「82」共犯者の食卓

2026/02/05(木)
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「指(ゆび)」という自分の名前が大嫌いだった。十六年間の人生で、一度だってこの名前を呼ばれて誇らしい気持ちになったことなどない。出席をとる教師の戸惑うような声も、初対面の相手からの「え、指くん?」という聞き返しも、すべてが少年の自尊心を削り取ってきた。

そんな指の平穏でパッとしない日常が、夏の湿り気を帯びたある日の夕暮れ、唐突に終わりを告げた。

仕事から帰るなり、父親がリビングで妙に背筋を伸ばして座っていた。食卓には、いつもの惣菜パンやコンビニ弁当ではなく、見たこともないような華やかな手料理が並んでいる。父は、十六歳の息子が抱く「童貞特有の鋭すぎる違和感」を察してか、喉の仏を一度大きく上下させてから切り出した。

「指、驚かないで聞いてくれ。父さん、再婚したんだ」

その瞬間、指の思考は停止した。再婚? 相手は? まさか、あの不器用な父が。混乱する頭を整理する暇もなく、キッチンの奥から一人の女性が姿を現した。

「はじめまして、指くん。今日からよろしくね」

そこにいたのは、父の再婚相手という言葉から想像していた「落ち着いた淑女」では断じてなかった。Tシャツの裾をラフに結び、ジーンズから伸びる足は眩しく、何よりその顔立ちは、指が通う高校の憧れの先輩よりもずっと大人びていて、それでいて二十代前半の瑞々しさに溢れていた。

美咲、と父が呼んだその女性は、指との距離を詰めて屈託なく笑う。わずかに漂う石鹸の香りと、薄手の服越しに感じる「若さ」という圧倒的な質量。指は、自分の名前を呼ばれた瞬間の恥ずかしさも忘れ、ただ呆然と立ち尽くした。

十六歳、童貞。人生最大の試練は、思わぬ形で、そしてあまりにも若く美しい義母という形で、指の目の前に現れたのだ。

翌朝、指は自室の天井を見つめながら、昨夜の出来事がたちの悪い夢ではなかったことを悟った。カーテンの隙間から差し込む陽光が、いつもより残酷に明るい。階下からは、聞き慣れた父の足音に混じって、軽やかでリズムの違うスリッパの音が聞こえてくる。

重い体を引きずるようにしてドアを開け、リビングへ向かう。廊下を曲がった瞬間、指の鼻腔をくすぐったのは、長年この家に染み付いていた「男二人暮らし」の饐えた匂いではなく、焼きたてのパンと、どこか甘く爽やかなシャンプーの混じり合った香りだった。

「あ、指くん! おはよう。よく眠れた?」

キッチンカウンターから身を乗り出した美咲は、昨夜のよそ行きとは違う、オーバーサイズのTシャツ一枚というあまりに無防備な姿だった。首元から覗く白い鎖骨と、朝の光を浴びて透き通るような肌。指は反射的に視線を床に落とした。十六歳の男子にとって、視界に入る情報のすべてが毒であり、同時に抗いがたい劇薬でもあった。

父はすでに仕事へ出たのか姿がなく、広いリビングには指と美咲の二人きり。食卓には、カフェのような朝食が並んでいる。指は椅子を引き、できるだけ彼女と目を合わせないようにトーストを口に運んだ。しかし、美咲は構わず彼の向かいに座り、身を乗り出してくる。

「学校、今日から大変だよね。お弁当、作ってみたんだけど……口に合うかな?」

差し出された色鮮やかな弁当箱に、指は喉を鳴らした。昨日の今日で、どうしてこれほど「母親」を演じようとできるのか。それとも彼女にとって、八歳しか違わない息子を持つことは、ままごとの延長のような遊びなのか。

指は返事もできず、ただ熱いコーヒーを流し込んだ。胃の腑に落ちる熱さが、自分の心臓がうるさいほどに脈打っていることを教えてくれる。昨夜まで自分の一部だったはずの「指」という名前が、彼女の唇からこぼれるたびに、全く別の意味を持って響くような気がして、彼はただ困惑の中に沈んでいった。

美咲は頬杖をつきながら、トーストを咀嚼する指の様子をじっと観察していた。その視線があまりに真っ直ぐで、指は自分が動物園の檻の中に放り込まれた珍獣になったような気分になる。

「……何ですか」

耐えきれずに絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、ひび割れていた。美咲は「あはは、ごめん」と悪びれもせずに笑い、テーブル越しに身を乗り出してくる。彼女が動くたびに、Tシャツの広い襟ぐりが危うい角度で傾き、指は慌てて視線をマグカップの縁に固定した。

「指くんって、意外とまつ毛長いんだなと思って。お父さんに似たのかな?」

「父さんは、もっと薄い顔ですよ」

「そう? 私は二人とも似てると思うけどな。なんていうか、二人とも目が泳ぐところがそっくり」

彼女はそう言って、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。その仕草一つに、十六歳の童貞が積み上げてきたなけなしの防衛本能が、砂の城のように脆く崩されていく。指はたまらず立ち上がり、空になった皿をシンクへ運ぼうとした。しかし、背後から伸びてきた美咲の手が、指の指先にそっと触れる。

「あ、いいよいいよ、私がやるから。指くんは学校の準備して?」

指先が触れ合った瞬間、指の全身に電流のような戦慄が走った。美咲の手は驚くほど柔らかく、そして温かい。彼は弾かれたように手を引き、皿をカウンターに置いた。美咲はそんな彼の過剰な反応を気にする風でもなく、鼻歌混じりに蛇口をひねり始めた。

水の流れる音を聞きながら、指は逃げるようにリビングを後にしようとする。だが、背中に向かって彼女の弾んだ声が追いかけてきた。

「指くん! 放課後、もし暇だったら一緒にスーパー行かない? ほら、この家の冷蔵庫、男物ばっかりで寂しいから」

「……気が向いたら」

それだけ答えるのが精一杯だった。階段を駆け上がる足音が、自分の心音と重なって異様に大きく響く。自室に逃げ込み、ドアに背中を預けてズルズルと座り込むと、手のひらにはまだ彼女の指先の感触が、呪いのように熱く残っていた。

一時間目の数学の授業、黒板を流れる数式はただの記号の羅列として指の脳を通り過ぎていった。ノートの余白には、無意識のうちに「指」という自分の名前を何度も書きなぐっている。昨夜から今朝にかけて、その名前を呼んだ彼女の、少し湿り気を帯びた声が鼓膜にこびりついて離れない。

「おい、指。お前さっきからペン止まってるぞ。便所か?」

隣の席の悪友、健二がニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。指はハッとして、慌ててシャープペンシルを握り直す。

「……別に。ただの寝不足だ」

「寝不足ねえ。お前の親父さん、再婚相手連れてきたんだろ? どんなおばさんだよ。料理とかうまいのか?」

昨日、父から再婚の報告を受けた直後、動揺のあまり健二にだけはラインで伝えてしまっていた。しかし、その相手が二十四歳の、モデルと言われても信じてしまうような美咲であることを、指はまだ誰にも言えていない。

「おばさん」という健二の言葉が、なぜか胸にチクリと刺さった。おばさんなんてレベルじゃない。むしろ、この教室にいるどの女子よりも、そしてどの女教師よりも、彼女は圧倒的に「女」だった。今朝、シンクで皿を洗っていた時の彼女の、Tシャツから覗いていた細い手首や、自分に触れた瞬間の指先の柔らかさを思い出し、指は不意に顔が熱くなるのを感じた。

「おい、顔赤いぞ。風邪か?」

健二の追及を無視して、指は教科書を顔に近づけた。目の前の活字が躍る。十六年間守り続けてきた自分の平穏な「童貞の城」が、たった一晩で陥落しかけている。もし、彼女が本当に母親として振る舞ってくれるなら、まだ救いはあった。しかし、彼女のあの距離感、あの眼差しは、息子に向けるそれにしてはあまりに無防備で、あまりに鋭利だ。

休み時間のチャイムが鳴っても、指は席を立てなかった。教科書を閉じる指先が、今も微かに震えている。放課後、彼女と一緒にスーパーへ行くという約束が、まるで処刑台への招待状か、あるいは甘い罠のように彼を待ち構えていた。

放課後の校門を抜ける足取りは、いつになく重かった。駅前のスーパーの前で待っているはずの彼女を想像するだけで、指の心臓は全力疾走した後のように激しく脈打つ。行かなければいい、と頭の片隅で理性が囁くが、それ以上に「行かなければならない」という強迫観念に近い好奇心が、彼の背中を押し出していた。

遠くからでも、彼女の姿はすぐに分かった。夕暮れ時の喧騒の中で、美咲だけが別の空間から切り取られてきたように浮き立っていたからだ。薄手のサマーニットに身を包んだ彼女は、スマホを眺めながら所在なげに立っていたが、指の姿を見つけるなり、ぶんぶんと千切れるほどに手を振った。

「指くん、こっちこっち! 待ってたよ」

駆け寄る指の耳に、周囲の通行人の視線が突き刺さる。年上の綺麗な女性が、自分のような冴えない男子高校生を待っているという構図。それは、指がこれまで読んできたどの漫画の展開よりも非現実的だった。

スーパーの中に入ると、冷房の効いた空気が火照った顔に心地よかった。しかし、安堵したのも束の間、美咲は当然のように指の腕に自分の手を絡めてきた。

「ねえ、今日の晩ご飯、何がいいかな? 育ち盛りだし、やっぱりお肉?」

「……ちょ、ちょっと。近すぎますって」

指は必死に腕を抜こうとしたが、美咲は「えー、いいじゃない。家族なんだから」と、さらに距離を詰めてくる。彼女の肩が自分の腕に触れ、ニット越しに伝わる体温が指の思考を白く塗りつぶしていく。

野菜売り場を通り過ぎ、肉のパックをカゴに入れながら、美咲は「これ、安くなってるよ」とか「お父さん、ピーマン苦手だっけ?」と、ごく自然に主婦のような言葉を口にする。そのギャップが、指の混乱をさらに深くした。彼女は本当に母親になろうとしているのか。それとも、この至近距離で自分を翻弄することを楽しんでいるのか。

レジを済ませ、重くなったビニール袋を指が持つと、美咲は「頼もしいね、指くん」と言って、彼の頭をぽんぽんと叩いた。子供扱いされているという屈辱感よりも、触れられた場所が熱を帯びる感覚の方が勝ってしまう。

スーパーからの帰り道、夕焼けに染まる二人の影がアスファルトに長く伸びていた。並んで歩く距離が、今朝よりもほんの少しだけ縮まっていることに気づき、指は慌てて一歩、彼女から離れた。

「……何、笑ってるんですか」

「ううん。指くんと一緒に歩いてると、なんか本当の家族になったみたいで嬉しいなって思って」

美咲が横顔を向けて微笑む。その瞳の奥にある真意を、童貞の指にはまだ読み取ることができない。ただ、彼女が発した「家族」という言葉が、夕闇に溶けていくのを、指は複雑な心地で見守るしかなかった。

スーパーから自宅へと続く、街灯が灯り始めたばかりの細い路地。重いレジ袋が指の膝に当たり、カサカサと乾いた音を立てていた。沈黙を破るのが怖くて、指はただ足元のアスファルトを見つめて歩く。

「ねえ、指くん。あの公園、懐かしくない?」

美咲が指差したのは、遊具もまばらな小さな児童公園だった。指が何か答えようとした、その時だ。

「……うわっ!」

背後から猛スピードで走ってきたスケートボードの少年が、指と美咲の間をすり抜けようとしてバランスを崩した。ガシャン、と派手な音を立ててボードが転がり、少年は逃げるように去っていく。

衝突こそ免れたが、驚いた美咲がよろめき、指の胸元に飛び込むような形で倒れ込んできた。

「わ、ごめん!」

咄嗟に彼女の肩を支えた指の手が、薄いサマーニット越しに、驚くほど柔らかく、しなやかな美咲の体温をダイレクトに拾い上げる。鼻先をかすめたのは、スーパーの惣菜の匂いではなく、彼女自身の甘く狂おしい香気だった。

美咲は指の腕の中で小さく声を漏らし、そのまま数秒間、動きを止めた。指の心臓は、もはや肋骨を突き破らんばかりの勢いで鳴り響いている。

「……指くん、心臓、すごい音してる」

美咲が顔を上げ、至近距離で指を見つめた。夕闇に紛れて、彼女の瞳が潤んでいるように見えるのは錯覚だろうか。彼女の唇が、指の耳元に触れそうなほど近づく。

「ごめんね。驚かせちゃった?」

そう言って彼女が離れようとした瞬間、今度は美咲のサンダルのストラップが、指の靴の紐に引っかかった。バランスを崩した二人は、重なるようにして公園の入り口にある生け垣へと倒れ込む。

指の背中に生け垣の硬い枝が刺さるが、それ以上に、自分の上に重なった美咲の「重み」が、彼の理性を限界まで引き絞った。暗がりのなか、重なり合う二人の体。美咲の吐息が指の首筋にかかり、彼は恐怖にも似た高揚感に襲われる。

「……あ、痛い。指くん、大丈夫?」

美咲が慌てて起き上がろうとして、その手が不意に指の胸元を強く押した。その拍子に、指は思わず彼女の手首を掴んでしまう。

「……指って、呼ぶなよ」

自分でも驚くほど低く、震える声が出た。十六年間、呪いのように思っていた自分の名前。それをこの至近距離で、この女性に呼ばれることが、これほどまでに残酷で甘美なことだとは知らなかった。

美咲は目を丸くして、掴まれた手首を見つめた後、ふっと困ったような、それでいて艶やかな笑みを浮かべた。

「……じゃあ、なんて呼べばいい? 私の、可愛い息子くん」

その言葉は、救いか、それともただのからかいか。

暗くなった公園の隅で、二人の影は一つの大きな塊となって、しばらくの間動くことはなかった。

生け垣の湿った匂いと、街灯の届かない暗がりのなか、二人は重なり合ったまま、どちらもすぐには動こうとしなかった。指が掴んだ美咲の手首からは、ドクドクと速い鼓動が伝わってくる。それが自分自身のものか、彼女のものかさえ、もう判別がつかない。

「……私のこと、嫌い?」

美咲が、指の胸に顔を埋めたまま、籠もった声で呟いた。その問いはあまりに唐突で、そして無防備だった。指は掴んでいた手首を緩めたが、完全に離すことができずにいた。

「嫌いとか、そういうんじゃなくて……」

「じゃあ、どうしてそんなに怖い顔するの? 朝から一度も、私のこと見てくれないし」

美咲がゆっくりと顔を上げると、微かな光に照らされた彼女の瞳が、少しだけ濡れているように見えた。指は息を呑む。十六歳の少年にとって、年上の女性の涙ほど、不条理で暴力的な武器はない。

「……ずるいですよ。あんたみたいな綺麗な人が、急に家に来て、母親面して。俺がどんな気持ちで……」

「母親面、してたかな」

美咲は少しだけ体を浮かせて、指の顔を覗き込んだ。至近距離で見つめ合うと、彼女の長い睫毛の動きさえもはっきりと分かる。

「お父さんからね、指くんの話を聞いた時、すごく嬉しかったんだ。名前の由来も、全部。……指くんって、お父さんが一番辛かった時に、その『指』で、お父さんの服の裾を掴んで離さなかったんだってね。だから、指」

指は絶句した。自分の名前を忌まわしいものだと思っていたのに、彼女はそれを、まるで美しい物語のタイトルであるかのように慈しんで口にする。

「私はね、その『指』を、今度は私が掴んでいたいって思ったの。家族として、それとも……もっと別の何かとして、それはまだ分からないけど」

美咲が空いている方の手を伸ばし、指の頬にそっと触れた。彼女の指先は、今朝よりもずっと熱を持っていた。

「指くん。私、二十四歳だよ? 母親になるには若すぎるし、お姉さんって呼ぶには、もうあなたの家の一員になっちゃった。……私たちは、何になればいいんだろうね」

彼女の問いかけは、夜の公園の静寂に溶けていく。指は、彼女の頬に触れるその手に、自分の手を重ねた。童貞の、不器用で震える指先。

「……俺に、聞かないでください」

その答えが精一杯だった。美咲は、ふふっと小さく吐息のような笑い声を漏らすと、指の額に自分の額をそっと押し当てた。

「そうよね。ごめん。……でも、一つだけ約束して。家の中ではお母さんでいる努力をするから、外にいる時は、ただの『美咲』でいさせて?」

その約束が何を意味するのか、今の指にはまだ分からない。ただ、夜の静寂の中で、二人の境界線が曖昧になっていくことだけを、彼は肌で感じていた。

生け垣から立ち上がった二人は、互いの服についた土や葉を払った。美咲はどこか吹っ切れたような顔をしていたが、指の方はといえば、一度火照った体が夜風に吹かれても一向に冷めてくれない。

公園から家までの数百メートル。重いレジ袋を提げた指の半歩後ろを、美咲が静かについてくる。

「……ねえ、指くん」 「なんですか」 「さっきのこと、お父さんには内緒だよ? 私たちが生け垣で転んでたなんて知ったら、あの人、腰抜かしちゃうから」

美咲が冗談めかして囁く。指は前を向いたまま、「わかってますよ」とだけ短く答えた。内緒にしろと言われるまでもない。今の自分たちの間に流れている、あの熱を帯びた沈黙をどう説明しろというのか。ただの事故だ。そう自分に言い聞かせても、手のひらに残る彼女の体温がそれを否定し続けている。

玄関のドアを開けると、家の奥から「おお、おかえり」という父ののんびりとした声が響いた。リビングへ入ると、父はテレビのニュースを見ながら、ビールの空き缶を前にしてくつろいでいた。

「遅かったな。スーパー、混んでたか?」 「まあ……ちょっとね。指くんが色々選んでくれたから」

美咲は何食わぬ顔でキッチンへ向かい、レジ袋をカウンターに置く。その背中は、公園で見せたあの危うい女性の表情を完全に消し去り、良き妻、良き母親の顔に戻っていた。

指は父の隣を通り過ぎようとしたが、父が「おい、指」と呼び止めた。

「お前、服に葉っぱついてるぞ。どこか転んだのか?」 「……別に。風が強かっただけだろ」

指はぶっきらぼうに答えて、父の視線から逃げるように自分の部屋へ向かおうとした。その時、キッチンから「あ」という美咲の声がした。

「指くん、お弁当箱! 出してくれないと洗えないよ」

その声は、朝よりもずっと自然に、そしてどこか家庭的な温かさを持って響いた。父は二人のやり取りを見て、「仲良くやってるみたいで安心したよ」と目を細めて笑っている。

指は、何も知らない父の笑顔と、キッチンで忙しく立ち働く美咲の背中を交互に見た。このリビングには、自分たちの秘密だけが欠落している。自分だけが、彼女を「ただの母親」として見ることができなくなってしまったという事実だけが、猛毒のように指の胸を締め付けていた。

「……すぐ持ってくるよ」

指は、逃げるように階段を駆け上がった。自室のドアを閉め、真っ暗な部屋で一人、自分の「指」を見つめる。この指で、さっき彼女の手首を掴んだのだ。父の愛する女性を、父の知らない表情にさせたのだ。

十六歳の夏、日常は音を立てて崩れ、指の心には決して消えることのない深い楔が打ち込まれていた。

部屋の灯りもつけないまま、指はベッドに仰向けに倒れ込んだ。窓から差し込む街灯の光が、天井に歪な影を落としている。

一階からは、微かにテレビの音と、父と美咲の笑い声が聞こえてくる。それは本来、新しい家族の誕生を祝うような睦まじい音のはずだった。けれど、今の指にとっては、鼓膜を針で刺されるような不快な響きでしかなかった。

「……何が、仲良くやってるだ」

指は自分の右手を見つめた。公園で彼女の手首を掴み、生け垣に重なった時の感触が、呪いのように指先に残っている。柔らかい肌の弾力、薄いニット越しに感じた胸の鼓動、そして首筋をなでた熱い吐息。

それまで「女」という存在は、画面の向こう側の記号でしかなかった。十六年間、大切に(というよりは使い道もなく)守り続けてきた自分の童貞性が、たった数時間でこれほどまでに掻き乱されるとは思ってもみなかった。

しかも、その相手は父親が選んだ「母親」なのだ。

『私のこと、嫌い?』

暗闇の中で、彼女の声がリフレインする。あの時の美咲の瞳は、母親が息子に向ける慈愛などではなかった。もっと原始的で、危うい、一人の女としての渇きのようなものが混じっていた気がしてならない。

指は寝返りを打ち、枕に顔を押し付けた。 もし、彼女がもっと年上の、いかにも母親らしい人だったら。あるいは、自分がもっと大人で、彼女を冷たくあしらえるような男だったら。

「指(ゆび)」という名前の由来。父が辛かった時にその裾を離さなかったというエピソード。彼女はそれを「美しい」と言った。けれど、今その指が掴みたがっているのは、父の背中ではなく、彼女の細い肩ではないのか。

「クソ……最悪だ」

自身の内側に芽生えたどろりとした感情に、指は激しい嫌悪感を抱く。父への裏切り。そして、彼女への抗いがたい衝動。二つの感情が濁流となって押し寄せ、彼を眠りから遠ざけていく。

下の階で、水が流れる音がした。父が風呂に入ったのだろうか。それとも、美咲が一人で後片付けをしているのか。

静まり返った家の中で、自分の呼吸音だけが異様に大きく聞こえる。指は吸い寄せられるように、ゆっくりと体を起こした。

喉の渇きという言い訳を握りしめ、指は音を立てないように階段を下りた。

リビングは消灯していたが、キッチンの手元灯だけがオレンジ色の光を投げかけている。そこには、背中を丸めて一人でグラスを傾けている美咲の姿があった。

「……まだ、起きてたんですか」

指の声に、美咲は肩を跳ねさせて振り返った。彼女の手には、琥珀色の液体が入った小さなグラスがある。

「あ、指くん。ごめんね、起こしちゃった? ちょっとだけ、寝酒」

彼女の顔は、夕食時よりも少しだけ赤らんでいる。昼間の「母親」としての張り詰めた空気は消え、そこにはただ、夜の静寂に身をゆだねる一人の女性がいた。指は冷蔵庫から麦茶を取り出したが、彼女の横を通り抜ける際、昼間よりもずっと濃密な酒の香りと、彼女の体温が混ざり合った匂いに眩暈がした。

「……父さんは?」 「お父さん、すぐ寝ちゃった。仕事、疲れてたみたいで」

美咲はグラスを置くと、椅子を引いて指に座るよう促した。断る理由も見つからず、指は少し距離を置いて腰を下ろす。

「指くん、さっきはごめんね。変なこと言って」

美咲が、テーブルに落ちたオレンジ色の光を見つめながら呟いた。

「私ね、本当は怖いの。いきなりこんな大きな息子の母親になれるのかなって。指くんが私を拒絶するのも、当たり前だってわかってる」

「……拒絶なんて、してませんよ」

指の言葉に、美咲が顔を上げる。その瞳は少し潤んでいて、酒のせいか、それとも別の何かのせいか、トロンと熱を帯びていた。

「じゃあ、さっきみたいに……また私のこと、掴んでくれる?」

美咲はテーブルの上に、細い手首をさらけ出すようにして置いた。公園で指が強く握りしめた、あの場所だ。

指は息を止めた。ここで手を伸ばせば、もう「義母と息子」という境界線は、二度と修復できないほどに壊れてしまう。そう確信しながらも、彼の指先は磁石に吸い寄せられるように、ゆっくりと彼女の肌へと伸びていく。

暗いキッチンで、氷が溶けてカランと音を立てた。その音を合図にするように、指の指先が美咲の熱い肌に触れた。

「……あんたが、そうやって誘うからだろ」

十六歳の少年が絞り出した精一杯の毒づきを、美咲は優しく、そしてどこか残酷な微笑みで受け止めた。

指の指先が手首に触れた瞬間、美咲はビクッと体を震わせたが、逃げようとはしなかった。それどころか、自分から手首を返し、指の指を絡めるようにして握り込んできた。

「誘ってる、か……。そう見えるよね」

美咲は自嘲気味に笑い、グラスに残った酒を飲み干した。氷がカチリと鳴る。

「私、本当はね、お父さんのことが大好きで結婚したの。不器用で、一生懸命で、優しい人だから。でもね、この家に来て指くんに会った時、すごくショックだったんだ。……お父さんの若い頃に、あまりにもそっくりで」

美咲の指先が、指の手の甲をなぞる。熱を持ったその感触が、彼の脳髄に直接響く。

「指くんを見ていると、私が出会う前のお父さんを見ているみたいで。……お父さんのことを愛している自分と、目の前にいるお父さんの『面影』に惹かれる自分が、ぐちゃぐちゃになっちゃうの。私、最低だよね」

それは、母親としての言葉でも、家族としての告白でもなかった。あまりにも歪で、あまりにも孤独な、一人の女の本音だった。指は、彼女の言葉を聞きながら、自分が彼女にとって「父親の代わり」あるいは「過去の幻影」でしかないという事実に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。

「代わり……なんですか、俺は」

指の声は震えていた。美咲はハッとしたように顔を上げ、絡めていた指に力を込める。

「違う、違わない。……わかんないの。でも、指くんに触れられると、お父さんといる時よりずっと、心臓が痛いくらいに動くの。これ、お母さんが息子に思うことじゃないよね?」

美咲の顔が近づく。オレンジ色の光の下で、彼女の瞳に宿る熱い欲望と、それと同じくらいの深い絶望が透けて見えた。指は、自分が彼女を突き放すべきだと分かっていた。それが、何も知らずに隣の部屋で眠る父親への、最低限の礼儀だ。

けれど、彼の手は止まらなかった。

「……勝手ですよ。あんたも、俺の名前も」

指は、美咲の手を強く引き寄せた。彼女の体がテーブル越しに乗り出し、二人の顔が触れ合うほどの距離になる。

「俺のこと『指』って呼ぶなら、責任取ってくださいよ。……母さん」

その呼び名は、もはや家族の絆を繋ぐためのものではなく、二人の禁断の関係を決定づける「合図」のような響きを持って、深夜のキッチンに消えていった。

朝の光は、昨夜の密室の熱をあざ笑うかのように冷淡で、容赦がなかった。

指がリビングへ下りると、そこには昨夜の「女」の顔を微塵も感じさせない、エプロン姿の美咲がいた。彼女は小気味よい音を立てて包丁を動かし、トントンとリズミカルに野菜を刻んでいる。

「おはよう、指くん。昨日はよく眠れた?」

振り返った彼女の笑顔は、あまりにも完璧な「新しい母親」のものだった。昨夜、暗がりの中で手首を絡め合い、絶望的な告白を漏らしたあの美咲とは、まるで別人のようだった。

「……おはようございます」

指は、自分の声が不自然に低く沈んでいるのを感じながら、椅子に深く腰掛けた。昨夜の出来事が白昼夢だったのではないかと疑いたくなるが、彼女の細い手首に、自分が強く握った時にできた微かな赤みが残っているのを見逃さなかった。

そこへ、洗面所から髪を整えた父がやってくる。

「お、二人とも早いな。美咲さん、今日も朝から済まないね」 「いいんですよ。指くんも、昨日はお買い物手伝ってくれたし」

美咲は、父のネクタイを整えながら、自然な動作でその頬に触れた。父は照れくさそうに笑い、指に向かって「いいお母さんだな」とでも言いたげな満足げな視線を送る。

指は、喉の奥に苦い塊がせり上がってくるのを必死に飲み込んだ。 父に向けられる慈愛に満ちた彼女の笑顔。自分に向けられる、秘密を共有する共犯者のような沈黙。

美咲は、父が新聞に目を落とした一瞬の隙を突き、指にだけ見える角度で唇に指を当て、「しーっ」という仕草をして見せた。それは母親が息子にする悪戯などではなく、獲物を追い詰める狩人が浮かべるような、残酷で艶やかな笑みだった。

父は何も知らない。この食卓の下で、自分がどれほど激しい葛藤と、得体の知れない高揚感に焼かれているのかを。

「指くん、お味噌汁、熱いから気をつけてね」

差し出された椀から立ち昇る湯気の向こう側で、美咲の瞳が怪しく光った。

指にとっての「日常」は、もうどこにも存在しなかった。十六歳の夏、彼は父の愛する女性と、一つの食卓を囲みながら、決して引き返せない境界線を踏み越えようとしていた。

二時間目の現代文の授業中、指は教科書の行間を無意味に目で追っていた。意識の半分は、いまだに今朝の食卓に残してきたあの「熱」に囚われている。

その時、制服のズボンのポケットで、スマートフォンが短く、けれど主張するように震えた。

教師の目を盗んで画面を覗き込む。通知画面に表示されたのは、登録したばかりの**「美咲」**という名前だった。

「……っ」

指は思わず息を呑み、画面を伏せた。心臓の鼓動が、静かな教室の中で自分にだけ聞こえるほどの音を立て始める。昨夜、あの暗いキッチンで彼女が言った『外にいる時は、ただの美咲でいさせて』という言葉が、呪文のように脳内で再生された。

数秒後、再び震動。今度は着信だった。

指はたまらず、「腹痛」を理由に挙手して教室を飛び出した。冷え切った廊下を抜け、誰もいない非常階段の踊り場に逃げ込む。震える指で通話ボタンを押すと、受話器越しに、授業中の静寂とはあまりにかけ離れた、弾んだ声が聞こえてきた。

『あ、指くん? 出てくれて嬉しい』

「……何だよ、今授業中だって言っただろ」

『知ってるよ。でもね、どうしても今、声が聞きたくなっちゃって。ほら、家の中にいる時は「お母さん」のふりをしなきゃいけないから。……疲れちゃうんだよ、演技って』

彼女の吐息が、耳元で直接囁かれているように響く。指はコンクリートの壁に背中を預け、ズルズルとその場に座り込んだ。

『ねえ、指くん。今夜、お父さん出張で帰ってこないんだって。さっき連絡があったの』

その言葉の意味を理解した瞬間、指の指先がかすかに震えた。美咲の声は、今朝の食卓での慈愛に満ちたものとは全く違う、艶を帯びた、そしてどこか追い詰められたような響きを帯びていた。

『二人きりだね。……何、食べたい?』

夕食の献立を尋ねるような何気ない問い。けれど、その裏側に潜む「別の飢え」を、指は敏感に感じ取っていた。

「……何でもいい。勝手にしろ」

突き放すような言葉とは裏腹に、指の体は熱く火照っていた。十六歳の童貞にとって、彼女からの着信は、日常という名の檻を壊すための爆薬だった。

『ふふ、冷たいなあ。……じゃあ、待ってるね。指くんの帰りを、ずっと』

通話が切れた後も、指はしばらく立ち上がることができなかった。スマホの画面に表示された「通話終了」の文字を見つめながら、彼は自分でも気づかないうちに、彼女のフルネームではなく、ただ一言、**「美咲」**と心の中で呟いていた。

今夜、あのドアを開けた先に待っているのは、温かい家庭の味か、それとも自分を破滅させる甘い罠か。

指は、もう後戻りできないところまで、彼女の指先に引き寄せられていた。

学校のチャイムが、まるで遠い異国の鐘の音のように聞こえていた。放課後の喧騒をすり抜け、指は逃げるように自宅へと向かう。いつもなら忌々しく感じるはずの自分の名前が、今は重い枷のように彼を現実に繋ぎ止めていた。

玄関のドアを開けると、そこには異様なほどの静寂が横たわっていた。いつもなら聞こえるはずのテレビの音も、父の低い咳払いもない。ただ、家の奥から微かに、何かが焼ける香ばしい匂いと、低いジャズの旋律が流れてくる。

「……ただいま」

震える声で告げると、キッチンの向こうから美咲が顔を出した。

「おかえり、指くん」

彼女はエプロンを外していた。代わりに身に纏っていたのは、肩のラインが大胆に開いた黒いサテンのナイトウェアだ。今朝までの「母親」という記号は完全に剥ぎ取られ、そこには夜の闇に同化した一人の女が立っていた。

食卓には、二人分のワイングラス(指の前には果実ジュースだったが)と、手の込んだ料理が並べられている。

「お父さん、明日の昼まで戻らないって。……本当に、二人きりだね」

美咲はゆっくりと指に歩み寄り、彼の制服のネクタイに手をかけた。その指先が喉元に触れるたび、指は全身の血が逆流するような感覚に襲われる。彼女の瞳は、昼間の明るい光の下では決して見せない、深い欲望の淵へと彼を誘っていた。

「指くん、顔が赤いよ? まだ学校の続きをしてるの?」

美咲の吐息が耳元をかすめる。指はたまらず、彼女の細い腰を引き寄せた。十六歳の、経験のない不器用な腕が、確かな質量を持った女性の体温を捉える。

「……アンタが、変な電話してくるからだろ」

「美咲、って呼んで。……今だけは、名前で」

彼女の手が指の背中に回り、制服越しに爪を立てる。夜の静寂が、二人の荒い呼吸を際立たせていた。父のいない家、消された明かり、そして互いの鼓動だけが響く空間。

指は、自分の名前の由来を思い出していた。父の服を掴んで離さなかった「指」。今、その指が掴んでいるのは、裏切りという名の甘い果実だった。

「美咲……」

その名前を呼んだ瞬間、指の理性の糸は音を立てて切れた。

二人の影が、月明かりの差し込むリビングの床に長く、重なり合うようにして伸びていく。それは、家族という形を借りた、あまりにも危うく、あまりにも純粋な、壊れた世界の始まりだった。

月の光すら避けるように、二人はリビングのソファへと沈み込んだ。

カーテンを閉め切った暗がりの中で、美咲の白い肌だけがぼんやりと浮き上がっている。指の膝の上に置かれた彼女の手は、驚くほど冷たく、そして細かく震えていた。

「……怖いんですか」

指がそう問いかけると、美咲は力なく首を振って、彼の胸に額を押し当てた。サテンの生地越しに伝わる彼女の鼓動は、まるで追い詰められた小動物のように速い。

「怖いよ。……だって、指くんはこれから何にだってなれるのに、私に捕まったら、もう元には戻れないでしょ?」

彼女の声は、昼間の奔放なものとは一変し、今にも壊れそうなほどに震えていた。指は、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。十六歳の、まだ何者でもない自分の腕の中に、大人の女性の脆さが収まっている。その奇妙な優越感と、それ以上の愛おしさが、指の喉を熱くさせた。

「戻るつもりなんて、最初からないですよ。……あんたがこの家に来た時から、全部壊れてるんだ」

指の言葉に、美咲は顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめた。彼女の手が指の頬を包み込み、親指が彼の唇をなぞる。

「……私の名前、もう一度呼んで。お母さんじゃなくて、一人の女として」

「美咲」

その名を呼ぶと同時に、指は彼女の唇を塞いだ。

それは、お互いの孤独を確認し合うような、不器用で、ひりつくような口づけだった。昨夜、公園の生け垣で感じたあの衝動が、今はもっと明確な、逃れようのない熱量となって二人を焼き尽くそうとしている。

美咲の手が指のシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。布地が擦れる音だけが、静寂の支配する部屋に生々しく響いた。指は、自分の「指」が、彼女の柔らかな肌の上を彷徨うのを感じていた。父を支えてきたはずのその指が、今は禁忌の扉をこじ開ける鍵となっている。

「指くん……私を、離さないで」

美咲の囁きは、もはや懇願に近かった。

夜の静寂が深まるほどに、二人の境界線は溶け合い、消えていく。十六歳の童貞という殻を脱ぎ捨て、指はただ一人の「男」として、美咲という迷宮の奥底へと踏み込んでいった。

窓の外では、深夜特有の低い風の音が鳴っていた。街灯の光さえ届かないリビングの隅で、二人の影は深い闇に沈み込んでいる。

時計の秒針が刻む一定のリズムだけが、ここが現実の世界であることを辛うじて示していたが、指の感覚はすでに時間という概念を失っていた。美咲の肌から立ち昇る熱気と、シーツの代わりに敷かれたソファの硬い感触。指がその「指」で彼女の背中をなぞるたび、美咲は微かな吐息を漏らし、彼の肩に歯を立てた。

「ねえ……指くん。今の私たちは、誰にも見えてないよね」

美咲の声は、湿り気を帯びていた。指は彼女の長い髪を指に絡め、その首筋に顔を埋めた。十六年間、自分を縛り付けてきた名前、学校、そして父親。それらすべてが、彼女の柔らかな肌に触れるたび、遠い過去の出来事のように霧散していく。

二人の呼吸が重なり、一つのうねりとなって闇を揺らす。指は、自分の内側にある「童貞」という名の幼い檻が、熱を帯びて融解していくのを確かに感じていた。美咲が与えてくれるのは、単なる快楽ではない。それは、父さえも知らない彼女の「孤独」を、自分だけが共有しているという、背徳的で甘美な支配権だった。

「……見えなくていい。このまま、夜が終わらなければいいのに」

指が呟くと、美咲は彼をさらに強く抱きしめた。彼女の指が彼の背骨を一つずつ確かめるように這い、二人の心臓は一つになったかのような錯覚を起こす。

深夜の静寂は、時折、遠くを走る車のエンジン音によって薄く引き裂かれたが、二人はそれを無視し続けた。この家の壁一枚隔てた向こう側には、明日という現実が待ち構えている。父が帰り、美咲が「お母さん」の仮面を被り、指が「冴えない高校生」に戻らなければならない朝が、刻一刻と近づいている。

けれど、今の二人はその事実から目を逸らし、ただ互いの体温だけを灯火にして闇を泳ぎ続けた。指の指先が、美咲の震える肩を抱き寄せ、最後の境界線を完全に踏み越える。

深い、深い夜の底で、二人はもはや名前のない存在となり、静寂の中に溶けていった。

薄藍色の冷たい光が、カーテンの隙間から残酷に差し込み始めた。

指が目を覚ました時、最初にしたのは自分の手のひらを見つめることだった。昨夜、確かに彼女のすべてをその指で捉えていたはずなのに、朝の光にさらされた自分の手は、昨日までと変わらない、ただの十六歳の少年のものに見えた。

けれど、隣には、乱れた髪のまま静かに寝息を立てる美咲がいた。

サテンのナイトウェアははだけ、露わになった彼女の肩には、指が昨夜つけた微かな痕が残っている。それは、暗闇の中で二人が共有した背徳の証明だった。指は、彼女を「母さん」と呼ぶべきか、それとも「美咲」と呼ぶべきか、その境界線が朝日によって無理やり引き直されていく感覚に襲われた。

「……ん」

美咲がゆっくりと瞼を持ち上げた。焦点の定まらない瞳が指を捉え、一瞬、戸惑うように泳ぐ。しかし、すぐに昨夜の記憶が蘇ったのか、彼女は悲しげな、それでいてどこか満足げな微笑を浮かべた。

「おはよう、指くん。……もう、朝になっちゃったね」

その声は、昨夜の情熱的な響きを失い、ひどく現実的な響きを帯びていた。彼女は起き上がると、手際よく服を整え始める。その仕草は、魔法が解けていくのを急ぐ妖精のようでもあり、あるいは犯行現場を片付ける共犯者のようでもあった。

「お父さん……あと一時間くらいで帰ってくるよ。シャワー、先に浴びてきちゃいなよ」

「……美咲さん」

指が彼女の名を呼ぼうとすると、美咲は指先を彼の唇に当てて、それを遮った。彼女の瞳には、もう「女」の顔はなかった。そこにあるのは、自分を律し、家庭という虚構を守ろうとする、冷徹なまでの「母親」の意志だった。

「だめ。……リビングのドアを開けたら、私はあなたの『お母さん』に戻るの。昨夜のことは、この部屋の闇に置いていって」

指は何も言えなかった。彼女が立ち上がり、リビングのカーテンを勢いよく開ける。眩しい光が部屋の隅々までを照らし出し、散らばっていた昨夜の残骸を暴き出していく。

三十分後、キッチンからは朝食の味噌汁の匂いが漂い始めた。指が制服に着替えてリビングへ下りると、そこには完璧な「新しい母」がいた。

「おはよう、指くん。昨日はよく眠れた?」

今朝の彼女は、昨日よりもさらに明るく、快活に振る舞っていた。その徹底した演技に、指は吐き気にも似た眩暈を覚える。

やがて、玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま。いやあ、疲れたよ」

仕事帰りの父が、少し疲れた顔で入ってくる。美咲は弾んだ声で「おかえりなさい、あなた!」と駆け寄り、父の肩に手を置いた。その手は、数時間前まで指の背中を強く掴んでいた、あの手だった。

「指、どうだ。美咲さんと二人きりで、何か困ったことはなかったか?」

父が屈託のない笑顔で問いかける。指は、自分の喉の奥がカラカラに乾いているのを感じながら、父の瞳を真っ直ぐに見ることができなかった。

「……別に。何も、なかったよ」

嘘をつく自分の声が、どこか遠くで響いているような気がした。食卓を囲む三人。外から見れば、それはどこにでもある、新しく、幸せな家族の風景だった。

けれど、テーブルの下で、指は自分の「指」を強く握りしめていた。爪が食い込む痛みが、自分たちだけが共有する、この家の底に淀んだ漆黒の秘密を思い出させてくれた。

十六歳の夏、日常は平然とした顔をして続いていく。けれど、指の心には、もう二度と癒えることのない、熱く甘い毒が回り続けていた。

父が帰宅してからの数日間、家の中は奇妙な静謐に包まれていた。父は「家族が馴染んできた」と上機嫌だったが、その平穏は、薄氷の上に築かれた危うい虚構に過ぎなかった。

指にとって、学校へ行く時間はもはや美咲から離れるための避難所ではなく、彼女の不在を痛感するだけの空白の時間へと変わっていた。そして、帰宅してからの家は、スリルと背徳感が支配する巨大な密室となった。

ある日の午後、父がリビングでうたた寝を始めた。テレビからはゴルフ番組の単調な実況が流れ、午後の陽光が父の穏やかな寝顔を照らしている。

指がキッチンへ水を飲みに行くと、そこには洗い物をしていた美咲がいた。彼女は指の足音に気づくと、振り返りもせずに、濡れた手で自分のうなじに触れた。それが合図だった。

指は音を立てずに彼女の背後に忍び寄り、その細い腰を後ろから抱きしめた。

「……指くん、お父さんが起きてるよ」

美咲の声は、叱責というにはあまりに甘く、湿っていた。彼女は抵抗するどころか、その背中を指の胸に預け、うっとりと目を細める。

「起きたら、その時だろ」

指は彼女の耳元で囁き、その首筋に顔を埋めた。洗剤の香りと、彼女自身の肌の匂いが混ざり合う。父がすぐ隣の部屋で眠っているという事実が、かえって指の欲望を尖らせた。彼は自分の「指」を、美咲のエプロンの紐へと伸ばす。

「だめ……夜まで待って」

美咲が振り向き、濡れた指先を指の唇に押し当てた。彼女の瞳には、昨夜の密室で見せたあの「女」の熱が宿っている。彼女は、父に見せている「良き妻」の仮面を、指の前でだけは喜んで脱ぎ捨てていた。

「今夜、お父さんがお風呂に入ってる時、洗濯機を回してくるって言って、あなたの部屋に行くから」

彼女は指の頬を愛おしそうに撫で、そのまま唇をわずかに重ねた。石鹸の泡がついたままの彼女の手が、指の制服を汚していく。その汚れさえも、二人だけの秘密の刻印のように思えた。

「指くん、あなたの名前、大好きだよ。……私を、壊してくれる指だもんね」

美咲はそう言い残して、悪戯っぽく微笑みながら離れていった。

リビングからは、父の寝返りを打つ音が聞こえてくる。指は、鼓動を抑えきれないまま、自分の指先に残る石鹸の香りを深く吸い込んだ。

家族という檻の中で、二人は獲物を分け合う獣のように、互いの存在を確かめ合っていた。父の愛も、世間の常識も、この熱い沈黙の前では何の価値も持たなかった。

夜が更け、家の中には風呂場の換気扇が回る単調な音だけが響いていた。

指は自室のベッドで、ただその時を待っていた。教科書を広げてはいるが、文字は一切頭に入ってこない。心臓の音が、まるで壁の向こうにまで聞こえてしまうのではないかと思うほどに、不規則で荒い。

階下で「ガタン」と洗濯機の回る音が響く。それが彼女の合図だった。

数分後、ドアが音もなく開いた。そこには、湯気を含んだ湿った空気と共に、薄いパジャマを羽織っただけの美咲が立っていた。彼女は部屋に入るなり、素早く鍵をかけ、背中をドアに預けた。

「……お父さん、まだお風呂?」

指が声を潜めて問うと、美咲は黙って頷き、ゆっくりと指の方へ歩み寄った。彼女の髪からは、父と同じシャンプーの香りが漂っている。それがかえって、今ここにある背徳を研ぎ澄まさせていた。

「五分だけ……。お父さん、長風呂だから」

美咲はベッドの端に腰を下ろし、指の膝の上に自分の手を重ねた。昼間のキッチンで見せた、あの石鹸の香りのする手とは違う、しっとりと熱を帯びた「女」の手。指はその「指」を、彼女の細い指の間に割り込ませ、深く絡め合わせた。

「指くん、あなたの手、少し震えてる」

「……あんたのせいだろ」

指は彼女を引き寄せ、狭いシングルベッドの上で重なり合った。階下からは洗濯機の回る振動が、まるで二人の共犯関係を隠すドラムのように、床を通じて伝わってくる。

美咲は指の胸に顔を埋め、服の上から彼の心音を確かめるように耳を寄せた。

「ねえ、いつかバレちゃうかな。お父さんに、全部」

「……そうなったら、その時はその時だ」

指は、彼女の首筋に深く顔を埋めた。 もし今、父が風呂から上がってこのドアを叩いたら。もし、この幸せな家族の時間が一瞬で崩壊したら。そんな恐怖さえも、彼女の体温に触れている瞬間だけは、最高のスパイスでしかなかった。十六歳の、行き場のない真っ直ぐな欲望が、彼女という巨大な迷宮の中で加速していく。

美咲は指のシャツの襟を掴み、彼を自分の方へと引き寄せた。

「なら、もっと強く掴んで。……お父さんに聞こえないように、私を壊して」

暗闇の中で、二人の唇が重なる。 洗濯機の脱水が始まり、家全体が小さく震えていた。その震動に紛れるようにして、二人は短い、けれど永遠のような密会を貪り続けた。

ドアの向こう側、廊下の先には父がいる。 けれど、今この一畳半ほどの空間だけが、指にとっての唯一の真実だった。

朝の食卓は、いつも通りの穏やかな風景のはずだった。しかし、トーストを齧っていた父が、ふと手を止めて独り言のように呟いた。

「なあ、美咲さん。最近、洗濯機から変な音がしなかったか?」

その言葉に、指の背筋が凍りついた。昨夜、二人が重なり合っていたあの時、脱水機が鳴らしていたあの不自然な振動。指は慌ててコーヒーを啜り、視線を逸らした。

「ええ? そうかしら。特に気にならなかったけど……」

美咲は落ち着いた手つきでサラダを取り分けながら、平然と答える。だが、父の追及はそこでは終わらなかった。父は眉間に皺を寄せ、少し首を傾げた。

「いや、機械の故障じゃなくてな。昨日、風呂上がりに自分のシャツを探そうと思って洗濯機の中を覗いたんだが……」

父の視線が、ふと指の方へ向く。その瞳には、疑いというよりは、純粋な困惑が浮かんでいた。

「指。お前、昨日の夜、自分の部屋で何かこぼしたか? お前の制服のシャツに、石鹸の泡みたいな白い跡がべったりついてたぞ。それも、背中のあたりに。美咲さんのシャツにも同じような汚れがついてて、絡まってたから、なかなか解けなくてな」

「……っ」

指は、喉を通りかけていたパンが詰まりそうになった。 昨夜の密会。美咲の石鹸のついた手が、自分の背中を強く掴んでいた。あの時の「証拠」が、暗闇の中で消えたわけではなかったのだ。

「あ、あれは……。昨日、キッチンで手伝いをしてた時に、洗剤を飛ばしちゃったんだよ。な、母さん?」

指は「母さん」という言葉を盾にするようにして、美咲に視線を投げた。美咲は一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべて父の肩を叩いた。

「そうよ、あなた。私がうっかりしちゃって。指くん、優しいから一緒に片付けてくれたの。ね、指くん?」

「ああ。そうだよ」

父は「なんだ、そうか」と、あっさりと納得して笑った。 「仲がいいのはいいことだ。だが、服を汚すほど張り切らなくてもいいぞ」

父は再び新聞に目を落としたが、指の心臓の鼓動は一向に収まらなかった。 食卓の下で、美咲の足がそっと指の脛をなぞる。それは「助かった」という合図なのか、あるいは「次はもっとうまくやりましょう」という誘惑なのか。

父は何も気づいていない。けれど、洗濯物という極めて日常的な場所から、自分たちの不浄な秘密が漏れ出し始めている。

「……ごちそうさま」

指は、これ以上この空気に耐えられず、逃げるように席を立った。 背後で美咲が「いってらっしゃい、指くん」と、昨日よりも少しだけ低い、艶のある声で見送った。

父が洗濯機の中から、絡まり合った二人のシャツを引き剥がした時の感触。それを想像するだけで、指は言いようのない屈辱感と、それ以上の昏い高揚感に支配されていた。

放課後、指が玄関を開けると、そこには仁王立ちで待っている美咲がいた。父はまだ仕事で帰っていない。彼女の顔には、今朝の余裕はなく、焦燥と、それ以上にゾクりとするような「愉悦」が混じり合っていた。

「指くん、お父さん、思ったより鋭いかも」

彼女は指の手を引き、リビングではなく、そのまま洗面所へと連れて行った。そこには、今朝父が指摘したシャツが二枚、無造作に置かれていた。

「このままじゃ、また洗濯する時に何か見つかる。だから、指くん……これ、ぶちまけて」

美咲が手渡してきたのは、大容量の洗濯用液体洗剤と、キッチンから持ってきたであろうサラダ油だった。

「……え?」

「いいから。これを指くんのシャツと私のエプロンに、わざとらしく、派手にこぼして。昨日、二人でキッチンでふざけてて、油のボトルを倒して、それを拭こうとして洗剤もこぼしちゃった……っていう『大惨事』を、お父さんが帰ってくる前に演出するの」

美咲の提案は、あまりに短絡的で、けれど同時に、この状況を「親子の微笑ましい失敗」へと強引に書き換える唯一の手段だった。

指は言われるがままに、洗剤を床に撒き散らし、自分のシャツをドロドロに汚した。美咲もまた、自分の服に油を垂らし、指と一緒に滑って転ぶような仕草を見せる。

「もっと、指くん。……ほら、手もベタベタにして」

美咲が指の手を掴み、洗剤の泡の中に沈める。二人の手はヌルヌルとした感触に包まれ、昨夜の密会とは違う、けれどそれ以上に異常な密着を見せる。

「……こんなことして、本当に信じるかな」

「信じさせるの。お父さんは、私たちが仲良く失敗してる姿を見れば、安心する人だから。……ねえ、指くん、見て。これなら、昨日の汚れも全部わからなくなるでしょ?」

美咲は、泡だらけの手で指の頬に触れた。洗剤の強烈な香りが鼻を突く。彼女の瞳は、嘘を真実で塗り潰すスリルに、美しく輝いていた。

その時、玄関のチャイムが鳴った。父が忘れ物を取りに帰ってきたのだ。

「うわあ! ちょっと指、何してるんだ!」

キッチンに駆け込んできた父の目に飛び込んできたのは、床一面の泡と、その中でベタベタになりながら、気まずそうに笑い合う美咲と指の姿だった。

「ご、ごめんなさいあなた! 指くんに料理を教えようとしたら、手が滑っちゃって……二人で片付けようとしたら、洗剤まで……!」

美咲は、泣きそうな顔をしながらも、どこか可笑しそうに父に謝る。その姿は、完璧な「ドジな新妻」だった。父は一瞬呆気にとられたが、やがて「ははは! なんだ、派手にやったな!」と、大声をあげて笑い出した。

「いいよいいよ、怪我がなくて。指、お前も手伝おうとしてたんだな。よし、俺も一緒に掃除するよ」

父が腕をまくり、泡の海へと入ってくる。三人で笑いながら床を拭く。指は、父のすぐ隣で、泡にまみれた美咲の足が、自分の足にわざと絡みついてくるのを感じていた。

父の笑い声の下で、二人は「偽物の家族」を演じ抜き、本物の秘密をさらに深く、誰の手も届かない場所へと埋めていった。

「今日は『家族』はお休み。いい?」

放課後の校門付近でスマホを眺めていると、昨日とは打って変わって清楚なワンピース姿の美咲さんが、まるで大学生の恋人を待つような顔で立っていた。

彼女が連れてきたのは、電車で二駅隣の、誰も自分たちを知る者がいない海沿いの商業施設だった。夕暮れ時のデッキ。潮風が美咲さんの髪を乱し、彼女はそれを愛おしそうに耳にかける。

「あの泡の掃除、大変だったね。お父さん、すっかり信じちゃって」

彼女は手すりに寄りかかり、遠くの水平線を見つめながらクスクスと笑った。昨日の偽装工作。あの狂気じみた「演出」を経て、二人の間にはもはや、言葉にする必要のない濃密な共犯意識が完成していた。

「……あんな無茶苦茶な嘘、普通はバレますよ」

「いいの。信じたいものを信じるのが人間だもん。今のあのお家にとって、私たちは『仲の良い親子』でなきゃいけないから」

美咲さんはそう言うと、周囲に誰もいないことを確認してから、指の腕を強く引き寄せ、自分の肩に頭を乗せた。

「ご褒美、何がいい? 服? それとも、美味しいもの?」

「……別に、何もいらないです」

「嘘。指くんの『指』が、さっきから私の手を離そうとしないじゃない」

彼女の指摘通り、指は無意識に、彼女の細い指先を強く握りしめていた。潮風に混じって、彼女のいつもの甘い香りが鼻をくすぐる。ここでは、父の気配も、家という檻も、義務的な「母さん」という呼称もない。

「ねえ、指くん。今夜、お父さん飲み会で遅いんだって。……帰りに、どこか寄り道していかない?」

彼女の瞳には、夕焼けのオレンジ色が溶け込んでいた。それは誘惑というよりも、もはや抗うことのできない「運命」の提示だった。

「……寄り道って、どこに」

「どこでも。指くんが行きたいところ。お父さんの知らない、私たちだけの場所」

彼女はそう言うと、指の耳元で小さく、けれど確かな重みを持って囁いた。

「今日は、最後まで『美咲』でいさせてね」

海辺の街に夜の帳が下りようとしていた。十六歳の少年の手は、かつて父の裾を掴んでいた時よりもずっと、強く、そして震えながら、隣に立つ女性の運命を掴み取っていた。

美咲さんが連れてきたのは、海沿いから少し離れた、古びた映画館の裏手にある小さな貸し切りログハウスだった。

「ここ、昔からたまに来るの。誰も来ないし、波の音だけが聞こえて、自分たちがどこにいるのか分からなくなる場所」

鍵を開けて中に入ると、木の香りと少しだけ湿った潮の匂いが混じり合って鼻を突く。美咲さんは明かりをつけず、窓から差し込む月光を頼りに、ゆっくりとサンダルを脱ぎ捨てた。

「指くん。ここにはお父さんもいない、『お母さん』もいない。ただの、私とあなただけ」

彼女は窓辺に立ち、逆光の中でその細いシルエットを浮かび上がらせた。ワンピースの肩紐を指で弄りながら、彼女は昨夜よりもずっと静かで、深い声音で語り始めた。

「昨日の泡の掃除……。お父さんと三人で笑いながら床を拭いている時、私、本当に怖かったんだ。あんなに幸せそうに笑うお父さんを騙しながら、床の下で指くんの足に触れている自分が、あまりにも残酷で……、それ以上に、震えるほど快感だった」

美咲さんは指の元へ歩み寄り、その胸にそっと両手を置いた。

「指くんのせいだよ。あなたが私を、ただの『お父さんの奥さん』でいさせてくれなかったから」

指は、彼女の言葉に背中を押されるように、その細い体を力強く抱き寄せた。丸太小屋の硬い壁に彼女を押し当てると、美咲さんは短く息を呑み、指の首筋に顔を埋めた。

「……勝手なこと言わないでください。俺だって、もう普通に学校なんて行ってられない。頭の中、あんたのことばっかりだ」

「いいよ。もっと、私でいっぱいにして……」

彼女の指が、指の項を強く愛撫する。 外では寄せては返す波の音だけが響き、自分たちが今、父の待つ「家」という現実からどれほど遠く離れてしまったのかを教えてくれる。

このログハウスは、二人の不義理を隠すためのシェルターであり、同時に、現実へ戻るための唯一の「入り口」でもあった。

「……今夜だけは、誰のことも忘れて」

美咲さんの唇が、指の言葉を奪う。 暗闇の中、二人の熱は溶け合い、昨日までとは違う、より深く、より逃れられない沈底へと落ちていった。

丸太小屋の薄い壁越しに聞こえる波音は、まるで自分たちの罪を洗い流そうとしているのか、あるいは飲み込もうとしているのか。

室内には、古い木の爆ぜるような匂いと、美咲さんの纏う甘く毒のある香りが充満していた。月光が窓から縞模様を描いて床に落ち、絡まり合う二人の影を不気味に、そして美しく切り取っている。

「……指くんの心臓、壊れちゃいそう」

美咲さんは指の胸に耳を押し当て、鼓動のリズムを数えるように囁いた。彼女の肌は月光を吸い込んで白く発光しているように見え、その冷たそうな見た目とは裏腹に、触れる場所すべてが火傷しそうなほど熱い。

指は、彼女の背中の柔らかな曲線に指を這わせた。 父を支えるはずだった自分の「指」。今、その指は美咲さんの滑らかな肌をなぞり、彼女が漏らす吐息のひとつひとつを支配している。

「……いいんですか、本当に。俺、もう引き返せませんよ」

「引き返す場所なんて、もうないよ。あの泡の海の中で、私たちは一緒に溺れちゃったんだから」

美咲さんは顔を上げ、濡れた瞳で指を見つめた。彼女の手が、指の首筋から頬へとゆっくりと移動し、愛おしそうに、そしてどこか残酷に形をなぞる。

「私ね、お父さんの前で笑うたびに、あなたのことを思い出してる。あなたの、この不器用で真っ直ぐな視線を……。私を『お母さん』じゃなくて、『美咲』として壊してくれる、この手を」

彼女がその唇を指の耳元に寄せると、熱い吐息が鼓膜を震わせた。 「指くん……私を、もっと強く掴んで。形が残るくらいに。明日、お父さんの前で『お母さん』を演じるための、痛みが欲しいの」

その歪んだ願いに、指の理性が最後の一片まで溶けていく。 彼は彼女の細い手首を掴み、ベッド代わりのソファへと押し倒した。十六歳の少年が背負うにはあまりに重い「秘密」という名の快楽が、暗闇の中で激しく火花を散らす。

夜が更けるにつれ、波の音はますます高く、激しくなっていった。 二人は互いの存在を貪るように、言葉にならない声を深夜の空気に溶かしていく。

このログハウスの扉を開ければ、そこには地獄が待っているかもしれない。 けれど、今の指にとって、美咲さんの腕の中だけが、唯一息のできる、許された天国だった。

東の空が白み始め、ログハウスの窓から差し込む光が、熱に浮かされたような二人の時間を冷淡に、けれどどこか神聖に照らし出した。

美咲さんは、指の腕の中で小さく身を震わせると、窓の外に広がる黎明の海を見つめた。昨夜の狂おしいまでの激しさは消え、そこにあるのは、ガラス細工のような危うい静寂だけだった。

「ねえ、指くん。もし、私たちが最初から『お母さん』と『息子』じゃなかったら……どこで出会ってたと思う?」

彼女の問いは、あまりにも無邪気で、それゆえに鋭く指の胸を刺した。指は、彼女の肩を抱き寄せ、その髪に顔を埋めた。

「……学校の近くのパン屋とか、駅のホームとか。どこだっていい。あんたがいれば、俺は見つけてたよ」

美咲さんはその言葉に、一瞬だけ少女のような幼い笑顔を見せた。けれど、すぐにその表情は、夜が明けるのを拒むような悲しみに塗り替えられる。

「……ありがとう。嘘でも嬉しい。でもね、私たちはこの絶望的な関係だからこそ、こんなに深く、壊れるほど惹かれ合っちゃったんだよね。普通に出会ってたら、きっとこんなに苦しくなかった」

彼女は指の手をとり、自分の胸元に当てた。そこには、昨夜の激しさを物語る、指が残した赤い痕が、刻印のように浮かび上がっている。

「これが消える頃には、私たちはまた、あの家の食卓で嘘をつき続ける。……でも、忘れないで。私の心臓を一番速く動かせるのは、お父さんじゃなくて、あなたの『指』だけだってこと」

指は、彼女の瞳に宿る、決して叶うことのない純粋な光を見た。それは背徳や欲望を超えた、剥き出しの「愛」だった。血の繋がりもなく、戸籍上の偽りの絆しかない二人が、唯一本物になれた瞬間。

「……約束してください。いつか、全部バレて、この家がめちゃくちゃになっても……俺のこと、嫌いにならないって」

「嫌いになんてなれるわけないじゃない。……私を、地獄の底まで連れて行ってくれるのは、あなたしかいないんだから」

水平線から太陽が顔を出し、海面を真っ赤に染め上げた。 それは「夜の美咲」が消え、「昼の母親」が目覚める合図だった。

二人は最後にもう一度だけ、祈るように深く、静かに唇を重ねた。それは、明日への希望を語るためではなく、今、この瞬間という名の永遠を、互いの記憶に刻みつけるための儀式だった。

「……行こうか。お父さんが、待ってる」

美咲さんは、いつもの落ち着いた声に戻り、鏡の前で髪を整え始めた。指は、まだ熱を帯びた自分の手のひらをそっと閉じ、彼女が被る「母親」という仮面の後ろ姿を見つめ続けた。

海辺の冷たい朝の光の中で、二人の純愛は、誰にも知られることのないまま、深い海の底へと沈められた。


                        完