『「78」工学部1年、指の誤算』
2026/02/01(日)
「指(ゆび)、十八歳。今日こそ、俺の指先が桃源郷に触れる日だ」
大学の入学式から一ヶ月、彼はキャンパスの隅っこで、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光を放っていた。狙いはただひとつ。ベタな転倒、あるいは階段での不慮の衝突。それによって引き起こされる、全男子大学生の夢「ラッキースケベ」からの、なし崩し的な童貞卒業である。
しかし、現実は非情だった。工学部のむさ苦しい校舎には、彼が望むような甘い香りは漂っていない。すれ違うのは油の匂いのする同期か、あるいは定年をとうに過ぎたような名誉教授ばかり。
そんな折、彼は大学の裏門にある古びた喫茶店で、ついに「その人」を見つけた。
カウンターの奥で、気だるげに煙草を燻らす年上の女性。タイトなスカートから伸びる脚のラインは、十八歳の童貞が直視するにはあまりに毒気が強すぎた。彼女の名は、教育学部の院生だという。
「……ねえ、君。さっきからこっち見すぎ。何か落ちてる?」
彼女が不意に声をかけてきた。指は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で抑え、喉を鳴らした。これはピンチではない、チャンスだ。何しろ彼女は、自分の「指」という珍妙な苗字を聞いても笑わず、ただ面白そうに目を細めたのだから。
「あ、いや……その、服に、何かついてる気がして」
苦し紛れの嘘をつきながら、指は震える手を伸ばした。もし、ここで彼女がバランスを崩して自分に倒れ込んできたら? あるいは、このまま彼女の部屋に呼ばれるようなミラクルが起きたら? 彼の脳内シミュレーターは、すでに現実を置き去りにしてフル回転を始めていた。
「服に? どこ?」
彼女が椅子から立ち上がり、ぐいっと顔を近づけてくる。洗剤と微かな煙草、そして大人の女性特有のパフュームが混ざり合い、指の鼻腔をダイレクトに突き上げた。
この距離、あと数センチ。彼が夢見た「事故」を起こすには、十分すぎるほどの至近距離だった。
指は勝負に出た。ここでビビって引き下がれば、一生「指」という名前の通りの人生——ただボタンを押したり、スマホをスワイプしたりするだけの脇役で終わってしまう。
「あ、すみません。肩のあたりに……糸くずというか、何かが」
彼は震える右手を伸ばした。プランは完璧だった。わざと重心を崩し、よろけたフリをして彼女の柔らかい肩に触れる。そこから「あ、失礼!」と顔を近づけ、見つめ合う。あわよくば、彼女が椅子から滑り落ちるのを抱き留める形で、その豊かな胸の感触を全身で受け止める。これぞラッキースケベの極致、童貞卒業への特急券だ。
指は意を決して、靴の裏で床を滑らせた。
「おっと……!」
計算通り、彼の体は彼女の方へと大きく傾く。重力に従い、彼女の胸元へと吸い込まれていく頭。鼻腔をくすぐる大人の香りが強まり、指は勝利を確信した。
しかし、現実は彼の妄想よりも遥かに残酷で、物理法則に忠実だった。
「おっと、危ない!」
お姉さんの反応速度は、彼の予想を遥かに上回っていた。彼女は流れるような動作で椅子をバックさせ、同時に指の突進をかわしたのだ。支えを失った指の手は、彼女の柔らかな体ではなく、カウンターの上に置かれたばかりの「氷たっぷりのアイスコーヒー」を直撃した。
ガシャーーーン!
派手な音を立ててグラスが砕け、キンキンに冷えた黒い液体が、指の股間へとダイレクトに降り注ぐ。
「ぎゃああああああっ!?」
股間に広がる、あまりの冷たさと衝撃。そして、ズボンが最悪な色に染まっていく絶望感。指は床に膝をつき、股間を押さえて悶絶した。
「大丈夫!? ああ……なんてこと。すごく冷たいでしょ、それ。ほら、拭いてあげるから」
お姉さんは慌てて大量の紙ナプキンを手に取り、あろうことか、指の股間を遠慮なくゴシゴシと拭き始めた。夢にまで見た女性の手の感触。しかし、そこにあるのは甘いムードなど微塵もなく、ただただ痛い。氷の角が突き刺さり、さらに摩擦で股間がヒリヒリと悲鳴を上げる。
「痛っ! あ、いや、いいです! 自分でやりますから!」
「遠慮しないで。私のせいでもあるし。……でも君、そんなに慌ててどうしたの? まるで私にタックルでもしにくるみたいだったわよ」
お姉さんは少し呆れたような、それでいて全てを見透かしたような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
指は顔を真っ赤にしながら、濡れ鼠のような姿で立ち尽くした。ラッキースケベどころか、ただの「漏らしたような男」に成り下がった自分。童貞の夜明けは、まだ、遠い。
「……ちょっと、それ流石にそのままじゃ帰れないわよ。この後、講義とかあるの?」
お姉さんは、股間を不自然に押さえながら小刻みに震える指を、気の毒そうに、それでいて少し吹き出しそうになりながら見つめた。指はといえば、冷たさと羞恥心のあまり、もはや言葉にならない呻き声を漏らすのが精一杯だった。
「いえ……今日は、もう……終わりです」
「そう。なら、私の家すぐそこだから、来なさい。服、乾かしてあげる。……そんな格好で外を歩いたら、別の意味で捕まっちゃうわよ?」
その提案は、指にとってまさに青天の霹靂だった。 「部屋」という響き。そこに含まれる無限の可能性。股間の冷たさは一瞬で消し飛び、代わりに全身の血液が猛烈な勢いで一点に集中し始める。
「いいんですか!? その、お邪魔しても……本当に!」
「いいわよ。私もコーヒーぶっかけられた被害者だけど、君のその情けない顔を見てたら、なんだか放っておけなくなっちゃって」
彼女はそう言うと、手際よく会計を済ませ、店を出た。 指は、ズボンの染みを隠すようにカバンを前方に抱え、彼女の後に続いた。一歩歩くたびに、濡れた生地が太ももに張り付き、不快なはずなのに、心臓はドラムのように激しく鳴り響いている。
「あ、自己紹介が遅れました。工学部一年の、指渉です」
「知ってるわよ。さっき店員さんに呼ばれてたじゃない。……私は。教育学部の修士、冴子。よろしくね、指くん」
冴子。その名前を反芻するだけで、指の妄想は再び暴走を始めた。 一人暮らしの女性の部屋。そこにはきっと、脱ぎ捨てられた下着や、甘い香りのする石鹸があるに違いない。もしかしたら、濡れたズボンを脱いだ後、「着るものがないからこれ貸してあげる」なんて言って、彼女のTシャツ一枚で過ごすことになるのでは……?
「……何、ニヤニヤしてるの?」
「え!? いえ、何も! 寒さで顔が引き攣ってるだけです!」
指は慌てて表情を正したが、股間のカバンは、先ほどよりも少しだけ持ち上がっていた。
マンションのエレベーターに二人きりで乗り込み、冴子が鍵を取り出す。ガチャリという金属音が、指には楽園の扉が開く合図のように聞こえた。
「……お邪魔します」
指は、聖域に踏み込む巡礼者のような足取りで、冴子の部屋へと足を踏み入れた。 室内は、想像していたよりもずっと「大人の女」の匂いがした。アロマの香りと、少しだけ乱雑に積まれた教育学の専門書。そして、ベランダ越しに差し込む夕日が、部屋を淡いオレンジ色に染めている。
「とりあえず、そのズボン脱いじゃって。洗濯機に入れて、乾燥機回してあげるから」
「えっ、あ、はい! 失礼します!」
指は背を向け、震える手でベルトを外した。心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。今、自分は年上の女性の部屋で、ズボンを脱いでいる。この事実だけで、十八歳の脳細胞は沸騰寸前だった。
「これ、貸してあげる。私の部屋着だけど……まあ、入るでしょ」
投げ渡されたのは、ゆったりとしたシルエットのグレーのスウェットパンツだった。指がそれを受け取ろうと振り返った、その瞬間だった。
冴子が脱水機を確認しようと屈み込み、そのまま床に落ちていた資料に足を滑らせたのだ。
「あ、ちょっと——!」
「えっ、うわっ!」
反射的に手を伸ばした指の胸に、冴子の柔らかな体がダイレクトに飛び込んできた。 ズボンを半分脱ぎかけ、足元がおぼつかない指は、その重さを支えきれずに背後のソファへと倒れ込む。
ドサッ、という鈍い音。
気づけば、指はソファに仰向けになり、その上を冴子が完全に覆いかぶさる形になっていた。 冴子の両手は、逃げ場を失った指の肩を強く掴んでいる。そして、彼女の豊かな胸元が、指の薄いTシャツ越しに、その形をはっきりと主張しながら押し付けられていた。
「い、痛たた……大丈夫、指くん?」
冴子が顔を上げると、そこには至近距離の、潤んだ瞳があった。 彼女の吐息が鼻先にかかる。あまりの柔らかさと、肌から伝わる熱量。指の視界には、彼女の首筋から鎖骨にかけての白いラインが、暴力的なまでの色香を持って迫っていた。
「あ……あの、冴子さん……」
指の右手が、無意識に彼女の腰に回る。 これは、事故だ。不可抗力だ。神が与えてくれた、人生最大のラッキースケベだ。 冴子は動こうとせず、じっと指の目を見つめている。彼女の頬が、わずかに赤らんでいるように見えたのは、夕日のせいだけではないはずだ。
「……君、すごく心臓の音、速いわね」
冴子が少しだけ身を乗り出し、耳元で囁く。その唇が、指の耳たぶに触れそうになった。
指の脳内は、すでに結婚式の賛美歌が流れるほどの爆発的な興奮に包まれていた。 至近距離で見つめる冴子の瞳、重なる体温、そして耳元をくすぐる吐息。これだ。これこそが、俺が追い求めてきた「運命の歯車が噛み合う瞬間」だ!
「あの、冴子さん……俺、もう……我慢できません!」
指は覚悟を決めた。ここで男を見せなければ一生童貞だ。彼は目を固く閉じ、彼女の腰に回した手に力を込め、引き寄せようとした。そして、自分でも驚くほど甘い声で「好きです!」と叫ぼうとした——その時だった。
「わっ、ちょっと、待って……指くん!」
冴子が慌てて身をよじった瞬間、指の指先が、彼女の脇腹の「急所」にピンポイントで食い込んだ。
「あはははっ! ちょっと、やめて! くすぐったいっ!!」
冴子の艶っぽい吐息は、一瞬にして爆笑へと変わった。彼女は激しく身悶えし、指の腕を振り払おうとして暴れる。その結果、指の顔面に彼女の膝がクリティカルヒットした。
「ぶふぉっ!?」
鼻に衝撃が走り、指の視界に火花が散る。しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。彼が顔を押さえてのけぞった瞬間、中途半端に脱ぎかけていた自分のズボンが、足首に複雑に絡まったのだ。
「うわ、あ、あああ!」
もがけばもがくほど、ズボンは自縄自縛のように指の動きを封じていく。バランスを崩した彼は、冴子を乗せたままソファから転げ落ち、そのままフローリングの上を無様に転がった。
「いったたた……指くん、大丈夫? なんで急に脇腹攻めてくるのよ、もう……」
冴子は涙目になりながら笑い転げている。一方の指は、床に這いつくばり、足首をズボンで縛られたまま、鼻血がツーと垂れるのを感じていた。
「ち、がうんです……俺はただ、大人のムードを……」
「あはは! 大人のムードでくすぐり地獄? 斬新すぎるわよ。ほら、鼻血出てる。もう、本当に君って……面白いわね」
冴子はティッシュを差し出しながら、お腹を抱えて笑い続けている。 先ほどまでの官能的な空気は微塵も残っていない。そこにあるのは、世話の焼ける弟を眺めるような、あまりにも健全で、あまりにも「お姉さん」な眼差しだった。
指は鼻にティッシュを詰め込み、ズボンに囚われたまま天井を仰いだ。 「指」という苗字のせいで、指先の感覚だけは敏感だったはずなのに。肝心なところで指が滑り、絶好のチャンスを笑いに変えてしまう。
「冴子さん……俺、もう一回やり直してもいいですか?」
「ダメ。まずはその鼻血を止めなさい」
指の初体験へのカウントダウンは、再びゼロ、いや、マイナスへと引き戻された。
「……もう、ひどい顔。とにかく鼻血を洗ってきなさい。ついでにシャワー浴びちゃえば? その隙にズボン、洗濯機に入れちゃうから」
冴子は笑いすぎた涙を指先で拭いながら、脱衣所を指差した。指は、鼻にティッシュを突っ込んだまま、絡まったズボンをなんとか脱ぎ捨て、借りたスウェットパンツを履いて立ち上がった。
「す、すみません……お言葉に甘えます」
トボトボと脱衣所へ向かう指の背中は、敗戦したボクサーのように丸まっていた。しかし、浴室の扉を閉め、一人きりになった瞬間に彼の瞳には怪しい光が戻った。
(待てよ……これは、さらに高度なラッキースケベへの布石ではないか?)
シャワーを浴びている最中に、冴子が「着替えを忘れてたわよ」と言って扉を開けてしまう。あるいは、シャワーから上がった俺の半裸の肉体(といっても、ひょろひょろの工学部体型だが)に、彼女が不意にときめいてしまう。そんな妄想が、鼻血の止まった脳内を再び駆け巡る。
指は、備え付けのシャンプーの香りに包まれながら、入念に体を洗った。彼女の家にあるシャンプーと同じ匂いになる。それだけで、なんだか彼女の所有物になったような、いけない高揚感があった。
「よし、勝負は風呂上がりだ……」
彼は濡れた髪を無造作にかき上げ、鏡の前で一番マシに見える角度をチェックした。そして、バスタオルを腰に巻いただけの姿で、脱衣所の扉に手をかける。
「冴子さん、お借りしました。……あの、替えのTシャツとかって——」
意を決してリビングへ足を踏み出した指の視界に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
冴子が、ソファの上で完全にくつろぎきっていた。それも、さっきまでの「教育学部の院生」らしい服装ではなく、かなり着古した、首元の伸びきった大きめのロンT姿だ。しかも、片膝を立てて座っているせいで、裾からは彼女の眩しいほど白い太ももが、付け根付近まで露わになっている。
彼女は缶ビールをプシュッと開け、指の方を振り返ることもなく言った。
「あ、そこに置いてある適当なTシャツ着て。……っていうか指くん、意外と細マッチョなのね。でも、そんなところで立ってないで早く着なさい。風邪引くわよ」
あまりにも無防備、かつ、こちらを男として全く意識していないその態度。 指は、腰のタオルがずり落ちそうになるのも忘れて、立ち尽くした。
「あの……冴子さん、その格好……」
「ん? ああ、これ? 楽なのよ。……どうしたの、そんなに顔赤くして。また鼻血出るわよ?」
彼女は悪戯っぽく笑いながら、手元のビールを一口煽った。その喉元が艶やかに動く。 指にとって、これは間違いなくチャンスだった。しかし、あまりの無防備さに、どう攻めればいいのか正解が全く見えない。
「これは、誘っているのか……?」
指の脳内会議は、かつてないほどの激論が交わされていた。 目の前には、ビールの力もあってか、すっかり弛緩した表情でソファに深く沈み込む冴子。ロンTの裾から覗く太ももは、まるで上質な陶器のような白さと滑らかさを放っている。さらに、彼女が腕を上げた拍子に、ゆったりとした首元から彼女の華奢な肩、そしてその奥の「未知の領域」がチラリと顔を覗かせた。
指は、腰のバスタオルがずり落ちそうになるのを必死に片手で押さえながら、ごくりと唾を飲み込んだ。 もし、ここで自分が隣に座り、「手が滑った」ふりをしてその太ももに触れたら? あるいは、男らしく彼女の肩を抱き寄せ、「冴子さん、俺、もう我慢できません」と耳元で囁いたら?
「……あの、冴子さん」
指は、あえて低めの、自分なりに「男」を感じさせる声を出した。そして、一歩、また一歩とソファに近づく。タオル一丁の半裸という、本来なら通報レベルの姿だが、今の彼にとってはそれが最強の戦闘服のように思えていた。
「んー? 何、指くん。まだ鼻血出る?」
冴子は、眠そうな目で指を見上げた。その無防備な視線が、指の理性の防波堤を粉々に砕く。
「……違います。俺、子供扱いされるのは、もう嫌なんです」
指は、決死の覚悟でソファの端に腰を下ろした。ドクンドクンと脈打つ音が、部屋中に響いているのではないかと思うほど激しい。彼は手を伸ばした。標的は、その眩しい太もも。自分の苗字である「指」にすべての魂を込め、優しく、かつ大胆にその肌に触れようとした、その時だ。
「あ、そうだ。指くん、そのTシャツ着る前にこれ見て」
冴子が不意に体を起こし、テーブルの上の資料を手に取ろうと身を乗り出した。 その突発的な動きに、指は完全に虚を突かれた。伸ばした指先は空を切り、さらに運の悪いことに、彼の座った位置はソファのちょうど「沈み込みやすい境目」だった。
「わっ!?」
重心を崩した指の体は、そのまま冴子の方へと倒れ込む。 「ラッキースケベ発動!」と脳内で誰かが叫んだ。しかし、現実は非情だ。 彼の体は、冴子の柔らかな胸元ではなく、彼女が手に持っていた「飲みかけのビール缶」を真っ向から迎え撃つ形になった。
ベチャッ!!
「ひゃうっ!?」
冴子の短い悲鳴と共に、キンキンに冷えた黄金色の液体が、今度は指の顔面から胸板にかけて盛大にぶちまけられた。さらに、その衝撃で指が慌てて立ち上がろうとした瞬間、足元のラグに指の爪が引っかかる。
「あ、あわわわ!」
必死にバランスを取ろうと振り回した腕が、今度は自分の腰のバスタオルを引っ掴んでしまった。
パサッ。
無情な音と共に、指を唯一守っていた最後の砦が床に落ちる。 「……あっ」 時が止まった。 リビングの真ん中で、全身ビールまみれの全裸で立ち尽くす、十八歳の大学生。 そして、その目の前で、ビールの空き缶を握りしめたまま、口をあんぐりと開けて固まっている綺麗なお姉さん。
「……指くん」
「……はい」
「……その、なんだ。……元気、ね」
冴子の視線は、指の顔ではなく、彼が隠し通せなかった「男のプライド」へと釘付けになっていた。 絶望的な沈黙。指は、自分の名前が「指」ではなく「全身」と名乗りたいほど、その場から消えてなくなりたかった。
「……あ」
指の思考回路は、ビールのアルコールを摂取する前に、その「絵面」の破壊力によって完全に焼き切れた。 静まり返ったリビング。立ち込める麦芽の匂い。そして、天井のLEDライトに照らされ、文字通り一物の曇りもなく曝け出された自分。あまりの羞恥に、指は逆に動けなくなった。逃げるためのバスタオルは足元に無残に転がり、ビールを吸って重たくなっている。
対する冴子は、手に持った空き缶を凝視したまま、彫刻のように固まっていた。彼女の視線が、指の顔からゆっくりと下がり、ビールの泡が伝う「彼」の先端でぴたりと止まる。
「……元気、ね」
その言葉が、熱を帯びた空気の中で反芻される。 「元気」なんてレベルではない。絶望的な失敗を繰り返しながらも、本能だけは「綺麗なお姉さんの部屋」というシチュエーションに忠実に反応し、天を衝くような勢いで自己主張を続けていた。
「ち、がっ、あ、あの……これは、その! 物理現象というか、不可抗力というか!」
指はパニックになり、何をトチ狂ったのか、両手で顔を隠した。隠すべき場所はそこではない。 そんな彼の様子を見て、冴子の肩が微かに震え始めた。
「ぷっ……あははははは! 指くん、君、最高だわ!」
彼女はソファに突っ伏して、今日一番の爆笑を上げた。 「待って、もう無理。ビールまみれで全裸で仁王立ちって……どんな高等なギャグなのよ。しかも、そんなに堂々と『準備完了』みたいな顔されちゃって……っ!」
「笑わないでください! 俺は至って真面目に……いや、真面目っていうのも変ですけど!」
指は顔を真っ赤にし、ようやく腰を屈めてバスタオルを掴み取った。しかし、濡れたタオルは吸着力が強く、うまく体に巻き付かない。もたつく彼の姿は、まるで生まれたての小鹿のようだった。
笑いすぎて涙を浮かべた冴子が、ようやく顔を上げた。その瞳には、先ほどまでのような単なる「面白がっている」だけではない、どこか湿り気を帯びた色が混じっていた。
「……でも、そうだよね。男の子だもんね。こんなに近くで、お姉さんが無防備にしてたら……そうもなるか」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ビールの空き缶をテーブルに置いた。 一歩、彼女が近づく。指はタオルを胸元に抱えたまま、後ずさりした。背中が壁に当たる。
「冴子……さん?」
「ビール、ベタベタでしょ。もう一回、今度は私がちゃんと洗ってあげようか?」
彼女の手が、指の濡れた胸板にそっと触れた。ビールの冷たさとは対照的な、驚くほど熱い体温。彼女の指先が、彼の鎖骨のラインをなぞり、ゆっくりと下方へと滑っていく。
指の心臓は、もはや爆発寸前だった。 ラッキースケベからの、なし崩し的な誘惑。これは夢か、それともビールの匂いが見せる幻覚か。
「……指くん。指(ゆび)って名前なのに、ちっとも器用じゃないのね」
彼女が耳元でそう囁き、指の耳たぶを甘く噛んだ。 その瞬間、指の理性の糸は、パチンと音を立てて弾け飛んだ。
指の脳内では、全宇宙の物理法則が書き換わっていた。耳元で囁かれた甘い吐息と、胸元を這う彼女の指先の温度。ビールまみれの全裸という、人生で最も惨めなはずの状況が、彼女の瞳に灯った熱情ひとつで「究極のシチュエーション」へと反転したのだ。
「冴子さん……俺、もう、後悔したくないんです」
指は、震える手で彼女の細い腰を抱き寄せた。ビールの匂いが混じり合う中、彼は自分の名に恥じぬよう、持てるすべての感覚を指先に集中させる。彼女のロンTの裾に指をかけ、ゆっくりと、しかし確かな意思を持って押し上げた。
露わになる、彼女の柔らかな曲線。指の視界は白く霞み、心臓の音はもはや爆発音に近い。
「……いいよ。指くんの『指』が、どこまで器用か、見せて?」
冴子が挑発するように唇を寄せる。二人の唇が重なるまで、あと数ミリ。指はついに、十八年間の乾きを癒やす黄金のゴールテープに手をかけた——はずだった。
指は目を閉じ、彼女の唇を奪おうと顔を寄せた。しかし、その瞬間、彼の鼻腔を突き抜けたのは、甘いパフュームの香りではなく、強烈な「自分の匂い」だった。
(……待て、俺、今、めちゃくちゃビール臭いぞ!?)
一度気になると、もう止まらない。自分から漂う、飲み屋の床のような発酵した麦芽の匂い。さらに、彼女に抱きついたせいで、冴子の白い肌やロンTまでもがベタベタのビールまみれになっている事実に気づいてしまった。
「あ、あの! 冴子さん、すみません! 俺、今、すごく臭いですよね!? 汚しちゃいましたよね!?」
「えっ? ああ、もうそんなのいいから……」
「ダメです! 記念すべき一回目が『ビール臭い事故』で終わるなんて、俺のプライドが許さない!」
指は、絶好のチャンスを自ら中断し、パニック状態で彼女を抱き上げた。お姫様抱っこのように優雅に決めたかったが、いかんせん全裸でビールまみれの彼は滑りやすく、危うく彼女を床に落としそうになる。
「何、何するのよ!?」
「シャワーです! 一緒に浴びて、全部綺麗にしてから……出直します!」
指は、呆気に取られる冴子を抱えたまま、勢いよく浴室へと駆け込んだ。しかし、気合が入りすぎていた。ビールの付着した床と、彼の濡れた足の相性は最悪だった。
「おわぁぁっ!?」
浴室の入り口で派手に滑った指は、冴子を抱えたまま、魚が跳ねるような不恰好なジャンプを見せ、そのまま浴槽へとダイレクトにダイブした。
「痛っ……もう、指くん! 落ち着いてって言ってるでしょ!」
「……すみません」
お湯の入っていない冷たい浴槽の中で、重なり合う二人。シャワーの蛇口が衝撃で開き、冷たい水が容赦なく二人を叩く。しかし、その冷たさが逆に、指の覚悟を真っ赤に燃え上がらせた。
「……冴子さん。水浸しですけど、このまま、続けていいですか」
前髪から滴る水滴を拭い、指は今度こそ、逃げ場のない至近距離で彼女を見つめた。冴子は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにクスクスと笑い、彼の首に手を回した。
「……不器用な指くん。もう、逃がさないからね」
冷たいシャワーの音にかき消されながら、指はついに、十八年分の妄想を現実へと変える「最後の一歩」を踏み出した。
シャワーから溢れ出す水滴が、二人の肌を容赦なく濡らしていく。最初はキンキンに冷たかった水も、給湯器がようやく追いついたのか、次第に心地よいぬるま湯へと変わっていった。狭い浴槽の中で、指(ゆび)の膝と冴子の太ももが複雑に絡み合い、逃げ場のない密室の熱気がさらに高まっていく。
「……指くん、まだ震えてる」
冴子が、水に濡れて張り付いた指の髪を優しくかき上げた。指は、自分の心臓の音がシャワーの音よりも大きく響いているのではないかと本気で心配した。目の前には、水も滴る、という言葉を体現したような冴子の姿。濡れたロンTは完全に透け、彼女の身体のすべての起伏を露骨に、そして残酷なまでに美しく描き出していた。
指は、震える右手を伸ばした。苗字の通り、彼の指先だけは不思議なほど敏感に、彼女の肩から背中にかけての滑らかな曲線をなぞっていく。ビールの匂いはいつの間にか消え、代わりに湯気と共に立ち上る彼女の甘い体温が、彼の理性を最後の一片まで溶かしていった。
「冴子さん、俺……不器用だけど、精一杯、大切にします」
その言葉は、十八歳の彼が出せる精一杯の「男」の証明だった。冴子は一瞬、慈しむような、それでいてどこか切ないような表情を浮かべ、指の首筋にそっと腕を回した。
「……いいよ。全部、教えてあげる」
彼女の唇が再び重なった瞬間、指の視界は真っ白に染まった。 もはやラッキースケベという言葉では片付けられない、圧倒的な現実の重み。指は、彼女の柔らかな肌の弾力、耳元で漏れるかすかな吐息、そして、初めて触れる「女性」という未知の小宇宙に、ただただ圧倒されていた。
指の器用な、けれど経験のない指先が、彼女の肌を慎重に探索していく。一箇所に触れるたび、彼女の体が小さく跳ねる。その反応ひとつひとつが、彼にとっての福音だった。彼は夢中で、けれど壊れ物を扱うような手つきで、彼女との距離をゼロにしていった。
工学部の講義で習うどんな複雑な数式よりも、その瞬間の感覚は生々しく、そして混沌としていました。
少し底の浅いプラスチック製の浴槽。そこに二人で収まるにはあまりに窮屈で、指の膝は何度も壁に当たり、冴子の肘は蛇口に触れそうになっていました。けれど、その不自由さが逆に、お互いの肌の距離を限界まで縮めさせたのです。
「……指くん、そこじゃないわよ」
冴子の呆れたような、けれど慈しむような声が、水の音に混じって鼓動を叩きます。指は、自分の名前に反して全く思い通りに動かない自分の「指」と身体に絶望しそうになりながらも、彼女の柔らかな導きに必死にしがみつきました。
ぬるいシャワーが二人の背中を叩き、浴槽の底には少しずつ水が溜まっていく。滑りやすい肌と、必死にバランスを保とうとする指の腕。ラッキースケベを夢見ていた頃の彼なら、もっと華やかで甘い光景を想像していたでしょう。しかし、現実はもっと泥臭く、必死で、そして信じられないほど熱いものでした。
シャワーヘッドは、指が滑り落ちた際に中途半端な向きで固定され、二人の頭上から容赦なく水を浴びせ続けていた。冴子の濡れたロンTは、もはや皮膚の一部のように彼女の肢体に張り付いている。指が震える手でその裾を掴むと、彼女は自ら腕を上げ、窮屈な空間でその布を脱ぎ捨てた。
「……指くん、こっち見て」
促されるまま顔を上げると、そこには湯気と水滴に濡れた、完璧なまでの「大人の女性」がいた。工学部の無機質な講義室では決して拝めない、生命感に満ちた曲線。指は、自分の心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほどの衝撃を受けた。
彼は、自分の名前の由来でもある「指」を、今度こそ慎重に動かした。彼女の脇腹から背中へと這わせる。しかし、ビールの糖分が肌に残っているせいか、あるいは極度の緊張のせいか、指先はどうしてもぎこちない。彼女の肌に触れるたび、指は自分が「触れている」のか、それとも「震えている」だけなのか分からなくなった。
「あ、すみません……また、変なところに手が……」
「いいよ。……そんなに謝らないで」
冴子は、指の不器用な手を取り、自分の熱を帯びた肌へと導いた。指は、彼女の柔らかな弾力と、その奥に感じる確かな鼓動に圧倒される。ラッキースケベという「事故」ではない、明確な意思を持って触れ合うという行為。それは彼が夢見ていた「棚ぼた」の快感よりも、ずっと重く、切実なものだった。
狭い浴槽の縁に頭をぶつけ、蛇口の冷たい金属に背中をこすりつけながら、二人は重なり合った。指は、自分がどこに力を入れればいいのか、どう動けばいいのかも分からず、ただ本能に突き動かされるまま、彼女の導きに従った。
「冴子、さん……俺、俺……!」
「……大丈夫。全部、私に預けて」
彼女の声が耳元で甘く響く。その瞬間、指は自分の「最後の一線」が、音を立てて崩れるのを感じた。
激しく降り注ぐシャワーの音が、彼の拙い吐息をかき消していく。 これまで彼を縛り付けてきた「童貞」という名の呪縛。それが、彼女の体温と混ざり合い、排水口へと流れていく水と共に消えていく感覚。痛みと、それ以上に強烈な、全身の細胞が沸騰するような熱狂。
指は、彼女の肩に深く顔を埋めた。鼻腔を突くのは、ビールの匂いと、石鹸の香りと、そして冴子自身の生々しい香りだ。彼は夢中で彼女の身体を抱き寄せた。自分の指が、彼女の背中のラインを必死になぞる。器用さなんてどこにもなかったけれど、そこには十八年間の想いのすべてがこもっていた。
「……終わった、のかな」
どれくらいの時間が経っただろうか。指が掠れた声で呟くと、冴子は彼を抱きしめたまま、優しく、けれど少しだけ意地悪そうに笑った。
「……ううん。これからよ、指くん」
浴槽の底に溜まった水は、二人の体温を吸っていつの間にか心地よい温度に変わっていた。指渉、十八歳。彼は今、工学部のどの先輩も成し得なかった「不可能の突破」を、この名もなきマンションの浴室で成し遂げたのだ。
痛みと驚き、そしてそれらをすべて塗りつぶすような未知の衝撃が指の全身を駆け抜けたとき、彼は自分が「昨日までの自分」とは決定的に違う場所へ辿り着いたことを悟りました。
「……はぁ、もう。本当に君って、最後までドタバタなんだから」
そう言って笑う冴子の顔は、湿気で少し上気し、今まで見たどんな女性よりも綺麗に見えました。指は、自分がついに「卒業」したのだという実感を、彼女の体温と、浴槽の縁を掴む自分の指先の感触から噛み締めていたのです。
「終わった……俺、ついに、成し遂げたんだ」
ぬるくなった湯船の中で、指(ゆび)は放心状態で天井を見つめていた。視界がこれまでにないほどクリアに感じられる。工学部の難しい公式も、今なら解ける気がする。何より、隣にいる冴子の柔らかな肌の感触が、自分が「男」になった証として全身に刻まれていた。
「……ねえ、指くん。いつまでそうしてるの? のぼせちゃうわよ」
冴子が、水を含んで重たくなった前髪をかき上げながら立ち上がった。その無防備な立ち姿に、指は再び心臓が跳ねるのを感じた。ここでぼーっとしている場合ではない。卒業したばかりの「一皮剥けた男」として、彼女にエスコートのひとつでも見せるべきだ。
「冴子さん、待ってください。俺が先に上がって、タオルを用意します!」
指は、ヒーロー映画の主人公のような爽やかな笑顔(のつもり)を浮かべ、勢いよく浴槽の縁に手をかけた。今の自分には、これまでの「どん臭い指」はもういない。全能感に満ち溢れた彼は、一気に浴槽の外へと飛び出そうとした。
しかし、現実は非情だった。
彼の「指」先は、先ほどぶちまけたビールの糖分と、石鹸の泡、そして浴槽から溢れた水が絶妙なバランスで混ざり合った「超低摩擦ゾーン」を捉えてしまったのだ。
「おっと——!?」
右足が空を切り、左足が石鹸の泡の上で華麗にスライディングを開始する。指は、あろうことか冴子の目の前で、生まれたての小鹿が氷の上でダンスを踊るような無様なポーズを披露した。
「わわ、指くん!? 危な——」
冴子が手を伸ばした瞬間、指はバランスを取り戻そうと、反射的に目の前にあった「何か」を掴んだ。それが、浴室の壁に設置されたシャワーホルダーから伸びる、金属製のシャワーホースだったのが運の尽きだ。
ガコッ! という鈍い音と共に、シャワーヘッドがホルダーから外れ、生き物のように暴れ出した。
「うわあああっ!?」
指がホースを掴んだまま床に尻餅をつくと同時に、蛇口のレバーが彼の肘に直撃し、設定温度が「MAX」へと一気に跳ね上がる。
「熱っ! 熱い熱い熱い!!」
噴水のように噴き出したのは、文字通りの熱湯だった。指は全裸で床をのたうち回り、熱湯から逃げようとして、再び放置されていたバスタオルに足を引っ掛けた。結果、彼はタオルを体に巻くのではなく、頭から「被る」形で、浴室の隅にある洗濯カゴの中にスッポリと逆さまに突き刺さった。
「……指くん、大丈夫?」
浴室に立ち込める白い湯気の中、冴子が呆れ果てた様子でシャワーを止めた。
洗濯カゴから突き出た、ビールの匂いが微かに残る指の足が、虚しく宙を蹴っている。 「……冴子さん、すみません。……俺、やっぱりまだ、指先まで神経が通ってないみたいです」
カゴの中から籠った声でそう呟く指に、冴子はついに我慢しきれず、浴室中に響き渡るような大爆笑を上げた。
「あははは! 卒業した瞬間に洗濯物になっちゃうなんて……指くん、君、一生かかっても私を飽きさせないつもり?」
指、十八歳。 念願の卒業を果たした直後の初仕事は、洗濯カゴからの脱出と、全身に浴びた熱湯による「真っ赤な茹でダコ状態」の冷却だった。
洗濯カゴの中に逆さまに突き刺さり、茹で上がったカニのように真っ赤になった指(ゆび)の足を、冴子はしばらく眺めていた。笑いすぎてお腹を抱え、床に座り込んでいた彼女だったが、ようやく呼吸を整えると、カゴの縁に手をかけて身を乗り出した。
湯気の中で、彼女の濡れた瞳が指の足先から、カゴの隙間に挟まった情けない顔へとゆっくり移動していく。
「……ねえ、指くん」
彼女は、火照った指の頬に、冷えた指先を優しく添えた。そして、逃げ場のない彼にトドメを刺すように、とびきり甘く、けれど残酷なまでに楽しげな声でこう言った。
「君の『指』、卒業制作としては、ちょっと単位が足りなかったみたいね。……しょうがないなあ。再履修、今すぐベッドで受け付けてあげるから、早くそこから出てきなさい?」
その言葉は、指の脳内にあった工学部の全知識を消し飛ばすのに十分だった。
「さ、再履修……!?」
洗濯カゴの中で、指の心臓が再びマッハの速度で鼓動を刻み始める。今の情けない自分を嘲笑うのではなく、さらなる深淵へと誘うお姉さんの抱擁。
指は、もはや自分がビール臭いことも、全身が熱湯でヒリヒリしていることも忘れ、ガサゴソと必死にカゴから這い出た。その目は、獲物を狙う鷹……というよりは、ご褒美を待つ大型犬のようだった。
「……冴子さん、俺、留年してでも通い詰めます!」
「ふふ、バカね。留年はさせないわよ。……でも、夜は長いから。覚悟しなさい?」
彼女は指の鼻先をツンと突き、濡れた身体のまま、今度こそゆったりとした足取りで寝室へと向かった。
指渉、十八歳。大学の単位よりも先に、彼は「大人の放課後」という、あまりにも甘美で危険な集中講義に没頭することになった。
再履修という名の、あまりにも甘美な特別講義。
洗濯カゴから這い出した指は、バスタオルを腰に巻く暇さえ惜しんで冴子の後を追った。扉を開けた先の寝室は、月明かりと街灯の光が混じり合い、彼女の肌をシルクのような光沢で浮かび上がらせている。
「……指くん、こっち」
ベッドの端に腰掛けた冴子が、シーツを軽く叩く。指は誘われるまま、彼女の隣へと滑り込んだ。浴室でのドタバタ劇が嘘のように、彼女の纏う空気は静かで、深い。
指は、自分の苗字の由来であるその「指先」を、今度は震わせることなく彼女の頬に寄せた。 「さっきは……すみませんでした。俺、かっこいいところ見せたかったのに」
「いいよ。かっこいい指くんより、一生懸命な指くんの方が、私をドキドキさせるって分かったし」
冴子の手が、指の胸元にそっと置かれる。そこから伝わる心臓の鼓動。十八歳の純情が、彼女の掌を突き破らんばかりに跳ねていた。指は今度こそ、工学部の計算機よりも正確に、彼女の望む場所を探り当てようとした。
一回目は、事故のような、濁流に飲み込まれるような感覚だった。 けれど、二回目からは違った。 指の指先が、彼女の鎖骨、脇腹、そして腰の曲線へと滑るたび、冴子の喉から熱い吐息が漏れる。その小さな反応が、指にとっては何よりの教科書となった。
「……あ、そこ……上手、ね」
冴子の掠れた声に、指の理性が再び焼き切れる。 「本当ですか? ……なら、もっと」
彼は夢中で彼女を求めた。シーツが擦れ、絡み合う足。狭い浴槽では叶わなかった、自由で、かつ大胆な探求。冴子の白い肢体が、指の動きに合わせて弓なりにしなり、彼女の爪が指の背中に食い込む。その痛みさえも、彼にとっては「生きている」という確信に変わった。
深夜二時。 三回目の講義が終わる頃には、二人の身体は汗と石鹸の香りで混じり合い、もはや境目すら分からなくなっていた。
「指くん……君、スタミナだけはあるのね」
「……工学部は、実験で徹夜に慣れてますから」
強がってみせた指だったが、その指先は心地よい疲労で小刻みに震えていた。冴子はそんな彼を愛おしそうに見つめると、今度は自分が上になるようにして、指の耳元に唇を寄せた。
「じゃあ……朝まで、終わらせてあげない」
その一言が、指の眠りかけていた細胞を再び呼び覚ます。 窓の外で、遠くの始発電車が動き出す音が聞こえるまで。 あるいは、空が白み始め、鳥たちが鳴き出すその瞬間まで。
指(ゆび)の指先は、彼女という広大な地図を、何度も、何度も書き換え続けた。 十八年間の「童貞という空白」を埋め尽くすように。
カーテンの隙間から差し込む容赦ない朝日が、指(ゆび)のまぶたを貫いた。
「……あ、う……」
指は、自分が人間であることを思い出すのに数分を要した。身体が重い。重力の設定がいつもの三倍くらいになっている気がする。全身の関節という関節が、まるで錆びついた歯車のように軋みを上げていた。
彼は、枕に顔を埋めたまま、昨夜の記憶を断片的に繋ぎ合わせた。 浴槽での衝撃的な卒業、洗濯カゴへのダイブ、そして……そこから始まった、朝までの地獄のような、あるいは天国のような「再履修」。
指の「指」は、もう動かない。指先ひとつ動かそうとするだけで、脳が「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げる。彼は文字通り、真っ白な灰、あるいは中身を全部吸い取られた蝉の抜け殻のようになって、シーツの上に転がっていた。
「……あ、おはよう。死んでるかと思った」
背後から、あまりにも爽やかな、そして艶のある声が聞こえた。 指が首だけをギギギと機械的に回転させると、そこには、すでにシャワーを浴び終えたのか、濡れた髪をバスタオルで拭きながら、これ以上ないほど血色の良い顔をした冴子が立っていた。
「さ、冴子、さん……おはよう、ございます……」
「何その声。おじいちゃんみたいよ?」
冴子はクスクスと笑いながら、ベッドの縁に腰掛けた。彼女の肌は、昨夜の「講義」の影響か、内側から発光しているような透明感を放っている。完全に脱殻となった指とは対照的に、彼女はまるで高級エステにでも行ってきたかのような充実感に満ち溢れていた。
「工学部のスタミナ、期待してたんだけど。……一晩でこれじゃ、単位はあげられないわね」
「……あ、あはは。……す、すみません……」
指は、情けない返事しかできなかった。昨夜、あんなに大胆に彼女の身体を求めた自分は、一体どこへ行ってしまったのか。今の彼は、ただの「干からびた大学生」に過ぎない。
「ほら、トースト焼けたわよ。食べて元気出しなさい。……それとも、あーんしてあげようか?」
冴子が顔を近づけてくる。その瞳には、昨夜の熱を帯びた色気と、指をからかう悪戯っぽさが同居していた。
指は、彼女の美しさに改めて気圧され、布団の中に顔半分を沈めた。 ラッキースケベを夢見ていた頃は、こんな「事後」の脱力感なんて想像もしなかった。けれど、この全身を襲う心地よい怠さと、隣で笑うお姉さんの温度。それは、彼が妄想していたどんなスケベ展開よりも、ずっと「生きてる」実感に満ちていた。
「……冴子さん、俺。……今日、大学サボってもいいですか」
「ダメ。一限、あるんでしょ? ……ほら、立ちなさい。指くん」
彼女の指先が、指の鼻先をピンと弾いた。 指渉、十八歳。 昨日までの「童貞・指渉」は、昨夜のシーツの中に置いてきた。 彼は、震える足で立ち上がり、新しい自分の一日を、まずは一枚のトーストから始めることにした。
「……じゃあ、本当に行くのね?」
マンションの玄関先で、冴子はドアにもたれかかりながら、指(ゆび)の少しよれたシャツの襟を整えた。その手つきは、どこか手慣れた妻のようでもあり、遊び疲れた子供を送り出す母親のようでもあった。
指は、膝が笑い、視界がときおり白く霞むほどの極限状態にいたが、彼女の指が触れるたびに、枯れ果てたはずの活力が細胞の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。
「はい。……一限、落とすと親に殺されるので。工学部は出席に厳しいんです」
「ふふ、真面目ねえ。……でも、そんなにフラフラで、大学の門まで辿り着けるのかしら」
冴子は、指の胸元にそっと手のひらを置いた。昨夜、何度も重ね合わせたその場所。彼女の瞳が、ふっと悪戯っぽく、そして少しだけ独占欲を滲ませた色に変わる。
「あの、冴子さん。……俺、また、来てもいいですか?」
指は、意を決して尋ねた。喉がカラカラに乾いていたが、これだけは確認しなければならなかった。これは一夜限りの「ラッキースケベの延長戦」だったのか、それとも——。
冴子は少しだけ間を置くと、指の耳元にそっと唇を寄せ、周囲には聞こえないほど小さな声で囁いた。
「再履修は一度で終わると思ったら大間違いよ、指くん。……来週の金曜日。同じ時間に、またあの喫茶店にいて。もし一分でも遅れたら、他の『教え子』探しちゃうから」
「……っ! 絶対に、一秒も遅れません! 講義が終わったら秒速で向かいます!」
指は、鼻血が出そうになるのを必死で堪え、直立不動で宣言した。 冴子は満足そうに微笑むと、彼の背中をポンと叩いて外へと送り出した。
「期待してるわよ。……今度は、最後まで腰が砕けないように鍛えておきなさい?」
背後で閉まったドアの音。 指渉、十八歳。 五月の爽やかな風が、ビールと石鹸の香りが微かに残る身体を通り抜けていく。
彼は、一歩踏み出すたびに激痛が走る下半身を叱咤激励しながら、キャンパスへと向かう坂道を登り始めた。すれ違う男子学生たちが、皆、昨日までの自分のように「どこかにエッチなハプニングはないか」と血眼になっているのが分かる。
(……悪いな、お前ら。俺は一足先に、その先へ行くよ)
指は、ポケットの中で自分の「指」をそっと握りしめた。 次の金曜日まで、あと一週間。 工学部のどの公式よりも難解で、どの実験よりも情熱的な「集中講義」に向けて、彼の長い特訓の日々が今、始まったのだ。
完
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