海影



🌸 第1章:潮風と忘れ物
主人公の女性は、大学を卒業したばかりで、就職活動に疲れ、自分探しの旅に出たえま(22歳)。男性は画家である指(30代後半)。
その日、えまは島で最も有名な、潮風が吹き抜ける古い美術館を訪れていました。昼過ぎ、少し疲れて美術館に併設された小さなテラスカフェで休憩していると、不注意からカバンから大切なものが滑り落ちてしまいます。

カフェ「潮の音」のテラス席は、木漏れ日と潮風が心地よかった。えまは、アイスティーを飲みながら、ぼんやりと海を眺めていた。都会の騒音がないことに、心底ホッとしていた。

(ここへ来て、やっと自分に戻れた気がする。)

立ち上がって会計を済ませようとした時、肘がカバンに引っかかり、中に入れていた祖母から譲り受けた古いペンダントが床に滑り落ち、テラスの木製デッキの隙間に入り込んでしまった。

「あっ!」

えまは慌ててしゃがみ込みますが、隙間は指が入らないほど細い。焦燥感が募ります。それは、旅に出る際も肌身離さず持ってきた、彼女にとって最も大切な「お守り」でした。

どうしようもないと諦めかけたその時、隣の席から、落ち着いた低い声がかけられました。

「それ、失くしては困るものですか?」

声の主は、隣のテーブルでスケッチブックを広げていた男性でした。年齢はえまより少し上の30代後半でしょうか。彼は島の風景に溶け込むような、洗いざらしの白い麻シャツを着ており、強い日差しを避けるためか、浅くニット帽を被っています。

彼は、スケッチブックをそっと閉じると、持っていた細いデッサン用のペンを取り出し、それを器用に使ってデッキの隙間からペンダントのチェーンを引っ掛けようとしています。

そして、数秒の集中と静かな作業の後、チェーンは引き上げられ、ペンダントは男性の開いた手のひらに乗せられました。

「これですね。危ないところでした。」

えまは安堵と感謝で胸がいっぱいになり、深々と頭を下げました。

「ありがとうございます!本当に助かりました。これは私にとって……大事なもので」

男性はペンダントをえまに返し、穏やかな眼差しで言いました。

「この島には、昔から『大事なものは、海に持っていかれないように気をつけろ』という言い伝えがあるんですよ」

そして、彼は立ち上がり、えまの目を見て穏やかに尋ねました。

「もしよろしければ、もう少し海風が静かな場所まで、ご案内しましょうか?…私は、 **指(ユビ)**といいます。」

えまは、その名前が珍しいと感じつつも、彼の落ち着いた声と優しい眼差しに、警戒心を解いていました。

「ありがとうございます。私は、えまです。ええと、では、お言葉に甘えて……。」

彼は軽く頷き、えまを島の中心部とは反対方向の小道へと導きました。そこは、石畳が続き、両脇には古民家が軒を連ねる静かな裏通りです。潮風は穏やかになり、代わりに古い醤油蔵の香りが微かに漂います。

歩きながら、えまは尋ねました。

「あの、指さんは、この島の方ですか?」

諭は振り返らず、ゆっくりと答えました。

「私は、画家です。この島にある古い工房で、制作活動をしています。」

彼は、廃墟に近いような古い木造の建物の前で立ち止まりました。引き戸には錆びた鍵がかかっていますが、その横には、真新しい墨で書かれた小さな木札が下がっていました。

『海景アトリエ 指』

「普段はあまり人の目に触れないようにしているのですが。今、少し手が空いたので。どうぞ、中へ。」

彼は慣れた手つきで鍵を開け、えまを促しました。

アトリエの中は、外の光景とは打って変わって、雑然としながらも静謐な空気に包まれていました。壁には、海や空をモチーフにした、鮮烈な青や、霞がかった灰色が大胆に使われた抽象画が何枚も立てかけられています。絵の具の匂いと、微かな木の香りが混ざり合っています。

諭は、部屋の隅にある小さな丸椅子をえまに勧め、自身は窓際に寄りかかりました。

「失礼ですが、えまさんは、この島に旅行でいらしたのですよね?」

「はい。東京でずっと忙しくしていて、急に休みを取って逃げてきました。携帯も切って、デジタルデトックス中です」とえまは正直に言いました。

指は、その言葉を聞いて静かに微笑みました。

「それは賢明な判断です。この島は、流れが速いものから逃れるには、最高の場所ですから。…でも、逃げてばかりでは、またすぐに疲れが溜まってしまう。絵えまさんの表情には、まだ少し、都会の焦りが残っていますよ。」

彼の言葉は、まるで彼女の心を見透かしているようで、えまはドキッとしました。彼は責めるような口調ではなく、ただ事実を優しく指摘しているだけです。

「…そうかもしれません。まだ、頭の中が仕事のことでいっぱいで」

指は、ふと窓の外の、静かに波打つ海に目を向け、ぽつりと言いました。

「疲れた時は、まず、指先を見るんです。…何にも触れていない、素の自分の指先を。」

「この島では、潮の満ち引きのように、時間は戻らないけれど、必ず循環している。そう思うと、焦らなくて済むでしょう?…よかったら、もう少し、ここで静かにしていきませんか。」

指は、イーゼルにかかっていたキャンバスをそっと布で覆い隠しました。彼の目的は、えまを観光に連れ出すことではなく、彼女が真に求めている静けさを提供することだと、えまは悟りました。

えまは丸椅子に座り、窓から見える、太陽に照らされた波の煌めきをじっと見つめました。ユビは、何も言わずに隣で立っているだけです。

この数分の静寂が、東京での数ヶ月の忙しさよりも、ずっと彼女の心を深く癒やしていくのを感じました。

突然、えまは顔を上げ、指に尋ねました。

「あの…、指さんは、なぜ画家になろうと?」
沈みゆく夕日を静かに見つめました。茜色に染まった空は、壮大でありながら、どこか優しさに満ちています。

えまは、口を開きました。

「…私、指さんの話を聞いて、少し気が楽になりました。私、就職活動に失敗して、自分が何をしたいのか、わからなくなって。東京での生活が、すごく怖くなっちゃったんです。」指は、真っ赤な空を見つめたまま、静かに答えます。

「怖がる必要はありませんよ、えまさん。22歳で、自分が何をしたいか知っている人なんて、ほとんどいません。それに、東京での仕事に価値がないわけではない。ただ、その価値を誰かの基準で決めている間は、必ず苦しくなる。」

彼は初めて、えまの方に顔を向けました。琥珀色の瞳が、夕日の残光を浴びて、深く輝いています。

「私は以前、成功を目指して、自分の指先から生み出すもの全てを、数字という名のデジタルな情報に変換しようとしました。でも、本当に大切なのは、この夕日の色のように、データにできない美しさを、自分で感じ取ることだった。」

「データにできない美しさ…」「ええ。えまさんはウェブデザイナーを目指していたんでしたね。あなたのデザインは、誰の指先に届くのでしょう。そして、それはどんな感情を運ぶのでしょう。そのことだけを、考えていればいい。」

指は、自分の手のひらにある、絵の具で微かに汚れた指先を見つめました。そして、そっとえまの髪にかかった潮風を、優しく払いのけました。

その瞬間、二人の間に流れていた空気は、師弟のようなものから、何か別の温かいものへと変わったように、えまは感じました。

「指さんは…、もう一度、東京へ戻りたいとは思いませんか?」えまは、勇気を出して尋ねました。

指は穏やかに笑い、首を横に振りました。

「この島で、私はようやく、自分の**『始まりの場所』**を見つけました。もう、二度と誰かのために急ぐ必要はない。ただ、この指で、描きたいものを描くだけです。」

そして、彼は、今度は少し茶目っ気のある表情で、えまに尋ねました。

「夕日を見ていると、お腹が空きませんか?もしよければ、今から島の名物料理を食べに行きませんか。…もちろん、私の奢りで。」

えまは、大きく笑いました。この旅に来て、初めて心からの笑みがこぼれた気がしました。

「はい!ぜひ!」

第3章:二人の距離

二人は高台を降り、島の中心街にある、地元の人が集う小さな居酒屋へ入りました。島の新鮮な魚料理に舌鼓を打ちながら、二人はさらに多くの時間を共有します。

指は、えまの夢や不安を真摯に聞き、えまは指の芸術に対する情熱と、過去の挫折から立ち直った強さに惹かれていきます。

夜も更け、居酒屋を出る頃、指はえまを彼女が泊まっている民宿まで送っていきました。
民宿の入り口で、二人は別れの挨拶を交わします。

「今日は、本当にありがとうございました。指さんと話せて、なんだか、明日からもう少し頑張れる気がします」と、えまは心から感謝を伝えました。

指は、柔らかい夜の光の中で、優しく微笑みます。

「それはよかった。では、おやすみなさい、えまさん。」

指が背を向け、数歩歩き始めた、その時。えまは、衝動的に、彼の背中に向かって声をかけました。

「あ、指さん!あの…」

指は立ち止まり、振り返ります。夜の闇の中、彼の琥珀色の瞳が、月明かりを反射して光っています。

えまは、自分の行動が理性を超えていることを自覚しながらも、一歩踏み出し、彼の名をもう一度、切なさを込めて呼びました。

「指さん!」

次の瞬間、えまは走って彼の背中に飛びつきました。

彼女の細い腕が、彼の白い麻のシャツの上から、彼の胴を強く抱きしめます。指の体温と、絵の具と潮の匂いが混ざった彼の独特の香りが、えまの全身を包み込みました。

「ごめんなさい…!でも…っ」

えまは、言葉にできない感情を、抱きしめる力に変えていました。それは、都会での孤独、未来への不安、そしてこの島で出会った彼に対する、戸惑いと感謝と、抗いがたい惹かれの全てでした。

指は、一瞬戸惑ったものの、抵抗することなく、静かにその場に立っていました。やがて、彼はゆっくりと、自分の両手をえまの腕の上に重ねました。

「えまさん…」

彼の声は、囁くように優しく、しかしどこか切ない響きを帯びていました。

「私、指さんと出会って、今日一日で…ずっと蓋をしていたものが、全部、溢れちゃったんです。怖かったんです。自分が本当に何がしたいのか、このまま流されていいのかどうか、わからなくて…」

彼の胸に顔を埋めたまま、えまは震える声で告白しました。

指は深く息を吐き出すと、重ねた手を優しくほどき、えまの体をそっと自分から離しました。彼は無理に彼女を遠ざけるのではなく、彼女の顔をしっかりと見つめられる距離に立たせました。

「えまさん、あなたはとても正直な人だ。22歳で、そこまで自分の心と向き合えるのは、素晴らしいことですよ。」

指は、自分の指先で、えまの頬に伝う涙をそっと拭いました。その指の感触は、荒々しい芸術家のそれではなく、繊細で温かいものでした。

「あなたは今、立ち止まることをこの島で選びました。それでいい。焦って先に進もうとしなくていい。もし、どうしても不安なら、この島にもう少し滞在して、ゆっくり考えてもいい。…そして、もしよければ、明日、もう一度アトリエに来てください。」

彼はそう言って、優しく微笑みました。彼の微笑みは、彼女の衝動的な行動に対する肯定と、未来への希望を与えてくれるものでした。

「この島で…あなたの描きたいものを、見つける手伝いをさせてください。私がキャンバスでやっているように、あなたの人生の素描を、一緒に描いてみませんか。」

えまは、涙を拭い、強く頷きました。

「はい、行きます。明日、また、アトリエに…」

その瞬間、二人は旅の途中の見知らぬ同士ではなく、互いの人生に深く関わり始めた、運命的な存在になったことを確信しました。

指は、えまの肩を優しく抱き寄せると、今度こそ静かに別れを告げ、夜の闇へと消えていきました。
🌙 第4章への導入
次の日、えまはアトリエへ向かいました。

二人は、人生の素描を始めるかのように、スケッチブックを広げ、指はえまにデッサンの基本を教え始めます。指の指導は厳しくも優しく、えまは夢中で筆を動かしました。

昼食は、指が作ったシンプルな島の食材を使ったパスタ。共に過ごす時間の中で、二人の間には、年齢や過去の隔たりを超えた、強く深い愛慕の情が生まれていました。

しかし、えまの旅は終わりを迎えます。そして、指は島を離れられないという事情を抱えています。
💔 第4章:海を越える約束
えまの旅の最終日。

アトリエの大きな窓から、きらきらと輝く海が見えます。今日で、彼女はこの島を離れ、東京へ戻らなければなりません。アトリエの片隅には、えまがこの数日間で描いた、ぎこちないけれど力強いデッサンが並んでいます。

指は、彼女のために煎れたハーブティーをテーブルに置き、静かに向かい合いました。二人の間に流れる空気は、出会った日とは比べ物にならないほど濃密で、そして切ないものでした。

「もうすぐ、船の時間ですね」と、指が口を開きました。

えまは、潤んだ瞳を上げ、首を横に振りました。「帰りたくないです。指さんと離れたくない」

この数日間、彼との対話、彼から教わった芸術と人生の哲学、そして彼の温かい指先に触れた瞬間々々が、えまの心を完全に変えてしまいました。彼女は、もはや自分が東京で目指していた仕事が、本当にやりたいことなのか分からなくなっています。

指は、えまの小さな両手を優しく包み込みました。

「私も、正直に言えば、あなたを帰したくない。初めて、この島での静かな生活が、寂しいと感じています」

彼の言葉に、えまは涙がこみ上げました。

「でも、えまさん。あなたはまだ22歳。あなたの人生は、まだ始まったばかりです。今のあなたは、私という逃げ場があるから、東京の怖さに立ち向かえないのかもしれない。」

指は真剣な瞳でえまを見つめました。

「あなたは東京へ戻り、そこで一度、戦ってみてください。以前のあなたのように、誰かの基準ではなく、あなた自身の指先が本当に創造したいものは何かを、仕事を通して見極めてほしい。」

「でも、もし、そこで頑張れなかったら…」

「頑張れなかったら、またここへ来ればいい。挫折した私という先例が、ここで筆を持って待っている。それも、あなたの人生の素描の一部です。」

彼は、えまの手を強く握りしめました。

「約束しましょう、えまさん。私も、この島で、私が描くべき最後の作品を完成させます。それが完成したとき、私はあなたに、あなた自身の居場所がどこにあるのかを、問いかける。それまでは、互いの場所で、精一杯生きるんです。」

それは、愛の告白であり、未来への挑戦状でした。

別れの時が迫り、二人はフェリー乗り場へと向かいました。

船の汽笛が鳴り響きます。

「指さん、私、連絡先も知りません」と、えまは慌てて尋ねました。

指は、にっこりと笑いました。

「私のアトリエの木札に、島の郵便局の私書箱の住所を書いています。手紙を出してごらんなさい。…SNSやメールでは届かない、あなたの本当の想いが、この島には必要だ。」

彼はそう言って、優しくえまの額に口づけをしました。それは、短いながらも、別れを惜しむ、大人の愛情が詰まったキスでした。

「行ってらっしゃい。そして、自分の描きたいものを見つけなさい、えまさん。」

えまは、船に乗り込み、彼の姿が見えなくなるまで、何度も何度も手を振りました。

🚢 エピローグ
三ヶ月後。

東京の喧騒に戻ったえまは、小さなデザイン会社に就職しました。毎日が目まぐるしく過ぎていきますが、以前のような焦りはありません。

残業で疲れても、彼女は机に向かうたびに、**「自分の指先」**が今、何を生み出しているのかを意識しました。

そして、週末には、彼女は必ず指に手紙を書きました。デジタルとは違い、自分の文字と、インクの匂い、そして島の切手を貼ることで、彼と繋がっていると感じられました。

「指さん。東京は相変わらず早くて、時々息苦しくなります。でも、あなたが教えてくれた『データにできない美しさ』を、私は毎日探しています。今日、初めて、本当に自分が納得のいくデザインができました。いつか、この成果を、指さんに見てもらいたい…」

ある日、えまのアパートのポストに、小さな封筒が届きました。

差出人は、「海景アトリエ 指」。

中には、瀬戸内海の青い潮風の香りがする、薄い和紙が折りたたまれていました。

そこに書かれていたのは、短い、たった三行のメッセージでした。

『海景。完成。』

『いつ、この島へ戻ってきますか?』

『待っています。』

その手紙を読んだ瞬間、えまは涙を流しました。

それは、彼との再会、そして、彼女自身の新しい人生の始まりを告げる合図でした。えまは、すぐに会社に休みを申請し、最も早い新幹線のチケットを予約しました。

彼女の胸には、もう迷いも、都会の焦りもありませんでした。彼女の心は、すでに、あの小さな島と、琥珀色の瞳を持つ画家の元へと、飛んでいたのです。

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