『「50」十六歳、風と秘密の合宿免許』
2026/01/16(金)
十六歳の誕生日の朝、俺は役所に届けられたばかりの住民票を握りしめ、震える指で合宿免許の予約ボタンを押し込んだ。
指という自分の名前が、なんだかひどく頼りなく思えていた。クラスの男子たちが「昨日、彼女とどこそこに行った」だの「どこまで済ませた」だのと、嘘か真か分からない武勇伝を語り合う昼休み。俺はいつも輪の端っこで、スマートフォンの画面を眺めるふりをしてやり過ごしてきた。十六年という月日は、俺にとってはただ積み上がっただけの空白だった。
「自分を変えるには、物理的な距離が必要だ」
そう思い立って、親には「就職にも役立つから」と頭を下げた。アルバイトで必死に貯めた貯金は、手数料を含めて綺麗になくなった。
一週間後、俺は鈍行列車を乗り継ぎ、山を二つ越えた先にある地方の教習所にいた。
教習所の送迎バスから降り立つと、そこにはガソリンの匂いと、焼け付くようなアスレチックコースの熱気が充満していた。並んだ教習車、聞いたこともないような爆音。宿舎のロビーには、金髪の大学生風の男や、地元のガテン系といった風貌の連中がたむろしている。
「……場違いだったかな」
重いリュックのストラップを強く握り直したその時、隣に同じバスから降りた影が並んだ。
「君も、十六歳?」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねた。振り向くと、そこには少し色褪せたデニムのジャケットを羽織り、髪を後ろで一つに結んだ女の子が立っていた。彼女の瞳は、これからの教習への緊張か、あるいは期待か、強い光を宿して俺を真っ直ぐに見ていた。
名前は美波というらしい。彼女の存在は、俺がこれから挑む「自分への挑戦」に、予期せぬ色彩を与えようとしていた。
俺の夏が、今、不器用なエンジンの始動音とともに動き出そうとしていた。
教習初日、貸し出されたヘルメットの重さは、俺の想像を遥かに超えていた。視界が急に狭くなり、自分の荒い呼吸音がシールドの内側にこもる。
「おい、指。まずは跨ってみろ」
指導員のぶっきらぼうな声に急かされ、俺は教習車であるホンダのCB400の隣に立った。鉄と油の塊のような、巨大な獣に見えた。跨がろうとした瞬間、車体の重さに振られ、危うく反対側に倒れそうになる。必死に踏ん張った足が小刻みに震えた。
「……重い」
思わずこぼれた本音を、隣のレーンにいた美波に聞かれた気がして、俺は慌てて前を向いた。彼女はすでにバイクに跨り、タンクを挟み込む「ニーグリップ」の姿勢を完璧にこなしていた。
教習の第一関門は、エンジンをかけることではなく、倒れたバイクを引き起こす「引き起こし」だった。二百キロ近い鉄の塊は、地面に吸い付いたように動かない。全身の筋肉が悲鳴を上げ、顔が真っ赤になる。何度も諦めそうになったが、ここで逃げたら、一生あの教室の隅っこにいる「指」のままだ。
「腰を入れて、一気に!」
指導員の怒号が飛ぶ。俺は目を閉じ、奥歯を噛み締めて地面を蹴った。ずるりと重みが浮き上がり、ようやくバイクが垂直に戻った。その瞬間、手のひらに伝わってきた確かな手応えは、今までゲームのコントローラーを握って得てきたものとは、全く質の違う「現実」の重みだった。
実技の時間が終わり、ヘルメットを脱ぐと、髪は汗でぐっしょりと張り付いていた。 「お疲れさま。大変だったね」 いつの間にか隣に来ていた美波が、自販機で買ったばかりのスポーツドリンクを俺の頬に押し当てた。冷たさに肩が跳ねる。
「……見てたの?」 「うん。倒れそうになった時、ちょっとハラハラした。でも、最後はちゃんと起こしてたじゃん」
彼女が少しだけ悪戯っぽく笑う。その笑顔は、教習所の殺風景なコースの中で、不自然なほど鮮やかに見えた。
「明日は、いよいよ走るんだよね。……ねえ、指くん。もしよかったら、この後ロビーで一緒に学科の予習しない?」
彼女からの誘いに、俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。童貞を卒業するとか、そういう具体的な目的以前に、自分の知らない世界へと繋がるクラッチを、今まさに繋ごうとしている感覚がした。
「……うん、行く」
不器用な返事しかできなかったが、俺の足取りは、教習前のそれよりも確実に軽くなっていた。
宿舎のロビーは、日中の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。自販機の低い駆動音だけが響く中、俺と美波は片隅の円卓に教科書を広げた。
「ここ、難しくない? 標識の意味が似てて、どっちがどっちだか分からなくなっちゃう」
美波がシャーペンの先で指したのは、追い越し禁止の標識だった。彼女が身を乗り出すたびに、石鹸のような、少しだけ甘い香りがふわりと鼻先をかすめる。学校の教室では決して味わうことのない、密室に近い距離感に、俺の心臓は学科試験の制限時間よりも早く鼓動を刻んでいた。
「あ、それはこっちの斜線がある方が……」
俺は必死に冷静を装いながら、暗記してきた知識を絞り出した。自分の声が上擦っていないか心配だったが、美波は「へえ、すごい。物知りなんだね」と、素直な感嘆の声を上げた。
その一言だけで、今まで暗記してきた無機質な交通ルールが、急に価値のあるものに変わった気がした。誰かの役に立つ。誰かに認められる。そんな当たり前のことが、十六歳の俺にはひどく新鮮だった。
勉強の合間、ふとした拍子に会話が途切れた。窓の外では街灯がポツンと山道を照らしている。
「指くんはさ、なんでバイクに乗ろうと思ったの?」
美波が頬杖をつきながら、真っ直ぐに俺を見た。その瞳に映る自分を見て、俺は一瞬言葉に詰まった。「童貞を卒業したいから」なんて、口が裂けても言えない。
「……自分に、自信がないからかな」
嘘ではなかった。 「今まで、ずっと何かの後ろに隠れて生きてきた気がして。でも、バイクなら、自分の力でどこにでも行ける気がしたんだ。誰のせいにもしないで、自分の足で……いや、自分のハンドルでさ」
不器用な言葉だったが、美波は笑わなかった。彼女は少しだけ寂しそうな、それでいて優しい表情で頷いた。
「わかるよ。私も、自由になりたいんだ。窮屈な場所から、全部脱ぎ捨てて走っていける場所に行きたい。……私たち、似てるのかもね」
彼女の細い指先が、テーブルの上で俺の手のすぐ近くに置かれた。触れそうで触れない距離。指の先が熱い。今、この瞬間の空気を壊したくなくて、俺は動くことができなかった。
「ねえ、明日、一本橋の練習があるでしょ? あれ、一緒に合格しようね」
美波が小さく小指を立てた。俺は戸惑いながらも、自分の小指を彼女のそれに絡めた。ひんやりとした彼女の指の感触が、電気のように全身を駆け巡る。
それは、教科書には載っていない、十六歳の俺が初めて体験する「繋がりの予感」だった。
小指を絡めたまま、どちらからともなく視線が絡まった。静まり返ったロビーで、時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く。
「……ねえ、指くん。ここだと他の人に見られちゃうかも」
美波が声を潜めて囁いた。彼女の指先が、俺の小指を離して手のひらを優しくなぞる。その熱っぽさに、俺の頭の中は真っ白になった。彼女は立ち上がり、「行こう」と短く促した。
向かったのは、宿舎の屋上へと続く非常階段だった。立ち入り禁止の立て札があったが、彼女は慣れた手つきで重い扉を押し開けた。
屋上に出ると、山の夜風が火照った頬を撫でた。見上げれば、都会では決して見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの星空が広がっている。
「ここ、昨日見つけたんだ。特等席でしょ?」
美波はコンクリートの縁に腰を下ろし、隣を叩いた。俺はおそるおそる、彼女との距離を数センチ空けて座る。
「……怖くないの? こういうところ」 「一人なら怖いかも。でも、今は指くんがいるから」
彼女は膝を抱え、遠くの街明かりを見つめた。 「私ね、本当は怖かったんだ。合宿に来るのも、バイクに乗るのも。でも、指くんが一生懸命バイクを引き起こしてるのを見て、あ、私も頑張らなきゃって思ったんだよ」
不器用で、冴えない自分を見て、誰かが勇気をもらっていた。その事実は、どんな褒め言葉よりも深く俺の胸に突き刺さった。
「美波さん……」
俺が名前を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。月光に照らされた彼女の唇が、微かに震えているのが分かった。沈黙が、重たい空気となって二人を包み込む。
どちらから動いたのかは分からなかった。ただ、気づいた時には、彼女の肩が俺の胸元に触れていた。俺は震える手で、彼女の細い肩を抱き寄せた。彼女の体温が、服を透かしてダイレクトに伝わってくる。
「……指くん、心臓、すごい音してる」
彼女が小さく笑い、俺の胸に顔を埋めた。俺はその柔らかな重みを受け止めながら、これが夢ではないことを祈った。童貞を卒業したいという焦燥感は、いつの間にか消えていた。ただ、この瞬間を、この温もりを、一生忘れたくないという切実な願いだけがそこにあった。
「ねえ、明日、一本橋に合格したら……もっと、わがまま言ってもいい?」
美波が顔を上げ、俺の瞳をじっと覗き込んだ。至近距離で見つめ合う二人の影が、月明かりの下で一つに重なろうとしていた。
美波の吐息が、俺の首筋にかかる。その熱が、夜風に冷やされた肌をじりじりと焼くようだった。
「わがまま、って……」
俺の声は情けないほど掠れていた。彼女は答えの代わりに、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。その拍子に、彼女の指先が俺の肌に触れる。学校の椅子に座っているだけでは決して知り得なかった、他人の体温の生々しさに、頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。
「指くん、ここ……誰も来ないよ」
彼女が顔を上げると、潤んだ瞳が月の光を反射して、吸い込まれそうなほど綺麗だった。俺は、これまで臆病だった自分をすべて屋上の隅に脱ぎ捨てるような気持ちで、彼女の頬に手を添えた。
初めて触れる女の子の肌は、信じられないほど柔らかくて、ひんやりとしているのに奥底には熱を孕んでいた。俺の手の震えは彼女にも伝わっていただろう。それでも美波は逃げることなく、俺の指先に自分の手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。
重なり合った唇からは、かすかにスポーツドリンクの甘い味がした。
不器用で、ぎこちないキスだった。鼻がぶつかりそうになり、お互いに一瞬息が止まる。けれど、二度目に触れ合った時、俺たちの境界線は溶けるように曖昧になった。
彼女の背中に回した腕に力を込めると、美波は小さく吐息を漏らし、俺の首に腕を回してきた。コンクリートの硬い感触も、遠くで響くトラックの走行音も、すべてが遠い世界の出来事のように思えた。今、この屋上の上だけが、俺たちに残された唯一の現実だった。
「……指くん、あったかいね」
彼女が耳元で囁く。その言葉に背中を押されるようにして、俺は彼女のシャツのボタンに指をかけた。一つ、また一つと外れるたびに、十六歳の俺が握りしめていた「空白」が、確かな「経験」へと書き換えられていく。
月明かりの下、白い肌が露わになる。それは芸術品のように美しく、同時に目を背けたくなるほど官能的だった。
「怖い……?」 彼女の問いに、俺は首を振った。 「ううん。……ただ、君を壊しちゃいそうで」 「バカだね、指くん。バイクを引き起こせたんだから、私だって支えられるでしょ」
美波が少しだけ悪戯っぽく、けれど慈しむような笑みを浮かべた。
その夜、俺は童貞という名前の孤独な自分を卒業した。山の静寂に包まれながら、俺たちは初めて互いのすべてをさらけ出し、混ざり合った。痛みも、快楽も、それ以上に心を満たしていく圧倒的な充足感も。
翌朝の教習が始まる頃、俺たちが昨日までと同じ自分ではないことを、コースの誰も知らない。ただ、俺の指先にはまだ、彼女の髪の匂いと、確かな肌の感覚が刻まれていた。
朝の光は残酷なほど眩しかった。昨夜、屋上の闇の中で交わした体温が嘘のように、教習所のコースは乾いた砂埃とエンジンの咆哮に支配されていた。
「一本橋」――。幅三十センチ、長さ十五メートル、高さわずか五センチの細長い鉄板の上を、大型バイクなら七秒以上、中型なら七秒以上かけて、できるだけゆっくりと渡り切らなければならない。脱輪すればその瞬間に検定中止となる、教習生たちの「墓場」だ。
俺はスタートラインで息を整えていた。ヘルメットの中で汗が額を伝う。視線の先では、美波が先に一本橋へと挑もうとしていた。
「次、美波。行け」
指導員の合図とともに、彼女がクラッチを繋いだ。慎重に前輪を橋に乗せる。昨夜、あんなに大胆に俺を導いてくれた彼女の手が、今はハンドルを握りしめて微かに震えているのが遠目にも分かった。
中盤に差し掛かった時だった。不運にも、隣のコースで急制動の練習をしていた別のバイクが、派手なロック音とともにスリップした。その鋭い音に、美波の肩がびくりと跳ねる。
バランスが崩れた。前輪が橋の縁を叩く。
「あ……」
俺の喉から声が漏れた。彼女の体が右側に傾く。倒れる。そう思った瞬間、俺は無意識にバイクから飛び降りていた。
「美波! 遠くを見て!」
俺の叫び声が、エンジンの音を切り裂いた。彼女の視線が、落ちていく前輪から一瞬だけ上がり、俺の目とぶつかった。
彼女は歯を食いしばり、必死にリアブレーキを踏み込んだ。低速でふらつく車体を、ニーグリップで無理やり抑え込む。一瞬、車体が左右に大きく揺れたが、彼女は最後の一メートルを執念で走り抜け、脱輪することなく橋を降りた。
「……指くん」
バイクを止めた美波が、震える手でシールドを上げた。その目は少しだけ潤んでいたが、すぐに強い光を取り戻した。
「おい、指! 勝手にバイク降りるんじゃねえ!」 指導員の怒声が飛んできたが、俺は気にしなかった。美波が小さく頷き、ヘルメット越しに指で「Vサイン」を作ったのが見えたからだ。
次は俺の番だった。 「いいか、指。橋の上じゃなくて、その先の出口を見るんだ。美波が見てただろ」 指導員が珍しく低い声でアドバイスをくれた。
俺は再びバイクに跨り、クラッチを握った。不思議と緊張はなかった。橋の向こう側で、美波がじっと俺を見守っている。昨夜、彼女の肌の温もりを知ったこの手が、今は鉄の塊を御するための精密な道具に感じられた。
「行くぞ」
俺はアクセルをわずかに開け、橋の上に飛び乗った。
卒業検定当日、コースには独特の緊張感が漂っていた。 俺の目標は「7秒以上」。だが、昨夜の屋上で美波と交わした約束、そして一本橋での彼女の粘りを見て、俺は自分にさらなる負荷をかけていた。
「指、スタートしろ」
検定員の合図。俺はCB400のエンジンを唸らせ、一本橋へと前輪を滑り込ませた。 視線は遠く、橋の先にある青い空へ。リアブレーキを引きずり、クラッチを細かく繋ぎ直す。 1、2、3……心の中で刻むカウントは、昨夜、彼女の心音を聞いていたリズムと同じだった。
4、5、6……。 車体が左右に微細に揺れる。ハンドルを小刻みに切り、バランスを保つ。 7、8、9。 普通二輪の合格ラインは超えた。だが、俺はまだ降りない。大型免許の基準である「10秒」という壁を、今の自分なら超えられる気がした。
「……10」
静かに橋を降り切った時、検定員の持つストップウォッチは10.8秒を指していた。 「粘りすぎだ」と後で小言を言われたが、その顔はどこか満足げだった。
検定の結果は、二人とも「合格」。
合宿所の最寄り駅。夕暮れに染まるホームで、俺たちはそれぞれ別の方向へ向かう電車を待っていた。 「本当に、行っちゃうんだね」 美波が、少しだけ大きなサイズのライダーズジャケットの袖をいじりながら言った。
「あの日、屋上で言ったこと、忘れてないよ」 俺は、自分でも驚くほど真っ直ぐに彼女の目を見て答えた。 「免許証を手に入れたら、すぐにバイクを買う。それで、あの海沿いのカフェまで行くよ。今度は合宿所のバスじゃなくて、自分のハンドルを握って」
美波は一瞬驚いたように目を見開き、それから最高の笑顔で頷いた。 「10秒以上粘った指くんなら、きっとすぐだね。……待ってるよ。今度は、ヘルメット越しじゃなくて、もっと近くで会おうね」
電車のベルが鳴り、彼女は駆け出した。閉まるドアの向こう側で、彼女の唇が「またね」と動いた。
一ヶ月後。 俺は、潮風の香る国道を走っていた。 中古で購入した400ccのエンジンは、決して静かではないけれど、俺の鼓動と完璧に同調している。 ヘルメットの中で、俺は一人で笑った。
十六歳の夏。俺は童貞を卒業し、孤独だった自分を卒業した。 そして今、バックミラーに映る自分は、もう誰かの後ろに隠れるだけの少年ではない。 目的地のカフェが見えてくる。そこには、懐かしい色のデニムジャケットを着た女の子が、こちらに向かって大きく手を振っていた。
アクセルを少しだけ開き、俺は彼女の元へと滑り込んだ。
海沿いのカフェで再会した俺たちは、どちらからともなく「もっと遠くへ行こう」と決めた。
美波のバイクはメンテナンス中とのことで、今日は俺のバイクに二人乗りする「タンデムツーリング」だ。後ろに座る美波の手が、俺の腰をぎゅっと回る。その感体温がライダージャケット越しに伝わるたび、エンジンの鼓動が自分の心臓と混ざり合うような錯覚に陥った。
「指くん、もっとスピード出してもいいよ」
ヘルメット越しに聞こえる彼女の声。俺は慎重にアクセルを開けた。一人で走る時とは全く違う、後ろにかかる重み。それは守るべきものの重さだった。
数時間走り続け、空が紫色のベールに包まれる頃、俺たちは街外れにあるネオンの灯った建物――ラブホテルの前にいた。
正直に言えば、怖かった。16歳のガキがバイクでこんな場所に入って、フロントで止められたりしないだろうか。警察を呼ばれたりしないだろうか。足がすくみそうになった時、後ろの美波が俺の背中にそっと顔を埋めた。
「大丈夫だよ……行こう?」
意を決して、スロープを駆け上がる。 バイク専用の駐輪スペースに滑り込み、エンジンを切った。周囲は静まり返り、ただエンジンの熱気がチリチリと音を立てている。
驚いたことに、そこには誰もいなかった。 最近のラブホテルは自動精算機やパネル操作が主流で、スタッフと顔を合わせる必要すらない。バイクで入る時も、車と同じようにセンサーが反応し、シャッターが降りるだけ。
ヘルメットを被ったままパネルを操作し、部屋を選ぶ。フルフェイスのシールドは、俺たちの幼い顔を隠す完璧な仮面になっていた。
部屋に入り、重厚な扉が閉まった瞬間、世界から切り離されたような沈黙が訪れた。 ヘルメットを脱ぐと、美波の髪が静電気でふわりと広がった。
「……本当に、入れたね」
俺の声が、少しだけ震えていた。美波はいたずらっぽく笑って、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
「バイクって便利だね。ヘルメットしてれば、誰だか分からないし。……それに、ここに来る人たちはみんな、他人のことなんて気にしないよ」
彼女がベッドの端に腰を下ろす。合宿所の屋上での、あの不器用な夜とは違う。今は、広いベッドと、清潔なリネンと、誰にも邪魔されない時間が二人分用意されている。
俺は美波の隣に座り、まだ少し冷えている彼女の手を握った。 「指くん、今日は……朝まで一緒にいられるね」
バイクという翼を手に入れた俺たちは、大人たちのルールをすり抜け、誰も知らない場所へとたどり着いた。16歳の夜は、まだ始まったばかりだった。
重い遮光カーテンの隙間から、わずかに差し込んだ白っぽい光が、ホテルの部屋の空気に漂う微細な埃を照らしていた。
枕元に置いたスマートフォンの画面を叩くと、時刻は午前4時を過ぎたところだった。俺たちは、どちらからともなく起き上がり、昨夜の余韻が残る静寂の中で、黙々とライダージャケットに袖を通した。
「……帰らなきゃね」
美波が少し眠そうな声で呟く。鏡の前で髪を結い直す彼女の横顔は、昨日の朝よりも少しだけ大人びて見えた。
自動精算機に、アルバイトで貯めた万札を吸い込ませる。ガコンという無機質な音とともに、俺たちの「秘密の時間」の決済が終わった。駐車場に降りると、夜露に濡れた愛車が青白く光っている。
エンジンを始動させる。静まり返った早朝の街に、400ccの重低音が響き渡る。昨日までの俺なら、この音に怯えていたかもしれない。でも今は、この音が自分たちを現実の世界へと送り届けるファンファーレのように聞こえた。
国道に出ると、大型トラックが数台、猛烈な勢いで追い抜いていった。 「寒い?」 俺が尋ねると、後ろの美波は首を振って、俺の腰を抱く力を強めた。
「ううん。この風を浴びると、ちゃんと現実に戻っていく感じがする」
街灯が一つ、また一つと消えていく。空の端が白み始め、深い紺色が薄い水色に溶けていく「マジックアワー」の中を、俺たちはひた走った。
自分の家の近く、少し離れたコンビニの角で、俺はバイクを止めた。ここから先は、それぞれの「日常」が待っている。
「指くん」
バイクを降りた美波が、ヘルメットを脱いで俺を呼び止めた。 「また、行こうね。今度はもっと遠くの、誰も知らない街まで」
彼女はそう言い残すと、朝日を背に受けて歩き出した。一度も振り返らなかったのは、きっと照れくさかったからだろう。
俺は一人、再びエンジンを回した。 自宅の駐輪場に滑り込み、エンジンを切る。静まり返った家の中からは、まだ親の寝息が聞こえてくる。
靴を脱ぎ、自分の部屋のベッドに倒れ込むと、体中に染み付いたガソリンと潮風、そして彼女の香りが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを証明していた。
十六歳の朝帰り。 俺の手のひらには、クラッチを握り続けた鈍い痛みと、確かな人生の手応えが残っていた。 窓の外では、新しい一日が、何も知らずに始まろうとしていた。
完
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