べたいって言ってくれるなら。その時、続きを聞かせて」

 それは拒絶なのか、それとも約束なのか。
 曖昧なまま、えまさんはスルリと俺の手から自分の手を引き抜いた。
 掌に残った熱だけが、これが現実だったことを告げていた。

平穏な日常(カウントダウン)
 あれから、俺とえまさんの間には奇妙なルールができた。
 店に行くのは週に二回まで。閉店後の居座りは禁止。
 その代わり、帰り際のお会計の時に、彼女はほんの数秒だけ俺の指に触れて、小さな声で囁くのだ。

「あと、四十五日」
「……長いですね」
「ふふ、学生最後の自由時間なんだから、もっと楽しみなよ」

 お釣りを渡すその一瞬だけ、彼女は「店員」ではなく「えまさん」の顔をする。
 俺は卒論の仕上げと、四月から始まる研修の準備に追われていた。
 忙しさはありがたかった。何もしないと、彼女のことばかり考えてしまうからだ。
 えまさんは、俺が一人前の男になるのを待ってくれている。
 その事実だけで、俺はどんな面倒な課題も乗り越えられる気がしていた。

 ――あの日が来るまでは。

元カレの再来(急転)
 二月に入り、粉雪が舞う寒い夜だった。
 卒論の提出を終えた俺は、報告がてら意気揚々と店の暖簾(のれん)をくぐった。
 いつもなら「いらっしゃい」と飛んでくる明るい声がない。

 店内の空気が、張り詰めていた。
 客は一人だけ。
 俺がいつも座る、カウンターの一番端の席。そこに、グレーのスーツを着た男が座っていた。
 背中越しでもわかる。仕立ての良いスーツ、整えられた髪。俺のような学生とは違う、洗練された「東京の大人の男」の雰囲気。

「……えま」

 男が親しげに名前を呼ぶ。
 鉄板の前に立つえまさんの背中が、小さく震えているように見えた。彼女はコテを握ったまま、動かない。
 俺が入店したことに気づくと、えまさんはハッとして顔を上げた。その顔色は青白く、いつもの余裕ある笑みはどこにもない。

「指くん……」
「あら、お客さん?」

 男がゆっくりと振り返る。
 整った顔立ち。年齢は三十前後だろうか。男は俺を品定めするように一瞥(いちべつ)すると、ふっと鼻で笑い、再びえまさんに向き直った。

「懐かしいな。俺が通ってた頃も、そんな学生がよくいたっけ」
「……何しに来たの」
「近くまで出張で来たからさ。久しぶりに食べたくなってね。……お前の味が」

 ドクリ、と心臓が跳ねた。
 間違いない。こいつが、えまさんの言っていた「忘れられない人」だ。
 俺が座るはずだった席で、俺が知らないえまさんの過去を知る男が、ビールを飲んでいる。

 足がすくんだ。
 勝てない、と本能が告げていた。
 社会的な地位も、えまさんとの時間の積み重ねも、今の俺には何一つ敵わない相手が、目の前にいる。

雪解けの熱
 気がつけば、俺は店を飛び出していた。
 背中でカラン、とドアベルが鳴った音が、敗北のゴングのように聞こえた。

 外は冷蔵庫の中のように寒い。
 吐く息は白く、頬に当たる雪が冷たい。けれど、体の中は自己嫌悪で焼き尽くされそうだった。
 勝てない、と思った。
 スーツ姿のあの男と、就活生用の安っぽいコートを着た俺。
 えまさんの「過去」を知る男と、まだ何者でもない俺。

「……くそっ」

 ガードレールに積もった雪を素手で払う。冷たさで指先の感覚がなくなっていく。
 その時、ふと自分のその手を見た。
 ――指くんの手は、男の人の手だねぇ。
 あの雨の夜、えまさんは俺の手を包んでそう言った。
 「卒業まで待てる?」と、未来の約束をしてくれたのは、あの男じゃない。俺だ。

 それなのに、俺は尻尾を巻いて逃げてきたのか?
 このままじゃ、ただの「客の学生」に戻ってしまう。
 えまさんが待っているのは、過去の男なんかじゃない。その過去さえも受け止める、未来の男のはずだ。

 スマホを取り出しかけて、やめた。
 電話なんかじゃダメだ。声だけじゃ伝わらない。
 俺は踵(きびす)を返すと、雪の積もり始めた歩道を全力で走り出した。

 店が見える。
 息が切れる。肺が痛い。でも足は止めない。
 俺は勢いよく店の引き戸をガララッと開け放った。

「……はぁ、はぁ、っ!」

 店内の視線が集まる。
 えまさんは驚いた顔でコテを止めていた。
 スーツの男は、まだそこにいた。怪訝そうに俺を見ている。

「なんだ君、忘れ物か?」

 男が余裕たっぷりに尋ねた。
 俺は肩で息をしながら、真っ直ぐにえまさんを見た。そして、男の方へ一歩踏み出す。

「席、空けてもらえますか」
「は?」
「そこ、俺の指定席なんで」

 声が震えていたかもしれない。でも、目は逸らさなかった。
 男が呆れたように笑い、えまさんを見た。「おい、なんだこの学生」と言うように。
 しかし、えまさんはもう困った顔をしていなかった。
 息を切らして戻ってきた俺を見て、まるで春が来たみたいに、ふわりと笑ったのだ。

「……ごめんね。そこ、その子の席なの」

 えまさんの声は凛としていた。
 男は数秒、俺とえまさんを交互に見ると、やれやれと肩をすくめて立ち上がった。

「そうかよ。……舌の肥えた客がついたもんだな」

 男が店を出て行く。入れ違いに、冷たい風が吹き抜けた。
 再び二人きりになった店内で、俺はその席に座り込む。
 えまさんが、目の前に熱いおしぼりを置いた。

「……おかえり、指くん」
「ただいま。……逃げて、すみません」
「ううん。戻ってきてくれて、嬉しかった」

 鉄板の上の豚玉が、じゅうと音を立てた。
 その音が、俺たちの止まりかけた時間を再び動かし始めた。

桜とソースと、二人の春
 三月の風は、まだ少し冷たいけれど、どこか甘い匂いがした。
 大学の正門から続く桜並木は満開で、風が吹くたびに薄紅色の花びらが舞っている。
 俺は片手に黒い筒――学位記を握りしめ、馴染み深い暖簾(のれん)の前で足を止めた。

 新品のスーツはまだ背中が窮屈だ。
 深呼吸をして、引き戸に手をかける。
 ふと、入り口の札が目に入った。いつもなら『営業中』か『準備中』のどちらかしかないはずのその場所に、手書きの札が下がっている。

『本日は、とある卒業生のための貸切です』

 見覚えのある、丸っこくて愛嬌のある文字。
 胸の奥が熱くなるのを感じながら、俺は戸を開けた。

「……いらっしゃいませ、新社会人さん」

 鉄板の前で待っていたえまさんが、悪戯っぽく笑った。
 いつものタオルを頭に巻いた姿じゃない。淡い春色のブラウスに、髪はふわりと下ろされている。その姿があまりに綺麗で、俺は一瞬、言葉を失った。

「卒業、おめでとう」
「……ありがとうございます」
「ほら、突っ立ってないで。いつもの席、空けて待ってたんだから」

 促されて座ったカウンターの一番端。そこには、綺麗に焼かれた豚玉と、よく冷えたビールが二つ置かれていた。
 ラムネじゃない。ビールだ。
 俺が隣に座ると、えまさんは自分のジョッキを持ち上げた。

「お疲れ様。よく頑張りました」
「えまさんも……待っていてくれて、ありがとうございました」

 カチン、とジョッキが触れ合う音が、静かな店内に響く。
 一口飲んだビールは、あの雨の夜に飲んだラムネよりも、ずっと甘く感じた。

「で?」

 えまさんが、頬杖をついて俺を見つめる。
 その瞳は潤んでいて、もう茶化すような色はなかった。

「約束、覚えてる?」
「忘れるわけないです」

 俺はジョッキを置いて、居住まいを正した。
 鉄板の熱気が、二人の顔を赤く染めている。
 俺は真っ直ぐに彼女の目を見て、あの日、雨音にかき消されそうになった言葉の続きを紡いだ。

「俺はもう、ただの学生客じゃありません。……えまさんを支えられるような、一人の男になりたい」
「うん」
「好きです。俺と付き合ってください」

 緊張で声が裏返りそうだった。
 えまさんはゆっくりと瞬きをして、それから今日一番の、満開の桜みたいな笑顔を見せた。

「……合格」

 彼女がカウンター越しに身を乗り出す。
 触れた唇は、ほんのりソースの香りがした。

 遠くで卒業式を終えた学生たちの賑やかな声が聞こえる。
 けれど、この「貸切」の店の中だけは、俺たち二人だけの時間が流れていた。
 俺たちの恋は、ここから焼き上がっていくのだ。熱く、甘く、いつまでも冷めないように。

熱の行方
 鉄板の火を落とし、換気扇を止めると、店内は急にシンと静まり返った。
 外の喧騒が嘘のように遠く感じる。
 俺たちは無言のまま、どちらからともなく手を繋ぎ、店の勝手口を出た。

 向かった先は、店から徒歩数分にある彼女のマンションだった。
 鍵を開ける彼女の手が少し震えているのがわかって、愛おしさが込み上げる。ドアが閉まると同時に、俺はたまらず彼女を抱きしめていた。

「……ん、早いよ、指くん」
「我慢できないです。ずっと、待ってたんだから」

 玄関先で、むさぼるように唇を重ねる。
 口の中に残るビールの苦味と、彼女の甘い唾液が混ざり合う。
 彼女の部屋は、店とは違う、柔らかな石鹸の匂いがした。その匂いに包まれた瞬間、俺の中で張り詰めていた理性の糸がぷつりと切れた。

 ベッドへ倒れ込むと、今日下ろしたばかりの新品のスーツが衣擦れの音を立てる。
 俺は窮屈なネクタイを緩め、シャツのボタンを乱暴に外した。
 えまさんが、熱っぽい瞳で俺を見上げている。

「スーツ、似合ってたよ」
「……早く脱ぎたかった」
「ふふ、せっかち」

 彼女が俺の首に腕を回し、耳元で囁く。
「脱がせて?」
 その一言で、身体の芯が熱く疼いた。
 彼女の指が、俺のシャツを脱がせていく。肌が露わになると、そこに彼女の少し冷たい掌が触れた。その温度差に、背筋がゾクゾクと震える。

 今度は俺の番だ。
 春色のブラウスに手をかける。
 あらわになった白い肌は、鉄板の前で汗を流していた彼女とは別人のように華奢で、柔らかかった。
 その胸に顔を埋めると、心臓の音がうるさいほど聞こえてくる。俺と同じだ。大人の余裕なんて、今の彼女にはない。

「……ねえ、指くん」
「はい」
「優しくしなくていいからね」
「え?」
「私が年上とか、そんなの忘れさせて。……私を、指くんのものにして」

 潤んだ瞳が、俺を求めていた。
 俺は彼女の指に自分の指を絡め、強く握りしめた。
 あの雨の夜、触れることしかできなかったその場所へ、もっと深く。

「愛してます、えまさん」

 言葉は、熱い吐息とともに溶けていった。
 重ねた肌から伝わる体温は、あの鉄板の熱よりもずっと熱く、激しい。
 痛みにも似た快楽の中で、俺たちは何度も名前を呼び合い、互いの存在を確かめ合った。

 窓の外では、夜風が桜の花びらを揺らしている。
 けれど今の俺たちには、この狭いベッドの上にある熱だけが、世界の全てだった。

朝の光と、最初の手料理
 カーテンの隙間から差し込む白い光が、瞼(まぶた)を刺した。
 重い体を起こすと、隣で規則正しい寝息が聞こえる。
 えまさんが、まだ夢の中にいた。

 店で見せる、手際よくコテを操る頼もしい姿とはまるで違う。布団から丸い肩を出し、無防備に眠る彼女の顔は、驚くほど幼く見えた。
 散らばった衣服。枕元に転がる、俺が昨日外したネクタイ。
 夢じゃなかったんだ、と改めて実感して、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 そっと手を伸ばして、彼女の頬にかかった髪を払った。
 その感触に反応したのか、えまさんの睫毛(まつげ)が震え、うっすらと目が開いた。

「……んぅ……指くん?」
「おはようございます。……あ、いや、おはよう」

 敬語を直そうとしたけれど、まだ少しぎこちない。
 えまさんは眩しそうに目を細めたあと、状況を理解したのか、ふにゃりとだらしなく笑った。

「おはよぉ……。なんか、変な感じ。店以外で、朝イチで指くんの顔があるなんて」
「俺もです。なんか、贅沢だなって」
「ふふ、なにそれ」

 彼女は布団から腕を伸ばすと、俺の首に巻きつき、そのまま体重をかけてきた。朝の体温と、甘い匂いが鼻をかすめる。

「……お腹、空いたね」
「そうですね」
「何作ろっか。冷蔵庫、卵くらいならあったかな……」

 言いながら起き上がろうとする彼女の肩を、俺は優しく押し留めた。

「えまさんは、寝てて」
「え?」
「いつも作ってもらってばかりだったから。今日の朝飯くらい、俺に作らせてよ」

 えまさんが目を丸くする。
 客と店員だった頃にはありえなかった提案。
 俺はもう、ただカウンターで待っているだけの学生じゃない。

「たいしたものは作れないけど。……スクランブルエッグくらいなら」
「……ふふっ」

 えまさんが吹き出した。

「なによ、指くんの料理? 大丈夫かなぁ、焦がさない?」
「お好み焼き屋の看板娘に言われるとプレッシャーだな……。ま、期待しないで待ってて」

 俺がベッドから降りてシャツを羽織ろうとすると、背中に柔らかい衝撃があった。
 えまさんが後ろから抱きついてきたのだ。

「楽しみにしてる。……私の彼氏さんの、最初の手料理」

 背中に感じるぬくもりが、これからの幸せな日常を約束してくれている気がした。
 俺は振り返らずに、自分の腰に回された彼女の手――昨日まで俺を翻弄し、愛してくれたその手に、そっと自分の手を重ねた。

「じゃあ、味見役、お願いしますね」

 春の朝。
 新しい生活が、焼き立ての卵のような優しい匂いと共に始まろうとしていた。

焦げたバタートースト
フライパンの上で、溶き卵がジュワッという音を立てる。
俺が菜箸(さいばし)を動かしていると、背中に貼り付いていたえまさんが、もぞもぞと動き出した。

「……いい匂い」
「もうすぐ焼けますよ。トーストも焼いたし」
「んー……」

彼女の頬が、俺の肩甲骨あたりにすり寄せられる。
薄いシャツ一枚越しに伝わる彼女の体温と、柔らかい感触。
ただでさえ昨晩の余韻が残っている身体だ。俺の手元が少し狂って、卵が皿の外にこぼれそうになった。

「えまさん、危ないから座ってて」
「やだ」

えまさんは子供のように駄々をこねると、俺の脇から手を滑り込ませて、胸板をなぞるように触れてきた。
その指先が、シャツのボタンの隙間から肌に触れる。

「……指くん、体熱いね」
「誰のせいだと……」

俺はため息をつき、コンロの火を止めた。
このままじゃ料理どころじゃない。
振り返ると、えまさんが上目遣いで俺を見ていた。俺の大きめのYシャツを羽織っただけの姿。裾から伸びる白い太腿(ふともも)が、朝の陽射しの中で眩しいほどに露わになっている。

理性のスイッチなんて、とっくに壊れていたのかもしれない。

「……朝飯、冷めちゃいますよ」
「冷めたら、また温めればいいでしょ?」

彼女が挑発するように小首を傾げる。
その唇が少し赤く腫れているのは、昨夜の俺のせいだ。そう思ったら、もう我慢ができなかった。

「……知りませんよ」

俺は彼女の腰を引き寄せ、キッチンカウンターにその身体を軽々と乗せた。
驚いて目を見開く彼女の唇を、食い気味に塞ぐ。
昨夜の夜闇の中とは違う。明るい陽光の下で見る彼女は、恥じらいと快楽が混ざり合った、とろけるような表情をしていた。

「っ、ふ……指くん、元気すぎ……」
「えまさんが煽るからだ」

はだけたシャツから露わになった肩口に噛み付くようにキスを落とす。
バターの香ばしい匂いと、彼女自身の甘い匂いが混ざり合って、頭がくらくらした。
空腹なんて、とっくにどこかへ消え失せていた。
目の前のこの人以外、今は何も欲しくない。

「ねえ、続き……ベッドでする?」
「待てない。ここでいい」
「あ……っ、ん……!」

俺の手が素肌を這い上がると、えまさんの背中が弓なりに反る。
調理台の上のカトラリーが、カシャンと音を立てて床に落ちた。けれど、俺たちはどちらもそれを拾おうとはしなかった。

フライパンの中のスクランブルエッグが冷めていく時間さえ惜しい。
穏やかな朝のキッチンは、瞬く間に、昨夜よりも熱い情事の場へと変わっていった。

     おわり

COMMENT FORM

以下のフォームからコメントを投稿してください