『百合という女』
その会社に就職したばかりの僕は、常に緊張して、自分の足元すらおぼつかない状態だった。そんな時、隣の部署にいたのが百合さんだった。
百合さんは僕より十三歳年上で、落ち着いた色のカーディガンをいつも羽織っていた。 ミスをして縮こまっている僕に、彼女は「私も最初はそうだったわよ」と、ただ一度だけ、短く、でも温かい言葉をかけてくれた。お節介ではなく、必要な時にだけ差し出される彼女の親切は、砂漠で飲む水のように僕の心に染み込んだ。
彼女には子供がいなかった。 旦那さんは長く糖尿病を患っていて、家ではずっと「妻」というよりは「介護者」としての顔を強いられていた。当然、夫婦の営みなんて、もう何年も、あるいは十数年も前から、彼女の生活からは消え失せていた。
僕たちは会社で仲が良かった。 お昼休みに少しだけ世間話をしたり、残業中に差し入れを交換したり。でも、それ以上の関係にはならなかった。彼女は常に、見えない一線を自分の周りに引いていた。
一度だけ、その線が消えかけたことがあった。
会社の飲み会の帰り道、駅までの少し暗い道で二人きりになった。 百合さんは少しだけお酒が入っていて、いつもより足取りが危うかった。 「大丈夫ですか」 僕が彼女の腕を支えたとき、その体があまりに細くて、驚いた。
百合さんは立ち止まり、僕を見上げた。 街灯の光の下で、彼女の瞳が揺れていた。家へ帰れば、病んだ夫と、それを見守るだけの冷え切った夜が待っている。彼女が、ふっと僕の方へ重心を預けてきた。
僕の胸に、彼女の額が当たる。 彼女の指が、僕のコートの袖をぎゅっと掴んだ。 言葉はなかった。でも、彼女が何を求めているのか、そして何を恐れているのか、触れた場所から伝わってくるようだった。
僕は彼女の肩に手を回そうとした。 ここで抱きしめてしまえば、きっとそのまま、彼女を連れてどこかへ行けたはずだ。
「……あ、電車」
百合さんが、小さく呟いた。 駅のホームに滑り込んでくる電車の音が聞こえた瞬間、彼女は僕の腕からふわりと離れた。 さっきまでの、縋るような空気は一瞬で消えていた。
「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
彼女は、いつもの「親切な百合さん」の顔に戻って、一度も振り返らずに改札へと消えていった。
結局、僕たちが肌を重ねることは、後にも先にもその一度きりの未遂さえなかった。 僕はただ、彼女の引いた線の外側で、彼女が背負っているものの重さを眺めていることしかできなかった。 それは、いつも通りの、何の変哲もない仕事終わりのことだった。 先に会社を出たはずの百合さんが、駅へ向かう途中の薄暗い路地裏で、ポツンと一人で立っていた。
「百合さん? どうしたんですか、こんなところで」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。 街灯に照らされたその顔は、幽霊のように白く、何かにひどく絶望しているようにも、すべてを諦めたようにも見えた。
「……帰りたくないの」
彼女の口から漏れたのは、いつもの穏やかな親切心とは正反対の、剥き出しの言葉だった。 糖尿病を患う夫が待つ、インスリンの匂いと食事制限の会話しかない、あの静まり返った家。子供もいない、将来への希望もない、ただ「介護」という義務だけが積み重なった部屋。
「百合さん、」 「もう限界なの。……ねえ、お願い。どこでもいいから、連れて行って」
彼女は僕の答えを待たなかった。 震える指先で僕の手を掴むと、そのまま自分の方へと引き寄せた。 あんなに頑なに守っていた「一線」を、彼女自身が足蹴にして、僕の領域へと踏み込んできた。
僕たちは、言葉を失ったまま、近くの古いビジネスホテルへと向かった。 チェックインを済ませ、部屋のドアが閉まった瞬間。鍵が回る乾いた音が、静かな廊下に響く。
照明も点けない暗い部屋の中で、百合さんは僕の首筋に顔を埋めた。 彼女の肩が激しく震えている。泣いているのかと思ったが、そうではなかった。彼女は、飢えていたのだ。
「私、ずっと怖かった。……あなたに触れたら、もう二度と、あっち側の世界には戻れなくなるって分かってたから」
彼女の指が、僕のシャツのボタンに掛けられる。 慣れない手つきだった。けれど、その指先には、十三年間の抑圧をすべて吐き出すような、凄まじい執念がこもっていた。
百合さんは僕の唇を塞いだ。 それは、かつて給湯室で交わした穏やかな会話とは無縁の、激しく、苦い、拒絶することのできない接吻だった。
「汚いって思ってもいい。……でも、今夜だけは。誰かの妻でも、看病係でもない、ただの私にして」
彼女の体温が、僕の理性を焼き切っていく。 一線を越えてきたのは、百合さんだった。 でも、その手を離さないと決めたのは、僕だった。
オフィスでの百合さんは、いつも清潔な石鹸の匂いがした。 糊のきいたブラウスの襟元を正し、後輩の僕に「無理しちゃダメよ」と微笑む彼女は、聖母のような慈愛に満ちていた。誰もが彼女を、穏やかで、満たされた生活を送る「良き先輩」だと思っていた。
けれど、ホテルの部屋で僕の前に立つ彼女は、まるで別人だった。
コートを脱ぎ、震える手でブラウスのボタンを外していく彼女から漂ったのは、清潔な石鹸の匂いではなかった。それは、湿った古びた家の匂い、湿布の匂い、そして……長年、女として誰にも触れられなかった肉体が放つ、焦燥感の混じった重い体臭だった。
「……見ないで。恥ずかしいから」
口ではそう言いながら、彼女の瞳は僕を離さなかった。 脱ぎ捨てられたブラウスの下から現れたのは、職場で想像していたような瑞々しい肌ではなかった。 重力に逆らえない胸のラインや、旦那さんの介護で酷使したのか、節の目立つ指先。お腹周りには、年齢相応の柔らかい肉がついていた。
その「生活」の跡が生々しく刻まれた身体を見て、僕は息を呑んだ。 それは、綺麗に飾られた「おばさん」という記号ではなく、孤独を耐え忍んできた一人の生身の女性の姿だった。
彼女が僕の腕の中に飛び込んできたとき、その激しさに圧倒された。 職場で見せる、あの丁寧で慎重な物腰はどこにもなかった。 彼女は僕の肩に歯を立て、獣のように低く唸り、しがみついてきた。
「ねえ、もっと……もっと強く。壊してもいいから」
普段、敬語で僕を導いてくれる彼女の口から漏れる、ひどく淫らで、なりふり構わない言葉。 旦那さんの前では「献身的な妻」を演じ、会社では「頼れる先輩」を演じてきた彼女が、そのすべての役割を脱ぎ捨てて、ただの肉塊となって僕を求めている。
その豹変ぶりは、恐ろしいほどだった。 僕が彼女の肌に触れるたび、百合さんは小さな悲鳴のような声を上げた。 十三年間、誰にも開けられなかった重い扉が、音を立てて壊れていく。
汗に濡れて張り付いた髪、化粧が落ちて露わになった目尻の皺。 そこにあるのは「綺麗な百合さん」ではなく、あまりにも無防備で、あまりにも醜悪で、そして、誰よりも愛おしい、一人の「女」だった。
正直に言えば、一瞬だけ、引きそうになった。
僕が憧れていた、あの凛として清潔な百合さんはどこにもいなかった。 ホテルの安っぽい蛍光灯の下で、彼女がさらけ出したのは、加齢による肌の質感や、介護で荒れた手、そして何より、僕にしがみついて離さないという、浅ましいまでの執着心だった。
彼女の指が、僕の背中を強く掻く。 「行かないで……私を、独りにしないで」 その声は、職場で聞いていたあの澄んだ声とは似ても似つかない、掠れた、老婆のような弱々しさを帯びていた。
幻滅した。 ああ、この人もただの、孤独に耐えられない、枯れかけた一人の女だったんだ。僕が勝手に作り上げていた、神聖なまでの「親切な百合さん」の虚像が、音を立てて崩れていく。
けれど、次の瞬間。 僕の心臓を支配したのは、冷めた感情ではなく、粘り気のある、黒い快感だった。
誰も知らない百合さんを、僕は知っている。 旦那さんも、会社のみんなも知らない、この無様な、なりふり構わない彼女を、僕だけが見ている。
彼女の目尻に刻まれた深い皺に指を這わせると、彼女は快楽とも恐怖ともつかない表情で身を震わせた。そのとき、僕の中で、憧れは完全に「支配欲」へと形を変えた。
(ああ、僕がこの人を汚したんだ)
あるいは、彼女が自分から汚れに来たのだ。僕という、十三歳も年下の、何の責任も負っていない若者の腕の中に。
「……百合さん。明日、会社に行ったら、またあの顔をするんですか」
僕は彼女の髪を少し強引に掴み、無理やり顔を上げさせた。 彼女は怯えたような、それでいて悦びに潤んだ瞳で僕を見つめる。
「無理……。もう、無理よ……」
彼女が崩れれば崩れるほど、僕は彼女を離したくなくなった。 綺麗な彼女なんて、もういらない。 僕が欲しいのは、この、絶望に塗れ、介護に疲れ、若さを妬み、それでいて僕にしか縋ることのできない、ボロボロになった「一人の女」だ。
一度知ってしまったこの澱みは、もう僕の体から抜けることはない。 翌朝、彼女がどんなに完璧な仮面を被って出社したとしても、僕はその下にある「腐りかけた甘い果実」を知っている。
その優越感が、僕をさらなる深みへと引きずり込んでいった。
あれから、五年が経った。
会社での僕たちは、驚くほど変わらない距離を保ち続けている。 百合さんは今も、少しだけ目尻の皺が増えたけれど、相変わらず清潔な石鹸の匂いをさせ、後輩たちに「無理しないでね」と穏やかに微笑んでいる。
彼女の旦那さんの病状は一進一退を繰り返し、彼女の生活からは相変わらず「女」としての色彩が排除されている。 でも、僕は知っている。 彼女が週末、時折見せるふとした虚脱感が、僕との密会の後に残る「澱(おり)」であることを。
僕たちは月に一度、決まった場所で会う。 場所は、あの時と同じ、安っぽいビジネスホテルだ。
部屋に入り、ドアの鍵を閉める。その瞬間にだけ、僕たちは「会社員」と「介護者」という重い皮を脱ぎ捨てることができる。 百合さんの身体は、五年という歳月を経て、さらに生々しく、そしてどこか枯れたような気配を帯びていた。 肌の張りは失われ、疲れは隠しようもない。 でも、僕はその衰えていく彼女の肉体を見るたびに、言葉にできないほど暗い悦びに浸るのだ。
「……ねえ、君はいつまで、こんな私の相手をしてくれるの?」
肌を重ねた後、百合さんは僕の腕の中で、いつも同じ問いを口にする。 彼女は僕の若さを眩しがり、同時に、いつか自分が捨てられることを確信している。その怯えたような、震える声を聞くのが、僕にとっては何よりの甘い蜜だった。
「百合さんが、僕なしでは生きていけなくなるまでですよ」
僕は彼女の細くなった首筋に顔を埋める。 そこには、あの清潔な石鹸の匂いなどない。介護と、生活と、そして僕という毒に侵された、一人の女の生臭い匂いだけがある。
僕たちは、互いを救おうとはしない。 彼女の家庭を壊すことも、僕が彼女を連れ去ることもない。 ただ、この薄暗い部屋の中で、お互いの孤独という傷口を舐め合い、また翌朝には「親切な先輩と部下」に戻っていく。
外の世界では、彼女は立派な妻であり、尊敬される上司だ。 でも、僕の腕の中では、彼女はただの、絶望した一人の女だ。
この歪んだ永続。 出口のない、静かな毒。
いつか彼女が本当の老婆になり、僕が中年と呼ばれる年になっても、僕たちはこうして、誰にも知られない場所で、お互いの人生を少しずつ削り合いながら生きていくのだろう。
百合さんは、僕の胸を掴む指に力を込めた。 その痛みこそが、僕たちがこの世界と繋がっている、唯一の、そして最後の証拠だった。
ついに、その日が来た。 百合さんが定年を迎える最後の日。
デスクを片付け、花束を抱えた彼女は、集まった社員たち一人ひとりに、あの日と変わらない穏やかな微笑みで挨拶をしていた。 「長い間、本当にお世話になりました」 その声は凛としていて、誰もが彼女を『円満に勤め上げた、立派な女性』として拍手で送り出した。僕もその中の一人として、適切な距離から、適切な拍手を送った。
彼女が僕の横を通り過ぎる瞬間、ふわりと、あの清潔な石鹸の匂いが鼻をかすめた。 それが、僕たちが共有してきた「公の顔」の、最後の欠片だった。
その夜。 僕たちはいつもの、あの古いビジネスホテルにいた。 部屋に入ると、百合さんは花束を無造作にベッドへ放り投げた。 定年を迎え、明日からはもう、誰も彼女を「部長」とも「先輩」とも呼ばない。彼女に残されたのは、病んだ夫の待つ家と、そして、十三歳年下の「執着」だけだった。
「終わっちゃったわね」 百合さんは鏡も見ずに、ブラウスのボタンを外した。 その肩は、僕が新人だった頃よりもずっと薄くなり、肌には隠しようのない時の重みが沈殿していた。
会社という舞台を失った彼女は、今や完全に、ただの「年老いた女」だった。 これまで僕たちの関係を支えていた『職場の背徳感』というスパイスは消え、そこには逃げ場のない、残酷なまでの現実だけが横たわっている。
「……これからは、毎日家にいるんですね」 僕が問いかけると、百合さんは自嘲気味に笑った。 「そうね。朝から晩まで、あの人の世話をして、数値に一喜一憂して……。私、本当にただの『おばあさん』になっちゃうのよ」
彼女は僕に歩み寄り、縋るように僕の胸に顔を埋めた。 幻滅は、さらに深まっていた。 若さを失い、肩書きを失い、生活の疲れだけを全身に纏った彼女。 でも、だからこそ。 僕は、彼女を離すことができなかった。 明日から会社で彼女の姿を探すことはない。 共有する「日常」は死んだ。 けれど、それゆえに、この窓のない狭い部屋だけが、僕たちの世界のすべてになったのだ。
「百合さん。明日からも、何も変わりませんよ」
僕は、彼女の白髪が混じり始めた髪を指でなぞった。 彼女がどれだけ老い、どれだけ無様になろうとも、僕は彼女の孤独を買い取り続けるだろう。それが、彼女への執着という名の、僕なりの「親切」だった。
窓の外では、夜の街が何事もなかったかのように動き続けている。 僕たちは、閉ざされた部屋の中で、消えることのない毒を分け合いながら、終わりのない停滞へと沈んでいった。
百合さんの定年の日は、僕たちの本当の「心中」が始まった日でもあった。完
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