第1章 泥だらけの朝、秘密の車庫
 その朝、結飛(ゆうひ)――通称ユビは、朝の冷たい風を切り裂いて走っていた。
 通学路の裏道。住宅街の狭いアスファルト。
 股下で唸る中型バイクのエンジン音が、退屈な高校生活への唯一の抵抗だ。学校に見つかれば一発で停学、最悪の場合は退学処分になる。だが、このスリルだけはやめられなかった。

 カーブを抜け、直線の坂道にかかった時だ。
 左手の白い家の車庫から、いきなり銀色のノーズが突き出してきた。
「――っ!」
 ブレーキを握りしめるが、間に合わない。
 ユビは瞬時の判断でバイクを寝かせ、衝突の衝撃を逃した。ガシャアン、という硬質な音と共に、バイクがアスファルトを滑り、ユビの体も植え込みの土の上へと投げ出された。

「……ッ、いってぇ」
 ユビは顔をしかめて身を起こした。
 ヘルメットのおかげで頭は無事。手足も動く。擦り傷程度だ。
 だが、問題はそこじゃなかった。
「きゃああっ! だ、大丈夫ですか!?」
 車から飛び出してきたのは、長い髪を束ねた女性だった。顔面蒼白で、唇が震えている。
 三十歳くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の、いかにも「奥さん」といった風情の美人だ。
「救急車……あと警察も呼ばなきゃ……!」
 震える指でスマホを取り出そうとする彼女を見て、ユビは痛みを忘れて跳ね起きた。
「待って! 呼ばないでくれ!」
「えっ、でも」
「怪我はない。バイクも……まあ、ミラーが割れたくらいだ。走れる」
 ユビは慌てて彼女の腕を掴んで止めた。
「俺、バイク通学禁止なんだよ。警察呼ばれたら、学校に行けなくなる」

 女性――えまは、困惑した瞳でユビを見つめた。
 あどけなさの残る少年の顔と、必死な懇願。彼女はふと息を吐き、スマホを下ろした。
「……本当に、怪我はないの?」
「ああ。だから行ってくれ。俺も急ぐから」
 ユビはバイクを起こそうとしたが、ふと足元を見て動きを止めた。
「最悪だ……」
 植え込みの濡れた土に突っ込んだせいで、学生ズボンの膝から下が泥まみれになっていた。黒い生地に茶色い泥がべっとりと張り付いている。
 これでは教室に入った瞬間、教師に怪しまれる。「転んだ」と言い訳しても、この泥の量は不自然すぎる。

「あの……」
 えまが申し訳なさそうに声をかけた。
「私の家、ここなの。もしよかったら……ズボン、綺麗にさせて?」
「は?」
「あなたが警察を呼ばないでって言うなら、せめてそれくらいさせて。私が飛び出したのが悪かったんだし……そのまじゃ学校、行けないでしょう?」

     *

 通されたのは、綺麗に片付いたリビングだった。
 微かにフローラルの香りがする。男所帯のユビの家とは違う、優しい「家の匂い」だ。
「旦那さんは?」
「出張中よ。子供もいないし、今は私ひとり」
 えまはそう言いながら、タオルと洗面器を持ってきた。
「とりあえず、それを脱いで。私が洗ってアイロンをかけてあげる」
「……ここで?」
「代わりのものを持ってくるから、ちょっと待ってて」

 渡されたのは、彼女の夫のものだというスウェットだった。
 ユビは洗面所で学生ズボンを脱ぎ、それを彼女に手渡した。
 見ず知らずの――それも事故相手の高校生のズボンを受け取る彼女の手は、白くて華奢だった。
「リビングで待ってて。すぐに乾かすから」

 ソファに座り、ユビは気まずい時間を過ごした。
 キッチンの方から、ジャーッという水音と、ブラシで布を擦る音が聞こえてくる。
 自分のズボンを、三十路の人妻が洗っている。
 その事実を想像すると、なぜか太もものあたりがムズムズした。
 やがて水音が止み、アイロンのスチーム音がシューッと響く。
「……できたわよ」
 えまが戻ってきた。
 その手には、泥汚れが嘘のように消え、折り目正しくプレスの掛かったズボンがあった。
「すごいな。完璧じゃん」
「これくらいなら、朝飯前よ」
 えまは少し誇らしげに微笑んだ。事故の直後の強張った顔とは違う、ふわりとした笑顔。
 ユビはドキリとした。
 受け取ろうと手を伸ばすと、えまの手が止まった。彼女の視線が、ユビの膝小僧に向けられている。
「……そこ、血が出てる」
 ズボンを脱いだことで露わになった右膝に、薄く血が滲んでいた。転んだ時の擦り傷だ。
「あ、本当だ。別に平気……」
「ダメよ。泥が入ってたら化膿しちゃう」
 えまはズボンをソファに置くと、急救箱を開いた。
「じっとしてて。消毒するから」

 えまはそう言うと、ユビの足の間に跪(ひざまず)いた。
 彼女がピンセットで摘んだのは、消毒液をたっぷりと含ませたガーゼだった。
「少し沁みるわよ」
 ひんやりとしたガーゼが、熱を持った擦り傷に押し当てられる。
「っ……」
 傷の痛みは鋭かった。だが、ユビの神経を逆撫でしたのは、痛みそのものではない。
 視界の端で揺れる彼女の後れ毛。
 無防備に開かれた襟元から覗く、白い鎖骨。
 そして何より、傷口の手当てをするために、ユビの太ももに添えられた彼女の左手の感触だった。
 人妻の、少し冷たくて、吸い付くような柔らかい掌(てのひら)。

(やばい……)
 ユビは奥歯を噛み締めた。
 事故の興奮(アドレナリン)がまだ残っているせいか、それとも夫の服を着ているという背徳感のせいか。
 彼女の指が内腿に近い部分に触れるたび、血液が下腹部へと急速に集まっていくのがわかった。
 借りているスウェットは生地が厚いが、ゆったりとしたサイズだ。それゆえに、内側からの圧力が形になって浮き出やすい。
 抑えようと思えば思うほど、若い身体は正直に反応し、硬く脈打ち始めていた。

「よし、これで大丈夫。あとは絆創膏を貼って……」
 えまが処置を終え、ふう、と息を吐いて顔を上げた時だった。
 至近距離で目が合う。
 そして、彼女の視線がゆっくりと下がった。
 見てはいけないものを見るように、彼女の目がユビの股間で止まる。
 スウェットの生地をテントのように押し上げている、隠しようのない膨らみ。

「あ、いや、これは……っ」
 ユビは顔から火が出る思いで、身を引こうとした。
 三十路の人妻相手に、治療されただけで勃っているなんて、変態だと思われても仕方がない。
「ごめ、ん……」
 謝罪の言葉が宙に浮く。
 だが、えまは目を逸らさなかった。軽蔑するでもなく、笑い飛ばすでもない。どこか吸い寄せられるような瞳で、その「若さの証明」を見つめている。
「……元気なのね」
 えまがポツリと漏らした。それは揶揄(からか)いではなく、まるで眩しい生命力に圧倒されたような響きだった。

 次の瞬間、信じられないことが起きた。
 えまの手が、伸びてきたのだ。
「え……?」
 彼女の細い指先が、スウェット越しに、その熱く張った部分に触れた。
「ッ、えま、さん……!?」
 ユビの喉から引きつった声が漏れる。
 触れたのは一瞬ではない。彼女は手のひら全体で、その硬さを確かめるようにそっと包み込んだのだ。
 夫の服越しに伝わる、他人の妻の体温。
 その背徳的な刺激に、ユビの体はビクリと大きく跳ね、さらに大きく硬直した。

 えまはハッとしたように手を引っ込めた。
 彼女自身の顔も、耳まで真っ赤に染まっている。魔が差した、という表情だった。
「ご、ごめんなさい! 私、なにを……」
 彼女は慌てて立ち上がり、救急箱を取り落としそうになりながら背を向けた。
「す、すぐにズボンを持ってくるわ! もう乾いたはずだから!」

 逃げるようにキッチンへ走る彼女の背中を見送りながら、ユビは荒い息を吐いた。
 スウェット越しに残る、手のひらの感触。
 彼女は触った。嫌悪感からではなく、明らかに「興味」を持って。
 その事実が、ユビの理性を焼き切るには十分すぎた。

 ――もう、ただの事故の加害者と被害者には戻れない。
 ユビは熱の引かないそれを手で押さえながら、天井を仰いだ。

えまが持ってきた学生服のズボンは、まだアイロンの熱を帯びていて温かかった。
ユビは背を向けて着替えた。だが、先ほどの生々しい感触――彼女の手のひらが包み込んだ熱――が肌に残っていて、ズボンの摩擦さえも過敏に感じてしまう。
気まずい沈黙のまま、二人は玄関へ向かった。

靴を履き、ヘルメットを手にする。これで他人同士に戻るはずだった。
「あの……これ」
えまが呼び止めた。
振り返ると、彼女は震える手で一枚のメモを差し出していた。携帯電話の番号と、IDが書かれた走り書き。
「もし、膝が痛んだり、後で具合が悪くなったりしたら……連絡して。私が、責任とるから」
"責任"。
その言葉は、単なる事故の補償以上の意味を含んで、ユビの耳に響いた。
彼女は頬を紅潮させ、潤んだ瞳でユビを見上げている。さっきの行為を、彼女も後悔しつつ、同時に忘れられずにいるのだ。

ユビは黙ってメモを受け取り、ポケットにねじ込んだ。
そして、ドアノブに手をかけた時、抑え込んでいた衝動が限界を超えた。
「……あんたさ」
「え?」
ユビは勢いよく振り返ると、えまの肩を掴んで壁際に押しやった。
「っ!?」
驚いて目を見開く彼女の唇を、ユビは強引に塞いだ。
事故のような、乱暴で下手くそなキス。
だが、えまは抵抗しなかった。一瞬だけ身体を硬直させたあと、彼女の唇から力が抜け、微かに熱い吐息が漏れたのを感じた。

数秒後、ユビはパッと顔を離した。
「……慰謝料、これでいいよ」
強がりを捨て台詞のように吐き捨てると、ユビは逃げるようにドアを開け、外の世界へと飛び出した。

エンジンの始動音。遠ざかる排気音。
残されたえまは、自分の唇に指を当て、へなへなと玄関に座り込んだ。
罪悪感と、それ以上に沸き立つ胸の高鳴りが、彼女を支配していた。

第2章 放課後の逃避、雨宿りの再会
それから三日間、ユビは学校へ行き、そしてサボった。
授業の内容など頭に入らなかった。
ズボンのポケットに入ったままの、くしゃくしゃになったメモ。
右膝の絆創膏。
そして、目を閉じれば蘇る、人妻の柔らかい手の感触と、キスの味。
(連絡なんて、できるわけねえだろ……)
相手は既婚者だ。事故の加害者と被害者だ。あのキスは若気の至りとして忘れるべきだ。
そう自分に言い聞かせても、バイクのアクセルを回す手は、無意識にあの住宅街の方角へ向いてしまう。

その日の放課後、突然の雨が降り出した。
ユビはバイクを停め、公園の東屋(あずまや)で雨宿りをしていた。
煙るような雨を見つめながら、煙草……ではなく、缶コーヒーを開ける。
 その時だった。
雨音に混じって、聞き覚えのあるエンジン音が近づいてきた。
銀色の乗用車。あの日の車だ。
車は公園の脇に停まると、運転席から傘もささずにえまが降りてきた。

「……やっぱり」
えまは雨に濡れながら、東屋にいるユビの元へ駆け寄ってきた。
息を切らし、少し乱れた髪。買い物帰りなのだろうか、あるいは――。
「なんで、ここに」
ユビが呆然として呟くと、えまは泣きそうな顔で笑った。
「ずっと、探してたの。この辺りを走ってるんじゃないかって」
「俺を探してた? なんで? 膝ならもう平気だし」
「違うわよ!」
えまが声を張り上げた。
「連絡、待ってたのに……あなたがしてくれないから」
 彼女は一歩、東屋の中へ足を踏み入れた。
雨の匂いと、あの日と同じフローラルの香りが混じり合う。
「責任取るって言ったでしょう? ……私、あれから眠れないの。あなたのせいで」

それは、大人の女性からの降伏宣言だった。
夫がいる家にいても、あなたのことばかり考えてしまう。だから、世間体も常識も捨てて、高校生のあなたを探し回っていたのだ、と。
ユビの手から、飲みかけの缶コーヒーが落ちて、カランと音を立てた。
「……俺のせいにすんなよ」
ユビはベンチから立ち上がり、彼女の濡れた腕を掴んだ。
「アンタが触ったんだろ。俺を、あんな風に」

 雨音が世界を遮断する。
誰もいない公園の片隅で、二人は吸い寄せられるように再び唇を重ねた。
今度は、逃げるためのキスではなかった。
互いの渇きを埋め合うような、深く、泥沼へと沈んでいくための口づけだった。

第3章 迷子の子犬、蜜の誘導
 唇が離れても、二人の荒い呼吸だけが雨音に混じっていた。
 ユビの心臓は、早鐘を打つどころか破裂しそうだった。
 キスをした。それも、挨拶のような軽いものではない。互いの舌が絡み合うような、大人のキスだ。
 けれど――ここから先、どうすればいい?

 ユビの思考はそこでホワイトアウトしていた。
 経験がない。知識としてなら、ネットや友人の話でいくらでも知っている。だが、現実はモニターの中とは違う。
 濡れた服はどうする? 場所は? まさかこの公園のベンチで? それとも彼女の家? いや、誰かに見られたら?
 そもそも、俺から誘うべきなのか? なんて言えばいい?

キスが終わっても、ユビは身動きひとつ取れなかった。
 えまの肩に置いた手を、次はどこへ滑らせればいいのか。腰か? それとも胸か? いや、ここはおもむろに服の中に……?
 頭の中でマニュアルを検索しようとするが、エラーばかりで何も出てこない。
 ただ立ち尽くし、荒い息を吐くだけのユビを見て、えまがふっと小さく笑った気がした。

「……可愛い」
 雨音に消えそうな声で、彼女が呟いた。
 その言葉にユビがカッと恥ずかしさで顔を赤らめると、えまは彼の濡れた前髪をそっと指で払った。
「濡れちゃうわ。……乗って」
「え?」
「車。乗ってよ」
 えまは公園の脇に停めてある銀色のセダンを顎でしゃくった。
「ここじゃ、寒いでしょう?」

 ユビは戸惑って視線を彷徨わせた。
「で、でも、俺、バイクが……」
「置いていきなさいよ」
 えまの声は、有無を言わせない響きを含んでいた。
「鍵をかけておけば大丈夫。あとで戻ればいいわ。……それとも、嫌?」
 彼女は上目遣いで、試すようにユビを見つめる。
 嫌なわけがない。
 むしろ、今すぐにでも彼女と密着したい。ただ、この先に何が待っているのか――それが未知すぎて怖いのだ。

「……乗る」
 ユビが掠れた声で答えると、えまは満足そうに微笑み、先に雨の中を走っていった。

 助手席のドアが開かれる。
 ユビは覚悟を決めて、その革張りのシートに身体を沈めた。
 バタン、と重厚な音と共にドアが閉まる。
 途端に、激しい雨音が遠くなり、代わりに車内特有の静寂と、彼女の香水の匂いが濃厚に充満した。
 運転席に乗り込んだえまが、エンジンをかける。エアコンの温かい風が吹き出し、濡れた肌を撫でた。

「シートベルト、しなくていいわよ」
 えまはハンドルを握りながら、前だけを見て言った。
「すぐ近くだから」
 すぐ近く。
 その言葉の意味を理解した瞬間、ユビの心臓が早鐘を打った。
 家じゃない。この辺りにある、休憩できる場所――つまり、ホテル。

 車がゆっくりと動き出す。
 ユビは膝の上で固く拳を握りしめていた。
 どうすればいいのか、正解はわからない。けれど、隣に座るこの人妻が、ハンドルの代わりに僕の手綱を握ってくれている。
(……もう、全部あんたに任せるよ)
 ユビは諦めにも似た心地よい敗北感の中で、横顔の美しい彼女を見つめ続けた。
 ワイパーが雨を弾くリズムだけが、二人の鼓動のように車内に響いていた。

第4章 「焦らし」は拷問
 
ワイパーが規則正しく雨を拭う音だけが、BGMのように響いている。


横を見れば、えまの美しい横顔がある。だが、直視できなかった。これから「そういう場所」へ向かうのだという事実が、頭の中で膨れ上がりすぎて、息をするのも苦しい。

不意に、車が減速した。赤信号だ。
停止線で車が完全に止まると、ふわりと甘い匂いが近づいた。
「……膝、痛まない?」
えまの声と共に、彼女の左手がセンターコンソールを越えて伸びてきた。
その手が、ユビの太もも――以前、怪我をして彼女が手当をしてくれた右足――にそっと置かれた。
「だ、大丈夫です……」
ユビが答えても、彼女の手は離れなかった。
それどころか、信号待ちのわずかな時間の間に、その指先がゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるように太ももの内側へと滑ってきた。

「っ……!」 
声が出そうになるのを必死で飲み込む。
布越しに伝わる、人妻の指の熱。あの日、自宅のリビングで感じたあの感触が、今はさらに大胆に、明確な意志を持って迫ってきている。
「えま、さん……運転、中……」
「止まってるわよ」
彼女の指が、ズボンの股の付け根、縫い目のあたりをなぞる。
ユビの下半身は、とっくに限界を迎えていた。彼女の車に乗った瞬間から、いや、雨の中でキスをした瞬間から、血液がそこに集中して痛みさえ感じていたのだ。

えまの手のひらが、その硬く張り詰めた膨らみを、上からギュッと掴んだ。
「……嘘つき」
彼女がくすりと笑う。
「膝は大丈夫でも、こっちは全然大丈夫じゃなさそうね」
ユビは座席シートの背もたれに頭を押し付け、天井を仰いだ。
逃げられない。
助手席という狭い空間。そして彼女の手の中に弱みを握られている状況。
えまは楽しむように、親指の腹でその先端部分をカリカリと擦った。
「こんなに硬くして……。私が運転してる間、隣でずっと、いやらしいこと考えてたんでしょう?」
「ちが……勝手に、なるんだよ……ッ!」
ユビの否定は、快楽に震える声のせいで何の説得力もなかった。

その時、信号が変わった。
えまは名残惜しそうに、けれどゆっくりと愛撫するように手を離し、ハンドルを握り直した。

車が再び走り出す。
解放されたはずなのに、ユビの体は熱を持て余して疼き続けていた。
次の赤信号が怖い。いや、待ち遠しい。
未経験のユビにとって、この「焦らし」は拷問にも等しい快楽だった。

第5章 ネオンの結界、少年の躊躇
車は幹線道路を外れ、人気の少ない裏通りへと滑り込んだ。
雨に煙る視界の先に、異様な存在感を放つ建物が現れた。古城を模したような趣味の悪い外観と、毒々しいほど鮮やかなピンクと紫のネオンサイン。 


知識としては知っている。けれど、まさか自分が――制服を着た高校生の自分が、ここに来ることになるとは。
車は慣れた様子で敷地内に入り、垂れ幕で遮られたガレージの一つに滑り込んだ。
エンジンが止まる。
静寂が戻ってきた車内で、ユビはシートベルトを握りしめたまま動けなかった。

「……降りないの?」
先に車を降りたえまが、助手席のドアを開けて覗き込んできた。
「む、無理だよ……!」
ユビは裏返った声で訴えた。
「ここ、ホテルだろ? 俺、高校生だぞ。制服だし……入るところ見られたら、補導される」
ここに来て、現実に引き戻された恐怖が、性欲を一気に冷やしかけていた。
もし先生に見つかったら。もし警察がいたら。人生が終わるという恐怖。

だが、えまはそんな少年の怯えを鼻で笑った。
彼女は傘を広げ、助手席に身を乗り出した。
「ここは郊外の裏道。こんな雨の日に歩いてる人なんていないわ」
「でも、店員とか……」
「誰とも会わないシステムになってるの。部屋を選んで、入るだけ」
えまの顔が近づく。車内での情事の余韻か、彼女の瞳はとろんと潤んでいて、甘い匂いが雨の匂いよりも強くユビの鼻腔をくすぐった。

「それとも、なに?」
彼女の冷たい指先が、ユビの強張った頬を撫でる。
「さっきあんなに凄かったのに、急に『良い子』に戻るつもり?」
「っ……」
「私のこと、あんな風にしておいて……このまま帰すの?」
その言葉は、どんな脅しよりも効果的だった。
ここで帰れば、彼女は二度と会ってくれないかもしれない。あの柔らかい感触も、熱いキスも、これが最後になってしまう。
それは、補導される恐怖よりも恐ろしいことのように思えた。

カチャリ。
えまの手が伸びて、ユビのシートベルトのバックルを外した。
拘束が解かれる音は、ユビの中の理性のタガが外れる音に似ていた。
「……帽子、深く被って」
えまはユビが着ていたパーカーのフードを目深に被せると、その手を取った。
「走るわよ。私の手を離さないで」

 
ガレージの脇にある、重厚な扉。
それを開けると、そこはもう異界だった。
薄暗い照明。安っぽい香水の匂い。パネルに並ぶ、いかがわしい部屋の写真たち。
ユビは足がすくんで立ち止まりかけたが、えまがぐいと手を引いた。
その力強さは、いつもの華奢な彼女からは想像できないほどで、まさに「魔性の女」が獲物を巣へ引きずり込むようだった。

「こっち。……この部屋にしましょう」
えまは迷うことなくパネルのボタンを押し、エレベーターへとユビを押し込んだ。
扉が閉まる。
密室の中で、二人は荒い息をついていた。
鏡に映った自分たちは、濡れた野良犬と、それを拾った美しい飼い主のようだった。
「ほら、誰にも会わなかったでしょう?」
えまが濡れた髪をかき上げながら、悪戯っぽく微笑む。
もう、後戻りはできない。
ユビは覚悟を決めた。この禁断の果実を、骨までしゃぶり尽くすしかないのだと。

第6章 バブル
部屋に入ると、そこはキングサイズのベッドが鎮座するだけの、異様に広い空間だった。
エマは慣れた手つきで照明を落とすと、濡れた髪をかき上げた。
「さ、お風呂に入りましょう。冷えちゃうわ」
彼女が指差した先には、部屋との仕切りが全面ガラス張りになったバスルームがあった。
「す、透けてる……」
「ここじゃ普通よ」
エマはクスクスと笑いながら、躊躇なく自分のブラウスのボタンを外し始めた。

ユビは慌てて背を向けた。
衣擦れの音。ジッパーが下がる音。そして、濡れたストッキングが肌から剥がされる音。
そのすべてが、ユビの脳髄を直接刺激する。
「ユビ君も、早く脱いで」
背後から声をかけられ、ユビは震える手でベルトに手をかけた。
濡れたジーンズが肌に張り付いて脱ぎにくい。もどかしさに焦っていると、ふわりと背中に温かいものが触れた。
裸のエマが、背中から抱きついてきたのだ。

バスルームには、すでに湯気が充満していた。
シャワーの音だけが響く狭い空間。
ユビは浴室の椅子に座らされ、小さくなっていた。目の前に立つエマの肢体を、直視できなかったからだ。
豊満な胸、くびれた腰、そして大人の女性の証である秘められた場所。
チラリと視界に入る肌色は、ネットや雑誌で見たどんな画像よりも圧倒的な質量と「匂い」を持っていた。

「身体、洗うわね」
エマはボディスポンジにたっぷりと泡を作ると、それをユビの首筋に押し当てた。
ふわふわの泡と、彼女の手のひらが、肩から背中、そして胸へと滑る。
「っ……」
胸の突起を指先で弄られるように洗われ、ユビは声を漏らして身をよじった。
「くすぐったい?」
「い、いえ……なんか、変な感じで……」
「変な感じ? 気持ちいいんじゃなくて?」
エマは悪戯っぽく微笑むと、泡だらけの手をさらに下へと滑らせた。
腹筋の割れた硬いお腹を撫で回し、そして――当然のように、股間に鎮座する硬いモノへと手を伸ばした。

「すごい。……さっき車でしたばかりなのに、もうこんなになってる」
彼女の手が、泡の潤滑を使ってそれを包み込む。
上下に擦られるたび、ヌルヌルとした快感と熱が背骨を駆け上がる。
「ん、あ……ッ、えま、さん……!」
「ここも綺麗にしなきゃね。……皮も、ちゃんと剥いて」
「み、見ないで……!」
赤ん坊のように扱われる恥ずかしさと、熟れた女性に奉仕される興奮。相反する感情で頭がおかしくなりそうだった。

「はい、おしまい」
シャワーで泡を流されると、エマはスポンジをユビに手渡した。
「次は、私の番」
彼女はユビに背を向けて、同じ椅子に座った。
「洗ってくれる?」
「……はい」 
目の前にある、白くなめらかな背中。
恐る恐るスポンジを当てる。骨格が華奢だ。少し力を入れたら折れてしまいそうなほど。
背中を洗い終えると、エマが振り返った。
「前も、お願い」
彼女は自分の豊かな胸を突き出すようにして、ユビを見つめた。
先端はピンク色に色づき、尖っている。

「……触っていいの?」
ユビが掠れた声で聞くと、エマはユビの手首を掴み、自分の胸へと導いた。
掌(てのひら)に伝わる、水風船のような重量感と柔らかさ。
それはユビの知っている「肉体」とはまるで別物だった。
泡の中で指を動かすと、エマが「ん……」と甘い吐息を漏らした。
「もう、我慢できない……」
ユビが切羽詰まった声で言うと、エマは濡れた瞳で頷いた。

「いいわよ。……ベッドに行きましょう」
二人は泡を洗い流すのももどかしく、濡れた体のままバスルームを出た。

第7章 女神の騎乗、蜜の海
キングサイズのベッドに沈み込むと、シーツの冷たさに背筋が震えた。
だが、すぐに熱い塊が覆いかぶさってきた。
エマがユビを仰向けにさせ、その腰の上に跨がったのだ。
天井の照明が逆光になり、濡れた髪を垂らした彼女の顔が、まるで聖母のように、あるいは淫靡な女神のように見えた。

「ゆび君は、寝てていいの。私が全部やってあげる」
彼女は枕元の小箱から銀色の袋を取り出した。
それを口で破り、躊躇うことなくユビの硬直した自身に被せる。
冷たいゴムの感触と、それを装着してくれる彼女の温かい指先。その対比だけで、ユビの腰が勝手に浮き上がった。
「だ、め……もう、限界……」
「まだよ。これからでしょう?」
  熱くて、狭くて、吸い付くような粘膜の感触が、先端から根元までをゆっくりと飲み込んでいく。

「ん……っ、大きい……」


エマが苦しげに、けれど快感を噛み締めるように顔を歪めた。
すべてが収まった瞬間、二人の恥骨がカチリと重なる音がした気がした。
繋がった。
人妻と、高校生が。
事故の加害者と被害者が。

「……動くわよ」
エマがユビの胸に手を置き、ゆっくりと腰を揺らし始めた。
ぐ、ぐ、と内壁が蠢き、締め付けてくる。
「あ、あっ、すげ……!」
ユビの口から、情けない声が漏れた。
今まで自分で処理していた感覚とは、次元が違った。全身が溶けて、彼女の中に吸収されていくような感覚。
目の前で揺れる豊かな胸。汗とシャワーの水滴が混じり合い、彼女の鎖骨を伝って落ちてくる。
その雫がユビの唇に落ちた。しょっぱくて、甘い味がした。

「見て……私の顔、見て」
エマが喘ぎながら命じた。
「君を食べてるのは、私よ」
彼女が腰の動きを早める。
パン、パン、と濡れた肌が打ち付け合う音が部屋に響く。
ユビは彼女の腰を掴むことしかできなかった。華奢な腰。けれど、自分を支配している絶対的な力。
夫も知らない彼女の表情を、今、自分だけが見ている。

「イク……ッ、もう、出る……!」
早すぎる、と頭のどこかで思ったが、もう止まらなかった。
快楽の波が脳髄を白く染め上げる。
「いいわよ、出して……全部ちょうだい!」
エマが強く締め付けた瞬間、ユビの視界が弾けた。
脈動と共に、自分の中のすべての熱を彼女の胎内へと吐き出す。
何度も、何度も。
エマはそれを余韻ごと愛おしむように、崩れ落ちてユビの胸に顔を埋めた。

静寂が戻った部屋に、二人の重なった心音だけが響いていた。

エピローグ 雨上がり、終わらない衝突
ホテルを出る頃には、雨は小降りになっていた。
帰りの車内、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
けれど、行きとは空気がまるで違っていた。助手席に座るユビの太ももには、時折エマの手が伸びてきて、確かめるように熱を伝えてくる。そのたびに、身体の奥が疼いた。
まだ、彼女の匂いが染み付いている。
大人の女を知ってしまった身体は、もう数時間前の自分には戻れそうになかった。

公園の脇に到着すると、置き去りにしていたバイクが、濡れたアスファルトの上で街灯を弾いて光っていた。
夢の時間は終わりだ。
ユビはシートベルトを外した。
「……送ってくれて、ありがとう」
ぎこちなく礼を言うと、エマはハンドルに頬杖をつき、艶(つや)めいた瞳でユビを見つめた。
「ありがとう、はこっちの台詞よ。……すごく、よかった」
その言葉に、ユビは耳まで赤くなった。
未経験の拙さを、彼女はすべて受け入れてくれた。それどころか、あんなにも乱れて、俺を求めてくれた。

ドアを開け、外の冷たい空気に触れる。
これで、また「他人」に戻るのだろうか。
ユビが言い出せずにいると、エマがパワーウィンドウを下げて声をかけた。
「ねえ、ユビ君」
「……なに?」
「次は、学校の近くまで迎えに行くわ」

ユビは息を呑んで振り返った。
「え……学校?」
エマは悪戯っぽく、けれど逃がさないという意志を込めて微笑んだ。
「バイク通学、禁止なんでしょう? だったら、私が送り迎えしてあげる。……そうすれば、また会えるもの」

それは、ただの不倫関係以上の提案だった。
彼女は、ユビの生活圏に踏み込んでくるつもりだ。
学校の近くで、人妻の車に乗り込む男子高校生。もし誰かに見られたら。もし噂になったら。
リスクは跳ね上がる。けれど、そのスリルこそが、彼女を――そして自分をも興奮させるのだと、ユビは直感した。

「……わかった。待ってる」
ユビが答えると、エマは満足そうに目を細めた。
「いい子ね。じゃあ、また明日」

銀色のセダンが、濡れた路面を滑るように走り去っていく。
残された赤いテールランプの残像が、暗闇の中でいつまでも焼き付いて離れなかった。
ユビは雨上がりの夜空を見上げた。
事故は、終わっていなかった。
あの朝、彼女と衝突したその瞬間から、俺たちはブレーキの壊れたバイクのように、どこまでも堕ちていくしかないのだ。

ユビはヘルメットを被り、エンジンをかけた。
排気音が、今までよりも低く、重く、腹の底に響いた気がした。 完

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