『「66」密室のメンテナンス』
2026/01/24(土)
夕暮れのグラウンド。オレンジ色の光が、僕——**指(ゆび)**の影を長く引き延ばしていた。高校陸上部の短距離走者として、僕は自分の名前の通り、地面を掴む感覚には自信がある。けれど、どうしても掴めないものがあった。
ここ数週間の彼は、自分の名前を裏切るように足先が地を掴めず、スランプの底にいた。
練習後の誰もいない部室で、指は一人、アイシングをしていた。そこへ外部コーチの佐伯が入ってくる。彼女はいつものように、あくまで指導の一環として、彼の脚の状態を確認するために膝をついた。
彼女の手が指の太ももに触れる。それは医学的で、一切の迷いがない、純粋なアスリートへのケアだった。しかし、女性経験のない十七歳の指にとって、その体温はあまりにも劇薬だった。佐伯の指先が筋肉の繊維をなぞるたび、彼は呼吸を忘れるほどの熱を体内に感じる。彼女の真剣な横顔、競技を愛するがゆえの献身的な接触。それが無垢であればあるほど、指の中に芽生える「秘め事」のような独占欲は、彼自身を深く苛ませた。
「コーチ、あの……」
掠れた声で呼びかける指に、佐伯は不思議そうに顔を上げた。その瞳は澄み渡っており、彼が抱いている不純な動悸など、想像すらしていないようだった。彼女がただ純粋に、彼の足が速くなることだけを願っているという事実が、指には誇らしく、そして残酷なほどに切なかった。
彼女にとっての自分は、磨き上げるべき原石の一つに過ぎない。それでも指は、その無垢な掌に身を委ねながら、彼女の期待に応えるために、この熱を全て走るためのエネルギーに変えようと、きつく目を閉じた。
迷い 薄暗い更衣室の隅、パイプ椅子に座る指(ゆび)の膝には、佐伯コーチの細い指先が置かれていた。
「指くん、ここ。この筋肉の強張りが、トップスピードに乗るときのブレーキになっているの。わかる?」
佐伯の声は、五月の夜風のように澄んでいた。彼女の瞳にあるのは、タイムをコンマ数秒縮めるための純粋な情熱だけだ。しかし、彼女が膝に触れ、マッサージのためにゆっくりと肌を滑らせるたび、指の脳内には白い閃光が走る。十七歳の、剥き出しの神経が波打つ多感な時期。彼にとって、彼女の「指導」は、どんな淫らな言葉よりも刺激的で、同時に、泣きたくなるほど純粋な暴力だった。
彼女の顔が、汗の引いた彼の肌に近づく。結び上げた髪から、かすかにシャンプーの香りがした。その香りが肺に満ちるたび、指の心臓はドラムのように跳ね、喉の奥がカラカラに乾いていく。彼女の無垢な指先が、自分の太ももの付け根に近い場所を、ただ機能的に解していく。そのたび、彼は自分の内側に潜む、ドロリとした独占欲と性衝動が、彼女の純粋さに汚泥をぶちまけてしまうのではないかと恐怖した。
「……っ、コーチ、もういいです」
耐えきれず、指は震える声で彼女の手を遮った。佐伯はきょとんとして、まっすぐな瞳で彼を見つめ返した。
「まだ完全には解れていないわよ? 指くん。あなたの身体は、あなたが思っている以上に繊細なんだから。もっと自分を大切にして」
彼女は、指の拒絶の理由が「恥じらい」や「不純な高揚」にあるなど、一ミリも疑っていない。その聖域のような無知こそが、指を追い詰める。彼女に触れられるたびに、彼は自分が汚れた存在のように思え、同時に、このまま彼女の掌の中で壊れてしまいたいという矛盾した願望に身を焦がした。
「……すみません。明日、また走ります。だから今日は、もう」
指は逃げるように立ち上がり、彼女から目を逸らした。十七歳の少年が抱える、言葉にできない重苦しいまでの渇望。それを、彼女はただ「向上心」と受け取り、満足げに微笑む。その微笑みに救われながら、指は自らの内に渦巻く熱を必死に抑え込み、夜のグラウンドへと駆け出した。
放課後の部室。西日が窓から差し込み、床に置かれたハードルの影が長く伸びていた。他の部員たちが帰り静まり返った部屋で、指(ゆび)はベンチに腰掛け、スパイクの紐を締め直していた。
「あ、指くん。ちょうどよかった。新しいマッサージオイル、試してみてもいい?」
背後から声をかけられ、指の肩が跳ねた。振り返ると、佐伯コーチが小さな瓶を手に、屈託のない笑みを浮かべて立っていた。彼女にとって、指の身体は「効率的に動くべき精巧なマスコット」であり、そこに宿る思春期の自意識など、計算式には含まれていない。
「……あ、はい。お願いします」
指は短パンの裾を、落ち着かない手つきで手繰り寄せた。佐伯は彼の隣に迷いなく腰を下ろし、手のひらでオイルを温める。漂うのは、清涼感のあるペパーミントの香り。それが彼女の肌の温度と混ざり合い、指の鼻腔をくすぐる。
「失礼するわね」
彼女の掌が、ふくらはぎから膝裏にかけて、吸い付くように滑り込んできた。指は奥歯を噛み締め、呼吸を止める。 佐伯は、筋肉の走行を確認するように、親指でぐっと深く圧をかけた。彼女の体温が、ダイレクトに皮膚から血管へと伝わっていく。
「指くん、ここ。やっぱりまだ硬いわ。……ほら、力を抜いて。私の手に全部預けて?」
彼女は指の膝を自分の膝の上に乗せると、より力が入りやすいように身を乗り出した。至近距離に彼女の鎖骨があり、激しく動く指の喉仏を、彼女はただ「体調のバイタルサイン」を確認するように見つめている。
「指くん、顔が赤いわよ? 暑い? 窓、開けましょうか」
佐伯はそう言いながら、空いている方の手で、無造作に指の額に触れた。汗を拭うような、姉が弟に接するような、あまりにも無防備で献身的な仕草。彼女の手のひらの柔らかさが額に伝わった瞬間、指の中で何かが決壊しそうになる。
彼女は純粋に、彼に勝ってほしいだけなのだ。そのまっすぐな善意が、指にとってはどんな毒よりも鋭く突き刺さる。自分をアスリートとしてしか見ていない彼女の瞳に、自分の中のドロドロとした熱情をぶつけたら、一体どんな顔をするだろう。
「……コーチ、近いです」
絞り出すような指の言葉に、佐伯は「あら、ごめんなさい。力加減が強すぎた?」と、首を傾げて少し顔を近づける。その瞳に映る自分があまりに幼く、無力で、指は情けなさに視界が滲みそうになった。彼女が無自覚であればあるほど、彼の中の「秘め事」は、独りよがりの重りとなって、心臓に深く沈んでいく。
アスファルトを叩く雨音が、世界を白く塗り潰していた。
練習中止のアナウンスが流れた後も、指(ゆび)は一人、校舎の軒下の狭い通路で足踏みを繰り返していた。湿り気を帯びた空気が肺にまとわりつき、雨の匂いが本能をざわつかせる。
「やっぱりここにいた」
雨音を割って届いた声に、指の心臓が跳ねた。傘も差さずに、トラックジャケットを頭から被った佐伯コーチが走ってくる。彼女のTシャツは雨でうっすらと肌に張り付き、鎖骨のラインが露わになっていた。
「風邪を引くわよ。……でも、そのストイックなところ、指くんの強みね」
佐伯は屈託なく笑い、指の濡れた肩をタオルで乱暴に拭った。彼女にとって、雨に濡れた教え子の身体を拭うことは、雨に濡れたハードルを片付けることと同じくらい「当然の義務」に過ぎない。
「中に入りましょう。更衣室なら、少しは広く動けるわ」
誰もいない、薄暗い更衣室。雨音だけが遠くで響く密室。 湿った空気の中で、佐伯は床に膝をつくと、指の足首を掴んだ。
「雨の日は関節が冷えて固まりやすいの。……指くん、こっちに座って」
彼女の指示に従い、跳び箱の段に腰を下ろす。佐伯は彼の足首を自分の太ももの上に乗せると、無造作にマッサージを始めた。彼女の体温が、冷えた指の肌に熱を移していく。
「コーチ、濡れてます。……拭かないと」
「私はいいの。今は、あなたのコンディションが最優先」
佐伯は顔を上げず、一心不乱に彼のふくらはぎを揉み解していく。彼女の指先が、雨の雫を追いかけるように肌の上を滑る。十七歳の指にとって、その一つ一つの動きが、あまりにも官能的な意味を持って響いてしまう。彼女の首筋を伝う雫が、Tシャツの襟元に吸い込まれていくのを、彼は呼吸を止めて見つめていた。
「指くん、筋肉が震えてる。……寒いの?」
彼女が顔を上げた。至近距離。湿った彼女の髪が指の膝に触れ、彼女の瞳には、ただ純粋な「心配」だけが宿っている。彼女は、自分が今、一人の青年の理性という名の防波堤を、その無自覚な優しさで決壊させようとしていることに、これっぽっちも気づいていない。
「……寒く、ないです」
指は、自分の声が情けないほど震えていることに絶望した。 彼女が自分を「ただの選手」として愛惜すればするほど、彼の中の「一人の男」としての自尊心は悲鳴を上げる。
「よかった。さあ、次は逆の足。……もっと私に、力を預けていいのよ?」
彼女の柔らかい手のひらが、再び彼の肌を包み込む。外の雨は激しさを増し、二人だけの世界を閉じ込めていく。指は、拳を血が滲むほど固く握りしめた。彼女の清らかな献身に、自分の不純な衝動をぶつけてしまいたい。その衝動を、彼は今、この雨音の中に必死に閉じ込めようとしていた。
薄暗い更衣室に、叩きつけるような雨音だけが充満していた。
佐伯コーチの指先が、指(ゆび)の太ももの裏側、ハムストリングの付け根を深く押し上げる。彼女はより力を込めるために、指の股の間に入り込むような格好で身を乗り出していた。彼女のうなじから立ち上がる、体温の混じったシトラスの香りが、雨の湿気と混ざり合って指の脳を麻痺させる。
「ここ……まだ硬いわね。指くん、リラックス。私に全部、預けてって言ったでしょ?」
彼女が顔を上げた。すぐ鼻の先に、彼女の潤んだ瞳がある。彼女は、自分の唇が彼の喉仏のすぐそばにあることさえ、ただの「距離」としてしか認識していない。そのあまりにも残酷な無自覚さが、指の中で張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと切った。
「……無理ですよ」
低く、掠れた声がこぼれた。佐伯は手を止めず、不思議そうに眉を寄せた。
「え? 何が無理なの? 痛みがあるの?」
彼女はなおも、彼の痛覚や筋肉の具合を心配している。その聖母のような純粋さが、指には耐え難かった。彼は自分を抑えていた拳を解き、佐伯の手首を、痛いほどの力で掴み返した。
「マッサージなんて、もうやめてください……。コーチが、そんな顔で、そんなふうに触ってくるから……僕が、どんな気持ちでいるか……」
佐伯の動きが止まった。彼女の瞳に、初めて「困惑」という色が浮かぶ。それでも彼女は、彼が抱えているものの正体にまだ届かない。
「指くん……? 手、痛いわよ。どうしたの、急に」
「どうしたのか、分かってないのはコーチだけだ!」
叫び声が更衣室に響き、雨音をかき消した。指は彼女の手首を掴んだまま、逃げ場をなくすように顔を近づける。十七歳の、制御不能な熱情が瞳から溢れ出していた。
「コーチにとっては、僕はただの『選手』かもしれない。タイムを出すための、ただの肉体かもしれない。でも、僕は……僕は、ただの教え子なんかじゃいられない。コーチに触れられるたびに、頭がおかしくなりそうなんだ……!」
言い放った瞬間、指の視界が歪んだ。口にしてしまった。彼女の純粋さを汚し、この聖域のような時間を壊してしまった。
佐伯は、掴まれた手首を見つめたまま、言葉を失っていた。彼女の白い肌には、指が掴んだ指の跡が赤く浮かび上がっている。沈黙が、雨音よりも重く二人の間に横たわった。指は、自分が犯した罪の重さに震えながらも、彼女から目を逸らすことができなかった。
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
指(ゆび)の荒い呼吸だけが、湿った空気の中で震えている。手首を掴む自分の指先に、佐伯コーチの細い脈動が伝わってくる。彼女の困惑が、恐怖に変わるのを待つような、残酷な数秒間だった。
やがて、佐伯はゆっくりと、だが拒絶の意志を込めて、指の手を振り払った。
「……立ちなさい、指くん」
その声には、先ほどまでの温もりは微塵もなかった。彼女は床に膝をついたまま、冷徹なまでに真っ直ぐな瞳で彼を射抜いた。その瞳は、彼を「恋い焦がれる少年」としてではなく、規律を乱した「不適格な選手」として定義していた。
「私があなたに触れたのは、あなたが明日の予選で最高のパフォーマンスを出すため。それ以外の理由は、過去にも、今この瞬間にも、一秒たりとも存在しないわ」
彼女は立ち上がり、乱れたジャージの裾を無機質に整えた。指が期待していた——あるいは恐れていた——動揺や赤面は、そこにはなかった。あるのは、一線を引かれた絶望的なまでの「境界線」だ。
「今の言葉は、聞かなかったことにする。……いいえ、忘れるわ。でも、勘違いしないで」
彼女は一歩、指に歩み寄った。かつて感じたシトラスの香りが、今はひどく遠く、冷たく感じられる。
「あなたが私に抱いているのは、ただの思春期の混乱よ。それを『特別な感情』だとすり替えて、競技への集中を欠くようなら、私はあなたのコーチを降りる。……練習を私物化する選手を、私は教えるつもりはないから」
その言葉は、指の心臓を正確に貫いた。彼女の純粋さは、優しさであると同時に、徹底したプロフェッショナリズムという名の刃でもあったのだ。
「帰りなさい。頭を冷やして、明日、グラウンドに来るのか、それとも辞めるのか、自分で決めなさい。……でも、一つだけ言っておくわ」
佐伯は更衣室のドアに手をかけ、振り返ることなく告げた。
「私が見たかったのは、あなたの情熱に振り回される姿じゃない。あなたがトラックで、誰よりも速く駆け抜ける姿だけよ」
バタン、とドアが閉まる音が、雨音の中に消えた。 指は、冷え切った跳び箱の上に一人取り残された。掴んでいた手首の感触だけが、彼の手のひらに熱を帯びたまま、消えずに残っていた。
翌朝、雨は上がっていた。水を含んだグラウンドの空気は重く、指(ゆび)の肺を圧迫する。
予選一組目。スタートブロックに足をかけた指の視界は、ひどく狭まっていた。観客席の喧騒も、風の音も聞こえない。ただ、スタンドの最前列で、ストップウォッチを握りしめて立つ佐伯の姿だけが、網膜の奥に焼き付いていた。
昨夜の彼女の言葉が、耳の奥で呪文のように繰り返される。 『私が見たかったのは、あなたがトラックで、誰よりも速く駆け抜ける姿だけよ』
「位置について」
スターターの声が響く。指は深く腰を落とした。 彼女に突き放された絶望、惨めさ、そしてどうしようもない渇望。それらすべてを、彼は自分の細い四肢に無理やり詰め込んだ。
「用意」
腰を上げた瞬間、全身の筋肉が爆発を待つ火薬のように張り詰めた。十七歳の多感な心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに跳ねる。
——見てろ。
号砲が鳴った。
指は、地面を蹴ったのではない。昨日、彼女が慈しむように触れた自分の肉体を、彼女の視界という名のゴールへと投げ出したのだ。
加速。一歩ごとに、泥混じりのタータンが後ろへと飛び去っていく。隣のレーンの選手たちは、意識の端にも入らない。今、この瞬間の自分は、彼女にとって「一人の男」ではないかもしれない。けれど、この百メートルという刹那の間だけは、彼女の瞳を独占できる。彼女の思考を、情熱を、そのストップウォッチを刻む指先を、自分だけのものにできる。
三十メートル。身体が起き上がる。 五十メートル。トップスピード。 昨日まで感じていた足の重みは消えていた。彼女が冷徹に、しかし丹念に解した筋肉が、持ち主の意志を超えて躍動する。
(もっと速く、もっと遠くへ。コーチの視線が届かないところまで、突き抜けてやる)
胸の奥が焼けるように熱い。それは恋心というよりも、もはや殺意に近い執念だった。ゴールテープを切った瞬間、指は勢い余ってトラックをはみ出し、フェンスに激しく衝突した。
静寂。 荒い呼吸。 指は膝をつき、肩で息をしながら、ゆっくりとスタンドを見上げた。
そこには、無表情を貫こうとしながらも、わずかに震える手でストップウォッチを凝視する佐伯がいた。彼女の瞳には、紛れもない驚愕と、指導者としての、そして一人の人間としての激しい「動揺」が浮かんでいた。
指が叩き出したのは、自己ベストを大幅に更新する大会新記録だった。 彼は立ち上がり、汗と泥にまみれた顔で、彼女を真っ直ぐに見据えた。言葉は交わさなくても、空気を伝う熱量が彼女に突き刺さる。
お望み通り、走ってやりましたよ。 さあ、これでも僕は、ただの教え子ですか。
その視線の強さに、佐伯は一瞬だけ視線を逸らし、それから再び、彼を直視した。その瞳には、昨日までの「純粋な指導者」という盾に、小さな、けれど決定的な亀裂が入っていた。
予選の興奮が冷めやらぬ競技場。掲示板に刻まれた「大会新記録」の文字が、陽炎のように揺れていた。
決勝までのインターバル。指(ゆび)はサブトラックの隅で、一人、筋肉を休めていた。しかし、神経は休まらない。予選の激走で肉体は悲鳴を上げているはずなのに、脳内ではアドレナリンが火花を散らし、静寂を拒んでいる。
「指くん」
背後から届いた声。振り返ると、佐伯コーチが予選の時とは打って変わって、硬い表情で立っていた。彼女の指先は、まだ自分のバッグのストラップを強く握りしめている。
「……やりすぎよ。決勝の分まで脚を残しておくべきだった」
彼女の言葉はいつも通り「指導者」としての正論だったが、その声の端々には隠しきれない動揺が混じっていた。彼女は気づいている。指が叩き出したあの記録が、科学的なトレーニングの成果などではなく、自分に向けられた剥き出しの執念によるものだということに。
「……全部、出し切らないとコーチは見てくれないと思ったので」
指は、地面を見つめたまま低く答えた。十七歳の、ひりつくような反抗心。 佐伯は一瞬、言葉を詰まらせた。彼女はいつものように彼の脚に触れ、マッサージを始めようとした。しかし、その掌が彼の肌に触れる寸前、わずかに震えて止まった。
昨夜、彼の手首を振り払った自分。 それに対して、圧倒的な「結果」という暴力で応えてみせた彼。
もはや、彼女は「無自覚な聖母」ではいられなかった。彼に触れることが、単なる筋肉のメンテナンスではなく、一人の男の情動に火を注ぐ行為であることを、彼女は嫌というほど突きつけられていた。
「決勝は……各校のトップが揃うわ。予選のような、怒りに任せた走りじゃ勝てない。……いい? 呼吸を整えて。私を見ないで、前だけを見て」
彼女の指示は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。彼女は震える手を隠すようにポケットに押し込み、あえて突き放すような冷たい口調で続けた。
「勝ちなさい、指くん。もしここであなたが負けたら、昨夜のあなたの言葉も、さっきの記録も、ただの『若気の至り』として私は処理する」
それは、彼女が提示した最後にして最大の挑発だった。 勝てば、自分を「一人の男」として認めざるを得ない場所まで引きずり込める。負ければ、一生「未熟な子供」として彼女の記憶に埋もれる。
「……わかってます。言われなくても、もう前しか見えてません」
指は立ち上がり、彼女の横を通り抜けた。すれ違いざま、彼女の肩が微かに震えるのがわかった。
決勝のコールが鳴り響く。 トラックへ向かう地下通路。暗闇の先に見える出口の光は、あまりにも眩しい。指は自分の心臓の音を聴きながら、短パンの上から自分の太ももを強く叩いた。そこには、まだ彼女の掌の幻影が、熱く、痛く残っている。
この100メートルの先に、彼女という「聖域」を壊すためのゴールがある。
決勝の号砲は、耳元で炸裂した雷鳴のようだった。
指は、弾丸となって飛び出した。 加速の局面、視界の両端から他校のユニフォームが次々と後ろへ脱落していく。予選の激走で乳酸が溜まっているはずの脚は、不思議と軽かった。いや、軽いのではない。熱すぎて感覚が麻痺しているのだ。
(まだだ、もっと、もっと速く……!)
八十メートル地点。横一線の勝負から、指の身体がわずかに抜け出す。 肺が焼け、喉の奥に血の味が広がる。全身の細胞が「もう限界だ」と悲鳴を上げている。だが、その悲鳴さえもが彼には心地よかった。この苦痛こそが、彼女が自分に課した「指導」の延長線上にあるものだと思えたからだ。
トップでゴールテープを切った瞬間、指は勢い余ってトラックの先まで突き進んだ。 電光掲示板に「1位」の文字が躍る。自己ベストをさらに更新する、圧倒的な優勝だった。
競技場がどよめきに包まれる中、指は膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。滴る汗がタータンを濡らす。視界が白く霞む中で、彼はただ一人の姿を探した。
指(ゆび)は激しく上下する肩を抑えながら、真っ直ぐに彼女を探した。 スタンドの最前列。佐伯コーチは、手すりを握りしめる自らの指先が、骨の形が浮き出て真っ白になるほどの力で、その場に釘付けになっていた。
彼女の瞳は、歓喜に沸く周囲から切り離されたように、ただ一人、トラックに立つ指だけを凝視している。その指先の白さは、彼女が心の中で必死に守ろうとしていた「指導者としての理性が、彼の走りの前でいかに限界まで軋んでいたか」を物語っていた。
指が彼女を見上げた。 その瞬間、佐伯は、白くなっていた指からふっと力を抜いた。赤みが戻るよりも早く、彼女は自分の内側にある何かが、二度と元には戻らない形に崩れ去ったことを悟った。
「コーチ……」
指の唇がそう動いたのが、遠目にもわかった。 彼女は、自分の震える手を隠すようにそっと手すりから離し、彼という名の「嵐」を受け入れる覚悟を決めたかのように、深く、一度だけ頷いた。
大会の喧騒が遠くへ去り、校舎の影がグラウンドを飲み込む時間。誰もいない部室は、西日の残光が埃を黄金色に染め、奇妙な静寂に包まれていた。
指(ゆび)は、ベンチに腰を下ろし、優勝メダルの重みを指先でなぞっていた。ドアが開く音がして、佐伯が中に入ってくる。彼女は黙ってドアの鍵を閉めた。その金属音は、外の世界との繋がりを断つ、最後の一撃のように響いた。
「指くん」
彼女の声は、昼間の毅然としたコーチのそれとは違い、どこか脆く、震えていた。佐伯は彼の目の前に立つと、視線をどこに置いていいか分からないといった様子で、壁の掲示板に目を向けた。
「約束通り……勝ったわね」
「はい。コーチが言った通り、前だけを見て走りました」
指は立ち上がり、彼女の一歩手前で足を止めた。運動着越しに伝わる彼女の体温と、微かな汗の匂い。指導者という厚いヴェールを剥ぎ取られた、一人の女性としての佐伯がそこにいた。
「あんな走りを見せられたら……もう、私に言えることは何もない。あなたは私の想像を超えて、どこか遠い場所へ行ってしまったみたい」
彼女は自嘲気味に微笑み、視線を落とした。そこにあるのは、昼間のレースで圧倒的な出力を叩き出した、彼の逞しい脚だ。昨日までは「道具」としてメンテナンスしていたその肉体が、今は自分を脅かす、生々しい熱量を持った対象としてそこにある。
「遠くなんて行ってません。……僕がどこに辿り着きたかったか、コーチはもう分かってるはずだ」
指は、彼女の細い肩に手を置いた。昨日、彼女の手を拒絶したときとは違う、静かだが逃げ場のない力。
佐伯の肩が微かに跳ねた。彼女は、握りしめた拳を震わせ、自分の中で鳴り止まない警笛を必死に抑え込もうとしていた。しかし、彼女の瞳がゆっくりと指の顔へと向けられたとき、そこに残っていたのは「指導者」の矜持ではなく、一人の青年の情熱に絆されてしまった、無防備な敗北者の顔だった。
「……十七歳は、残酷ね。そんなに真っ直ぐな目で、私を見ないで」
彼女の手が、震えながら指の胸元に伸びる。ユニフォーム越しに伝わる彼の激しい鼓動が、彼女の指先を白く染め上げるほどに押し返していた。彼女はもう、彼を「子供」として突き放すことはできなかった。
「コーチ」
指が彼女の名前を呼んだ瞬間、佐伯は、自らの唇を噛み締め、最後の一線を自ら踏み越えるように、彼の方へと身を預けた。夕闇が迫る部室の中で、二人の影が重なり、一つに溶けていく。
それは、純粋すぎた師弟関係が終わり、秘密という名の歪な愛が始まる、最初の静寂だった。
夕闇がすっかり部室を支配し、窓の外からは帰路につく生徒たちの遠い笑い声が、まるで別世界の出来事のように聞こえていた。
佐伯は一度深く息を吸い込むと、壁際に積まれた体操マットを一足蹴りで広げた。その動作は、あくまで「コーチ」としてのルーチンをなぞろうとする彼女の最後の抵抗のようにも見えた。
「……筋肉を、ほぐすから。そこに寝なさい」
その声は、昼間の競技場での冷徹な響きとは異なり、熱を帯びた湿り気が混じっていた。指(ゆび)は何も言わず、促されるままにマットの上にうつ伏せになった。硬いマットの感触が、高ぶる神経をいっそう鋭敏にさせる。
背後に、彼女が膝をつく気配がした。 「失礼するわね」 そう言って置かれた彼女の掌は、驚くほど熱かった。オイルを含んだ指先が、大会で限界まで酷使された指の太ももをなぞる。しかし、その手つきは、かつての機械的な正確さを失っていた。
「指くん、ここ。まだ、こんなに熱を持ってる……」
彼女の指が、筋肉の筋をゆっくりと、慈しむように沈み込んでいく。それはもはや、可動域を広げるためのマッサージではなかった。彼女自身が、彼の肉体を通じて、彼の中に渦巻く17歳の熱情を確認しようとしているかのようだった。
「コーチ……震えてますよ」
指が低く呟くと、彼の背中の上で彼女の動きが止まった。 彼女の指先が、白くなるほど強く彼の肌を押し下げる。
「……あなたのせいよ。あんな走りを見せつけて、私の心までかき乱して」
彼女の顔が近づき、結び直したばかりの髪から、微かな香りと、隠しきれない彼女自身の体温が降りてきた。彼女の掌が、ふくらはぎから膝裏、そして昨日彼に拒絶されたあの「境界線」を、今度は迷いなく越えて滑り上がっていく。
「もう、ただの選手だとは思えない。……こうしている間も、私はコーチ失格だって、頭のどこかで分かっているのに」
佐伯は、自分の重みを預けるように、指の背中にそっと身を沈めた。 無垢な指導者という盾をかなぐり捨て、自らの弱さを露呈させた彼女。その無防備な告白は、どんな愛の言葉よりも深く、17歳の指の心に突き刺さった。
「寝なさい」と言ったはずの彼女の手が、彼の肩を掴み、自分の方へと引き寄せる。 狭い部室、マットの匂い。 二人の間にはもう、タイムも記録も関係のない、剥き出しの時間が流れ始めていた。
二人の鼓動が、重なった胸を通じて互いの体に響き渡っていた。佐伯は、自分の内側から溢れ出した感情を抑え込むように、指(ゆび)の背中に顔を埋め、しばらくの間、彼を強く抱きしめていた。
十七歳の、まだ少し硬い骨格と、爆発的なエネルギーを秘めた若さ。彼女はその重みを全身で受け止めることで、自分が犯した「敗北」を噛み締めているようだった。
やがて、彼女は小さく震える吐息を漏らすと、ゆっくりと体を離した。
「……ごめんなさい。もう大丈夫」
そう呟いた彼女の声は、先ほどまでの熱を無理やり引き剥がしたような、静かな響きに戻っていた。彼女は乱れた髪を指で整えると、再び彼の脚に手をかけた。しかし、その手つきは先ほどまでとは違っていた。
個人的な情愛を、無理やり「マッサージ」という形の中に閉じ込め直そうとする、必死な献身。
「まだ……張ってるわね。しっかり流しておかないと、明日動けなくなるわよ」
彼女の指先が、再び筋肉の繊維を捉える。今度は迷いなく、力強く。 指は、自分の肌の上を滑る彼女の手のひらに、言葉にならないメッセージを感じていた。彼女は、抱きしめることで心を許し、マッサージに戻ることで再び「コーチ」としての仮面を被ろうとしている。
「コーチ」
「……喋らないで。今は、体を休めることだけを考えて」
佐伯は彼の言葉を遮るように、膝裏のリンパを深く押し流した。その指先が白くなるほど力がこもっているのは、彼への想いを抑えつけるためなのか、それとも、言葉にできない愛撫の代わりなのか。
指は、マットに顔を伏せたまま、じっとその刺激に耐えていた。 彼女がマッサージを続ける限り、二人の関係は「選手とコーチ」という安全な名前で守られる。けれど、肌から伝わってくる彼女の熱は、もはやその名前には収まりきらないほどに膨れ上がっていた。
「……指くん、痛かったら言って」
「……いえ、気持ちいいです」
その一言に、佐伯の手がほんの一瞬だけ止まり、またすぐに動き出した。 窓の外、夜の闇が部室を完全に包み込むまで、彼女はひたすら彼の筋肉を解し続けた。それは、二人の間に生まれた危うい熱を、平熱に戻すための静かな儀式のようでもあった。
「……次は、前を伸ばすわよ。仰向けになって」
佐伯の声は、無理に平静を装っているせいで、かえって不自然なほど硬かった。指(ゆび)はその言葉に従い、ゆっくりと体を反転させる。
仰向けになった彼の視界に、西日の残光を背負った彼女のシルエットが映り込んだ。逆光の中で、彼女の表情は読み取れない。しかし、彼女が指の脚の付け根に手を伸ばそうとした瞬間、その動きが凍りついた。
薄いトレーニングウェア越しにもはっきりと分かる、指の下半身の昂ぶり。
十七歳の、制御しきれない多感な肉体が、彼女の指先に、抱擁に、そしてその存在そのものに反応していた。それは、言葉でどれほど「指導」や「マッサージ」と取り繕おうとしても隠しようのない、剥き出しの真実だった。
更衣室の空気が、一瞬で沸点に達する。
佐伯コーチの視線が、指の下半身に止まった。 先ほどまでの饒舌な指導はどこへやら、彼女は喉の奥で小さく息を呑んだきり、動けずにいる。
夕闇が入り込んだ部室の中で、ウェアの膨らみはあまりに露骨で、ごまかしようのない「男」の主張としてそこにあった。彼女は、指の関節を白くさせていた畳から手を離すと、ためらいを隠すように、ゆっくりとその掌を彼の腿の付け根へと滑らせた。
「……こんなに熱くなって。これじゃあ、筋肉が休まらないわね」
彼女の声は、独り言のように小さく、湿っていた。 彼女の指先が、ウェアの薄い布地を介して、その昂ぶりに触れる。指(ゆび)の身体が、電流を流されたように跳ねた。彼女の掌は冷たく、それでいて、触れられた場所からは焦げるような熱が広がっていく。
佐伯は、指導者としての自分を必死に繋ぎ止めていた最期の糸を、自ら手放すように目を閉じた。 彼女の指が、布地越しにその形をなぞる。それはもはや、医学的なマッサージなどではない。自らの教え子が自分に向けている「不純な、けれどこの上なく真実な渇望」を、ひとつひとつ確かめるような、卑猥なほどに丁寧な手つきだった。
「指くん、あなたの心音……ここまで聞こえてくるわよ」
彼女が身を乗り出し、顔を近づける。 指は、天井を見上げたまま、剥き出しの欲望に晒される快感に身を震わせていた。彼女の無垢な情熱が、今は自分を壊すための悦びに変わっている。
「解して、コーチ……」
「ええ……。あなたの全部、私が受け止めてあげる」
彼女の掌に力がこもる。布地の擦れる小さな音が、静まり返った部室に、どんな叫びよりも生々しく響き渡った。
静まり返った部室に、佐伯の乱れた呼吸の音だけが響いていました。
彼女の指先は、ウェアを押し上げたところで止まっています。露わになった指(ゆび)の肌の白さと、その中央で猛々しく脈打つ熱量。知識として図解で見てきた「それ」とは、質感も、匂いも、放たれる威圧感も、すべてが別物でした。
「……こんなに、硬いのね」
夕闇に包まれた部室で、トレーニングウェアの布地が重苦しい音を立てて引き下げられた。
佐伯コーチの視線の先に、十七歳の、一切の偽りのない熱情が剥き出しになる。彼女は一瞬、眩しいものを見るように目を細めた。これまでマッサージを通じて何度も触れてきた彼の脚や腕と同じはずなのに、そこだけが別の生き物のように、荒々しい拍動を繰り返している。
彼女は震える右手を、ゆっくりと、ためらいながら伸ばした。 そして、ついにその指先が、指(ゆび)の熱を帯びた肌に直に触れた。
「……っ」
指の口から、酸素を奪われたような声が漏れる。 彼女の指先は、マッサージで使い込まれているせいか、少しだけひんやりとしていて、驚くほど柔らかかった。布地を介さない、皮膚と皮膚が直接触れ合うその生々しい感触に、二人の間に流れる時間は完全に停止した。
佐伯は、自分の掌の中に収まったその熱の塊に、指を一本ずつ這わせていく。 未経験の彼女にとって、それは未知の生物に触れるような戸惑いを伴うものだったが、肌に直接触れたことで、彼女の「コーチ」としての仮面は完全に剥がれ落ちた。指先から伝わってくる、彼自身の心臓の鼓動。熱を帯びて膨張する皮膚の質感。
「こんなに……熱いのね。指くん」
彼女は、直に触れたことで初めて知るその熱量に、自分自身の指先が溶けてしまいそうな錯覚に陥っていた。 彼女は意を決したように、その掌で熱を包み込んだ。吸い付くような肌の感触が、彼女の自制心を粉々に砕いていく。
彼女は、筋肉の走行をなぞるように、しかしそれよりもずっと官能的な手つきで、上下にゆっくりと掌を滑らせた。直に触れることでしか得られない、肌と肌が擦れ合う微かな音と、粘りつくような熱。
指は、彼女の細い指が自分の肌を直接愛撫する感触に、視界が真っ白になるほどの衝撃を受けていた。彼女の不器用な、けれどひたむきな「直接の接触」が、十七歳の理性を一気に奈落へと突き落とした。
「……もっと、強く」
指(ゆび)の絞り出すような声が、静まり返った部室の空気を震わせた。その一言は、これまで彼女が積み上げてきた「優しく丁寧なマッサージ」という免罪符を、根底から覆すものだった。
佐伯は、自分の掌の中に収まった熱い塊を、改めて見つめた。 男子経験のない彼女にとって、その直接的な要求は、一人の女性として正面からぶつかってこいという宣告に等しかった。彼女の頬には、もう指導者としての冷静さは微塵もない。
「……強く、ね。わかったわ」
彼女は、直に触れている掌に、ぐっと力を込めた。指の関節が、今度はその執着を物語るように、皮膚の下でくっきりと浮き上がる。彼女は、筋肉を解すときのあの力強さを、そのまま彼の昂ぶりへと転換させた。
肌と肌が強く擦れ、生々しい音が二人の間に響く。 彼女の不器用な、けれど一切の手加減を捨てた握撃。経験がないゆえに加減を知らないその強さは、指にとって、意識が遠のくほどの苛烈な快楽となった。
「こう……? これでいいの?」
佐伯は、夢中だった。 彼女の細い指先が、彼の肌を強く、深く、そして執拗になぞり上げる。直に触れているからこそ伝わる、跳ねるような脈動。彼女はその熱を、自分の手で完全に支配し、ねじ伏せようとしているかのようだった。
指は、マットを掴む手に力を込め、背中を大きく反らせた。 彼女の無意識なまでの力強さが、彼の17歳の理性を、粉々に砕いて、ただの「欲求」へと変えていく。彼女の潤んだ瞳が、自分の手元を、そして苦悶に歪む指の顔を、焼き付けるように見つめていた。
「コーチ……っ、もっと……!」
「指くん、指くん……っ」
彼女は名前を呼びながら、さらに速度を上げた。 知識としてのマッサージなど、もうどうでもよかった。彼女はただ、目の前の少年が自分に求めているその「強さ」に応えること、ただそれだけに、すべての感覚を注ぎ込んでいた。
部室の闇が、二人の吐息と、激しく擦れ合う熱い音に、深く、深く沈んでいった。
佐伯の動きに、さらなる焦燥が混じり始めた。
指(ゆび)の身体が弓なりに反り、喉の奥から獣のような呻きが漏れる。手のひらを通じて伝わってくる熱と硬さは、今や破裂しそうなほどに高まっていた。
佐伯は、頭の片隅にある教科書的な知識を必死に手繰り寄せていた。この先に何が起こるのか、医学的な理屈としては知っている。けれど、一人の女性としてその「瞬間」に立ち会うのは初めてだった。
彼女の脳裏には、あまりに無垢で、しかし切実な疑問がよぎる。 「これって……どう出るの? おしっこのように、ただ溢れ出すの?」
そんな彼女の戸惑いを置き去りにするように、指の呼吸が止まった。
「コーチ……っ! 出る、出ます……!!」
「えっ、あ、待って……!」
佐伯が戸惑い、反射的に手の力を緩めようとした瞬間だった。 彼女の掌を突き上げるような激しい拍動とともに、熱い液体が、彼女の白く細い指先を濡らした。
それは、彼女が想像していた「おしっこ」のような緩やかな流れではなかった。 生命の奔流そのもののような、熱く、重く、そして断続的に放たれる衝撃。
「……っ!?」
佐伯は目を見開いた。 自分の指の間をすり抜け、手の甲を伝い、そして彼女のトレーニングウェアの袖口を汚していく白濁した熱。生々しい匂いが、狭い部室の空気を一気に支配する。
彼女はその熱量と、指(ゆび)の身体を突き抜けた激しい痙攣に圧倒され、ただ手を添えたまま動けずにいた。自分の肌の上で、一人の少年が「男」へと変わるための、あまりに暴力的なまでの解放。
やがて、指の身体から力が抜け、静寂が戻ってきた。 聞こえるのは、二人の荒い呼吸の音と、窓の外で鳴く虫の声だけ。
佐伯は、自分の右手をじっと見つめた。 そこには、今しがた放たれたばかりの、彼の「証」が真珠色に光っている。 彼女は、それがただの生理現象ではないことを、その肌に伝わる消えない熱さで理解していた。
「……すごい。こんなに、熱いのね……」
彼女は、汚れを拭うことも忘れ、呆然と呟いた。 コーチと選手という、昨日まで守ってきた清潔で安全な関係は、今、彼女の掌の上で、二度と元には戻らない形に溶け去っていた。
静寂が、重く、粘りつくように部室に降りてきた。
指(ゆび)は、燃え尽きた灰のようにマットに横たわり、天井の一点を見つめたまま動けない。一方、佐伯は、自分の右手に付着した「それ」を、まるで未知の聖遺物でも見るかのように凝視していた。
指の間を伝い、手首まで垂れ落ちようとする白濁した熱。彼女はその生々しい温もりに、心臓が口から飛び出しそうなほどの動悸を感じていた。
「あ……」
佐伯がようやく声を漏らした。彼女は我に返ったように、慌てて棚から救急箱を取り出し、中にあるガーゼを掴んだ。
「待ってて、すぐ、拭くから……」
彼女は膝をつき、震える手で彼の肌を拭い始めた。しかし、その手つきは先ほどまでの大胆さとは打って変わって、ひどくぎこちない。自分の手首まで汚れていることに気づくと、彼女の顔は耳の裏まで真っ赤に染まった。
「コーチ、すいません。汚して……」
指が掠れた声で謝ると、佐伯は一瞬だけ手を止め、困ったような、それでいてひどく柔らかな微笑みを浮かべた。
「いいのよ。私が……『ほぐす』って言ったんだから。最後まで責任を取るのは当たり前でしょ」
彼女はそう言いながら、自分の袖口についてしまった汚れを、ガーゼで丁寧に、何度もこすった。けれど、その匂いは、いくら拭っても部室の空気に、そして彼女の記憶に深く刻み込まれていくようだった。
佐伯は、使い終わったガーゼをビニール袋に入れ、きつく縛った。まるで、今日ここで起きた出来事そのものを、誰にも見つからないように封印するかのように。
「……これ、私が捨てておくわ。あなたは、着替えて早く帰りなさい」
彼女は立ち上がり、背中を向けて荷物をまとめ始めた。その細い肩は、まだ微かに震えている。
「コーチ。……明日も、練習ありますよね」
指の問いかけに、佐伯はドアに手をかけたまま、振り返らずに答えた。
「ええ。グラウンドで待ってるわ。……明日からは、もっと厳しいトレーニングになるわよ。覚悟しておきなさい」
その声には、いつものコーチとしての厳しさが戻っていた。けれど、ドアを閉める直前、彼女がちらりと見せた横顔は、夕闇の中でもはっきりと分かるほど、女としての情熱と、共犯者としての淡い悦びに彩られていた。
二人の間から言葉は漏れ出したが、それは終わりではなく、歪な日常の始まりに過ぎなかった。
翌日の午後、グラウンドは昨日の雨が嘘のような快晴だった。
陸上部の部員たちが活気に満ちた声を上げ、スパイクがトラックを蹴る乾いた音が響く。その中心に、いつもと変わらぬジャージ姿の佐伯コーチが立っていた。彼女はストップウォッチを首から下げ、鋭い視線で部員たちのフォームをチェックしている。
「指(ゆび)くん、次のセット入るわよ。位置について」
彼女の声は、昨日の部室での震えが嘘のように凛としていた。指は無言で頷き、スタートラインに立つ。
しかし、彼が腰を落とした瞬間、佐伯が歩み寄ってきた。他の部員には「フォームの微調整」にしか見えない自然な動作で、彼女は指の背後に立つ。
「腰が高いわ。……もっと、重心を意識して」
彼女の掌が、指の腰から太ももの裏へと滑る。 その瞬間、指の全身に電流が走った。昨日、直に触れ合ったあの熱情の感触。指の間を流れていったあの白濁した感触。彼女の手のひらが、ジャージ越しであっても、昨日の「後片付け」の記憶を生々しく呼び起こす。
佐伯の指先が、ほんの一瞬だけ、他の部員からは死角になる位置で、彼の太ももの内側を強く突き上げた。
「……っ」
指が息を呑む。見上げると、彼女は無表情なまま、しかしその瞳の奥には、昨日彼を男へと変えたあの時の熱い色が、挑発するように揺れていた。
「どうしたの? 昨日の優勝で満足しちゃったかしら」
彼女の低い声は、周囲の喧騒にかき消され、彼だけに届く。 他の誰にも見えない「境界線」の上で、彼女は平然と「コーチ」を演じながら、彼を翻弄していた。昨日、未経験ゆえに狼狽えていた姿はそこにはない。一度一線を越えた彼女は、共犯者としての愉悦を、その冷徹な指導の中に巧妙に隠し持っていた。
「……いいえ。もっと、追い込んでください」
指が前を見据えたまま答えると、佐伯は満足げに唇の端をわずかに上げた。
「ええ、もちろんよ。放課後、また『特別メニュー』を組んであるから。……昨日よりも、じっくり時間をかけてね」
ピッと、鋭いホイッスルの音が鳴る。 指は爆発的なスタートを切った。背後で見つめる彼女の視線が、昨日よりもずっと重く、熱く、彼の背中に突き刺さる。
衆人環視のグラウンド。誰も知らない秘密を抱えたまま、二人の「歪な練習」は、昨日よりも深く、熱狂的な領域へと足を踏み入れていた。
放課後の部室。昨日と同じはずの沈黙は、もはや静寂ではなく、火種を孕んだ濃密な圧力として二人の間に横たわっていた。
佐伯は無言でドアの鍵を閉めると、昨日よりも迷いのない動作で、低いベンチの上にタオルを広げた。彼女の横顔には、昼間のグラウンドで見せていた「冷徹な指導者」の仮面が、薄氷のように危うく残っている。
「……横になりなさい。今日は、昨日よりも深いところまで解すわよ」
指(ゆび)がウェアを脱ぎ、仰向けになる。その視線が、彼女の手元に向けられた。佐伯の指先は、昨日あれほど白く強張っていたのが嘘のように、今はしなやかに動いている。彼女は救急箱から、昨日は使わなかった新しいマッサージオイルを取り出した。
「筋肉を……心底から弛緩させるには、摩擦を減らさなきゃいけないから」
彼女がオイルを自分の掌に垂らす。トロンとした液体が彼女の熱で温められ、部室にシトラスと、どこか甘ったるい香りが立ち込めた。
彼女の手が、指の脚の付け根に触れた。 「っ……」 直に触れる、オイルを纏った彼女の掌。それは昨日よりもずっと滑らかで、逃げようとしても吸い付くように肌に密着してくる。彼女は、男子経験がないことを逆手に取るかのように、昨日の「反応」を科学的に分析でもしたかのような、大胆なストロークを繰り返した。
「ここ、まだ硬いわ。昨日の『残り』があるみたいね」
彼女の指が、あえて昂ぶりのすぐ側をかすめるように動く。触れそうで触れない。そのじれったいほどの焦らしは、昨日彼女が戸惑いの中で見せた不器用さよりも、ずっと残酷で、官能的だった。
指は、堪らずに彼女の手首を掴もうとした。しかし、佐伯はその手を優しく、だが拒絶するように押し戻した。
「勝手に動かないで。……これは『特別メニュー』なの。あなたの全部を、私に預けるって……そう約束したでしょ?」
彼女はそう言うと、潤んだ瞳で彼を射抜き、オイルで濡れた両手で、昨日の「奔流」の源を、今度は最初から包み込んだ。
「昨日、勉強したのよ。どうすれば……あなたがもっと、壊れそうになるのか」
彼女の言葉は、指導者としての探究心なのか、それとも一人の女としての執着なのか。オイルの滑りを借りて、彼女の手は昨日よりも速く、そして深く、彼の理性を刈り取っていく。
窓の外では、夕焼けが血のような赤さで部室を染め上げていた。二人の影が壁に長く伸び、激しく重なり合う。佐伯の掌の中で、指の肉体が限界を超えて脈動し始める。
「コーチ、もう……っ!」
「いいわよ。……全部、出しなさい。私が、一滴残らず受け止めてあげる」
彼女はそう囁くと、昨日よりもさらに強く、その「指導」を加速させた。
オイルで濡れた彼女の手が、一瞬だけその動きを止めました。けれど、完全に離れるわけではなく、熱を帯びた指先はまだ、彼の肌に吸い付くように置かれたままです。
佐伯は、乱れた髪をかき上げることもせず、上気した顔を指(ゆび)の至近距離まで近づけました。その瞳は、昼間の冷徹なコーチの面影など微塵もなく、一人の女としての深い困惑と、自分でも抑えきれない欲望に揺れています。
「ねえ、指くん……私にこんなことさせて、これからどうするつもり?」
彼女の掠れた声が、狭い部室の空気に溶け込んでいきます。掌の下で、彼の心臓が、そして「彼自身」が、昨日よりも激しく、暴力的なまでに脈打っているのが伝わります。
「ずっとやらせるの? 明日も、明後日も……大会が終わっても、卒業しても。あなたは私に、こうしてあなたの熱を、毎日手で鎮めろって言うの?」
彼女の指先に、じわりと力がこもります。それは昨日、畳を掴んで白くなっていたあの時の拒絶の力ではなく、彼という存在を自分のものとして繋ぎ止めておきたい、執着の力でした。
「私はコーチで、あなたは教え子。……そんな言葉、もう何の盾にもならない。あなたがこうして私の手の中で震えるたびに、私の『普通』がどんどん壊れていくのよ」
彼女は、オイルで光る自分の掌と、彼の昂ぶりを交互に見つめました。男子経験のない彼女が、たった二日で、一人の少年の快楽を支配する悦びを覚えてしまった。その事実が、彼女を恐怖させ、同時にひどく興奮させていました。
「ねえ、答えて。……あなたは、私をどこまで連れて行くつもりなの?」
佐伯は、追い詰めるような問いを投げかけながらも、自ら再び、その掌を動かし始めました。昨日よりも強く、そして彼を逃がさないように深く。
指は、彼女の問いに応える代わりに、彼女の細い手首を掴みました。二人の視線がぶつかり合い、火花を散らす。
「コーチ……。決まってるじゃないですか」
指の声が、低く、暗い情熱を孕んで響きました。
「……僕が、死ぬまでだよ」
その言葉が落ちた瞬間、部室の空気が一気に凍りつき、直後に沸騰した。
佐伯は目を見開いたまま、息をすることさえ忘れたように固まった。17歳の少年が口にするには、あまりに重く、あまりに純粋で、そしてあまりに傲慢な呪いの言葉。
「死ぬまで……?」
彼女はうわごとのように繰り返した。 その言葉の意味を理解しようとした瞬間、彼女の掌の下で、指(ゆび)の肉体が再び大きく、熱く脈動した。彼女が昨日まで大切に守ってきた「コーチ」としてのキャリアも、30年近く積み上げてきた「理性」という名の人生も、彼のその一言で、すべて灰にされたのだと悟った。
「あなた……自分が何を言っているのか、分かっているの?」
佐伯は、泣き出しそうな、それでいて歓喜に震えているような、歪な笑みを浮かべた。 彼女は、オイルで濡れた手を、指の首筋へと這わせた。そのまま、指の関節が白くなるほどの力で彼の首を締め上げるように掴み、自分の方へと引き寄せる。
「いいわ。……あなたが死ぬまで、私がその命を預かってあげる。その代わり、あなたも私から逃げることは許さない。トラックの上でも、このマットの上でも、あなたは一生、私の手の中でしか呼吸できないのよ」
彼女は、自分自身の破滅を祝福するかのように、昨日よりもずっと激しく、掌を動かし始めた。
もはや、そこに「マッサージ」という言い訳は存在しない。 彼女の手つきは、彼を労わるためのものではなく、彼の「生」を、その白濁した奔流ごと、一滴残らず自分の掌の中に搾り取ろうとする、執念深い愛撫へと変わっていた。
「死ぬまで、離さない……。ええ、望むところよ」
佐伯の瞳が、狂気的な熱を帯びて光る。 指は、彼女の細い指が自分の肌を強引に、そして貪欲に蹂躙する感覚に溺れながら、彼女の首筋に手を伸ばした。
二人の影が、夕闇の壁に巨大に映し出される。 それは、コーチと選手という関係が、永遠に解けない「共依存」という名の鎖に変わった瞬間だった。
完