プシュー、とエアブレーキが抜ける音がして、扉が閉まる。それが「檻」の鍵が掛かる音だとは、その時の僕は気づいていなかった。
僕が通学に使っているのは、観光バスのようなハイバックシートが並ぶ路線バスだ。引っ越し先の家へ帰るには、このバスで峠を越えなければならない。
僕はいつものように、一番落ち着く窓側の席に座った。カバンを膝に抱え、イヤホンをつける。一人の世界に閉じこもって、一時間の苦痛をやり過ごすためだ。
発車間際、一人の男が乗り込んできた。
車内にはまだ空席がちらほらある。なのに、男は迷わず僕の列に近づき、ドサリと通路側の席に腰を下ろした。
狭い。
中年男性特有の熱気と、湿ったような匂いが鼻をつく。僕は反射的に体を窓の方へ寄せた。
「次は――峠下、峠下まで、止まりません」
無機質なアナウンスが流れる。ここから三十分以上、バスはノンストップで山道を走り続ける。もう降りられない。
バスが動き出し、市街地の明かりが遠ざかるにつれて、窓の外は漆黒の闇に塗りつぶされていく。
最初のカーブに差し掛かった時だった。
グウン、とバスが大きく右に傾く。重力がかかり、隣の男の体が僕の方へとなだれ込んできた。
二の腕と太ももに、べっとりと重い感触が張り付く。
(うわ、気持ち悪い……)
心の中で舌打ちをする。カーブが終われば離れるだろう。そう思った。
けれど、バスが体勢を立て直しても、男の体温は僕の左半身から離れなかった。むしろ、さっきよりも深く、粘着質に押し付けられている気がした。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
バスのエンジン音が唸りを上げて、急な上り坂に差し掛かる。
隣の男の手が、僕の太ももの上を這っていた。
最初は、バスの振動で手が滑り落ちてきただけだと思った。そう思いたかった。けれど、その手は定位置に戻ることなく、じわり、じわりと内側へ――足の付け根へと進んでくる。
(嘘だろ……?)
頭の中が真っ白になる。
「やめてください」と言わなきゃいけない。手を振り払わなきゃいけない。分かっているのに、体が金縛りにあったように動かない。声を出せば、この密室で何をされるか分からないという本能的な恐怖が、喉を締め上げる。
男の指先が、際どい場所に触れた。
触るか、触らないか。その曖昧な接触が数回続いた後、明確な意思を持って、その手は僕の股間を捉えた。
ゾッとした。虫が這うような、強烈な嫌悪感が背筋を駆け上がる。
気持ち悪い。汚い。今すぐ叫びだしたい。
心の中ではそう叫んで、吐き気さえ催しているのに。
あろうことか、僕の体は熱を持ち始めていた。
刺激に対する単なる生理現象。教科書的な説明をするならそうだろう。けれど、その時の僕にとって、それは自分の体からの「裏切り」でしかなかった。
(なんでだよ、ふざけるな)
男の生温かい手と、それに呼応して硬くなっていく自分自身。
自分の体が、自分のものではなくなり、おじさんの支配下に落ちていくような感覚。
僕は窓ガラスに映る自分の顔を見つめたまま、涙も出せず、ただ奥歯を噛み締めて耐えることしかできなかった。
長い、あまりにも長い峠道だった。
金属的な音が、耳元で鳴り響いた気がした。
ジーッ、というファスナーの下がる音。
静かなバスの中、タイヤがアスファルトを噛む音にかき消されて、その音は誰にも届かない。前の席の乗客も、運転手も、誰も振り返らない。
世界から僕だけが切り離されている。
「やめろ」
喉元まで出かかった言葉は、恐怖で凍りついて音にならなかった。動けば、気づかれる。騒げば、この男が逆上して何を言い出すかわからない。「この高校生が誘ってきた」とでも言われたら? 誰も僕を信じてくれなかったら?
悪い想像ばかりが頭を駆け巡り、僕は石のように固まるしかなかった。
男の荒れた指先が、ブリーフのゴムを強引に広げた。
最後の防壁が突破される。
ごわごわとした他人の手が、デリケートな粘膜に直接触れた瞬間、僕は人としての輪郭が崩れていくような錯覚を覚えた。
そして、男はそれを外へと引きずり出した。
ひやりとした車内の空気が、熱を持った僕の恥部に触れる。
バスの薄暗い常夜灯の下、僕の体の一部が露わにされている。
恥ずかしい。惨めだ。消えてしまいたい。
窓ガラスに映る僕は、ただ無力に天井を見上げていた。涙さえ流せなかった。魂が体から抜け出して、天井から「汚されていく自分」を見下ろしているような、奇妙な感覚だった。
男の手が動き始めた。
慣れた手つきだった。僕が自分自身で慰める時の、単調で機械的な動きとはまるで違っていた。
緩急のある、粘りつくようなリズム。
(やめろ、やめろ、やめろ!)
頭の中では必死に拒絶している。なのに、そこから送られてくる信号は、あろうことか「快感」だった。
信じられなかった。こんなに気持ち悪くて、こんなに怖いのに。
男の指が動くたびに、背筋がゾクゾクと粟立ち、頭の芯が痺れていく。
それは、僕が知っている「気持ちいい」とは別物だった。もっと鋭く、暴力的で、脳を直接揺さぶられるような感覚。
「ん……」
食いしばった歯の隙間から、情けない声が漏れそうになる。必死に飲み込む。
もし声を出してしまえば、僕は被害者ではなくなり、この男の共犯者になってしまう気がしたからだ。
(なんでだよ。なんで気持ちいいんだよ)
涙が滲んできた。
男の手によって、僕の体は僕の意思を離れ、勝手に悦びの反応を返している。まるでリモコンで操作される人形だ。
自分の体が汚されていく感覚と、それに逆らえない生理的な興奮。
その矛盾が、僕の心をズタズタに引き裂いていった。
バスの揺れと、男の手の動きが重なる。
僕は窓の外の闇を見つめたまま、自分の体が壊れていくのをただ感じているしかなかった。
次の瞬間、隣の男の気配が沈み込んだ。
何をする気だ、と思った時にはもう遅かった。男の上半身が崩れ落ちるようにして、僕の腰の上に覆いかぶさってきたのだ。
重い。
大人の男の体重が、逃げ場のない僕の太ももを押し潰す。
そして、信じられないことが起きた。
「んぐ、ぅ……!」
熱く、湿った感触が、僕の敏感な部分を丸ごと飲み込んだ。
頭が真っ白になった。
口だ。この男は、あろうことか僕のアレを口に含んだのだ。
(嘘だ……)
僕はまだ、女性の手の温もりさえ知らない。
いつか好きな人ができて、大切に育んでいくはずだった「初めて」の体験。
……薄汚れたおじさんの口の中で、咀嚼(そしゃく)されるように汚されていく。
「んっ、んぐ、ぅ……」
男の喉から漏れる、獣のような呼吸音が聞こえる。
ぬるりとした舌の感触。頬が収縮するバキュームのような吸引力。
そのすべてが、僕にとっては暴力だった。
けれど、悲しいことに、僕の若い身体はあまりに敏感すぎた。
(だめだ、だめだ、出る!)
生理的な快感と、魂が嘔吐(おうと)するような嫌悪感が、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
バスが大きく揺れた拍子に、男が深く頭を沈めた。
強烈な刺激が脳天を突き抜ける。
「あっ」
声にならない息が漏れた。
限界だった。僕の意思など関係なく、高まった圧力は出口を求めて暴発した。
目の前がチカチカと明滅する。
僕の身体は、この見知らぬ男の口の中へと、白濁したものをすべて吐き出した。
ビクビクと脈打つ僕の分身。
男はそれを嫌がるどころか、最後の一滴まで味わうように喉を鳴らした。
ゴクリ、という生々しい音が、静まり返った車内に響いた気がした。
終わった。
何もかもが、終わってしまった。
男がゆっくりと顔を上げ、口元を手の甲で拭う。
僕は脱力して、シートに深く沈み込んだ。賢者タイムのような虚無感ではない。ただただ、自分が汚物になってしまったような、底なしの絶望だった。
それでもバスは止まらない。
僕の「初めて」が死んだ夜も、タイヤは淡々と回転し、峠道を走り続けていた。
賢者タイムのような静寂は、最悪の形で破られた。
男が僕の耳元に顔を寄せる。湿った吐息が、鼓膜に直接吹きかけられた。
「美味しかったよ。ありがとう」
背筋が凍りついた。
感謝? 美味しかった?
僕の尊厳を踏みにじっておいて、この男は何を言っているんだ。
吐き気がこみ上げた。その言葉は、どんな罵倒(ばとう)よりも不気味で、僕の心にべっとりと張り付いた。
だが、悪夢は終わらなかった。
「私のも、触ってくれないか」
それは質問ではなく、命令だった。
男はズボンから、自身のどす黒く膨れ上がったものを引きずり出した。
「いや……」
首を横に振ろうとした僕の手首を、男が強く掴む。
抵抗する間もなかった。僕の手は強引に誘導され、男の股間へと押し付けられた。
「うわ」
手のひらに伝わる、硬くて熱い、異物の感触。
ゴツゴツとしていて、脂ぎっていて、僕のものとは似ても似つかない醜悪な塊。
(汚い、汚い、汚い!)
僕の手が、この男の一部を握っている。
指の隙間から、男の体温と脈動が伝わってくる。
自分の手が腐って落ちてしまいそうだった。今すぐ手を洗いたい。皮が剥けるほど洗いたい。
涙が溢れて、視界が歪む。
僕は操り人形のように、男の欲望をその手で受け止めるしかなかった。
男はポケットから、くしゃくしゃになった白いハンカチを取り出した。
(まさか……)
僕は身構えた。さっき僕がされたように、今度は僕がこの男のそれを口に含まされ、汚いものを飲まされるのだと覚悟した。
恐怖で顎が震える。
けれど、男は僕の顔を見ることもなく、そのハンカチを自身の先端に押し当てた。
くぐもった声と共に、男の身体が小さく痙攣する。
すべては、その白い布の中に吐き出されたようだった。
助かった。
口に入れられずに済んだ。
肺の底から安堵のため息が漏れた。……はずだった。
けれど、僕の胸の奥には、安堵とは真逆の、奇妙な感情が澱(おり)のように沈んでいた。
(あれ? これで終わり?)
それは、「残念」という言葉に近い感覚だった。
自分でも信じられなかった。あんなに嫌がっていたのに。あんなに怖かったのに。
どこかで、「男性のものを口で受ける」という未知の体験を、期待していた自分がいたのか?
これは、二度とないチャンスだったんじゃないか?
狂っている。
一時間前までの僕なら、絶対に抱かなかったはずの感想。
この密室での異常な時間が、僕の感覚を麻痺させ、善悪の境界線を溶かしてしまったのだ。
ハンカチを畳んでポケットにしまう男を見ながら、僕はそんな「壊れてしまった自分」の方にこそ、底知れぬ恐怖を感じていた。
バスの速度が緩み、久しぶりに街灯の明かりが窓を掠めた。
峠を越えたのだ。
「次、止まります」
男が何事もなかったような声で降車ボタンを押した。
プシュー、と扉が開く。
男は僕の方を一瞥(いちべつ)もせず、軽い足取りでステップを降りていった。まるで、ちょっとコンビニに立ち寄っただけのような、あまりにも日常的な後ろ姿だった。
扉が閉まり、バスが再び走り出す。
隣の席は空っぽになった。重みも、湿った匂いも消えた。
終わったんだ。
時計を見ると、峠に入ってから三十分強しか経っていなかった。嘘だと思った。僕の感覚では、何時間も、あるいは一晩中、あの檻の中にいた気がしたからだ。
助かった。もう家へ帰れる。
そう頭では理解しているのに、体はまだ現実に帰ってきてはいなかった。
ズボンの内側が、痛いほどに張り詰めている。
あんなに恐ろしい思いをしたのに。あんなに惨めだったのに。
僕の分身は、小さくなるどころか、怒り狂ったように硬く勃起したままだった。
(なんでだよ……なんで静まらないんだよ)
窓ガラスに映る僕は、髪も服も乱れていない。
けれど、ズボンの下だけが、あの男に支配されたままだった。
バスの振動が伝わるたび、疼くような感覚が脳を揺らす。
僕はカバンを強く抱きしめ、股間を隠すようにして身を縮めた。
体の中に残された熱が、冷める気配はなかった。
その熱は、僕がこの先も背負っていかなければならない「傷跡」のように、いつまでも僕を責め立てていた。
完
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