バンコクの夜を貫くラチャダーピセーク通り。その一角に、それは現れた。

タクシーの車窓から見えた瞬間、私は思わず息を呑んだ。日本の郊外にある大型パチンコ店など比較にならない。まるでラスベガスのカジノか、あるいは国立劇場か。黄金色にライトアップされた巨大な神殿のような建物が、夜の闇を傲慢なほどに照らし出している。

そこは、この街で知らない者はいないと言われる超有名なマッサージパーラーだった。

「本当に、ここに入るのか……」

車を降りると、熱帯特有の湿った風が頬を撫でた。併設されたライブ会場からは、タイのポップスが重低音を響かせて漏れ聞こえてくる。着飾った男女が笑い合い、高級車が次々とエントランスに吸い込まれていく。そのあまりの「ハレ」の舞台の眩しさに、私は自分が着ているビジネスシャツの襟が、ひどく薄汚れているような錯覚に陥った。

境界線上の逡巡
35歳。独身。 日本では中堅社員として、効率と数字ばかりを追い求めてきた。会社都合で命じられたこの出張でも、平日は現地のスタッフと納期を巡って神経を削り、休日はホテルとオフィスの往復だけで終わる。

そんな乾いた日常の延長線上に、この「快楽の迷宮」はあまりにも不釣り合いに思えた。

入り口付近には、重厚な制服を着たドアマンが立っている。一度あの扉を押し開ければ、そこには「客」と「キャスト」という、あまりにも記号化された関係性が待っている。言葉も通じない、文化も違う。ただ金を払い、束の間の体温を買い取るだけのことだ。

「……何やってるんだ、俺は」

自嘲気味に呟きながらも、足は動かなかった。帰ってホテルの薄暗い部屋で、コンビニのシンハービールを飲むだけの夜に戻るのか。それとも、この非現実的な光の渦に身を投じるのか。

ポケットの中で、現地通貨の分厚い束に触れる。 この街の熱気に当てられたのか、あるいは、日本で積み重ねてきた「正しすぎる生活」に対する、ささやかな反逆だったのかもしれない。

私は意を決し、自動小銃のような冷気を吐き出すエントランスへと、一歩を踏み出した。

重厚な扉の向こう側には、外の喧騒が嘘のような、静謐でいて濃密な空気が流れていた。高い吹き抜けのロビー、大理石の床。そして正面には、この城のメインステージとも言える、あの「ガラス張りのひな壇」が鎮座していた。

圧倒されて立ち尽くす私に、スーツを端正に着こなしたマネージャーが、手慣れた様子で近づいてきた。

「いらっしゃいませ。まずは、あちらをご覧ください」

彼が示す先、巨大なシアターのようなガラスの向こう側には、百人近い女性たちが、雛人形のように整然と座っていた。しかし、それは決して一様な集団ではない。彼女たちが着ているドレスの色や、胸元のプレートの番号によって、残酷なまでに明確な「階級」が付けられていた。

「システムをご説明します。あちらのグループは……」

マネージャーの指が、ひな壇を区分けするように動く。

「一番下の段、あちらはスタンダードなグループです。2,500バーツ(約1万円)。初めての方でも気軽に楽しめます。その上の段、少し華やかなドレスを着ているのがモデル・クラス。3,500バーツになります」

彼の説明は、まるでホテルのルームカテゴリーを案内するように事務的で、それゆえに生々しい。

「そして、一番上。あちらの特別席にいるのが『スーパーモデル』や『タレント』と呼ばれるクラスです。5,000バーツ(約2万円)からとなりますが、容姿もサービスも最高級です。お時間はすべて一律で二時間、お風呂とマッサージが含まれております」

35歳の独身男性にとって、2,500バーツも5,000バーツも、決して払えない額ではない。しかし、こうして「女の価値」を値段という数字で突きつけられると、日本での誠実な倫理観が音を立てて崩れていくような感覚に陥る。

「……なるほど」

私は短く答えるのが精一杯だった。 2,500バーツの素朴な笑顔、3,500バーツの洗練された美貌、そして5,000バーツの、こちらの魂まで見透かされそうな傲慢なまでの瞳。

ひな壇の女性たちは、時折こちらを向いては、営業用の微笑みを投げかけてくる。私は、品定めをする側の優越感よりも、自分の人生の虚無を値踏みされているような、奇妙な居心地の悪さを感じていた。

「お決まりですか? それとも、もう少し近くで見ますか?」

マネージャーの催促に、私は意を決して、光輝くガラスの檻へと歩み寄った。

マネージャーに促され、私はガラスの数メートル手前まで歩み寄った。 これだけの人数に一斉に見つめられると、まるで自分が全裸で舞台に立たされているような、奇妙な逆転現象を覚える。

視線をどこに置いていいか分からず、彷徨わせた私の目が、最上段の「特別席」で止まった。

そこに彼女はいた。

他の女性たちが談笑したり、手持ち無沙汰に爪を眺めたりしている中で、彼女だけが背筋を伸ばし、凛とした空気を纏っていた。深いスリットの入った、夜の海を思わせる紺碧のドレス。そして、私の視線に気づいた瞬間、彼女はゆっくりと、完璧な角度で微笑んだ。

それは、教育され、研ぎ澄まされた「5,000バーツの微笑み」だった。

プロとしての演技。ビジネスとしての歓迎。 そんなことは、35年も生きていれば嫌というほど解る。日本での仕事柄、接待で銀座のクラブへ行くこともあった。女の微笑みの裏側に、勘定書とタクシー代の計算が隠れていることくらい、百も承知だ。

だが、今の私には、その「質の高い嘘」が必要だった。 異国の地で、会社という組織の歯車として削り取られた自尊心を、一時的にでも修復してくれる、誰かの温もり。それが対価と引き換えの演技であったとしても、今の私には救いのように思えたのだ。

「……あの子だ」

私は、彼女を指さした。自分の声が、思ったよりも掠れていたことに驚く。

「301番ですね。ありがとうございます。素晴らしい選択ですよ」

マネージャーが無線で指示を飛ばす。 すると、ガラスの向こう側で彼女が静かに立ち上がった。座っていた時には分からなかったが、驚くほどスラリとした、無駄のない肢体。彼女はもう一度、今度は少しだけ親密さを混ぜたような笑みを私に投げかけ、ひな壇の裏側にある通路へと消えていった。

「それでは、お部屋へご案内します。お連れ様がすぐに参りますので」

重厚な絨毯が敷かれた廊下を進みながら、私は自分の心臓の音が、ライブ会場の重低音のようにドクドクと響いているのを感じていた。

「その前に、お会計を」

部屋の入り口でマネージャーに促され、私は財布から5,000バーツを差し出した。さらに「ワンドリンク制です」と言われ、一番高いシンハービールを注文する。この贅を尽くした空間で、金銭の授受だけが妙に現実的で、私はどこか事務的な気分でサインを済ませた。

しかし、扉が閉まり、歯磨きを終えた彼女が私の手を取った瞬間、その事務的な冷ややかさは霧散した。

「マイペンライ(大丈夫よ)」

彼女は私の耳元でそう囁くと、滑らかな手つきで私の服を解いていく。 ジャグジーの湯船には、溢れんばかりの白い泡が躍っていた。彼女の白い肌が泡の中に沈み、私の体と重なり合う。石鹸の香りと、彼女自身の甘い体温が混ざり合い、私の五感を麻痺させていく。

泡の向こうから伸びてきた彼女の指が、私の首筋をゆっくりと這う。そのまま、泡の膜越しに私の敏感な部分に触れてきた。まるで水の底から這い上がってくる幻のように、とろけるような熱と柔らかさが、私の感覚を根こそぎ奪っていく。

指先が肌を滑るたび、日本で固く凍りついていた何かが溶け出していくようだった。35歳の男が背負っている責任も、孤独も、この泡の中では何の価値も持たない。ただ、彼女の柔らかな曲線と、時折漏れる吐息だけが、今の私の世界のすべてだった。

ジャグジーから上がると、濡れたままの体で彼女は私を大きなベッドへと誘った。 照明はさらに落とされ、部屋には二人の吐息だけが響く。彼女は肌に残った水滴を拭うこともなく、そのまま私の上に乗り上げてきた。

肌と肌が触れ合うたび、甘い摩擦が全身を駆け巡る。 そして、その最中だった。

私の視界が、彼女の艶やかな黒髪に遮られた、その一瞬。 いつの間にか、彼女はコンドームを取り出し、それを熱を持った私の性器に、しなやかな舌使いで装着していたのだ。あまりに自然で、あまりに滑らかに。私はそのプロフェッショナルな所作に、驚きよりも、むしろ恍惚とした魅力を感じていた。

彼女は「5,000バーツのプロ」として、私の欲望の輪郭を丁寧になぞり、完璧なリズムでそれを満たしていく。時に激しく、時に優しく、私の奥底に眠っていた本能を容赦なく呼び覚ます。その激しい動きの中で、彼女がふと見せる「素」の表情……苦しげに目を閉じる瞬間や、私の肩に食い込む指先の力強さに、私はこれが単なる商売以上の何かであると信じたい衝動に駆られた。

汗ばんだ体で横たわる私たちの元に、控えめなノックの音が響いた。 注文していたビールが届いたのだ。

彼女はシーツを体に巻き付け、小走りでドアまでそれを取りに行く。戻ってきた彼女の手には、キンキンに冷えたシンハービールのボトルと、氷の入ったグラスがあった。

「お疲れさま」

彼女がタイ訛りの英語で言い、グラスにビールを注ぐ。 黄金色の液体の中で、氷がカランと涼しげな音を立てた。タイではビールに氷を入れる。最初は抵抗があったその飲み方も、今の火照った体には驚くほど心地よかった。

私たちは、キングサイズのベッドの端に並んで座り、一本のビールを分け合った。 さっきまでの激しい熱狂が嘘のように、部屋には穏やかな沈黙が流れている。彼女は私の肩に頭を預け、手持ち無沙汰にグラスの中の氷を指で回していた。

「日本、寒い?」

彼女の不意の問いかけに、私は少し考えてから答えた。 「ああ、今はとても寒いよ。……でも、ここは暑いね。いろんな意味で」

彼女は意味がわかったのか、わからなかったのか、ただクスクスと笑い、私の空いた方の手をそっと握った。その手は小さく、そして驚くほど温かかった。
気づけば、二時間の魔法は解けようとしていた。 氷の溶けきったビールの空き瓶が、ベッドサイドのサイドテーブルで結露に濡れている。彼女は手際よく着替えを済ませ、さっきまでの妖艶な「301番」から、バンコクの街角を歩いていてもおかしくない、どこか幼さの残る一人の女性に戻っていた。

「楽しかった? お兄さん」

彼女が髪をかき上げながら、微笑む。 その笑顔は、ひな壇で見せた完璧な営業用とも、情事の最中の熱っぽい吐息とも違う、どこか放課後の友人同士のような、あっさりとしたものだった。

私は日本から持ってきたままの財布を開いた。 タイバーツの持ち合わせも少なくなっていたが、それ以上に、何か特別なものを渡したいという、35歳らしい不器用な見栄があった。

「これ……チップ。相場が分からなくて悪いんだけど」

私は千円札を二枚、折りたたんで彼女の手のひらに握らせた。 タイでのチップの相場が100バーツや200バーツであることは、風の噂で聞いていた。2,000円。今のレートなら500バーツ近い。しかも、それが日本円であることに、どれほどの価値があるのかは分からない。

ただ、日本から来た私が、今ここで出せる精一杯の「誠意」の形だった。

「ワオ、ジャパニーズ・イェン?」

彼女は目を丸くして、千円札に描かれた野口英世の肖像をまじまじと見つめた。 「ジャパニーズ・マネー、ハッピーよ。ラッキーアイテム。ありがとう」

彼女は本当に嬉しそうに、その紙幣を大切にポーチの奥へと仕舞い込んだ。その様子を見て、私は胸の奥の支えが少しだけ取れたような気がした。

部屋を出て、冷房の効いた廊下を歩く。 エントランスまで送ってくれた彼女は、最後に「また来てね。次はもっと練習しておくから」と、茶目っ気たっぷりにウインクをした。歯を磨いていたあの瞬間から、別れ際の日本語混じりの挨拶まで。そのすべてが、一時の契約に基づいた幻影だ。

だが、重いガラスの扉を押し開き、再び熱帯の湿った夜風に包まれたとき、私の心は数時間前よりも少しだけ軽くなっていた。

見上げる夜空には、都会の光に打ち消されそうな星がいくつか瞬いている。 明日からはまた、納期と会議に追われる「中堅社員」の日々が始まる。この2,000円分の感謝が、彼女の明日を少しでも彩ることを願いながら、私は客待ちのタクシーに手を挙げた。

バンコクの夜は、まだ始まったばかりのように騒がしかった。


タクシーがホテルの車寄せに滑り込む。会社が用意してくれたのは、バンコクでも指折りの五つ星ホテルだった。 重厚なユニフォームを着たベルボーイに会釈され、高速エレベーターで最上階に近いスイートルームへ向かう。カードキーをかざして重い扉を開けると、そこには一人で過ごすには広すぎる、冷徹なまでに完璧な空間が広がっていた。

ふかふかの絨毯、夜景を一望できる全面ガラス張りのリビング。 だが、先ほどのマッサージパーラーでの、あの氷がカランと鳴ったビールの安らぎ、彼女の手の温もりを思い出すと、この豪華な静寂がひどく寒々しく感じられた。

「……まだ、寝るには早いな」

私はネクタイを緩め、ふとチェックイン時に渡されたパンフレットを思い出した。そこには『エンターテインメント・カラオケバー』の文字があった。

日本の「カラオケ」を想像しながら、私は着替えることなく再びエレベーターに乗り込んだ。

扉の向こうに広がっていたのは、日本の「カラオケ」という言葉から連想される、あの明るい個室や場違いな演歌の響く喫茶店とは、似ても似つかぬ空間だった。

そこは、深い闇と極彩色のライティングが交錯する、広大なラウンジだった。 日本のカラオケ喫茶のように客がステージを見つめる椅子が並んでいるのではない。壁際に沿って、重厚な革張りのボックス席が、まるで中世の貴族の議席のようにいくつも並んでいるのだ。

「こちらへどうぞ」

案内されたボックス席に深く腰沈めると、正面の巨大なモニターには、知らないタイの歌謡曲が音を消して流れていた。この場所では、歌は主役ではない。あくまで、背景に流れる装飾に過ぎないのだ。

そして、そのシステムの決定的な違いは、席に着いてすぐに現れた。

「こんばんは。お疲れさまです」

スタッフの合図とともに、十人ほどの女性たちが、私のテーブルを囲むように一列に並んだ。 マッサージパーラーのひな壇はガラス越しの「展示」だったが、ここは違う。彼女たちは私のすぐ目の前、手を伸ばせば触れられる距離で、一人一人が品定めをされるのを静かに待っている。

「……二人、隣へ」

私は喉の渇きを覚えたまま、そう告げた。 すると、選ばれた二人の女性が、左右から吸い付くように私の隣へ滑り込んできた。

右側からは、スリットの深く入ったチャイナドレス風の彼女が、慣れた手つきで私のグラスにジョニーウォーカーの黒ラベルを注ぐ。左側からは、肩を大胆に露出した彼女が、私の腕にそっと自分の腕を絡めてくる。

左右を彼女たちに「はびこらせる」この感覚。 ボックス席という閉鎖された空間、そして自分の両脇を固める柔らかな体温と、甘い香水の香り。それは、日本の郊外でパチンコを打ち、深夜のコンビニで弁当を買っていた生活には存在し得なかった、圧倒的な「支配者」としての錯覚を抱かせた。

「お兄さん、歌わないの? 日本の歌、たくさんあるよ」

左側の彼女が、タイ語訛りの柔らかな日本語で囁く。 彼女の指先が、私の膝の上で円を描くように動く。ここでは、歌うことよりも、こうして彼女たちの身体的な距離の近さを楽しむこと、そして対価として酒を振る舞うことが正解なのだ。

スイートルームの静寂から逃げてきたはずの私は、気づけば、マッサージパーラーの熱狂よりもさらに濃密で、逃げ場のない甘い罠にどっぷりと浸かっていた。

三杯目のウイスキーがグラスの中で氷を鳴らす。 「指」という私の名前を呼ぶ彼女たちの声が、重低音のビートに溶けて、私は自分がバンコクに「仕事」で来たことさえ、一瞬だけ忘れようとしていた。
左右に座った二人の女性は、驚くほど対照的だった。

右側に座ったのは、隙のない美しさを湛えた「こぎれいなお姉さん」だった。 タイの夜を何年も泳いできたであろうベテランの風格。彼女は私が何かを口にする前に、私の視線の先にあるもの……灰皿や、空きかけたグラス、あるいは少しの緊張……を察知し、完璧なタイミングで動く。

「お兄さん、お仕事大変だったでしょ? 飲んで、忘れて」

彼女は私の耳元で囁きながら、吐息を吹きかけるようにグラスを差し出してきた。その仕草一つ一つに、計算し尽くされた官能が宿っている。彼女が私の太ももにそっと置いた手のひらは、適度な厚みと温かさがあり、男の扱いを熟知している者の安心感があった。

対して、左側に座ったのは、今にも消えてしまいそうなほど「うぶな新人」だった。 おそらく、地方から出てきて間もないのだろう。ドレスはどこか着慣れていない様子で、私の腕に絡める指先も、小刻みに震えているのが伝わってくる。

彼女は、ベテランの彼女が軽妙に繰り出す日本語のジョークに、ただぎこちなく合わせるだけだ。

「……名前、なんていうの?」

私が左側の彼女に問いかけると、彼女はびくりと肩を揺らし、蚊の鳴くような声で名前を教えてくれた。その瞳は、マッサージパーラーの彼女たちが見せていた「商売の目」とは違い、不安と期待が入り混じった、剥き出しの生々しさがあった。

「この子、今日が初めてに近いんです。お兄さん、優しくしてあげてね」

ベテランの彼女が、私をその気にさせるように笑いながら、新人の子の肩を抱く。 熟練のテクニックで私の欲望をリードする右側と、その未熟さゆえに守ってあげたいという本能を刺激する左側。

私は、35歳という年齢が持つ「大人の余裕」と「青臭い感傷」のちょうど中間地点で、激しく揺れ動いていた。

ベテランの彼女がジョニーウォーカーをグイと煽り、新人の彼女が私のグラスに氷を足す。その二つの体温に挟まれながら、私はスイートルームの贅沢な孤独よりも、このベルベットのソファで味わう「偽りの家族」のような、歪んだ安らぎに溺れていくのを感じていた。

「レディ・ドリンク、いい?」

ベテランの彼女が、攻め時を見極めたような鋭い笑顔でねだる。 新人の彼女は、ただ黙って、潤んだ瞳で私を見つめていた。

ジョニーウォーカーの氷が、グラスの底で小さく砕けた。

右隣ではベテランの彼女が、次のボトルを開けさせようと巧みな言葉で誘惑を続け、左隣では新人の彼女が、その未熟な体温を寄せてきている。男として、これ以上の「贅」はないはずだった。

だが、私の体は、自分が思っている以上に限界を迎えていた。 数時間前に味わったマッサージパーラーでのあの激しい熱、5,000バーツの彼女が口でつけた避妊具の冷たい感覚、そしてシンハービールの喉越し。それらの記憶が、ウイスキーの酔いと混ざり合い、脳裏で重たい澱(おり)のように沈んでいる。

「……今日は、ここまでにしよう」

私がそう告げると、ベテランの彼女は一瞬だけ驚いたような目を見せたが、すぐにプロの微笑みに戻った。

「あら、もう帰っちゃうの? つまんない」

その拗ねたような言葉も、どこまでが演技でどこからが本音かはわからない。私は財布から、彼女たちのドリンク代と、少し多めのチップをテーブルに置いた。新人の彼女は、ようやく緊張が解けたのか、それとも名残惜しいのか、私の袖を少しだけ強く握りしめた。

「ごめん。今日は本当に疲れ切っていて……。また、明日来るよ」

そう言って立ち上がろうとした私の腕を、不意に強い力が引き止めた。 右隣のベテランの彼女だった。彼女は私の耳元に顔を寄せ、シャンパンの香りが混じった熱い吐息とともに、逃げ場のない言葉を投げかけてきた。

「お兄さん、本当に一人で寝るの? あんなに広いスイートルームで?」

彼女の視線は、私のポケットから覗くルームキーのカードに向けられていた。 この店の、そしてこのホテルの最大の「特徴」を、私は失念していたわけではない。気に入った女性がいれば、相応の対価(ペイバー)を店に支払い、そのまま自分の部屋へと連れて行くことができる。外の店のようにタクシーで移動する手間さえない。エレベーターのボタン一つで、夜の続きを自室へ持ち込めるのだ。

私は、左隣の新人の子を見た。 彼女は相変わらず黙ったままだったが、私が「帰る」と言った瞬間、その潤んだ瞳に明らかな落胆の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。

疲れは確かにあった。だが、それ以上に「このまま広い部屋で一人、天井を見つめて朝を待つ」という行為の虚しさが、急激に重くのしかかってきた。

「……彼女を、連れて行けるか」

私が指差したのは、右隣のベテランではなく、左隣で震えていた新人の子だった。

ベテランの彼女は、一瞬だけ悔しそうな顔をしたが、すぐに「やっぱりね」と悪戯っぽく笑った。「いい選択よ。この子、お兄さんのこと気に入ってるみたいだから」

「……二人とも、連れて行く」

私の言葉に、テーブルの空気が一瞬で凍りつき、直後に熱を帯びて弾けた。 ベテランの彼女は、百戦錬磨の彼女にしては珍しく、一瞬だけ呆然と私を見つめた。一方、新人の彼女は、意味が分かった瞬間に顔を真っ赤にして俯いた。

「お兄さん……本気? 二人よ?」

ベテランの彼女が、確認するように私の顔を覗き込む。 「ああ。一人を選ぶなんて、今の僕にはできそうにない」

私はそう言って、マネージャーに追加のペイバー代を告げた。 カードを切る手は、もはや震えていなかった。マッサージパーラーで始まったこの夜は、もはやブレーキの壊れた急斜面を転がり落ちるように、加速していくしかなかった。


ホテルの静かな廊下を、三人の足音が不規則に刻まれる。 右側に、香水の匂いを漂わせ、堂々と胸を張って歩くベテランの彼女。左側に、私の歩幅に合わせるように、おどおどとついてくる新人の彼女。

エレベーターの鏡の中に、二人の美貌のタイ人女性を「はびこらせた」自分の姿が映る。日本のオフィスで、パソコンの画面と格闘していた男と同じ人物とは、到底思えなかった。

チーン、という電子音とともにスイートルームの階に到着する。 カードキーを差し込み、重い扉を開け放った。

「うわあ……すごい……」

新人の彼女が、リビングから見える180度のパノラマ夜景に、思わず感嘆の声を漏らした。一方、ベテランの彼女は、慣れた手つきでミニバーを開け、グラスを三つ取り出した。

「お兄さん、とりあえず、もう一度乾杯しよ? 部屋でのパーティーの始まりよ」



スイートルームの静寂は、濃密な官能の教室へと変わっていた。

キングサイズのベッドの上、私は仰向けになり、左右から包み込む二人の体温に身を委ねていた。そこで明かされた事実に、私は酔いが一気に吹き飛ぶような衝撃を受けた。

「この子、実はまだ……本当の男の人を知らないの。今日がお兄さんで、本当にラッキーね」

ベテランの彼女が、慈しむような、それでいてどこか残酷な微笑みを浮かべて囁いた。左側にいる新人の彼女は、顔を真っ赤にして、壊れそうなほど細い指でシーツの端を握りしめている。

それは、現代のバンコクにおいて、そしてこの華やかな夜の世界において、奇跡に近い「純潔」だった。

「大丈夫、私が教えてあげるから。お兄さんのことも、あなたのことも」

ベテランの彼女の言葉は、まるで厳かな儀式を執り行う司祭のようだった。彼女は新人の子の背中を優しく押し、私の上に跨るように促した。

戸惑い、震える新人の彼女。そのぎこちない動きを、ベテランの彼女が背後からサポートしていく。どこに手を置き、どう体を動かし、男が何を求めているのか……。耳元で囁かれるその「指導」は、私にとっても、これ以上ないほど煽情的なスパイスとなった。

「……痛くないから、力を抜いて」

ベテランの指が、新人の彼女の強張った体を解きほぐしていく。 そして、ついにその瞬間が訪れた。

新人の彼女が小さく悲鳴のような吐息を漏らし、私の肩に爪を立てる。その痛痒い刺激とともに、彼女の人生における「初めて」が、私という異国の男の中で溶けていった。ベテランの彼女は、その様子を満足げに眺めながら、私の胸元を愛おしそうに撫でていた。

それは、単なる性愛を超えた、奇妙な連帯感だった。 経験豊かなお姉さんが、うぶな妹分を大人の世界へと引き入れ、その中心に私が座っている。35歳、独身。日本での平穏な日々では決して出会うことのなかった、あまりにも濃密で、あまりにも幸運な「儀式」。

やがて訪れた絶頂の瞬間、私は二人の女性を同時に抱き寄せた。 新人の彼女の流した一筋の涙が私の胸に落ち、ベテランの彼女の勝利を確信したようなキスが私の唇を塞ぐ。

「コープクン・カ(ありがとう……)」

新人の彼女が、震える声で初めて私と目を合わせた。その瞳には、先ほどまでの不安ではなく、一人の女性として目覚めたばかりの不思議な光が宿っていた。

私は天井を仰ぎ、深く息を吐き出した。 会社都合のタイ出張。孤独を埋めるために足を踏み入れた夜の街。 そこで手にしたのは、あまりにも重く、そして美しい、一生忘れることのできない「ラッキー」だった。

遮光カーテンの隙間から、容赦のない熱帯の陽光がナイフのように差し込み、スイートルームの重厚な空気を切り裂いた。

枕元で鳴り響くスマホのアラーム。その無機質な音で目を覚ました瞬間、全身を襲ったのは、鉛のような気怠さだった。35歳の肉体にとって、一晩に凝縮されたあの狂熱は、心地よさを通り越して明らかな過負荷(オーバーロード)となっていた。

隣を見れば、昨夜の残像がそこにあった。 一人は、シーツを抱きしめて熟睡しているベテランの彼女。そしてもう一人は、私の気配に気づいたのか、眩しそうに目を細めて微かに微笑む「昨日大人になった」彼女。

「……モーニング」

新人の彼女が、掠れた声で小さく囁いた。その声を聞いた瞬間、昨夜の「儀式」が夢ではなかったことが、生々しく脳裏に蘇る。しかし、それと同時に、脳の片隅では今日提出しなければならない報告書と、午前10時のミーティングの予定が、冷徹にカウントダウンを始めていた。

「ああ、おはよう。……行かなきゃいけないんだ」

私は重い腰を上げ、バスルームへと向かった。 熱いシャワーを浴びながら、首筋に残ったわずかな香水の匂いを洗い流す。鏡に映った自分の顔は、ひどく疲れ果ててはいたが、どこか憑き物が落ちたような、不思議と澄んだ目をしていた。


部屋に戻ると、二人はすでに身支度を整え始めていた。 私は、昨夜の対価とは別に、彼女たちに感謝を込めたチップを渡した。新人の彼女の手に触れるとき、昨夜の震えとは違う、確かな温もりを感じた。

「お兄さん、仕事頑張って。また夜にね」

ベテランの彼女が、いつものプロの顔に戻ってウインクをする。 彼女たちは、嵐のように部屋を去っていった。数分前まで三人の体温で満たされていたスイートルームは、再び静まり返り、冷房の微かな稼働音だけが響いている。

私は、クリーニングの効いた真っ白なワイシャツに袖を通し、ネクタイを締めた。 鏡の前で襟を正すと、そこにはもう「二人の女性を侍らせた男」ではなく、日本の看板を背負って戦う「35歳のビジネスマン」が立っていた。

重いビジネスバッグを手に取り、部屋の扉を閉める。 エレベーターを降り、ロビーに出ると、そこにはすでにタイの日常が動き出していた。騒がしいトゥクトゥクの音、鼻を突くスパイスの香り、そして行き交う人々のエネルギー。

「……さて」

私は眩しさに目を細めながら、オフィスへと向かうタクシーを止めた。 昨夜の出来事は、誰にも話すことのない、この街に置いていく秘密。 だが、シャツの奥に隠された肩の爪痕だけが、私がこの熱帯の夜に確かに「生きていた」ことを、チリチリとした痛みとともに教えてくれていた。
          完

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