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「指(ゆび)、そんなに俺の背中が面白いか?」

友人の茶化すような声も、蒸せ返るような湿気と体臭が混じり合う朝の車内では、どこか遠い国の言語のように聞こえていた。

十月の月曜日。午前八時十五分の東西線は、人権など存在しないかのような密度で、十八歳の僕を押し潰していた。大学に入学して半年。サークルにも入り、それなりに友人にも恵まれたけれど、僕の心にはずっと、埋まることのない「空白」があった。

それは、まだ誰の肌も知らないという、言いようのない焦燥感だ。

「……悪い、ちょっと立ちくらみがして」

適当な嘘をついて、僕は目を閉じた。次の瞬間、電車が大きくカーブに差し掛かり、車両全体が激しく揺れる。その拍子に、僕の胸元へ、ひんやりとした質感と、驚くほど鮮烈なシトラスの香りが飛び込んできた。

「っ……!」

反射的に突き出した両手は、彼女を突き放すこともできず、彼女の背後のドアに手をつく形になった。結果として、僕は見知らぬ女性を、腕の中に閉じ込める格好になってしまった。

至近距離。

僕の視界を占拠したのは、丁寧に整えられた艶やかな髪と、白いブラウス越しに伝わってくる、驚くほど柔らかで、かつ確かな熱量を持った女性の体温だった。彼女は僕の胸に顔を埋める形になり、そこからは彼女の細いうなじと、小さな耳たぶが見えた。

僕の心臓が、自分でも情けないほど大きな音を立て始める。

ドク、ドク、と。肋骨を突き破らんばかりの鼓動が、密着した彼女の体に伝わってしまうのではないかと、僕は恐怖に近い緊張を覚えた。息を吸えば、彼女の香りが肺の奥まで侵食してくる。

ふと、彼女が顔を上げた。

潤んだ瞳が、僕の視線を真っ直ぐに射抜く。整った眉を少しだけ下げて、彼女は僕の顔を覗き込んだ。

「……ごめんなさい、苦しいわよね」

囁くような、けれど芯のある落ち着いた声。

その瞬間、僕の止まっていた十八歳の時計が、猛烈な勢いで針を刻み始めたのを自覚した。彼女の瞳に映っているのは、顔を真っ赤にして固まっている、あまりにも未熟な僕の姿だ。

僕はまだ知らない。この朝の数分間が、そして夕暮れの商店街での再会が、僕の「空白」を塗りつぶしていくことになるのを。

二限目の「法学概論」の講義、教壇に立つ老教授の声は、僕の鼓膜を滑り落ちてどこか遠くへ消えていく。

ノートの端に、無意識のうちに「シトラス」と書き殴っていた。慌ててそれを黒い線で塗りつぶす。けれど、視界を塞いでも、手のひらに残るあの感触が蘇ってくる。

(……柔らかかった)

そう思い出した瞬間、心臓がまた嫌なほど跳ねた。 彼女の背中の、あの重み。腕の中にすっぽりと収まってしまった、自分よりも小さな肩。ブラウス越しに伝わってきた体温は、僕が今まで知っていた「人間」の熱とは、何かが決定的に違っていた。もっと甘くて、もっと毒のように回りの早い、危険な熱。

周りを見渡せば、隣の席では友人が器用にスマホをいじり、前列では女子学生が熱心にペンを走らせている。みんな、いつも通りの日常を生きている。なのに、僕だけが、あの数分間の満員電車の中に閉じ込められたままだ。

(あんな綺麗な人が、世の中に実在するんだな……)

十八年間、僕は「恋愛」というものを、どこか画面の向こう側の出来事のように眺めていた。大学に入れば自然と「卒業」して、大人になれると思っていた。でも現実は、女子と目が合えば逸らし、会話の語尾はいつも消え入りそうで、そんな自分に絶望する毎日の繰り返し。

それがどうだ。今朝の僕は、あんなにも近くで、あんなにも美しい人の呼吸を感じていた。

彼女の、あの潤んだ瞳。 僕を見て「ごめんなさい」と言ったときの、少しだけ困ったような、でもどこか僕を見透かしているような微笑み。

もし、もう一度会えたら。 ……いや、会えるはずがない。東京には何千万という人間がいて、あの電車には何百という人が乗っていた。あの一瞬は、神様が退屈しのぎに見せた、悪質で、最高に綺麗な幻覚に違いないんだ。

「……はぁ」

深く吐き出したため息が、冷たい教室の空気に溶ける。 教科書を開き直しても、文字はただの記号の羅列にしか見えない。 頭の中では、閉じた瞼の裏側に、彼女のうなじに残っていた後れ毛の白さが、焼き付いた光のようにいつまでも消えずに残っていた。

授業が終わり、バイト先へ向かう足取りは、いつになく重かった。

駅前の商店街は、買い物客の自転車のベルや、惣菜屋の揚げ物の匂いで溢れている。いつもなら空腹を刺激するはずのその光景も、今の僕にはひどく無機質で、色褪せて見えた。朝のあの鮮烈な「非日常」に脳を焼かれてしまったせいで、いつもの日常がひどく退屈なものに思えてしまう。

(結局、名前も知らないままなんだよな)

そんな感傷を振り払うように、僕は路地裏へ続く近道へと足を踏み入れた。 大通りから一本入れば、そこは街灯がまばらで、ひっそりとした空気が流れる大人の時間帯が始まっている。古びたジャズバーや小料理屋が、ぽつりぽつりと看板を灯し始める頃。

その時だった。

十メートルほど先の、蔦の絡まった小さなバーの入り口。 一人の女性が、重そうな立て看板を抱えて、よろりとよろめいたのが見えた。

「あ……」

声にならなかった。 見間違えるはずがない。朝の、あのベージュのスーツ。でも、今はジャケットを脱いで手に掛け、白いブラウスの袖を少しだけ捲り上げている。

僕は反射的に駆け寄っていた。自分が何を言いたいのか、何をしたいのかも考えないまま、ただ、彼女が視界から消えてしまうのを防ぐためだけに。

「――手伝います!」

叫ぶように声をかけ、彼女が持っていた看板を横からひったくるように受け取った。 彼女は驚いたように肩を揺らし、目を見開いて僕を見た。

夕暮れの、オレンジ色と群青色が混ざり合う淡い光の中で、彼女の瞳が僕を捉える。 朝の電車の中では気づかなかったけれど、彼女の左目の下には、泣きぼくろのような小さな点があった。

「あなた……」

彼女は小さく唇を開き、それから少しずつ、記憶の糸をたぐるように僕を凝視した。 僕は看板を地面に下ろし、心臓が爆発しそうなほど高鳴るのを必死に抑えながら、彼女の前に立ち尽くした。

「朝の、東西線の……。助けてもらった、指(ススム)です」

名乗る必要なんてないかもしれない。でも、僕は自分の存在を彼女に刻み込みたかった。 彼女は一瞬、きょとんとした顔をした後、ふっと、朝よりもずっと深い、艶やかな微笑を浮かべた。

「……指くん。そう、指くんって言うのね」

彼女は一歩、僕との距離を詰める。 シトラスの香りに、今は少しだけ、夜を待つ街のひんやりとした匂いが混ざっていた。彼女は僕の胸元に視線を落とし、悪戯っぽく首を傾げる。

「まさか、こんなところで再会するなんて。……ねえ、もしかして、私を探しててくれたの?」

その問いかけに、僕は言葉を失う。否定したくても、体中の血が顔に集まって、嘘をつけないことを証明していた。

「ふふ、そんなに真っ赤になって」

彼女は小さく笑うと、僕の腕から看板をひょいと取り上げ、店の入り口の定位置に置いた。 「看板娘の代わりに看板息子になってもらおうかしら。……なんてね」

彼女は店の重厚な真鍮のドアノブに手をかけ、鍵を開ける。カチリ、という小さな音が、僕の退路を断つ合図のように聞こえた。彼女はドアを数センチだけ開け、そこから漏れ出す冷んやりとした静寂を背に、僕を振り返った。

「ねえ、指くん。この後、急ぎの用事はある?」

「いえ、バイトがあるくらいで……でも、まだ時間はあります」 嘘だ。バイトはあと十五分で始まる。けれど、今の僕にとって、時給千円の労働よりも、目の前の彼女が発する引力の方が、何万倍も抗いがたいものだった。

「なら、ちょっとだけ寄っていかない? 開店前だから、お酒は出せないけれど……美味しい珈琲くらいなら淹れてあげられるわ」

彼女は僕の返事を待たず、吸い込まれるように薄暗い店内へと入っていく。僕は磁石に引き寄せられる鉄屑のように、その背中を追った。

店内は、琥珀色のカウンターが鈍く光る、落ち着いた空間だった。彼女はカウンターの裏に回ると、流れるような動作でブラウスの第一ボタンを指先で弾いた。

「暑いわね、今日。……朝から、なんだかずっと火照ってる気がするの」

彼女はそう言いながら、肩から滑り落ちそうな髪をかき上げる。露わになった白い首筋に、店内の微かな光が反射して、眩暈がするほど綺麗だった。彼女はカウンター越しに身を乗り出し、僕の顔を覗き込む。その距離は、朝の満員電車よりも、心理的にはずっと近い。

「ねえ、さっき『探してくれたの?』って聞いたけど、本当は私の方こそ、あなたを待っていたのかも。……あの電車の中で、私を壊さないように抱きしめてくれた、優しい手の感触が忘れられなくて」

彼女の指先が、カウンターの上に置かれた僕の手に、羽毛のような軽さで触れた。

「指くん……。ここ、私と二人きりよ。……何をしても、誰にも見られないわ」

湿り気を帯びた彼女の瞳が、僕の視線を絡め取る。 店内に流れるジャズの低音が、僕の早鐘を打つ鼓動と重なって、理性の壁をじりじりと削り取っていった。

カウンターに置かれた彼女の指先が、僕の皮膚に微かな熱を伝えてくる。その細く、白く、完成された大人の造形を前にして、僕の右手は情けないほど小刻みに震えていた。

(ここで動かなければ、僕は一生、情けない大学生のままだ)

喉の奥がカラカラに乾き、心臓が耳元で爆発しそうなほどの音を立てている。僕は、逃げ出したくなるような恐怖を無理やり抑え込み、一世一代の勇気を振り絞って、その白く柔らかな手を上から包み込むように握り返した。

「……っ」

指先が触れ合った瞬間、言葉にならない熱が全身を駆け抜けた。 彼女の手は、想像していたよりもずっと小さくて、驚くほどしなやかだった。握り返した僕の手の中で、彼女の指が微かに跳ねるのが伝わってくる。

彼女は、からかうような微笑を浮かべたまま一瞬だけ動きを止め、それから意外なものを見るように、ゆっくりと僕の目を見つめた。

「指くん……?」

「……僕、子供じゃないです」

震える声だった。けれど、僕は彼女の瞳から視線を逸らさなかった。握る手に力を込め、手のひら全体で彼女の体温を確かめる。

「朝から、ずっと……。あなたのこと、ただの『綺麗なお姉さん』だと思って見てたわけじゃないです。一瞬で、全部持っていかれたんです。……今の僕が、あなたに何ができるか分からないけど、でも、放したくないって思ってるのは、本当です」

剥き出しの、飾り気のない言葉。 彼女の瞳が、僕の必死さに呼応するように揺れた。先ほどまでの余裕のある「お姉さん」の仮面が、僕の拙い一言でわずかにひび割れる。

彼女は、握られた自分の手を見つめ、それから再び僕を見た。今度は、からかうような色は消え、一人の女性としての、熱を帯びた眼差しに変わっていた。

「……本気なのね、指くん」

彼女は自由な方の手を伸ばし、僕の頬にそっと触れた。 「そんな熱い手で握られたら……私、もうあなたを帰せなくなっちゃうわよ?」

カウンター越しに、彼女の顔が近づいてくる。 シトラスの香りと、彼女の吐息が混じり合い、世界は二人だけの狭い空間へと収束していった。

彼女は僕の頬を撫でていた手を離すと、小さく吐息をこぼし、カウンターの下から一本の鍵を取り出しました。

「ここで珈琲を淹れるつもりだったけれど……。そんな顔で私を見つめるから、予定が狂っちゃったわ」

彼女は手際よく店内のメイン照明を落とし、入り口のドアに掛けられた「OPEN」の札を「CLOSED」へとひっくり返しました。わずかに差し込んでいた街灯の光が消え、店内は琥珀色の濃い闇に包まれます。

「おいで。……ここは、私の『仕事』の場所だから」

彼女は僕の手を引いたまま、店の裏口へと向かいました。重い鉄の扉を開けると、そこは生活感のない路地裏ではなく、ビルの一角にある居住スペースへと繋がる階段でした。

一段、一段、階段を上るたびに、彼女のハイヒールが乾いた音を立てます。そのリズムが、僕の鼓動と重なって、頭の中が痺れるような感覚に陥りました。

たどり着いたのは、最上階にある一室。 彼女が鍵を開け、「どうぞ」と招き入れたその部屋は、彼女の纏う雰囲気と同じように、シンプルで、けれどどこか寂しげな香りが漂っていました。

玄関の明かりをつけないまま、彼女は僕の方を向き、背中をドアに預けました。

「指くん、ここから先は……さっきのバーみたいに、誰かが入ってくることはないわよ」

彼女の手が、自分のブラウスのボタンへと伸びます。一つ、また一つと外されるたびに、朝の満員電車では想像もできなかった、彼女の本当の姿が闇の中に浮かび上がっていきます。

「私を、あんなに必死に守ってくれた『指くん』。……次は、私があなたを、大人の世界へ連れて行ってあげる」

彼女は僕の首筋に両手を回し、爪が少しだけ食い込むほど強く、僕を自分の体へと引き寄せました。

「もう、後戻りはできないけれど……いい?」

彼女の唇が僕の耳元に触れ、熱い誓いのような吐息が吹き込まれました。

月の光すら遠慮するように差し込む寝室で、彼女は僕をベッドの縁に座らせ、自らはその膝の間に割り込むように立ちました。

「そんなに肩を硬くしないで。深呼吸して……そう、いい子ね」

彼女の指先が、僕のシャツの襟元から滑り込み、緊張で強張った肩のラインをゆっくりと解きほぐしていきます。一つ、また一つとボタンが外されるたび、夜の冷気とは対照的な彼女の指の熱が、僕の肌に焼き付いていきました。

シャツが肩から滑り落ち、半裸になった僕の胸元に、彼女はそっと自分の額を預けました。薄い下着越しに伝わってくる彼女の柔らかな膨らみと、トクトクと刻まれる二人の鼓動。

「指くん、自分の心臓の音、聞こえる?……こんなに速い。全部、私のせいなんだよね」

彼女は顔を上げると、僕の両手を優しく取って、自分の腰へと導きました。指先が触れたスカートのシルクのような質感と、その下にある肉体の確かな弾力に、僕は息を呑みます。

「いいのよ、触れて。あなたが朝、私を守ってくれたみたいに……今度は、あなたの好きなようにして」

彼女は僕の手をガイドするように動かしながら、自らも僕のベルトのバックルに指をかけました。カチリ、と金属が鳴る音が、静まり返った部屋にやけに大きく響きます。

彼女のリードは、どこまでも優しく、残酷なほど丁寧でした。僕が戸惑うたびに、彼女は「大丈夫」と耳元で囁き、僕の無垢な反応を慈しむように、首筋や耳たぶに柔らかなキスを落としていきます。

「初めての夜は、一度しかないの。だから、急がなくていい。痛いくらいに、私を刻みつけて……」

彼女がブラウスを完全に脱ぎ捨て、その白い肌が月の光を浴びて真珠のように輝いたとき、僕は言葉を失いました。彼女は僕の首に腕を回し、押し倒すようにしてベッドへと誘います。

沈み込むマットの感触と、全身を包み込む彼女の甘い香り。 彼女は僕の上で、花が開くような仕草で微笑み、僕の震える指先を一枚一枚、彼女という未知の物語へと誘い込んでいきました。

二人の境界線は、もはや皮膚一枚の厚さすら残っていませんでした。

彼女の導きに従い、指がその未知の深淵へと一歩を踏み出した瞬間、視界は火花が散ったように白く染まりました。 「……っ、あ」 声にならない呻きが漏れる指の耳元で、彼女は「いいよ、そのまま……」と、波のようなリズムで彼を優しく、けれど力強く包み込みます。

指にとって、それは単なる肉体の接触ではありませんでした。彼女の吸い付くような肌の熱、時折こぼれる切実な吐息、そして背中に回された彼女の指先が立てる爪の感触。そのすべてが、これまで彼が抱えてきた「童貞」という名の孤独な鎧を、容赦なく、けれど甘美に溶かしていく儀式のようでした。

「指くん……すごい、熱い……っ」

彼女の瞳が、悦びとわずかな苦しさが混ざり合ったような色に濡れ、僕を見つめています。その表情を見た瞬間、指の中にあった「怖さ」は完全に消え去り、代わりに彼女のすべてを独占したいという、本能的な衝動が突き上げました。

二人の呼吸が重なり、速度を増していく。 彼女の腰が大きくしなり、僕を求めるように強く、深く絡みついてくる。指は必死に彼女の肩を抱きしめ、彼女の放つシトラスと体温が混ざり合った濃密な香りに溺れながら、嵐のような昂ぶりの中へと身を投げ出しました。

「あ……、お姉、さん……っ!」

「いいよ……指、くん……!」

爆発的な熱が、二人の間を駆け抜けました。 指の頭の中は、真っ白な光の渦に飲み込まれ、自分がどこにいるのか、誰なのかさえ分からなくなるほどの衝撃に貫かれます。重なり合った肌から伝わる彼女の震えが、自分のものなのか彼女のものなのかも判別がつかないまま、二人はただ、一つに溶け合う絶頂の波に身を委ね続けました。

静寂が戻ってきたとき、部屋に響くのは、激しく波打つ二人の鼓動だけでした。 指は、人生で初めて知った「誰かと溶け合う」という感覚の重みに圧倒されながら、自分を抱きしめる彼女の腕の温もりの中で、ゆっくりと、新しい自分へと生まれ変わっていくのを感じていました。

嵐のような熱狂が引き波のように引いていき、部屋にはただ、二人の重い呼吸と、遠くで聞こえる深夜の街の微かな喧騒だけが残されました。

指は、自分の腕の中で静かに呼吸を整える彼女の、驚くほど小さな肩を見つめていました。数分前まで自分を大人の世界へと導いていた圧倒的な「お姉さん」は今、どこか幼い子供のような無防備さで、彼の胸に顔を埋めています。

「……ねえ」

彼女が、掠れた声で呟きました。彼女は顔を上げると、乱れた髪をそのままに、今日一番の、そして初めて見る「ただの女性」としての微笑みを指に向けました。その瞳には、からかいも誘惑もなく、ただ一人の男を受け入れた充足感だけが宿っています。

「卒業、おめでとう。……指くん」

その言葉に、指は胸の奥が熱くなるのを感じました。彼は彼女の腰を引き寄せ、その額に優しく、自分から初めてのキスを落としました。

「ありがとうございます。……でも、卒業したら終わりじゃ、ないですよね?」

指の少しだけ大人びた問いかけに、彼女は驚いたように目を見開き、それから嬉しそうにくすくすと笑いました。彼女は彼の首に腕を回し、耳元で内緒話をするように囁きます。

「当たり前じゃない。……私、一度教えた生徒のことは、最後まで責任持つタイプなのよ?」

窓の外では、夜明けを待つ群青色の空が、ゆっくりと街を包み込み始めていました。 朝の満員電車で始まった偶然は、この一夜を経て、二人だけの分かちがたい物語へと変わっていきました。

指は、彼女の温もりを全身で感じながら、確信していました。 数時間後、いつものように電車に乗る自分は、昨日までの自分とはもう決定的に違うのだと。

世界は相変わらず騒がしく、退屈な日常が待っているかもしれない。 けれど、彼の手のひらには、あのシトラスの香りと、守るべき確かな熱が、消えることのない「大人」の証として刻まれていました。

                  完

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