『沈黙堂の診療録』
2025/12/25(木)第一話:証言する懐中時計
路地裏の湿った空気が、アンティークオイルの匂いと混ざり合う。ここ「沈黙堂」は、雨の日によく客が来る。
俺の名前は指(ゆび)。三十五歳。
世間からは古道具の修理屋と思われているが、裏の名刺にはこう書いてある。
『道具医(どうぐい)』と。
「指先生、お茶が入りましたよ」
カウンターの向こうから、あどけない声が飛んでくる。助手のえまだ。彼女は大学で民俗学を専攻している変わり者で、俺の無愛想な仕事ぶりに興味を持って居座っている。
「そこに置いておいてくれ」
俺は作業机に向かったまま、手元の「患者」に視線を落とす。今日の患者は、年代物の銀の懐中時計だ。持ち主の青年は、今にも泣き出しそうな顔でパイプ椅子に座っている。
「あの……直りそうですか? 祖父の形見なんです。急に動かなくなってしまって」
俺は白衣のポケットから、商売道具を取り出した。
通常の医者が使うものとは違う、純銀製の聴診器。チューブの部分まで銀糸で編み込まれた特注品だ。これを介さないと、道具たちの「声」や「記憶」が直接脳に流れ込んできて、俺の神経が焼き切れてしまう。
「静かに」
俺は短く告げると、イヤーピースを耳にねじ込み、冷たいチェストピース(集音部)を時計の裏蓋に当てた。
世界から音が消える。
そして、時計の中の音だけが響いてくる。
通常なら、『チクタク、チクタク』という規則正しい心音が聞こえるはずだ。あるいは、油が切れた『ギギギ』という苦鳴か、ゼンマイが切れた無音か。
だが、この時計から聞こえてきたのは、明確な「拒絶」の意思だった。
『……いやだ』
低い、老人のような声が鼓膜を震わせる。
『わしは動かんぞ。こいつのために、時を刻むのはもうごめんだ』
俺は眉をひそめた。故障ではない。ストライキだ。
道具がここまで強い感情を持って機能を停止するのは珍しい。よほどの「裏切り」が持ち主との間にあったに違いない。
俺は聴診器を外し、首にかけたまま青年に向き直る。
「あんた、この時計に何をした?」
「は、はい? 何も……ただ大切に使っていて……」
「嘘をつくな」
俺の冷たい声に、店内の空気が凍る。えまが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「こいつは言ってるぞ。『共犯者になるのはごめんだ』とな」
「きょ、共犯者……?」
「この時計が止まったのは、午後三時十五分だ」
俺は文字盤を指さす。
「あんた、三日前の三時十五分、どこで何をしていた?」
青年の顔色が一気に青ざめる。
時計の声が、再び俺の脳内に響く。聴診器を外していても、強い念が漏れ出ている。
『あの日、こいつは恋人の家から金を盗んだ。その時刻をごまかすために、わしの針を無理やり戻そうとしたんじゃ。わしを……誇り高き鉄道時計を、アリバイ工作の道具に使おうとしおった!』
俺はため息をつき、作業用のルーペを置いた。
「治療拒否だ。こいつは壊れてるんじゃない。あんたに愛想を尽かして、自ら心臓を止めたんだよ」
「そんな馬鹿なことが……! ただの時計だろ!?」
青年が激昂し、カウンターを叩く。
「金なら払う! さっさと直せよ!」
俺が口を開きかけた時、えまがトレイを持ったまま静かに割って入った。
「お客様」
えまの声は鈴のように澄んでいるが、その目は真剣だった。
「このお店は『道具の病院』です。患者さんが嫌がっているのに、無理やり手術をするお医者さまはいません」
彼女はそっと時計に手を添える。えまには声は聞こえない。だが、不思議と道具の気持ちを察する勘がある。
「この時計、すごく悲しそうです。大切にされていたからこそ、あなたの過ちを見過ごせなかったんじゃないですか?」
青年の肩が震え始めた。
図星だったのだろう。彼は両手で顔を覆い、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「……魔が差したんです。借金があって……でも、警察に行くのが怖くて……」
店内には雨音だけが響く。
俺は黙って、冷めた茶を一口すすった。
「警察に行け。罪を償って、身ぎれいになってからまた来なさい」
俺はぶっきらぼうに言った。
「そうすれば、その頑固な爺さん(時計)も、機嫌を直すかもしれん」
青年は涙を拭い、何度も頭を下げて店を出て行った。時計は預かったままだ。
「指先生、厳しすぎます」
えまが頬を膨らませる。
「もう少し優しく言ってあげればいいのに」
「道具に嘘をつかせる奴は嫌いだ。それだけだ」
俺は再び聴診器を耳に戻す。
時計からは、先ほどまでの張り詰めた怒気が消え、微かだが安堵したような気配が漂っていた。
『……ふん、無愛想な医者だが、腕は悪くないようだな』
「うるさい爺さんだ」
俺は小さく苦笑し、カルテに『経過観察』と書き込んだ。
雨はまだ、降り続いている。
第二話:曇天のダイヤモンド
その日、店の中に漂ってきたのは、雨の匂いではなく、鼻につくほど濃厚な白百合の香水の香りだった。
「ごめんください」
現れたのは、仕立ての良い着物に身を包んだ、四十代半ばと思われる美しい女性だ。その表情は能面のように静かだが、目元には隠しきれない疲労が滲んでいる。
「どうぞ、おかけください」
えまが椅子を勧める。女性は上品に礼をすると、ハンドバッグからビロードの小箱を取り出した。
パカリ、と蓋が開く。
「……ほう」
俺は思わず声を漏らした。
そこに鎮座していたのは、指の関節ほどもありそうな、巨大なダイヤモンドの指輪だ。目測で5カラットはある。家が一軒買える代物だ。
「症状は?」
俺は単刀直入に聞く。
「輝かないのです」
女性は悲しげに言った。
「夫から結婚二十周年の記念にいただいたのですが……何度宝石店でクリーニングしても、すぐに曇ってしまうのです。まるで、すりガラスのように」
確かに、そのダイヤは白く濁っていた。本来なら目が眩むほどの光を放つはずのブリリアントカットが、死んだ魚の目のように淀んでいる。
俺は銀の聴診器を耳に装着し、チェストピースをダイヤの表面(テーブル面)に当てた。
『……触らないで』
鼓膜を刺すような、冷たく鋭い女の声が響いた。氷の刃のような声だ。
『私を磨かないで。透明に戻さないで』
(なぜだ?)俺は心の中で問いかける。
『見えてしまうからよ。あの男の嘘が』
ダイヤの声が、憎悪で震え始めた。
『あの男は、私をこの人のために買ったんじゃない。愛人の女……「ミナコ」という若い女に贈るために買ったのよ。でも、その女に振られた。「こんな指輪で妻と別れるのを待てというのか」と投げ返されたのよ!』
俺の眉間には深い皺が刻まれる。
ダイヤはさらに喚く。
『私は使い古しの賄賂。愛人に拒絶されたから、勿体ないという理由だけで、罪滅ぼしに妻へ回された。……汚らわしい! 私は愛の証じゃない、ただの「在庫処分」よ!』
ダイヤの曇り。それは、汚れではない。
プライド高き宝石が、自らの身に起きた屈辱的な経緯を恥じ、そして何より、「自分を通して夫の裏切りが妻に見透かされないように」、自ら光を閉ざして濁っていたのだ。
俺は聴診器を外し、大きく息を吐いた。
「先生?」えまが不安そうに見る。
俺は依頼人の女性を見た。彼女は、縋るような目で俺を見ている。だが、その瞳の奥には、既に何かを悟っているような光もあった。
「奥さん。これは物理的な汚れじゃない」
俺は静かに告げる。
「この石は、へそを曲げている」
「へそ、ですか?」
「ああ。この石は言ってる。『私は二番目の女じゃない』とな」
一瞬、店内の空気が凍りついた。
女性の顔から血の気が引く。
「どういう……意味でしょうか」
俺が口を開こうとすると、えまが素早くカウンターの下で俺の足を蹴った。(余計なことを言うな、という合図だ)。
えまはニッコリと微笑み、女性に向き直る。
「あの、奥様。ダイヤモンドというのは、油ととても仲が良い性質があるんです。親油性(しんゆせい)と言いまして」
えまは言葉を選びながら続ける。
「もしかしたら、この指輪……ご主人様の『脂ぎった下心』や『隠し事』を吸い取りすぎて、お腹いっぱいになっているのかもしれません」
えまの比喩は辛辣だったが、的を射ていた。
女性はハッとしたように口元を押さえる。
「……主人は、これを渡す時、私の目を見ませんでした」
女性がポツリと漏らす。
「昔からそうです。何かやましいことがある時、あの人は高価な物を私に買い与える」
俺は布でダイヤを拭きながら、独り言のように呟く。
「ダイヤってのは、地球上で一番硬い石だ。だが、衝撃には弱い。ある一定の角度から叩かれると、簡単に割れる」
俺は指輪を女性の前に突き返した。
「あんたの家庭と同じだ。外からは硬く見えるが、中は脆い」
ダイヤの声が再び聞こえる気がした。『言ってやった、言ってやった』と嗤っている。
「治療法は一つです」
俺はカルテに書きなぐる。
「この指輪を、質屋に持っていくことだ。そして、その金で自分が一番美味いと思うものを食うなり、旅行に行くなりすることだ」
「売れ、とおっしゃるのですか?」
「ああ。この石は、あんたの指にいることを拒否している。……いや、もっと正確に言えば、**『あんたが傷つく姿を、特等席で見たくない』**と言ってるんだよ」
それは、俺なりの精一杯の翻訳だった。
ダイヤはプライドが高いが、同時に、この罪のない妻に対して、ある種の同情を抱いていたからこそ、曇って真実(夫の浮気の残像)を隠そうとしていたのだから。
女性は長い沈黙の後、指輪を小箱に戻さず、ハンドバッグに放り込んだ。
その動作は乱暴だったが、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「……先生、おいくらですか?」
「診断料だけいただく。治療はしていない」
女性は代金を置くと、入り口で一度だけ振り返った。
「雨が、上がったようですわ」
彼女が出ていった後、えまが呆れたように俺を見る。
「指先生、やっぱりデリカシーがありません。いきなり『二番目の女』だなんて」
「真実を伝えない医者がどこにいる」
俺は新しい煙草に火をつける。
「でも……あのダイヤ、最後は少しだけ輝いていましたね」
「せいせいしたんだろ。新しい持ち主のところへ行けるからな」
紫煙の向こうで、俺は自分の左手を見る。そこには指輪も、その跡すらない。
他人の壊れた物は直せても、自分自身の空洞は埋められない。
俺はふんと鼻を鳴らし、次の患者(壊れたラジオ)を手に取った。
第三話:臆病なオルゴール
「メリークリスマス! 指先生!」
ドアが開くと同時に、冷たい風と共にえまが飛び込んできた。手には小さなホールケーキの箱。彼女の赤いマフラーが、モノクロのような店内で唯一の色味に見える。
「……うるさい。ここは病院だぞ」
俺は修理中のランプから目を離さずに言う。
「もう、今日くらい素直になってくださいよ。はい、これ差し入れです」
えまは強引に俺の作業机の端にケーキを置く。
俺はため息をつきながら、作業の手を止めた。35歳の独身男にとって、この日は一年で最も居心地が悪い日だ。
だが、そんな俺の憂鬱をよそに、カランコロンとドアベルが鳴った。
現れたのは、線の細い男子学生だった。えまの後輩だろうか、少し顔が似ている気もする。彼は両手で大切そうに、小さな木の箱を抱えていた。
「あの……修理をお願いしたくて」
カウンターに出されたのは、装飾の剥げた古いオルゴールだった。
「症状は?」
俺はいつものように問う。
「音が、途中で止まるんです。一番いいところで……」
彼は顔を赤らめながら言った。
「今日、これを渡したい人がいるんです。告白と一緒に。でも、曲が最後まで流れないんじゃ、格好がつかなくて」
なるほど。恋の小道具か。
俺は銀の聴診器を取り出し、オルゴールの共鳴箱に当てた。
『……ふん、またこの男か』
聞こえてきたのは、呆れ果てた老紳士のような声だった。
『わしは壊れてなどおらん。ただ、演奏をボイコットしているだけだ』
(理由は?)俺は心の中で問う。
『この若造、わしの音色に頼りすぎなんじゃ。「曲が終わったら好きだと言う」などと決め込んで、わしが鳴り止むのを待っておる。……馬鹿者め! 告白とは、静寂の中で自らの声を張り上げてこそ響くものだろうが! わしをBGM扱いするな!』
ごもっともだ。
このオルゴールは、主人のあまりのヘタレ具合に業を煮やし、あえて「いいところ」で演奏を止めることで、彼に発言の機会を与えようとしていたのだ。
俺は聴診器を外し、目の前の青年に冷ややかな視線を送った。
「修理不能だ」
「えっ!?」
「こいつは言ってる。『俺を言い訳に使うな』とな」
青年が狼狽える。「そ、そんな……今日渡せないと、もうチャンスがないんです!」
「指先生!」
見かねたえまが口を挟む。
「言い方はきついですけど、先生の言う通りかも。……でも、勇気が出るように『おまじない』くらいはしてあげてもいいんじゃないですか?」
えまは俺をじっと見つめる。その瞳には、少しの期待と、悪戯な光が宿っている。
俺は渋々、工具箱から最高級の潤滑油を取り出した。
「……特別処置だ。物理的な摩擦を極限まで減らしてやる。これで動かなかったら、あとはあんたの気合の問題だ」
俺は手早くメンテナンスを施し、青年に返した。
「礼はいらん。成功したら、ケーキの代金くらいは払いに来い」
青年は「ありがとうございます!」と深々と頭を下げ、オルゴールを抱えて夜の街へ駆け出していった。
静寂が戻る。
店には、俺とえまの二人きりだ。
「……先生、本当は直してあげたんですよね?」
えまがにじり寄ってくる。
「ただの油差しだ」
「ふふ、素直じゃないなぁ」
えまは勝手に湯を沸かし、紅茶を入れ始めた。
その時、ふと俺の白衣の袖を、何かが引っ張った。
「ねえ、先生」
えまの声が、いつもより少し低い。
振り返ると、彼女はカウンター越しではなく、作業机のすぐ横、俺の椅子の背もたれに手をかけて立っていた。
「私の『声』は、聴診器を使わなくても聞こえてますか?」
ドキリ、とした。
心臓が不格好な音を立てる。俺は誤魔化すように視線を逸らす。
「人間には使わない。プライバシーの侵害だ」
「じゃあ……」
えまは俺の首にかかっていた聴診器に手を伸ばし、そのチェストピース(集音部)を、自分の胸に押し当てた。
「これなら?」
突然のことに、俺は身動きが取れなくなる。
イヤーピースはまだ俺の耳に入ったままだ。
銀の管を通して、ドクン、ドクン、と速いリズムが直接脳髄に響いてくる。
それは道具たちの無機質な声とは違う。
温かく、柔らかく、そして必死な、生命の音だ。
『……づいて』
『……きづいて、ばか』
心音の裏側に、言葉にならない感情の粒が混じっている。
道具の声を聞く能力が、えまの強い感情に共鳴して、彼女の心の声を拾ってしまったのか。あるいは、これは俺の幻聴か。
俺の顔が熱くなるのがわかった。35歳にもなって、こんな子供じみた挑発に乗せられるとは。
俺は慌てて聴診器を耳から引き抜いた。
「……不整脈はないようだ。健康そのものだな」
俺の声は裏返っていたかもしれない。
えまは顔を真っ赤にして、パッと手を離した。
「……診察、雑です!」
彼女は逃げるようにケーキの箱を開け始めた。
「ほら、食べますよ! 今日はクリスマスなんですから!」
その背中は、小動物のように震えている。
俺は聴診器をポケットにねじ込み、深呼吸をした。
金属の冷たさが消え、耳の奥にはまだ、彼女の心臓の音が熱く残っている。
「……珈琲にしてくれ。甘いのは苦手だ」
「もう! 紅茶しかありません!」
外では雪が降り始めたようだ。
道具たちの囁き声も、今夜ばかりは静まり返り、不器用な二人のやり取りを見守っている気がした。
俺は小さく息を吐き、えまの隣に並んだ。
沈黙堂の夜は、いつもより少しだけ騒がしく、そして温かい。
第4章 聖夜の追伸:銀の糸を解く
雪の勢いが増したせいで、世界の音が真綿にくるまれたように遠のいていた。
古い柱時計が深夜二時を告げる鐘を鳴らし、その余韻が店内に沈殿していく。
「……電車、止まっちゃいましたね」
空になったケーキの皿を前に、えまがポツリと言った。確信犯のような、けれど震えているような声だった。
俺は作業机のランプを消し、薄暗がりの中で彼女を見た。帰す手段はある。タクシーを呼べばいい。だが、俺の口は接着剤で固められたように動かなかった。
「……奥の部屋、暖房が効きすぎているかもしれん」
それが、俺の精一杯の誘い文句だった。
えまは花が咲くように微かに笑い、俺の白衣の裾を掴んだまま立ち上がった。
住居スペースを兼ねた奥の部屋は、狭いが、古い木の匂いと生活の匂いが混じり合っていた。
ベッドに腰を下ろすと、えまが正面に立った。彼女の手が伸びてきて、俺の首にかかっていた「銀の聴診器」に触れる。
「外していいですか?」
「……ああ。これを外すと、世界中のノイズが入ってくるんだがな」
俺が憎まれ口を叩くと、えまは首を振った。
「ううん。今夜は、私の音だけ聞いてください」
彼女はゆっくりと、俺の首から商売道具を抜き取り、サイドテーブルに置いた。
カチャリ。銀の金属音が響き、それが合図となった。
俺の手が、彼女の頬に触れる。
職人として数多の道具を直してきた指だ。傷だらけで、無骨で、ヤスリのように荒れている。だが、えまはその掌に自分の顔を押し付け、猫のように目を細めた。
「先生の手、温かい」
「……仕事柄、手だけは熱いんだ」
唇が重なる。
最初は触れるだけの、硝子細工を扱うような口づけ。
次第に深く、互いの呼吸を奪い合うような熱量へ変わっていく。
俺の脳内に、普段聞こえるはずの道具たちの囁き声はなかった。
あるのは、目の前の愛おしい女性の、乱れた呼吸音と、衣擦れの音だけ。
聴診器などなくても、彼女の肌の熱さが、早鐘を打つ心臓の振動が、俺の皮膚を通して直接伝わってくる。
「指さん……」
初めて名前を呼ばれた気がした。「先生」という肩書きが剥がれ落ち、ただの男と女になる。
俺は彼女を抱き寄せ、シーツの上に倒れ込んだ。
えまの肌は、最高級の白磁のように滑らかで、それでいて生きている弾力があった。
俺がその輪郭を指でなぞるたび、彼女は甘い吐息を漏らし、俺の背中に爪を立てる。
それは、どんな壊れた道具が発する悲鳴よりも、俺の理性を激しく揺さぶった。
「……痛くないか」
「痛くなんかない……もっと、触って」
静寂の店内で、二人の影だけが重なり合い、揺れ動く。
俺たちは互いの孤独な穴を埋めるように、何度も確かめ合い、深く繋がっていった。
まるで、長い間離れ離れになっていた一対の部品が、ようやく正しい場所で噛み合ったかのように。
そこには言葉はいらなかった。
汗ばんだ肌と肌が密着する音、漏れ出る声、そして互いの鼓動だけが、雪の夜の静けさを満たしていった。
事後。
薄い毛布にくるまりながら、えまは俺の腕の中で小さく寝息を立てていた。
その寝顔は安らかで、先ほどまでの情熱が嘘のようにあどけない。
俺はサイドテーブルの聴診器をちらりと見た。
銀色のチューブが、月明かりを浴びて鈍く光っている。
『……やれやれ、暑苦しいことじゃ』
『今夜ばかりは、見ないふりをしてやるよ』
部屋にあるタンスや時計たちが、呆れたように、けれどどこか祝福するように囁いているのが聞こえた気がした。
俺は苦笑し、えまの髪をそっと撫でた。
「……メリークリスマス、えま」
誰にも聞こえないほどの小声で呟き、俺もまた、彼女の体温に包まれて目を閉じた。
沈黙堂に、本当の静けさと温もりが訪れていた。
最終話:魂を喰らう「からくり」
その依頼品が持ち込まれたのは、えまと結ばれてから数ヶ月後の、嵐の夜だった。
黒塗りの車から降りてきたのは、政府の文化財管理委員を名乗る男たち。彼らが運び込んだのは、厳重に封印された桐の箱だった。
「……伝説のからくり人形『夜叉(やしゃ)』です」
男は震える声で言った。
「江戸時代、名工が己の妻を生き返らせようとして作ったと言われる禁断の品。これを直そうとした職人は皆、発狂するか、謎の衰弱死を遂げている。……しかし、来月の式典でどうしても動かさねばならない」
俺は断ろうとした。だが、箱から漏れ出る「気配」が俺を呼んでいた。
それは道具の声というより、もっと深く、ドロドロとした怨嗟(えんさ)の叫びだった。
「先生、駄目です!」
えまが俺の腕を掴む。彼女の顔は蒼白だ。
「嫌な予感がします。これに関わっちゃいけない。お願い、断って」
「……俺は医者だ。重篤な患者を前にして、見殺しにはできん」
それは半分本音で、半分は職人としての逃れられない性(さが)だった。俺はえまの手を振りほどき、箱を開けた。
中には、精巧な少女の人形が収まっていた。美しいが、眼球だけが入っていない空洞の顔。
俺は覚悟を決め、銀の聴診器を人形の胸――ゼンマイのある心臓部に当てた。
『……ちょうだい』
鼓膜が破れそうなほどの絶叫が響いた。
『命をちょうだい。時間をちょうだい。私の目はどこ? 私の心はどこ? お前の熱をよこせ!』
ドクン!
俺の心臓が早鐘を打ち、視界が明滅する。
この人形は壊れているのではない。「飢えている」のだ。動くためのエネルギーとして、修理する人間の生命力を吸い取ろうとする呪いの器。
俺は膝をついた。鼻からツルリと血が流れる。
「……面白い。最高難度の手術になりそうだ」
「指さん!」
俺は工房に鍵をかけ、えまを締め出した。これは俺一人の戦いだ。彼女を巻き込むわけにはいかない。
【修復:深夜の攻防】
作業は三日三晩続いた。
俺は飲まず食わずで、人形の複雑怪奇な歯車と格闘していた。
聴診器を通して、人形の怨念が俺の精神を削り取っていく。指先が黒く変色し、視界が霞む。
『お前の時間を全部よこせ。そうすれば私は動いてやる』
「……黙れ、ガラクタ。俺が支配者(マスター)だ」
俺は意識が飛びそうになるのを、腕にペンチを突き立てる痛みで繋ぎ止める。
あと少し。あと一つの歯車を噛み合わせれば、浄化できる。
だが、体が動かない。指が石のように冷たい。
(ここまでか……)
俺が作業台に突っ伏そうとしたその時。
バン! と扉が蹴破られた。
「馬鹿野郎!」
えまだ。彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺の背中に飛びついてきた。
「一人で死のうとするなんて許さない! 私たちは繋がったんでしょう!? だったら、苦しみも半分こにしなさいよ!」
「えま、離れろ! 吸い取られるぞ!」
「離さない! 私の命も持っていけばいいわ!」
えまの手が、俺の手の上から工具を握りしめる。
その瞬間、俺の冷え切った体に、猛烈な熱が流れ込んできた。
えまの心音。ドクン、ドクンという力強い生のリズム。
それが俺という導管を通って、人形へと流れ込んでいく。
『……あたたかい』
人形の怨嗟の声が、驚きの声に変わる。
俺たちの愛、情熱、未来への渇望。それらは、人形が何百年も求め続け、決して手に入らなかった「人間の体温」そのものだった。
「今だ、指さん!」
「ああ……!」
俺とえまは二人羽織のように重なり合い、最後の一撃――命の歯車を押し込んだ。
カチリ。
乾いた音が嵐の夜に響いた。
その瞬間、人形から噴き出していた黒い怨念の霧が、俺たちの体温によって一気に浄化されていく。
バキバキと音を立てて剥がれ落ちたのは、人形の体そのものではなく、数百年分の「錆」と「汚れ」の殻だった。
「……美しい」
えまが息を呑む。
分厚い垢が落ちた下から現れたのは、透き通るような白木の肌と、極彩色の着物を纏った、息を呑むほど美しい少女の姿だった。
空洞だった眼窩には、仕込まれていたガラスの瞳がカシャリと嵌まり込み、まるで生きているかのような光を宿した。
『……ふう。やっと、体が軽くなったわ』
聴診器越しに、少女の鈴を転がすような声が聞こえる。
怨嗟の声ではない。誇り高き「演者」の声だ。
人形はゆっくりと立ち上がると、俺とえまに向かって優雅に一礼した。
そして、ゼンマイが切れるまでの数分間、この世のものとは思えないほど滑らかで、妖艶な舞を披露した。
指先の角度、首の傾げ方、全てが計算し尽くされた国宝級の動きだった。
動きが止まると、人形は静かに元の「物」に戻った。
だが、そこにはもう禍々しい気配はなく、神々しいオーラだけが漂っていた。
【翌朝:プロの仕事】
嵐が去った翌朝、黒塗りの車が再び店の前に止まった。
文化財管理委員の男たちが、恐る恐る店に入ってくる。
「せ、先生……あの、人形は……?」
「ここにある」
俺はカウンターに置かれた桐の箱を指差した。
男がおそるおそる蓋を開ける。
次の瞬間、彼らの目が見開かれた。
「な……なんという……!」
そこには、新品同様……いや、作られた当時以上の輝きを取り戻した『夜叉』が鎮座していた。
「動作確認済みだ。来月の式典、恥をかくことはないだろう」
俺は請求書をカウンターに滑らせた。
「ただし、特別料金(手当)を含ませてもらった。命がけだったんでな」
男たちは震える手で人形を確認し、そして俺を見た。
その目は、恐怖ではなく、畏敬の念に変わっていた。
「……素晴らしい。いや、神業だ。あなたは日本の、いや世界の宝を救ったのです!」
「金さえ払ってくれればいい」
男たちは何度も頭を下げ、人形を宝物のように抱えて帰っていった。
これで莫大な報酬が入る。店を改装し、えまと二人で暮らすには十分すぎる額だ。
【エピローグ:普通の幸せ】
車が見えなくなると、俺はドサリと椅子に座り込んだ。
どっと疲れが出た。
「お疲れ様、指さん」
えまが温かい珈琲を出してくれる。
俺は首から聴診器を外そうとした。
パキン。
小さな音がして、銀の聴診器のチューブに亀裂が入った。
「あ……」
俺はそれを耳に当ててみた。
だが、聞こえるのはただの風の音と、時計のチクタクという音だけ。
人形の「声」も、他の道具たちの囁きも、完全に消えていた。
あの大修理で、俺の持っていた「特異な力」は、全てあの人形に注ぎ込まれ、使い果たしてしまったのだ。あるいは、聴診器そのものが寿命を迎えたのか。
「……商売道具が、壊れちまったな」
俺は苦笑した。
「これじゃあ、もう『道具医』の看板は下ろさなきゃならん」
これでただの修理屋だ。もう、奇跡のような診断はできない。
だが、えまは俺の背中から抱きつき、明るい声で言った。
「いいじゃないですか。凄腕の職人さんには変わりないんですから」
彼女の手が、俺の胸に触れる。
「それに、もう道具の声を聞かなくても、私の声がいっぱい聞こえるでしょう?」
俺は彼女の手を握り返した。
不思議と、喪失感はなかった。
あの人形を完璧に直した達成感と、これからの生活を支える十分な報酬、そして何より、隣にいる温かい存在。
「そうだな。……それに、これからは赤ん坊の泣き声がうるさくなるかもしれないしな」
「えっ……?」
えまが顔を赤くする。
俺は壊れた聴診器を引出しの奥にしまい、店のブラインドを開けた。
まぶしい朝日が差し込んでくる。
「開店だ、えま。今日は普通の時計の電池交換から始めよう」
沈黙堂の新しい一日が、賑やかに始まった。
(完)
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