第1話 雨と、錆びついた訪問者
 雨の匂いが強くなってきた。
 森の奥深くに佇むこの工房には、街の喧騒は届かない。聞こえるのは、屋根を叩く雨音と、微かな時計の駆動音だけだ。

 工房の主、指(ユビ)は、作業机のランプの下で、自身の「商売道具」の手入れをしていた。
 三十路を迎えた男の手にしては、その指先はあまりに白く、傷一つない。毎朝毎晩、特殊な薬油を塗り込み、感覚を研ぎ澄ませる。それが彼のルーティンだった。

 ――コン、コン。

 控えめだが、芯のあるノックの音が響いた。
 ユビは眉をひそめた。こんな土砂降りの日に、まともな客が来るとは思えない。
「……開いている。だが、依頼なら受けないぞ」
 ユビが低い声で投げかけると、重い木の扉が軋みながら開いた。

 吹き込む風と共に、一人の女性が転がり込むように入ってくる。
 濡れた栗色の髪が頬に張り付いていた。上等な旅装束だが、泥汚れが酷い。年齢は二十歳そこそこ――エマという名のその娘は、肩で息をしながらユビを見据えた。

「やっと……見つけました」
「俺は引退した身だ。帰ってくれ」
「いいえ、帰れません」

 エマは、ふらつく足取りでカウンターまで歩み寄ると、左手をドンと板の上に置いた。
 ユビの目が、職人のそれへと変わる。

「……なんだ、その手は」

 彼女の左手薬指には、銀色の指輪が嵌(は)まっていた。
 だが、それはただの装飾品ではなかった。指輪から黒い茨(いばら)のような紋様が伸び、彼女の手首、そして腕へと血管のように侵食していたのだ。
 指輪そのものも、歪にひび割れ、不気味な紫色の光を明滅させている。

「家の蔵で見つけたんです。はめた瞬間、外れなくなって……。神殿の治療師も、王都の魔導師も、誰も手出しができないと言いました」
 エマは痛みに顔を歪めながらも、懇願するようにユビを見た。
「『神の指』を持つ修復師、ユビさんなら直せると聞いて、ここまで来ました」

「……俺の名をどこで聞いたか知らないが、それは『呪い』だ。しかも相当タチが悪い」
 ユビは椅子から立ち上がると、ため息交じりに彼女の手を取った。

 触れた瞬間、ユビの指先にピリッとした静電気が走る。
 ――【神の触覚(ゴッド・タッチ)】。
 彼の指は、物質の構造のみならず、そこに込められた魔力の流れ(回路)さえも読み取る。

(構造は古代エルフ様式……ベースは防御結界か。だが、何者かが後から術式を書き換えている。これは『捕食』の呪いだ。宿主の命を吸って、強度を増している)

 診断は一瞬で終わった。だが、その事実は重い。

「お嬢さん。率直に言うぞ」
 ユビは冷徹に告げた。
「その指輪を無理に壊せば、お前の腕、いや心臓ごと弾け飛ぶ。逆にこのまま放置すれば、あと半月でお前は指輪の餌になって死ぬ」
「……!」
 エマの顔から血の気が引く。だが、彼女は瞳の光までは失わなかった。
「……助かる方法は、あるんですね?」

 ユビは黙って、自分の白く長い指を見つめた。
 かつて、救えなかった依頼の記憶が脳裏をよぎる。だが、目の前の娘の、震えながらも強く握られた拳を見て、彼は頭をかいた。

「修理代は高いぞ」
「払います。私の全てを賭けても」
「……『全て』なんて言葉を軽々しく使うな。あとで後悔するぞ」

 ユビはカウンターの奥から、繊細な工具と魔力増幅用のルーペを取り出した。
 そして、無愛想に、けれどどこか優しい手つきで、再びエマの手を取る。

「動くなよ。俺の指が、その呪いの結び目を解いてやる」

 冷たい雨の降る森の工房で、不器用な職人と、呪われた令嬢の共同生活が始まろうとしていた。

第2話 脈打つ呪いと、重なる指先
 工房の窓を叩く雨音は、夜になっても止む気配がない。
 作業机の上には、青白い魔石ランプが灯されている。その狭い光の輪の中で、ユビとエマは向き合っていた。

「……少し、しみるぞ」
「はい……大丈夫、です」

 ユビはエマの左手を自分の左手で支え、右手の指先――人差し指と中指を、呪われた指輪へと這わせた。
 彼の指先から、極細の糸のような魔力が溢れ出し、指輪の黒ずんだ術式へと入り込んでいく。

(ユビの心情)
 指先から伝わってくるのは、ひどく冷たい呪いの感触と、それに抗うエマの体温だ。
 この娘の肌は柔らかく、温かい。無機質な金属ばかり相手にしてきた俺の指には、その熱がやけに鮮烈に響く。
 ――構造解析。第五層、防壁術式に亀裂(クラック)。そこに何者かの意図的な『寄生術式』が埋め込まれている。
 まるで血管にこびりついた汚れを削ぎ落とすような、気の遠くなる作業だ。少しでも手元が狂えば、呪いは逆流し、この娘の神経を焼き切るだろう。
 俺は額に汗を浮かべながら、全神経を指の腹に集中させた。かつて「神の指」と呼ばれた感覚を、泥の中から引きずり出すように。

「んっ……!」
 不意に、エマの喉から小さな悲鳴が漏れた。呪いが抵抗し、痛みが走ったのだ。
 彼女の華奢な肩がビクリと跳ねる。

「痛むか」
「平気、です。ユビさんが……治してくれているのが、わかるから」

 エマは強がって笑みを浮かべたが、その瞳は潤んでいる。
 ユビは作業を止めず、支えていた左手の親指で、そっと彼女の手の甲を撫でた。無意識の行動だった。
「力を抜け。お前が怖がると、呪いも強張(こわば)る」
「……はい」
 ぶっきらぼうな声色とは裏腹に、その親指の動きは子供をあやすように優しかった。

(エマの心情)
 ズキズキと脈打つ指の痛み。けれど、それ以上に胸が高鳴っていた。
 ユビさんの指は、魔法みたいだ。
 触れられている場所から、じんわりとした安心感が流れ込んでくる。無愛想で、いつも眠そうな目をしているのに、仕事をする時の瞳は、凍えるほど鋭くて綺麗だ。
 30歳の大人。私より8年も長く生きてきた男性の手。
 こんな至近距離で男性に見つめられたことなんてない。痛みのせいか、それとも別の理由か、顔が熱くなるのを感じた。

     * * *

 一区切りついたところで、ユビは二つのマグカップにコーヒーを注いで戻ってきた。
 香ばしい湯気が、張り詰めた空気を少しだけ緩める。

「どうして、あんな危ない指輪をはめた?」
 湯気を吹き飛ばしながら、ユビが問うた。「知らなかったわけじゃないだろう。あれは『英雄』か『生贄』しか扱えない代物だ」

 エマはカップを両手で包み込み、視線を落とす。
「……私の家は、もう終わりなんです」
 ぽつりと語り始めた内容は、ありふれた没落貴族の悲劇だった。
 父が病に倒れ、借金を抱え、領地の結界を維持する魔石すら買えない。そこへ親戚が「援助」と称して近づいてきた。
「この指輪さえあれば、結界を強化できると叔父様に言われました。……罠だと気づいたのは、はめてしまった後です」
「それで、家を救うために自分を犠牲にしたのか」
「他に、方法がありませんでしたから」

 エマは気丈に顔を上げた。
「私、後悔はしていません。でも……まだ死にたくない。家のこととか、責任とか全部置いて、一度でいいから、普通の女の子みたいに恋をしたり、旅をしたりしてみたかったなって」

 その言葉に、ユビの胸の奥がチクリと痛んだ。
 かつて自分が救えなかった友人も、同じようなことを言っていた。自己犠牲を美徳とする若さ。その危うさと、眩しさ。

「……馬鹿な奴だ」
「ふふ、よく言われます」

 その時だった。
 ガガガガッ!
 エマの左手の指輪が、不協和音のような音を立てて激しく振動した。

「きゃあああっ!?」
 黒い茨の紋様が急激に膨れ上がり、エマの二の腕へと這い上がっていく。修理によって弱体化した呪いが、最後の悪あがきとしてエマの生命力を食い尽くそうと暴走を始めたのだ。

「しまっ……反発(バックラッシュ)か!」
 ユビは咄嗟にカップを放り出し、エマの手を掴んだ。
 熱い。まるで焼けた鉄を握っているようだ。

「ユビさん、離して! あなたの手が……!」
 黒い靄(もや)がユビの指にも絡みつき、ジジジと皮膚を焼く音がする。
 だが、ユビは離さなかった。むしろ、さらに強く握り締める。

「うるさい、黙ってろ!」
 ユビは叫ぶと、自身の魔力回路を全開にした。
【強制同調(オーバー・シンクロ)】。
 相手の脈拍と魔力波長に、自分のそれを無理やり合わせ、強引に制御権を奪う荒技だ。

(持ってくれよ、俺の指……!)

 焼けるような激痛が指先を襲う。かつて引退の原因となった手の震えが来そうになるのを、気合でねじ伏せる。
 目の前で涙を流すエマを、もう二度と「過去の失敗」にはしない。

「俺を見ろ、エマ!」
 初めて名前を呼んだ。
「俺の指は、どんな堅牢な城門も、複雑な迷宮も開けてきた。こんな三流の呪いごときに、お前の未来を食わせてたまるか!」

 ユビの指先から、眩いほどの青い光が迸(ほとばし)る。
 それは鋭利な刃物のように、暴走する黒い茨を次々と切断し、縫合していった。

 ――バチンッ。
 空気が弾ける音がして、黒い靄が霧散する。
 指輪は再び静かな銀色へと戻っていた。

「はぁ……はぁ……」
 ユビはその場に崩れ落ちそうになったが、椅子になんとか背中を預けた。
 右手の人差し指と中指が、赤く腫れ上がり、微かに煙を上げている。

「ユビさん!」
 エマが慌てて彼の手に駆け寄る。
「なんで……どうして離してくれなかったんですか! あなたの手が、大事な指が!」
 エマの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、ユビの手を濡らす。

 ユビは荒い息を整えながら、痛む指先で、そっとエマの涙を拭った。

「商売道具に傷がついちまったな」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!」
「……だが、お前が無事なら、安いもんだ」

 その言葉に、エマは言葉を失った。
 職人気質で、金にうるさくて、無愛想な男。
 けれど、自分の身を挺して守ってくれたこの人の指は、今まで触れたどんなものよりも、熱くて、愛おしい。

 エマは衝動のままに、傷ついたユビの指を両手で包み込み、その甲に額を押し当てた。
「……責任、取りますから」
 震える声で彼女は呟いた。
「この指が治るまで、私があなたのお世話をします。絶対に、離れませんから」

 ユビは天井を仰ぎ、観念したように息を吐いた。
 30歳、独身。静かだった隠居生活は、どうやら完全に終わりを告げたらしい。
 だが、胸の奥で燻(くすぶ)っていた熱は、不思議と悪くない心地だった

第3話 臆病な指と、私の手になってくれる君
 翌朝。森の工房は、焦げたベーコンの匂いで満たされていた。

「あ、あの……ごめんなさい! 火加減が難しくて……!」
「……まあ、食えないことはない」

 食卓には、黒焦げのベーコンと、形が崩れたオムレツが並んでいた。
 ユビの両手は包帯でぐるぐる巻きに固定されている。昨夜の「強制同調」の後遺症で、指先はまだ痺れ、箸一本持てない状態だった。

「はい、あーんしてください」
 エマがフォークに刺したオムレツを差し出す。
「……自分で食う」
「ダメです。その手で無理をしたら、治るものも治りません。責任を取るって言ったでしょう?」

 エマの瞳は真剣そのものだ。ユビは観念して口を開ける。
 貴族の令嬢にしては不格好な料理だが、味付けは優しかった。
 食事だけではない。着替えも一苦労だ。

「失礼しますね」
 エマはユビのシャツのボタンを、一つずつ丁寧に留めていく。
 彼女の顔が近い。ふわりと香る甘い匂いと、彼女の細い指が胸元に触れる感触に、ユビは居心地の悪さを感じて視線を逸らした。
 30年生きてきて、女性にこんな世話を焼かれたことなどない。
 心臓の音が彼女に聞こえていないか、それだけが心配だった。

     * * *

 食後のコーヒー(これはユビの監修で美味しく淹れられた)を飲みながら、ふとエマが視線を包帯に向けた。

「……ユビさんのその震えは、昨日の怪我のせいだけじゃないですよね?」
 確信を突く問いだった。
 ユビはカップを見る目を伏せた。隠しても無駄だと悟ったのか、ぽつりと語り出す。

「3年前だ。俺には相棒がいた。魔導回路の設計士で、優秀な女だったよ」
 エマが息を呑む気配がした。
「ある遺跡で、彼女が複雑な『時限式の呪い』にかかった。俺はその場ですぐに解呪を始めた。俺の指なら、どんな複雑な術式も解けると自惚れていたんだ」

 ユビは包帯の奥で拳を握ろうとし、痛みに顔をしかめた。
「だが、罠は二重構造だった。俺が最後の結び目を解いた瞬間、隠されていた起爆術式が作動した。……俺の指が、あとコンマ一秒速ければ、防壁を展開できたはずだった」

 彼女は俺を庇って死んだ。
 それ以来、俺の指は極限の集中状態に入ると、あの時の爆発音を思い出して震えるようになった――。

 重い沈黙が工房に落ちる。
 エマは静かに立ち上がり、テーブル越しにユビの包帯を巻いた手を、両手で包み込んだ。

「ユビさんは、臆病なんかじゃありません」
「……慰めはいらん」
「事実です。だって昨夜、震える手で私を救ってくれたじゃないですか。過去の恐怖よりも、目の前の私を優先してくれた。……それは、誰にでもできることじゃありません」

 エマの真っ直ぐな瞳が、ユビの枯れた心を射抜く。
「私は、今のユビさんの指が一番好きです」

 その言葉に、ユビが何か言い返そうとした、その時だった。

 ――ドォォォォン!!

 工房の扉が、凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。
 硝子片が飛び散り、雨風と共に侵入者が姿を現す。
 全身を鈍色の鎧で覆った巨漢。だが、そこから生気は感じられない。鎧の隙間から漏れるのは、不気味な魔力の光だけだ。

「『自動人形(オートマタ)』……!?」
 ユビが叫ぶ。
「叔父様の手下ね……!」
 エマが蒼白になりながらも、護身用の短剣を抜いてユビの前に立つ。
 自動人形は機械的な動作で、巨大な戦斧を構えた。狙いは明らかに、指輪を持つエマ、そして邪魔な修復師の抹殺だ。

「下がれエマ! 奴は軍用だ、お前の短剣じゃ傷一つつかない!」
「でも、ユビさんは戦えない!」

 自動人形が斧を振り上げる。
 ユビは歯噛みした。今の俺の手では、あいつを解体する魔法は編めない。
 だが、このままではエマが死ぬ。再び、目の前で大事なものが失われるのか?

(――いいや、違う)

 ユビの脳裏に、先ほどのエマの言葉が蘇る。
 『今のユビさんの指が好き』。
 震えていても、怪我をしていても、俺にはまだ「目」がある。「知識」がある。そして何より、俺の代わりになってくれる「手」がある。

「エマ! 逃げるな、迎え撃つぞ!」
 ユビはエマの背後に回り込み、彼女の手首を掴んで短剣を構えさせた。
 まるで二人羽織のように、背中から彼女を抱きすくめる体勢になる。

「ユ、ユビさん!?」
「俺の手は動かない。だから、お前が俺の指になれ」
 ユビの囁きが耳元にかかる。
「俺が『視』て、お前が『刺』す。……俺を信じろ」

 エマの迷いが消えた。背中から伝わるユビの体温が、恐怖を溶かしていく。
「はい……!」

 自動人形が突進してくる。
 ユビの瞳が青く輝き、【神の触覚】ならぬ【神の義眼】が発動する。敵の装甲の隙間、魔力パイプの結合部、わずか1ミリの急所が、光って見えた。

「右だ、踏み込め!」
 ユビの指示に合わせて、エマがステップを踏む。
「脇の下、装甲の継ぎ目! 角度30度!」
 ユビが彼女の腕をガイドする。
 エマは迷わず、巨体へと飛び込んだ。

 戦斧が空を切り、エマの短剣が鎧の隙間に深々と突き刺さる。
「今だ、魔力を流せ!」
 エマ自身の魔力と、接触しているユビから流れ込む魔力が合流し、短剣を通じて自動人形の内部回路へと注ぎ込まれた。

 バヂヂヂッ!!
 自動人形は内部から火花を散らし、膝をついて崩れ落ちた。機能停止だ。

「はぁ、はぁ……やった……」
 エマが短剣を下ろす。
 密着したままの二人は、荒い息を共有していた。
 勝利の余韻の中で、ユビは抱きすくめていた腕を解こうとしたが、エマがそれを許さず、逆に彼の腕をギュッと掴んだ。

「……ユビさん」
「ん、あ、ああ。悪かったな、急に張り付いて」
「いえ。……最強でしたね、私たち」

 エマが振り返り、至近距離で悪戯っぽく微笑む。
 その笑顔に、ユビは自分がとっくに陥落していることを認めざるを得なかった。

「……ああ。悪くないコンビだ」

 破壊された扉からは雨が吹き込んでいたが、二人の間には確かな温もりが灯っていた。
 だが、これは始まりに過ぎない。叔父が実力行使に出た以上、ここにはもう居られない。

「行くぞ、エマ。指輪を完全に直すには、もっと大掛かりな設備が必要だ」
「はい! ……どこへ?」
「王都だ。俺の古巣がある。……それに、お前の家の落とし前もつけなきゃな」

 指(ユビ)、30歳。
 引退を撤回し、人生最大にして最難関の「修理」の旅が、今幕を開けた。

第4話 偽りの新婚旅行と、ドレスの下の誓い
森を出て三日目。街道沿いの宿場町は、夕暮れに染まっていた。


宿の帳簿に、ユビは慣れない筆跡で『ユビ夫妻』と記した。
通されたのは、狭いダブルベッドが一つ置かれた部屋。いわゆる「新婚旅行客」を装うためのカモフラージュだ。

「俺は椅子で寝る。お前はベッドを使え」

エマは強引にユビをベッドに座らせると、甲斐甲斐しく包帯の交換を始めた。 


旅の途中、馬車の揺れで密着したり、食事をシェアしたりする中で、エマの態度は以前より積極的になっていた。
だが、その夜。背中合わせでベッドに横たわった時、エマは小さな声で呟いた。
「……王都に着いたら、この旅も終わりでしょうか」
「……」

     * * *

 数日後
石造りの建物が並び、魔導灯が輝く大都市。ユビは路地裏にある、看板のない煉瓦造りの建物へとエマを連れて行く。

「よう。相変わらず陰気な店構えだな」
ユビが扉を開けると、紫煙の漂う部屋の奥から、妖艶な女性が振り返った。
長いキセルをふかし、胸元が大きく開いたドレスを着崩した美女――王都一の情報屋兼・闇魔道具師のヴィオラだ。 ヴィオラは立ち上がると、親しげにユビの肩に腕を回し、耳元で囁く。


「随分と男の顔になったじゃない。……で? その後ろの可愛らしいお嬢ちゃんは、新しいオモチャ?」

エマの肩がビクリと跳ねた。
大人の色気。そして何より、ユビと彼女の間にある「阿吽の呼吸」のような空気が、エマの胸をざわつかせた。

「……依頼人だ。茶化すな」
「ふーん。あんたが『依頼』を受けるなんてね。あの娘(・)・(・)が死んでから、腑抜けになったと思ってたけど」

その言葉に、エマは唇を噛んだ。彼女の知らない、ユビの過去を知る女性。
ヴィオラはエマを一瞥(いちべつ)し、ふっと笑う。
「ま、いいわ。情報は揃ってる。あんたが探ってる『叔父』、今夜の祝賀会でエマちゃんの実家の譲渡契約を正式発表する気よ」
「場所は?」
「王城の舞踏会場。警備は厳重。……正面突破は無理よ」

ユビは懐から、旅の途中でくすねてきた招待状(叔父の部下から奪ったもの)を取り出した。
「招待状ならある。あとは……」
ユビはエマの泥だらけの旅装束を見て、ため息をついた。
「その恰好じゃ、門前払いだな」

     * * *

ヴィオラの店の奥にある衣装部屋。
そこには煌びやかなドレスが並んでいたが、どれもサイズが合わないか、デザインが古かった。

「……貸してみろ」
ユビは包帯を解き、まだ赤みの残る指を露わにした。
そして、一着のシンプルな蒼いドレスと、数種類の魔石を手に取る。

「ユビさん、指はまだ……!」
「細かい作業は無理だが、調整くらいならできる」

ユビの手が動く。
針も糸も使わない。指先から魔力を放ち、繊維の組成を直接書き換えていく。
丈を詰め、ウエストを絞り、魔石を粉砕して生地に練り込み、星空のような輝きを与える。それは「裁縫」を超えた「再構築」だった。

「来い、エマ。最終調整だ」
ドレスに着替えたエマの背後に、ユビが立つ。
彼の指が、エマの背骨に沿って滑り落ち、ウエストのラインをなぞる。
「っ……」
エマは鏡越しにユビを見る。職人の目。けれど、そこには僅かな熱がある。

「……ユビさんのせいで、胸がいっぱいで食べられないんです」

エマの精一杯の皮肉に、ユビは苦笑し、彼女の髪に一輪の飾り花――小型の通信機と防御魔石を兼ねたもの――を挿した。
「よし。……最高傑作だ」
鏡の中には、泥だらけの少女ではなく、高貴で美しい令嬢が映っていた。
だが、エマにとって一番の宝物は、ドレスよりも、それを直してくれた彼の手の跡だった。

     * 

夜。王城の舞踏会場は、華やかな音楽と着飾った貴族たちで溢れていた。
その中を、蒼いドレスのエマと、正装に身を包んだユビが腕を組んで歩く。
ユビの髭は剃られ、髪も整えられている。その渋い色気に、すれ違う貴婦人たちが熱い視線を送るが、ユビは不機嫌そうに眉間の皺を深くしていた。

「……ネクタイが苦しい」
「我慢してください。今日は私のエスコート役なんですから」
 

会場の奥、壇上には、憎き叔父がワイングラスを掲げている姿が見える。


「はい。……でも、その前に」

ワルツの曲が流れ始めた。
エマはユビの前に立ち、その手を引いた。
「一曲だけ。……私と踊ってください」
「おい、そんな暇は……」
「新婚旅行の続き、まだ終わってません」

ユビは呆れたように息を吐き、しかし拒絶はしなかった。
そっとエマの腰に手を回し、もう片方の手で彼女の手を取る。
かつて数々の魔道具を直してきた「神の指」は、ダンスのリードも完璧だった。

「……ヴィオラさんとのこと、聞かないのか?」
ステップを踏みながら、ユビが不意に尋ねた。
エマはユビの胸元を見つめたまま答える。
「気になります。嫉妬で狂いそうです。……でも」
顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「今のユビさんを一番近くで見てるのは、私ですから。過去には勝てなくても、今と未来は渡しません」

その言葉に、ユビの目が大きく見開かれる。
そして、ふっと表情を緩めた。それは今までエマが見た中で、一番優しい笑顔だった。

「……勝てないな、お前には」

その時、会場の空気が凍りついた。
叔父が壇上から大声を張り上げたのだ。
「皆様! 本日は我が家の繁栄を祝し、特別な余興を用意しました。……捕らえた『先代の娘』の処刑ショーです!」

会場の照明が落ち、スポットライトが入口に向けられる。
そこに引きずり出されたのは――縛られ、猿轡(さるぐつわ)をされた、もう一人の「エマ」だった。

「え……?」
エマが息を呑む。
「偽物だ」
ユビの目が鋭く光る。「大衆の前でお前(の偽物)を処刑し、家督の正当性を主張する気だ」

会場がどよめく中、ユビはエマの手を強く握り直した。
「行くぞ、エマ。ダンスの時間は終わりだ。……ここからは、俺たちのショータイムだ」

第5話(最終話) 指先の魔法使いは、君と明日を紡ぐ
どこからか飛来した銀色のボタンが、処刑人の剣を弾き飛ばした。
どよめく会場。視線が一斉に一点に集まる。
人垣を割り、蒼いドレスを纏ったエマが、凛とした足取りで進み出た。その横には、不敵な笑みを浮かべるユビが寄り添っている。

「お待ちください、叔父様。その『エマ』は偽物です」
「な、何者だ! 衛兵、捕らえろ!」

 
その音が引き金となり、壇上の偽エマの姿がブレる。みるみるうちにその姿が崩れ、泥人形へと変わってしまった。

「簡単な幻影魔法だ。構造が雑すぎて、指一本で解けちまったよ」
ユビが挑発的に言うと、エマは一歩前へ出て、会場の貴族たちを見渡した。

エマが掲げた左手には、まだ呪いの指輪が嵌まっている。だが、それはもう彼女を蝕む枷ではない。ユビによって調整され、証拠能力を持った魔道具へと変わっていた。


追い詰められた叔父が、懐からどす黒い水晶を取り出した。城の地下に埋め込まれた防御結界を暴走させ、会場ごと吹き飛ばすつもりだ。

「消えろぉぉぉ!」
 
貴族たちが悲鳴を上げ逃げ惑う中、ユビは一歩も引かなかった。

「エマ、俺の背中につかまってろ」
「いいえ」
エマはユビの横に並び、彼の手を強く握った。

ユビは驚き、やがてフッと口角を上げた。
「……そうだったな。よし、行くぞ相棒!」

ユビが右手を空へ掲げる。
【神の触覚・全開(フル・アクセス)】。
襲い来る魔力の奔流。その複雑怪奇な流れを、ユビの指先は瞬時に「楽譜」のように読み解いた。

第五の技、解除
「はいっ!」

ユビが魔力の流れをこじ開けた一瞬の隙間。
エマはありったけの魔力を指輪に込め、叔父に向かって放出した。
呪いの指輪が、今はエマの意志に従う「光の砲台」となる。

     * * *

騒動が鎮圧され、叔父が騎士団に連行された後。
二人は城のバルコニーにいた。
王都の夜景が眼下に広がり、冷たい夜風が火照った体を冷やしていく。

「……終わりましたね」

指輪はもう、黒ずんではいなかった。役目を終え、本来の銀色の輝きを取り戻している。

「呪いは完全に消えた。これでもう、指輪はお前の命を食わない」
ユビが指輪に指をかける。
あれほど頑丈に癒着していた指輪は、嘘のようにスルリとエマの薬指から外れた。

カラン、と乾いた音がして、指輪がバルコニーの床に落ちる。
エマの薬指には、長い間締め付けられていた痕が、白く残っていた。

「……ありがとうございます。これで、私は自由ですね」
エマは自分の手を見つめる。
家は取り戻した。呪いも消えた。
これでもう、彼と一緒にいる理由(依頼)はなくなってしまった。


震える声で尋ねる。
「店に戻るのか、それともまた旅に出るのか……」

ユビは答えず、ポケットから何かを取り出した。
それは、包帯と、小さな軟膏の瓶だった。

「手、出せ」
「え……?」
「指輪は外れたが、痕が残ってる。……メンテナンスが必要だろ」

ユビはエマの手を引き寄せると、白く残った薬指の痕に、丁寧に薬を塗り込んだ。
 

「エマ」
 
「俺は臆病者だ。一度壊れたものは、二度と元には戻らないと思っていた」
「……」
「だが、お前が教えてくれた。壊れても直せる。傷ついても、また新しく始められるってな」

ユビは塗り終わった彼女の左手を放さなかった。
そのまま、彼女の薬指の、指輪の痕が残る場所に――そっと、唇を落とした。

「っ……ユビ、さん……?」
 

「指輪はなくなっちまったが……ここには、俺以外のものを嵌めるな」
それは、不器用な職人の精一杯の独占欲だった。
「俺が新しいのを作る。呪いなんかじゃない、お前を一生守るやつをな」

エマの目から、涙が溢れ出した。
それは恐怖でも痛みでもない、幸せな涙だった。
彼女はユビの首に抱きつき、泣き笑いのような顔で頷いた。

エピローグ ~薬指の体温~
 
森の工房には、久しぶりに穏やかな雨音が響いていた。
 

作業机に向かっていたユビが、ふう、と息を吐いてルーペを外した。
キッチンでシチューを煮込んでいたエマが、お玉を持ったまま駆け寄ってくる。

「できましたか!?」
「ああ。……これほど手間のかかる『修理』は、これが最後だ」

ユビの手のひらに乗っていたのは、ひとつの指輪だった。
派手な宝石はついていない。けれど、ミスリル銀を極限まで薄く延ばし、幾重にも編み込まれたそのデザインは、まるで二人の人生が絡み合っているかのように繊細で、美しい。
かつての「呪いの指輪」とは似ても似つかない、温かな魔力を帯びている。

「手、貸せ」
 
 
白い薬指には、もうあの時の傷跡はない。

 
ひんやりとした金属の輪が、滑るように薬指の根元へと収まった。

「……サイズは?」
「……ピッタリ、です」

エマは指輪を透かして見た。
内側に、微細な文字で刻印が施されているのが見えた。ユビの「神の指」でしか彫れない、極小の魔法文字だ。

――『我が指、生涯をかけて君を紡ぐ』

その意味を読み取った瞬間、エマの顔が熟れたリンゴのように赤くなる。
「ユ、ユビさん……これ、キザすぎませんか……?」
「う……うるさい。文句があるなら返品だ」
「やです! 絶対返しません!」

エマは左手を胸に抱きしめ、幸せそうに微笑んだ。
そして、照れて顔を背けようとするユビの頬を両手で挟み、強引にこちらを向かせる。

「ねえ、ユビさん」
「……なんだ」
「私、幸せです。壊れてしまいそうだったあの日、この工房の扉を叩いて本当によかった」

ユビは観念したようにため息をつき、それからエマの腰に手を回して引き寄せた。
その指先は、もう震えていない。
大切なものを守り、愛するための力が、確かにそこにあった。

「……」

雨音が優しく二人を包む。
重なる唇と、絡み合う指先。
左手の薬指で、二つの体温と、新しい指輪が静かに輝いていた。

         完

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