えまの手


第1章 砕け散った静寂
その男の指先は、神に愛されていると言われてきた。
指宿(いぶすき)佑(たすく)――通称「ユビ」。
三十歳という若さで、古美術修復の世界においてその名を知らぬ者はいない。彼の手にかかれば、煤けた油彩画は描かれた当時の鮮烈な光を取り戻し、欠けた陶磁器は傷跡さえも美しい景色へと昇華される。
だが、今の彼の手にあるのは、絵筆でも彫刻刀でもない。
重厚な白い包帯と、固定具だった。

「全治二ヶ月。神経に損傷はないが、少しでも動かせば後遺症が残るぞ」
医師の無慈悲な宣告が、まだ耳の奥で反響している。
佑は診察室を出た廊下のベンチで、深いため息をついた。右手が使えない。それは修復士としての死を意味していた。少なくとも、この二ヶ月間は。
工房には、納期を控えた十七世紀の燭台が待っている。あれを放っておくわけにはいかないのに。
「あの……っ、指宿さん……!」
沈黙を破ったのは、涙でぐしゃぐしゃになった女の声だった。
隣に座る、小柄なスーツ姿の女。広瀬(ひろせ)えま。二十二歳。
今日の午後、佑の工房に「卒業論文の資料を見せてほしい」と訪ねてきた女子学生だ。

事の発端は、ほんの二時間前。
工房の雑然とした床に積まれた本に、彼女がつまずいたことだった。
彼女がバランスを崩した拍子に、棚の上にあった重いブロンズ像がぐらりと傾いた。その真下には、彼女の頭があった。
――危ない。
佑の身体は思考よりも速く動いていた。彼女を庇うように手を伸ばし、落下してくる凶器を、その「神の指」で受け止めたのだ。
鈍い衝撃音と、激痛。そして、床に滴り落ちた鮮血。
ブロンズ像も、彼女も無傷だった。佑の右手を除いては。

「ごめんなさい、ごめんなさい……! 私のせいで、私なんかのせいで……!」
えまは病院の廊下で、子供のようにしゃくりあげている。就職活動用の安っぽいリクルートスーツが、彼女の震えに合わせて小さく擦れる音がした。
「泣くな。うるさい」
佑は低く言った。怒っているわけではない。ただ、自分の不注意と不運に疲弊していただけだ。
「でも、商売道具なんでしょう? 大切な手なんでしょう? どうしたら……どうやって償えば……」
償う。
その言葉に、佑はふと顔を上げた。
目の前の女を見る。赤くなった目、整っていない髪、そして何より、自分を責め続ける真っ直ぐすぎる視線。
不器用で、危なっかしくて、放っておけない。まるで、持ち込まれる「壊れた美術品」のようだ。
佑の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
一人暮らしの洋館。使えない右手。山積みの家事と、止まったままの仕事。
彼は無傷の左手で、ポケットから鍵を取り出した。

「……金はいらない」
「え?」
えまが涙を止めて、きょとんとする。
「治療費も慰謝料もいらない。その代わり、契約しろ」
佑は、包帯で巻かれた右手を少し持ち上げて見せた。
「俺の手になれ。この右手が治るまで、俺の生活と仕事、そのすべてを君がやるんだ」

第2章 静寂の城、あるいは工房
病院を出てタクシーに乗り込むと、車窓を流れる景色は次第に賑やかな繁華街から、木々の茂る閑静なエリアへと変わっていった。
隣に座る指宿佑は、窓の外を眺めたまま一言も発さない。
膝の上に置かれた白い包帯の右手が、痛々しく視界に入るたび、えまの胃はきゅっと縮み上がった。
(どうしよう。とんでもないことになってしまった……)
就職活動に失敗し続け、自信を喪失していた自分。そんな自分が、まさか人の人生を――それも、こんな才能ある人の時間を奪ってしまうなんて。
車が止まったのは、古びたレンガ塀の前だった。

「着いたぞ」
佑が左手だけで器用に財布を取り出そうとする。えまは慌ててそれを制した。
「わ、私が払います! これくらいさせてください!」
「……勝手にしろ」
彼は短く言い捨てると、先に車を降りてしまった。

目の前に聳え立っていたのは、蔦(つた)の絡まる二階建ての洋館だった。
明治か大正の時代に建てられたような、重厚で、どこか人を拒むような雰囲気がある。
重い木製の扉を、佑が左手で押し開ける。
「お邪魔、します……」
恐る恐る足を踏み入れた瞬間、えまは鼻をかすめる独特な匂いに気づいた。
古い紙、乾いた油絵具、そしてニスや樹脂の匂い。
玄関ホールは吹き抜けになっていて、薄暗い空間に埃がキラキラと舞っている。まるでここだけ時間が止まっているようだった。

「一階の奥が工房だ。二階が住居スペースになっている」
佑は靴を脱ぐのに少し手間取っているようだったが、えまが手を貸そうとすると「それくらいできる」と視線で制した。
「俺の生活に必要なことはすべて頼むと言ったが、過干渉は好まない。必要な時だけ呼ぶ」
「はい……。あの、私の荷物は」
「客間を使っていい。とりあえず、そこにあるスリッパを」

案内された廊下の突き当たり、少し開いたドアの隙間から、広い部屋が見えた。
そこが『工房』なのだろう。
壁一面に並ぶ様々な形状の筆、ノミ、ピンセット。見たこともない薬剤の瓶。そして部屋の中央には、修復途中の大きなキャンバスがイーゼルに立てかけられている。
あそこに座るはずだった彼の姿。
あの繊細な道具たちを操るはずだった、右手の指。
えまは改めて、事の重大さを突きつけられた気がした。この静謐(せいひつ)な城の主(あるじ)から、魔法の杖を奪ってしまったのだ。

「ぼさっとしている暇はないぞ」
不意に背後から声をかけられ、えまは肩を跳ねさせた。
振り返ると、佑が不機嫌そうに眉を寄せている。
「腹が減った。冷蔵庫にあるもので何か作れるか?」
「は、はい! お料理なら、なんとか!」
えまにとって、それは唯一の救いのような言葉だった。償いの機会。役に立てるチャンス。
「なんでも作ります! ええと、キッチンは……」
「二階だ。ついてこい」

階段を登る彼の背中は広いが、どこか寂しげに見える。
右手が使えない不便さと、仕事ができない焦燥感。それを隠して彼は平然と振る舞っているのかもしれない。
(私が、彼の手になるんだ)
えまは拳をぎゅっと握りしめ、彼の背中を追った。
まだ、この時の彼女は知らなかったのだ。
食事を作るだけならともかく、片手しか使えない生活がどれほど困難で――そして、どれほど彼との距離を縮めることになるのかを。

第3章 慣れない指先、熱を帯びる夜
慣れないキッチンでえまが作ったのは、あり合わせの野菜を使ったリゾットだった。
スプーンなら、左手でも扱えるだろうという配慮からだ。
だが、現実はそう甘くなかった。
佑は苛立ちを隠すように、カチャリとスプーンを皿に置いた。具材のアスパラガスが大きすぎて、スプーンの上で転がり落ちるのだ。不自由な左手では、スプーンの縁で野菜を切ることすらままならない。

「……すみません、気が利かなくて」
向かいに座っていたえまが、慌てて立ち上がる。
彼女は佑の皿を自分の方へ引き寄せると、自分のスプーンを使って具材を一口サイズに刻み始めた。カチャ、カチャ、と小さな音が静かなダイニングに響く。
その様子を、佑は黙って見下ろしていた。
就活スーツから部屋着(高校時代のジャージ)に着替えた彼女は、ひどく無防備に見える。首筋の後れ毛や、真剣な眼差し。
「はい、これで大丈夫だと思います」
皿が戻される。
佑は短く礼を言い、崩されたリゾットを口に運んだ。
――味は、悪くない。
誰かに食事を世話されるなど、何年ぶりだろうか。胃の腑に温かいものが落ちると同時に、胸の奥で何かがざわりと揺れた。

食後の片付けを終えると、すぐに次の「業務」が待っていた。
「おい、ちょっと来てくれ」
脱衣所からの呼び声に、えまは弾かれたように駆けつけた。
扉を開けると、鏡の前で佑が立ち尽くしている。
「シャツが、脱げない」
彼は鏡越しにえまを見て、溜息混じりに言った。左手だけでボタンを外そうと格闘したのだろう、シャツは中途半端に乱れ、鎖骨が覗いている。
「あ……し、失礼します」
えまは震える手で、彼の胸元に手を伸ばした。
近い。
男性用香水と、わずかな汗の匂い。
えまの指先が第二ボタンにかかる。カフスを外すために手首に触れると、筋肉の硬い感触が伝わってきた。
佑は、されるがままだ。だが、えまの頭頂部に降り注ぐ彼の視線には、明らかな熱が混じっていた。
白い指が自分の喉元や胸を這うたび、佑の喉仏が上下する。
最後のボタンを外し、シャツを肩から落とすと、鍛えられた上半身が露わになった。
「……もういい。出ろ」
少し声が掠れていた。
えまは顔を真っ赤にして、「おやすみなさい!」と逃げるように脱衣所を飛び出した。



深夜、二階の寝室。
佑はベッドに横たわりながら、天井の梁(はり)を見つめていた。
鎮痛剤のおかげで右手の痛みは引いているが、代わりに別の場所が疼いて眠れない。
先ほどの感触が残っているのだ。
首筋に触れた、えまの冷たい指先。シャツ越しに伝わってきた彼女の体温。そして、俺を見上げて戸惑っていた潤んだ瞳。
――ガキ相手に、何をしている。
理性が警告するが、身体は正直だった。三十路の男にとって、禁欲的な生活の中に放り込まれた異物の存在は、あまりに刺激が強すぎる。

佑は、ゆっくりと左手を動かした。
本来なら、右手がするはずの行為だ。だが、今の右腕は重いギプスの中にある。
ぎこちない左手で、自身の下腹部に触れる。
慣れない手つきは、どこか他人に触れられているような錯覚を生んだ。
瞼を閉じる。暗闇の中に、えまの顔が浮かぶ。
もし、あの手がもう少し下へ伸びていたら。
もし、あの震える指で、ここを触らせたら。
「……く、っ」
左手を上下させるたび、シーツが擦れる音が静寂に響く。
右手が使えないという喪失感が、逆説的に興奮を煽った。俺は今、壊れている。不完全だ。その欠落を埋めるように、快楽だけを貪る。
彼女が階下の客間で眠っているという事実が、背徳感を加速させた。
不器用な左手の動きに合わせ、佑は低く息を吐き出す。
脳裏に焼き付いた彼女の「手」の感触を反芻(はんすう)しながら、彼は一人、夜の底で熱を吐き出した。

長い吐息の後、佑は気怠げに左腕を額に乗せた。
この二ヶ月、ただの同居人でいられる自信が、早くも揺らぎ始めていた。

慣れないキッチンでえまが作ったリゾットは、少し水分が多すぎたかもしれない。
だが、今の佑にとって問題なのは味ではなかった。
「……食いにくい」

「すみません! 私が……その、やります」
えまは椅子を佑の隣に引き寄せると、スプーンを自分の手で握り直した。
「はい、あーん……してください」
恥ずかしさで頬を赤らめながら、彼女がスプーンを差し出す。
佑は少し躊躇ったが、観念して口を開いた。温かい料理が口に運ばれる。咀嚼(そしゃく)する間、至近距離にある彼女の指先が視界に入った。
白くて、細い。生活感のない学生の指。
それが自分の唇のすぐそばを行き来する光景は、奇妙なほど佑の神経を逆撫でした。

食事を終え、その奇妙な熱は冷めるどころか、次の「業務」で決定的なものとなった。
「風呂に入る。脱がせろ」
脱衣所の鏡の前。
佑の命令に従い、えまは震える手で彼のシャツのボタンを外しにかかった。
食事の時よりもさらに近い距離。吐息がかかるほどの密着。
えまの指の背が、佑の胸板や鎖骨に触れるたび、電流のような刺激が走る。
シャツを脱がせ、ベルトに手が掛かった時だった。
ズボンの生地が、股間の部分で不自然に張り詰めているのが、えまの目にも明らかだった。

「あっ……」
えまの手が止まる。視線のやり場に困り、彼女は真っ赤になって俯いた。
「……生理現象だ。気にするな」
佑は努めて冷静に言ったが、額には脂汗が滲んでいた。痛み止めが切れかけている右手の疼きと、目の前の無防備な女への欲求が混ざり合い、理性が悲鳴を上げている。
「ズボンもだ。早くしろ」
促され、えまは恐る恐るズボンと下着を同時に引き下ろした。
露わになったその部分は、すでに限界まで鎌首をもたげていた。
佑は舌打ちをし、健在な左手で自身のそれを掴んだ。しかし、利き手ではない左手の動きはぎこちなく、ただ皮膚を擦るだけで、昂った熱を逃がすにはあまりにも不器用だった。
「くそっ……思うようにいかない」
苛立ち紛れに左手を離すと、熱を持った塊がビクリと跳ねる。
佑は荒い息を吐きながら、立ち尽くすえまを睨みつけた。その瞳には、昏(くら)い光が宿っていた。

「……責任を感じていると言ったな」
「は、はい……」
「なら、これも『生活の介助』だ」
佑は左手でえまの手首を掴み、自身の股間へと引き寄せた。
「お前の手を貸せ。俺の代わりをやるんだろう?」
「えっ、でも、そんな……っ」
「右手が使えないんだ。左手じゃ抜けない。このままじゃ風呂にも入れないだろう」
無茶苦茶な論理だった。けれど、えまは拒絶できなかった。彼の右手を奪ったのは自分だという罪悪感が、彼女を縛り付けている。

えまの小さく柔らかな掌(てのひら)が、恐る恐る熱い部分に触れた。
「っ……」
触れられた瞬間、佑の喉から低い唸り声が漏れた。
彼女の手は冷たく、そして驚くほど柔らかかった。硬く張り詰めた楔(くさび)を、素人の頼りない指が包み込む。
「動かせ」
佑の低い声に導かれ、えまはぎこちなく手を上下させた。
不慣れな手つき。加減を知らない締め付け。だが、それが逆に佑を興奮させた。
あの神業を持つ修復士が、今は小娘の手にすべてを委ねている。
「もっと……速く」
佑は我慢できず、えまの手の上に自分の左手を重ねた。
彼女の華奢な手をガイドするように、激しく上下に扱(しご)く。
クチュ、クチュ、と粘つく音が狭い脱衣所に響き渡る。
「ん、ぁ……指宿さんっ、私、もう腕が……」
「休むな。もう少しだ……!」
えまの顔は涙目になり、必死に指を動かし続けている。その献身的で卑猥な姿が、決定的な引き金になった。

佑の腰が大きく跳ねた。
「出る……っ!」
えまの手の中で、彼自身が脈打ち、白濁した熱い飛沫が飛び散った。えまの手指を、手首を、そして床を汚していく。
荒い呼吸だけが残る静寂の中、佑は脱力して壁に背を預けた。
えまは呆然と、白く汚れた自分の両手を見つめている。
「……悪い」
佑は掠れた声で言い、タオルの入った棚を顎でしゃくった。
「綺麗にしてやる。こっちへ来い」

それは契約の始まりだった。
ただの家政婦代わりではない。彼の「手」になるということは、彼の欲望さえも処理するということ。
拭われる指先を見つめながら、えまはもう後戻りできないことを悟っていた。

第4章 指先の記憶、朝の光の中で
翌朝、キッチンに立つえまの背中は強張っていた。
トーストを焼く香ばしい匂いが漂う中、彼女の脳裏には、昨夜の脱衣所での光景が焼き付いて離れない。
――粘つく感触。熱い吐息。そして、自分の手の中に吐き出された白濁。
自分の手を何度洗っても、まだ見えない膜が張り付いているような気がして、えまは無意識に指先をさすった。
「……おはよう」
背後から低い声がして、えまは「ひゃっ」と素っ頓狂な声を上げた。
振り返ると、佑が寝癖のついた髪をかき上げながら立っている。服装はラフなスウェットだが、その瞳は昨夜の獣のような色は消え失せ、冷ややかな理知を取り戻していた。
「朝食が済んだら工房へ来い。仕事だ」
彼は昨夜のことなど無かったかのように、コーヒーだけを啜って早々に部屋を出て行った。



工房の空気は張り詰めていた。
朝の光が差し込む静謐な空間で、佑はイーゼルの前に椅子を置き、王のように座っている。
「今日の仕事は、この十九世紀の油彩画の表面洗浄だ。古いニスが酸化して黄ばんでいる」
佑は左手で指示棒を持ち、キャンバスの一点を指した。
「俺の代わりに、お前がやれ」
「わ、私がですか!? 無理です、私なんて美術史の知識があるだけで、修復の実技なんて……!」
「知識があるなら構造はわかるはずだ。それに、今の俺には手がない」
佑は包帯の巻かれた右手を膝の上に置き、冷徹に言った。
「俺が指示する通りに動け。一ミリも違えるな」

えまは震える手で綿棒と洗浄剤を持たされた。
指定された溶剤を少しだけ染み込ませ、絵画の端、空の青色がくすんでいる部分に触れる。
「優しくだ。赤ん坊の肌を撫でるよりも弱く。……そうだ、そこで円を描け」
佑の声は低く、そして驚くほど的確だった。
背後から覗き込む彼の視線を感じながら、えまは神経を研ぎ澄ませて手を動かす。綿棒が動くたび、茶色く変色したニスが取り除かれ、その下から鮮やかな「空の青」が蘇っていく。
「わあ……」
えまは思わず声を漏らした。
「綺麗……色が、生きてるみたい」
「悪くない手つきだ」
佑のボソリとした呟きに、えまの心臓が跳ねた。

「次は右下だ。そこは絵具の層が脆(もろ)い。もっと慎重に扱(しご)け」
その言葉に、えまの手がピクリと止まる。
――扱(しご)け。
修復用語としては単に「筆や道具を動かせ」という意味でしかない。だが、その単語が昨夜の記憶を呼び覚ました。
彼の熱い部分を握りしめ、上下に扱いた感触。
彼の荒い呼吸と、「もっと」と求めた声。
「……っ!」
動揺したえまの手元が狂いそうになる。
瞬間、背後から伸びてきた佑の左手が、えまの手首をガシリと掴んだ。

「どこを見ている」
耳元で囁かれる声。
振り返ると、佑の顔がすぐそこにあった。
「集中しろ。お前の手は今、俺のものだと言っただろう」
その瞳は仕事への厳しさを湛(たた)えていたが、掴まれた手首の熱さは、昨夜彼を導いた時のものと同じだった。
「……はい」
えまは赤面し、小さく頷くことしかできなかった。

「違う、そこじゃない。もっと奥だ」
「力を抜いて、ゆっくり動かせ」
その後も続く作業の指示は、意識すればするほど、まるで夜の行為を指導されているかのように聞こえてくる。
佑はそれに気づいているのか、いないのか。
時折、道具を受け渡すたびに指先が触れ合う。そのたびにビクリと反応するえまを見て、佑の唇が微かに――本当に微かに、愉悦の形に歪んだのを、えまは見逃さなかった。

この男は、わかっていてやっている。
えまは悔しさと、それ以上のときめきを覚えながら、彼の「手」として奉仕し続けた。


第5章 招かれざる客、夜半の幻痛
その日の午後、工房の重い扉を叩いたのは、えまのような自信のないノックではなく、躊躇いのない明快な音だった。
「開いているわよ、ユビ」
返事を待たずにドアが開き、ハイヒールの音が石造りの床に響いた。
現れたのは、モデルのように背の高い女性だった。仕立ての良い紺色のワンピースに、華やかなスカーフ。漂う香水の匂いは、この埃っぽい工房には不釣り合いなほど洗練されている。
「……玲子(れいこ)か」
作業の手を止め、佑がわずかに眉を顰(ひそ)めた。
西園寺(さいおんじ)玲子。大手画廊のキュレーターであり、佑に多くの依頼を持ち込むビジネスパートナーだ。
「近くまで来たから寄ってみたの。……って、その手はどうしたの!?」
玲子の表情が一変する。彼女はツカツカと歩み寄ると、躊躇なく佑の包帯に触れようとした。
「怪我をした。仕事には支障ない」
佑は右手を背後に隠し、冷たくあしらった。
「支障ないわけないでしょう。あなたの指は国宝級なのよ? ああ、なんてこと……」
玲子の嘆きは、佑そのものというより、彼の「才能」が傷ついたことへの恐怖のように聞こえた。
彼女はそこで初めて、部屋の隅で小さくなっているえまに気づいた。
「……その子は? 新しい家政婦?」
「助手だ。俺の手代わりをさせている」
「助手ぅ?」
玲子はえまを値踏みするように上から下まで眺め、ふっと鼻で笑った。
「やめておきなさいよ。素人にあなたの神聖な仕事を触らせるなんて。作品が穢(けが)れるわ」
その言葉は、鋭利なナイフのようにえまの胸を抉(えぐ)った。
何も言い返せなかった。彼女の言う通りだ。私はただの素人で、彼に借りを返すためにここにいるだけの「代用品」なのだから。
玲子はその後も、佑と専門的な美術の話――えまには理解できない高尚な世界の話――をして、嵐のように去っていった。
残された残り香が、えまにはひどく苦く感じられた。



その夜、雨が降り出した。
古びた洋館は雨音を反響させ、まるで水底に沈んだように冷え込んでいく。
深夜、ふと目を覚ましたえまは、廊下から聞こえる異音に気づいた。
「……ぐ、ぅ……」
押し殺したような呻き声。佑の寝室からだ。
えまは弾かれたようにベッドを出て、主の寝室へと走った。
「指宿さん!?」
ドアを開けると、佑がベッドの上でうずくまり、脂汗を流して震えていた。
彼は左手で、包帯の巻かれた右腕を力任せに掴んでいる。
「痛むんですか!?」
「……来るな」
佑は歯を食いしばり、拒絶した。だが、その顔色は紙のように白い。
「気圧が下がると、神経が……くそっ、まるで指をもがれているようだ」
医師が言っていた後遺症の予兆か、あるいは幻肢痛(げんしつう)のようなものか。
普段の冷徹で完璧な彼はどこにもいなかった。そこにいるのは、痛みに怯え、自身の才能を失う恐怖に震える一人の弱い人間だった。

えまは迷わず駆け寄り、ベッドの脇に膝をついた。
「触ります。……怒らないでください」
彼の拒絶を無視し、えまは佑の右腕をそっと抱きかかえた。
そして、痛みに強張る彼の背中や肩を、子供をあやすようにゆっくりとさすり始めた。
「……玲子が言っていた通りだ」
佑が荒い息の中で、ポツリと漏らす。
「俺には才能しかない。この指が動かなければ、俺には何の価値もないんだ。……昔から、そうだ。壊れたものを直すことでしか、俺は誰とも繋がれなかった」
それは、彼の心の傷(トラウマ)の吐露だった。
完璧な修復士。そう呼ばれ続ける重圧。指が動かなくなれば、周りの人間――玲子のような人々――は潮が引くように去っていくという恐怖。

「そんなことありません」
えまは強く言った。
「私は、指宿さんが修復士じゃなくても……ただの不器用な人でも、ここにいます。私があなたの手になります。だから……」
えまは彼の右手を、自分の頬に押し当てた。
「痛いのは、生きてる証拠です。私がずっと温めますから」
佑の瞳が揺れた。
激痛に歪んでいた彼の表情が、えまの体温に触れ、少しずつ緩んでいく。
彼は左手を伸ばし、えまの頭を引き寄せた。
「……お前は、物好きだな」
そう呟く彼の声は震えていたが、そこには確かな温度があった。
その夜、えまは彼の痛みが引くまで、ずっとその体を抱きしめ続けた。
性的な熱情ではない。けれど、それはこれまでのどの夜よりも深く、二人の魂が触れ合った瞬間だった。

第6章 最後の修復、黄金(きん)の継ぎ目
季節が冬へと深まり始めた頃、再び西園寺玲子が工房を訪れた。
彼女が持ち込んだのは、粉々に砕けた青磁の壺だった。
「来週のオークションに出す予定だったの。輸送中の事故よ。……直せるのは、世界であなたしかいない」
玲子は挑戦的な目で佑を見た。
「でも、今のあなたの手じゃ無理ね。キャンセルするわ」
「待ってください!」
声を上げたのは、佑ではなくえまだった。
彼女は佑の前に進み出ると、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「できます。彼の手と、私の目があれば」
佑は目を見開いてえまを見た。彼女の瞳には、この二ヶ月で培った職人のごとき覚悟が宿っていた。
「……だ、そうだ。置いていけ」
佑が不敵に笑うと、玲子は「後悔しないことね」と言い捨てて去っていった。

そこからの三日間は、戦いだった。
眠る間も惜しんでの作業。破片の接合は佑の指示のもと、えまが行う。ミリ単位のズレも許されない緊張感の中、二人の呼吸は完全に同期していた。
「そこで止めろ。……いい位置だ」
佑が背後からえまを抱き込むようにして、その手元を見守る。
かつては性的興奮を覚えたその距離感が、今は心地よい一体感に変わっていた。言葉を交わさなくても、次に何が必要かわかる。二人はまるで、一つの生き物になったかのようだった。

最後の工程。継ぎ目を漆と金粉で装飾する『金継ぎ』の作業。
佑は、ついに自身の右手の包帯を解いた。
まだリハビリ段階だが、最後のひと塗りだけは、本人の手で行わなければならない。
「見ていろ、えま」
震える指先で、佑が筆を走らせる。
砕けて醜かった傷跡が、金色の美しい雷光のような模様へと変わっていく。
――壊れたからこそ、以前よりも美しくなる。
完成した壺を見つめながら、えまは涙が溢れそうになるのをこらえていた。それは、まるで自分たち二人の関係そのものに見えたからだ。



翌日、病院の診察室。
「驚いたな。神経の反応も完璧だ。もう仕事に復帰してもいいだろう」
医師の言葉は、佑にとって福音であるはずだった。
だが、隣に座るえまにとっては、死刑宣告に等しかった。
帰り道のタクシーの中、重苦しい沈黙が流れる。
工房に戻ると、佑は玄関で立ち止まり、背を向けたまま言った。
「……約束通り、契約は終了だ」
その声は冷たく響いたが、彼が拳を握りしめていることにえまは気づかなかった。
「お前はもう自由だ。就活に戻るなり、好きにすればいい」
佑の本心は違った。
*『行くな』*と言いたかった。だが、自分は三十過ぎの偏屈な職人、彼女は未来ある若者だ。一時の同情や契約関係で、彼女の人生をこれ以上縛り付けてはいけない。それが彼なりの、不器用すぎる愛だった。

「……はい」
えまは唇を噛み締め、笑顔を作った。
「お世話になりました。指宿さんの手が治って……本当によかったです」
嘘だった。治らなければいいのにと、一瞬でも願ってしまった自分が許せなかった。
私は結局、便利な「手」でしかなかったのだ。

荷造りはすぐに終わった。元々、スーツケース一つで転がり込んできたのだ。
玄関の扉を開ける。冷たい冬の風が吹き込んでくる。
「さようなら、指宿さん」
「……ああ」
佑は振り返らなかった。
扉が閉まる重い音。それが、二人の季節の終わりを告げた。

一人残された広い工房。
佑は、えまがいなくなったキッチンに立ち、冷え切った空気の中で呆然としていた。
右手の自由は取り戻した。
だが、心臓の半分をもぎ取られたような喪失感が、遅れて彼を襲った。
テーブルの上には、書き置きと共に、えまが愛用していたマグカップが洗って伏せられていた。
「……くそっ」
佑は右手をテーブルに叩きつけた。痛みなど、胸の痛みに比べればどうでもよかった。
直さなければ。
このままでは、俺の人生はずっと「壊れたまま」だ。

第7章(最終章) 金継ぎの誓い
季節は巡り、桜の蕾がほころび始める三月。
都内の美術館で開催されていた『現代と伝統工芸展』の会場に、えまの姿はあった。
リクルートスーツではない。春らしい薄紅色のワンピースに身を包んだ彼女は、少し大人びて見えたが、その瞳にある不安げな色は変わっていなかった。
人混みを避け、彼女は会場の奥へと進む。
お目当ての作品は、ガラスケースの中でスポットライトを浴びて静座していた。

――青磁の壺。
かつて粉々に砕け散っていたものとは信じられないほど、それは堂々とした姿を取り戻していた。
ひび割れがあった場所には、美しい黄金の線が走っている。
稲妻のようにも、川の流れのようにも見えるその「金継ぎ」の跡こそ、あの冬の日々、指宿佑とえまが二人三脚で刻んだ痕跡だった。

「……綺麗」
えまはガラスに指先を触れ、吐息を漏らした。
傷を隠すのではなく、傷を景色として愛でる。
あの修復作業を通じて、えまは自分自身の弱さや不器用さも肯定できるようになった気がしていた。
(元気かな、指宿さん)
右手の具合はどうだろうか。ご飯はちゃんと食べているだろうか。
もう、新しい「助手」がいるのかもしれない。
そう考えると胸が締め付けられたが、えまは首を横に振った。今日は、この壺にお別れを言いに来たのだ。ここから先へ進むために。

「……いい景色だろう?」
不意に、背後から懐かしい声が降ってきた。
心臓が早鐘を打つ。幻聴かと思った。けれど、漂ってくる微かなニスと古い紙の匂いは、間違いなくあの工房のものだった。
恐る恐る振り返る。
そこに、彼がいた。
「指宿、さん……」
少し痩せただろうか。だが、その立ち姿は相変わらず凛としていて、深海のような瞳が真っ直ぐにえまを射抜いている。
彼はゆっくりと、ガラスケースの横に立った。

「この金継ぎの評価は上々だ。玲子のやつも鼻が高いと言っていた」
「そ、そうですか。……よかった」
えまは視線を逸らし、バッグの持ち手を握りしめた。
「手、もう大丈夫なんですね」
「ああ。以前より動くくらいだ」
佑は右手を顔の高さに上げ、滑らかに指を折って見せた。その動きは完璧だった。
「なら、よかったです。……私、そろそろ行きますね」
これ以上ここにいてはいけない。涙腺が崩壊してしまう。
えまが彼に背を向け、歩き出そうとした瞬間だった。

温かい手が、えまの手首を掴んだ。
左手ではない。右手だった。
かつて包帯に巻かれ、動かなかったその手が、今は力強く、熱を持ってえまを引き止めている。

「逃げるな」
佑の声が震えていた。
「俺には、まだ直せていないものがある」
「え……?」
佑は強引にえまの体を自分の方へ向かせると、その距離を一歩詰めた。
「手は治った。仕事も順調だ。だが……工房が広すぎる」
彼はまるで迷子のような顔で、えまを見つめた。
「お前がいなくなってから、何を食べても味がしない。夜、痛みで目が覚めることはなくなったが、隣が冷たくて眠れない」
「指宿さん……」
「俺は、お前という『手』を失って、初めて気づいた。俺の心を修復できるのは、世界でたった一人、お前だけなんだと」

佑の右手が、えまの頬に触れた。
長く美しい指。ずっと触れたかった、大好きな指。
その指が、えまの目尻から溢れ出した涙を優しく拭う。

「戻ってきてくれ、えま。助手としてじゃない」
佑は、えまの瞳を覗き込み、誓うように告げた。
「俺の人生のパートナーとして。……俺のそばにいてほしい」

えまの視界が涙で滲む。
ずっと自分は代用品だと思っていた。欠けた部分を埋めるだけの、一時的なパテのような存在だと。
けれど、彼は今、私自身を求めてくれている。
「……私で、いいんですか? ドジだし、不器用だし、また大事なものを壊しちゃうかもしれません」
「構わない」
佑はふっと笑い、えまの腰を引き寄せた。
「壊れたら、また二人で直せばいい。俺たちの時間は、いくらでもあるんだから」

衆人環視の展覧会場。
けれど二人の世界には、誰もいなかった。
佑が顔を寄せ、えまも背伸びをしてそれに応える。
重なる唇。
それは契約のキスではなく、壊れ欠けた二人の心を黄金(きん)で繋ぎ合わせる、永遠の誓いの口づけだった。

ガラスケースの中、青磁の壺の金の継ぎ目が、二人の未来を祝福するように静かに輝いていた。完

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